4-43 死人の森の断章5 外なる法②




 砲撃が塁壁を吹き飛ばし、獣の騎士団が雪崩を打って砦へと攻め込んでいく。

 決戦は、ジャッフハリムの西部国境にある砦で行われた。

 ダエモデクは深い渓谷に築き上げられた堅牢な城砦に拠点を置き、竜王国の侵攻を迎え撃つ構えだった。


 もはやジャッフハリムとの全面戦争は不可避であった。

 たとえダエモデクを打ち倒したとしても、その後も民は勝利を求めてジャッフハリムへと攻め込むことだろう。ましてジャッフハリムを治める暴君ビシャマルと彼を誑かしているというレストロオセの危険性は大陸中が知るところだ。


 やられる前にやれ、という心理がはたらくのも無理は無い。

 それほどまでに、ジャッフハリムの異形の兵隊は恐怖を振りまいていたのだ。

 ジャッフハリムは悪であるという認識が、人々に大義名分を与えていた。


 正義の戦い、平和を取り戻す為の闘争。

 竜王国の臣民であるという誇りが、かろうじて無数の種族と民族とを結びつけているのだった。


 全ては共存共栄のため。

 崇高な理念を妨げる悪しき略奪者を打倒せよ。

 志高く爪牙を振るう戦士たちによって、ダエモデクの下に集った兵士たちは蜘蛛の子を散らすようにして逃げ出した。


「所詮は欲によって集まった傭兵崩れの集団。損得を秤にかけて戦いに参じているのですから、命が危ないとなれば逃げるのは必然。死ぬのは損ですからな」


 したり顔で言うグレンデルヒは、誰もいなくなった砦の中でこれ見よがしに両手を広げ、敵軍を蔑んで見せた。

 三叉槍を手にするアルト王は、それを無視して前へと進む。

 向かう先には、ただ一人で立ち尽くす黒い影があった。


 先行していた騎士たちは、いずれも黒い亜竜の威圧感に気圧されて攻めることができずにいた。遠くから矢を射ても、大筒を撃っても、呪いをかけても、ダエモデクには傷一つつかない。


 その傍らに浮遊する漆黒の書物が、持ち主に降りかかるあらゆる災いを取り除いてしまうためであった。

 三叉槍が高く声を上げる。


「あれこそが私たちが手に入れるべき『断章』です!」


 ダエモデクの巨躯は、以前よりも一層痩せこけて見えた。

 それは、力を配下に分け与えた為なのか、それともアルトから逃げ続けて傷付き疲弊したためなのか。


 いずれにせよ、もはや逃げ場は無い。悲愴な決意を固めた両者の間に言葉は無く、次に交わされるのは殺意を込めた一撃であろうと誰もが理解していた。


 わずかな身動ぎによって、ダエモデクの全身を覆う金鎖がじゃらりと音を立てた。鎧のように身を守るそれは、アルトが知らぬ装いだった。彼が集めていた財宝の一つなのか、ジャッフハリムに身を寄せたことによって手に入れたものなのか。

 アルトにはわからない。


 そもそも、アルトは何故、己の半身とも言えるダエモデクと争わねばならないのだろうか。些細な諍いはあった。誤解、想いの食い違い、そのような出来事があったのは無論覚えている。だがそれは、こうまで拗れ、殺し合いにまでなるようなものであっただろうか。


「何故だ、何故」


 呟きながらも、アルトは槍を構える。

 そうする他になかった。その背には、守るべき臣民たちがいるのだから。

 ダエモデクはたった一人だけで立っている。

 まるで鏡映しのような両者の間で、見えない糸が切れた。


 戦いは熾烈を極めたが、アルトの卓絶した武技に加え、稀に見るほどの名物であるディーテの前には、黒き亜竜と『断章』の力も無意味だった。

 奮戦していたダエモデクはついに力尽き、その場に倒れ伏して血の湖を作る。


 アルトは三叉槍で金鎖を砕き、更に落下した黒い本を受け止めた。

 歓喜するディーテと本とを槍持ちの兎に預けて、自身は虫の息のダエモデクに近付いていく。その場に屈み込むと、小さく何かを呟いた。


 それが王国民たちの『言葉』を奪うときに唱えていた呪文と全く同じものだと、背後に控えていた臣民たちは気付いた。

 そして誰もが震え上がる。

 アルト王は、半身たるダエモデクの権能を奪おうとしているのだ。


 起源を同じくする力であるからこそ、二人は互いに『言葉』を取り上げる力を持っていた。だが、今までそれを使おうとすることは決して無かった。

 あの欲深なダエモデク、貪欲の権化とでも言うべき亜竜は、己の半身から何かを奪おうとしたことはただの一度も無く、先の決戦で命の危機に瀕した時もそれは同じであった。


 それは、ダエモデクが幾度となく竜王国に攻め込んで来た時もそうだったのだ。

 アルトは、ダエモデクから大量の『力ある言葉』を奪いながら、静かに身体を震わせた。ただひとつの眼から雫がこぼれ落ちた。


 ダエモデクの『言葉』すなわち『想い』がアルトに流れ込んだことにより、アルトは半身が何を考えていたのかを理解したのだ。


「ダエモデク、お前は、俺の為に悪役を演じていたのか?」


 満身創痍の亜竜は、弱々しく鳴いた。

 

「ばかだなあ、おれさまは、おまえのはんしんなんだぞ?」


 それが、答えだった。

 言葉の大半を奪われたダエモデクは、たどたどしいしゃべり方で、以前のような荒々しさを失っていた。どこか幼く穏やかになった口調からは、既に敵意は感じられない。


「演技だったのか。荒々しい言葉遣いも、獰猛な振る舞いも、強欲な行いも。それがお前の持つ『言葉』の力だったのだな」


 ダエモデクは微笑んだ。

 周囲の者たちは、事情が飲み込めずに不思議そうに亜竜たちを見た。

 グレンデルヒが舌打ちして口を開こうとすると、槍持ちの兎がまるで武器に操られるかのようにして穂先をその喉元に突きつけた。


 余計な横槍が入ることもなく、アルトは独白を続ける。


「ダエモデク、お前こそがこの身を律する『内なる法』だったのだな。お前が悪を為すからこそ、俺は正義でいられた。お前は鏡であった。まさしく俺の半身であった。だというのに、俺は!」


 アルトは慟哭し、激情のままに自らの肉体を掻き毟り、引き裂いた。

 堅牢な鱗の鎧を失ったアルトは、その剛腕で己の身に致命傷を負わせると、そのままダエモデクと重なり合うようにして倒れた。


 その後アルトはダエモデクに幾ばくかの『言葉』を返してやった。 

 かつてほど多くの量ではないが、平凡に生きていくのには困らない分だけを。

 そして自らの命と引き替えに、残った『言葉』を纏めて顎の下に封じ込めた。そこには、かつてモグラのディルトーワが剥ぎ取り損ねた一枚の鱗が存在していた。


 アルトは消えていく『言葉』の残滓を使って遺言を伝える。

 まずは鱗を兎に手渡して、


「これを太陰の【神々の図書館】に届けるのだ。そしてどうか、世に秩序をもたらす為の枠組みを作り上げて欲しい」


 と言った。兎は涙を流しながら頷き、命を賭けてその難題に取り組むことを約束して見せた。

 それからアルトは、臣下たちにそれぞれ言葉をかけて、争いやいがみ合いを止めて仲良く生きるようにと告げていく。


 そうして、アルトは『言葉』を分け与えた事で生き残ってしまったダエモデクに最期の意思を伝えた。


「もう、お前ばかりがつらい役回りを引き受けることは無い。誰も裁けぬこの身を自ら裁き、お前を縛る呪いを解こう。ダエモデクよ、お前は自由だ」


 するとダエモデクは、涙を流しながら叫んだ。


「なにをいうんだ! おれさまは、おまえのいないじゆうなど、ほしくはない!」


 あらゆるものを欲しがったダエモデクは、大声でそう喚くと、たったひとつだけの、本当に欲しいものの名を呼び続けた。

 アルトは微かな笑みを浮かべ、ダエモデクの腕の中で安らかに息絶えた。


 凄惨な血の結末に、人々は悲しみに暮れた。

 最初に立ち直ったのは、傷だらけのダエモデクだった。

 強大な力の大半を失いながらも、その瞳には強い力が宿っている。

 あたかも、アルトの聡明さが彼に移ったかのようだった。


「アルトよ、お前の事はけっして忘れない。お前が抱いた理想、万人が共存できる幸福な理想郷を、必ず作り上げてみせる。そうすれば、アルトの存在は永遠のものとして生き続けることだろう」


 遺志を引き継ぐ。それこそが、ダエモデクが見出した唯一の道だった。

 彼はそうしてアルトを想うことで、半身の魂と共に生きることを決意したのだ。

 そして、力強く宣言した。


「新しく、より広大で、より完全な国を作らなければならない。その国はこう名付けよう。【理想郷ガロアンディアン】と。『力ある言葉』であるこの呪文は、必ずや現実を塗り替える。たとえ国という形が失われ、歴史が移り変わろうとも、理念は残り、アルトの魂は生き続ける」


 ダエモデクの呪文は、世界に響き渡り、静かに浸透していった。

 結論を言えば、竜王国という名も、ガロアンディアンという名も、その後の歴史からは姿を消してしまう。


 しかしその理念は時代を経るにつれて形を変えながらも生き残り、『社会福祉の充実による共生と幸福』という理念となって一つの大きな流れと合流していくことになる。

 その未来を知らずとも、ダエモデクはしっかりと前を見据えてこう言った。



「これよりこの身は亜竜王アルトの遺志を引き継ぎ、巨悪ジャッフハリムを打倒するための戦いに挑む!」


 それでは、不毛な戦いの繰り返しになるのではないか。

 王の苦しみを知っていた数人の臣下たちが、不安そうにダエモデクを見た。

 しかし彼はこう続けた。


「然る後に彼らを知り、和議を結び、異質な相手との共存の道を模索せねばならない! そのためには力と知恵、両方が必要だ。今の自分にはそれらが無い。だが、力を蓄え、策を練り、優れた勇士たちを集め、機を待てば、必ずや為し遂げられるはずだ。そうしなければならないのだ!」


 力強い叫び。

 小さく上がった賛同の声に、次々と声が、言葉が重なっていく。

 恐ろしく忌まわしい邪悪の筈であったダエモデクの姿に、人々は偉大なるアルトの面影を見ていた。


 彼らが目指すのはジャッフハリム。

 暴君ビシャマルと呪わしき妃レストロオセが悪政を敷く、魑魅魍魎が跋扈する悪徳の都、呪わしき王国。


 ダエモデクは四十の勇士たちと出会い、難敵に立ち向かっていくことになるのだが、それはまた別の話だ。

 『そうなるはずだった筋書き』は、ここでは書き換えられる。


 黒い本と三叉槍が光り輝き、人々の目を眩ませた。

 光がおさまったとき、槍は影も形もなくなっており、代わりに幼い少女がそこに立っていた。


 蜂蜜色の髪と灰色の瞳の少女が喋る三叉槍ディーテであると、不思議と誰もが理解できた。彼女の本当の姿が、この幼き少女であることも。


「やっともとの姿に戻れました。ありがとう、すべて、『断章』を取り戻してくれた貴方たちのお陰です。お礼に、今まで命を落としてきた全ての人を甦らせてあげましょう」


 少女が言うと、不毛な戦いで死に絶えた全ての命が息を吹き返した。

 アルトが起き上がると、ダエモデクの目に残っていた悲しみの涙は引っ込んで、うれし涙が溢れた。悲愴な空気、愛する者を失った後で強く生きていこうとする美しい光景は消え去っていた。


 それを揶揄するように、グレンデルヒが殊更に大きな声で叫ぶ。


「なんと嘆かわしい。現実を見ない輩はすぐに都合の良い夢にしがみつく。敗者は敗者、終わったことは終わったこと。物事を正しく切り捨てて次を見据えられぬようでは、幼すぎるとしか言いようが無い。現実は甘いものではなく、後ろ向きな妄想は罪悪であると知れ。前を向いて生きられぬ者は屑だ」


「よくもまあ、思ってもいないことを都合良く捲し立てられるものです」


 呆れたようにディーテが呟く。

 それから、抱擁を交わすアルトとダエモデクを優しく見つめながら言った。


「台無しでも不条理でも、私はこれがいいと思うからこうするのです。ゆえに、私は私を裁こうとは思わない。冥道の幼姫が抱える『内なる法』は、この結末を許容します。【死人の森】は、罪深さを赦し、受け入れる」


 灰色の瞳が強く輝くと、グレンデルヒが突風に吹かれたかのようにたたらを踏み、後退していく。

 その全身がぶれたかと思うと、次の瞬間には破裂して、無数のがらくたとなって四方八方に散らばっていった。


 ディーテは対の亜竜を見ながら、誰かに向けて囁いた。


「ねえ、アキラ様。あなたの『内なる法』は、今もあなたを裁いているのかしら。律しているのかしら。苦しめているのかしら。ああ、けれど、『外なる法』で歪めてしまっているその形を、私はとても愛おしいと、そう思っているんですよ」


 少女の言葉は、まるで歌うようでもあった。

 それは呪いのように。

 それは祝福のように。

 静かに、穏やかに、明るい結末に響いていく。


「心を縛るその苦しみは、きっとなによりも尊い痛み。あなたが苦痛にあえぐその姿を、私はとてもとても、素敵だと思います。だからどうか」


 どうか、もっともっと。


「己の罪で、傷口を抉って?」


 ――ひとごろし。

 

 途端、辺り一帯は廃墟と荒野、暗雲の立ちこめる死の世界へと変貌し、屍の積み上がった寒々しい光景が広がるばかりとなった。

 そして、少女の足下には倒れ伏した狼の死体。

 その腹部から、ぼこりと人の顔面が迫り出してくる。


 人を凌駕した膂力で殴打され、陥没して原形を留めていない死相。

 おぞましい光景に、『誰か』は呻いて蹲った。

 少女の軽やかな声が、楽しげに廃墟に響く。


「素敵。あなたの進むべき道を、もう一度確認できましたね」


「ディーテ、お前はっ」


 嘔吐くような言葉ははっきりとした意味をなさず、少女の笑い声だけが世界を埋め尽くした。


「さあ、また遡りましょう。この破局はそもそも何が原因なのだったかしら。それは人の不和、『言葉』の乱れによるもの。そしてそれを未然に防ぐ【神々の図書館】を壊した何者かのせい。では、過去に遡って【図書館】を守れば、もっといい未来が実現できるのではないかしら」


 ディーテの言葉に呼応するように、浮遊する『断章』が光を放つ。

 時を追う事に強くなっていく輝きがある閾値を超えた時、閃光が爆発したように広がって、やがて世界を埋め尽くした。

 かくして、舞台は流転する。






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