4-29 人形劇
死人の森の女王がトリシューラを捕獲していたのは、コルセスカを『上書き』するための罠だ。トリシューラは本命であるコルセスカを釣り上げるための餌でしかない。妹の存在を穢されれば、必ず姉は身を危険に晒してでも助けようとするだろう。そのことを女王は確信していた。
銀の森の魔女フェブルウス=コルセスカとなった今、トリシューラを生かしておく意味は無い。【変異の三手】が狙うダモクレスの剣落とし――それを為し遂げるのが、主たるグレンデルヒの意思に沿うことのはず。
しかし。
「何のつもりかな、我が女王よ」
「さあ、何の事でしょう」
突如として練武場に乱入した屍狼――明らかに女王の使い魔であるそれは何者かの腕を咥えて不意打ちでグレンデルヒの背に体当たりを仕掛けた。
周囲が光に包まれ、気がつけば屍の狼は跡形もなく消えていた。
――何故か、外世界から来た力士と言語魔術師の二人組と共に。
想定外の事態に困惑しているのはフェブルウス=コルセスカもだった。
加えて、『とある場所』に幽閉しているトリシューラの様子がわからない。グレンデルヒの紹介で軍勢に組み入れた守護の九槍第八位、ネドラドとも連絡がつかないままだ。自らの思惑を超えて、何か複数の事態が同時に進行しているのだと女王は感じていたが、かといって打てる手は何も無い。
そう、彼女には待つ事しかできない。
いつだってそうだった。
ずっと、ずっと待つだけ。それが死人の森の女王にして、銀の森の魔女という存在の全てだ。
「答えろ」
機械の左腕がフェブルウス=コルセスカの肩を掴んだ。
痛みよりも嫌悪感に顔が歪みそうになって、表情を変えないように必死になって気持ちを落ち着ける。それでも不快感は止まらない。
氷の右腕が細い顎を摘む。
そこで、我慢しきれなくなった。
後退して、同じ氷の右腕で相手のそれを弾く。
「グレンデルヒ様。いつまでもそのお姿のままでは、それを利用して存在を上書きされかねません。【変異の三手】ここにあり、と示す為にもどうか元のお姿になって下さいますよう、お願い申し上げます」
丁重に、慇懃無礼にならないように気を遣って謙る。
女王たるフェブルウス=コルセスカがそのような態度をとらなくてはならないという事実に、この上無い屈辱を感じてしまう。
それでも。
恥辱に塗れてでも為し遂げなければならないことが、彼女にはあった。
戦いの中、敗北して気を失っている副長の一人、クレイに一瞬だけ視線を送り、即座に目を伏せる。
グレンデルヒは無表情になって女王を睥睨し、それから左手で顎を撫でた。
「いいだろう」
圧縮された呪文が詠唱されて、グレンデルヒの姿が道着からスーツに変化する。両腕は生身のままだが、恐らく奪い取った紀元槍の制御盤――【アーザノエルの御手】と【氷腕】の権能は掌握しているだろう。使おうと思えばいつでも使えるという状況のはずだ。四英雄筆頭にそうした面での手抜かりは無い。
「まあ、良しとしよう。イアテムもそうだが、そのような気概を持っている者でなければ面白くも何とも無い。造反大いに結構。しかし、自分でも事態を制御できないようではまだまだと言わざるを得ないがね」
――やはり、何もかも見透かされている。
唇を噛んで、女王は瞳を揺らめかせた。
その時だった。
絶叫と共に、凄まじい破壊力が押し寄せてくるのを感じ、グレンデルヒとフェブルウス=コルセスカは同時に分かれて飛び退った。
両者の間の空間を、壮絶な速度で突き抜けていく暴力。
それは弾丸であり、突撃槍であり、一人の泣き喚く男だった。
嘆きの速さで飛翔して、涙の弾丸を撃ち放つ。
盗賊王ゼドは、同盟者たちの余りにも無惨な敗北を目の当たりにして、深い悲しみに包まれていた。
その瞳から涙がこぼれ落ち、顔は悲痛に歪んでいく。
死人の森の女王が唱えた呪文によって動きを封じられていた彼は、悲しみの声を上げると共に呪術の縛鎖を破壊した。迸る呪力が右手の拳銃を変異させていく。
質量が増大した呪具は、槍のような形状になっていた。
ゼドは浮遊する箒のような形状の長槍と平行な姿勢をとり、石突き近くのフットペダルに両足を乗せ、穂先に近い位置にある銃把を握る。石突きから放射状に展開された噴射口から圧縮された呪力が推力を生み出す。
槍であり銃であり空飛ぶ箒でもあるその武装を、【愴銃】という。
キュトスの姉妹が二十三番目、【無力女王】フィルティエルトの作りだした旧世界の遺産、そのうちの一対。左の【喜銃】とは異なり、右の【槍銃】は使用者の悲しみを弾丸に変える。
ゼドは感情を切り離して戦う。それは手段であり目的でもある。
同じように感情を他者に預けて戦う男に興味を抱いたのは、そうした事情もあったし、もう一つの共通点からでもあった。
「俺はまだ、お前から答えを聞いていないぞ、アキラッ」
こぼれ落ちた涙は悲しみよりも怒りの色合いを帯びていた。
迸る感情の如く、雷火となった弾丸が激しい呪力の波と共にグレンデルヒに叩きつけられる。通りすがりざまにばらまいた弾丸が派手に破壊を撒き散らし、通り過ぎた後で急速に旋回して再び突撃。
槍の穂先が呪力の稲妻を収束させて地上最強の男に突きかかる。
対するグレンデルヒは、素早い動きでカード型端末を引く。人差し指と中指の間に挟まれた札が光り輝いた。
封印された呪術が発動し、突撃するゼドと拮抗する。
地上が誇る英雄同士の、激しい鬩ぎ合い。
しかし、その実力差は歴然としていた。
余裕に満ちた表情で、グレンデルヒが問いかける。
「誰かと思えば貴様だったか、残飯漁り。どうした、また私のおこぼれが欲しいのかね。他人の功績を掠め取るしか能のない卑しい犬めが」
「いけしゃあしゃあと、アキラの身体でそれを言うのか――!」
「これは私の身体で、今までの功績も物語も全て私のものだ」
不遜な宣言と共に、ゼドが吹き飛ばされる。
グレンデルヒは何一つ恥じる素振りも見せず、高らかに宣言した。
「私が奪った者は全て私のもの。私が征したものは全て私のもの。私のものではないものは、これから私が征服し、簒奪すべきものだ。わかるかねどぶ攫いの王よ? 厳しい競争原理から逃げて楽な戦いばかりをしている貴様には分かるまいが、これがこの世界の本当の法だ」
殺せ、奪え、勝ち取れ。
地上の原理原則を内面化した、地上最強の英雄は、探索者の頂点に相応しい人格と言動で非正規探索者の頂点を糾弾する。
正面からの対決に敗れ、倒れ伏したゼドは立ち上がれないままだ。
「私は簒奪者。全世界が私のものになっていないのは、単に優先順位の問題に過ぎない。全てのものには価値がある。存在した時点で市場の原理に晒され、競争の中で試される。そう、全てが試されるのだ。そこでは人も、ものも、役務も、財も、聖や俗、貴や卑、呪術でさえも価値を試される」
演説をするかのように両腕を広げて喋るグレンデルヒの周囲に、不可視の呪力が拡散していく。それは彼の強固な世界観。この世界を塗り替え、確定させる圧倒的なまでの『現実』である。
「さあ、戦え! 私に何もかもを奪われたくなければ立って戦うがいい! 嫌ならば屈伏し、服従せよ! そして虎視眈々と私の隙を探り、叛逆の牙を研ぐがいい! 生きている限り、闘争し、競争し、高みを目指せ! そして私を楽しませろ!」
狂喜するかのようなグレンデルヒに、ゼドはよろめきながら、歯を食いしばりながら立ち上がる。
絶望的な実力差――勝つための材料などどこにもない。
今は、まだ。
シナモリ・アキラが『扉の向こう』へと送られた後のこと。
【注釈の世界】にて、キュトスの魔女が一人、【
「あっ、やっべ」
「どうしたの」
反応したのは長姉ヘリステラ。車椅子の女性は、年齢の分かりづらい顔を怪訝そうに歪めた。何か嫌な予感がしたのだ。
案の定、
「やー、さっきリンク貼って転生者さんあっちに送ったじゃないですか。そしたらキーワード『アキラ』で括られてもう一人まとめて跳ばされちゃったっぽいんですよねどうも。ほらあの力士? とかそういう人が」
などと、ヴァレリアンヌは軽く危機的な状況を口にした。
ヘリステラは頬に手を当てて一言だけ呟く。
「あら」
現在アキラを乗っ取りつつあるグレンデルヒに影響が無いのは、その本体が既に『グレンデルヒ』と化しつつあるからだ。アキラは塗りつぶされ、彼のアキラ性が薄れているのである。
「やー、うっかりっていうかまさか同じ名前の追っ手がかかるなんて負のご都合主義は流石の私も予想していなかったですよ。それともこれも誰かの仕込みでしょうかね。とりあえず、やばいと判断して咄嗟に転移先の座標は変えておきましたけど。これって私ファインプレーじゃないですか?」
「うーん、そうねえ。咄嗟の対応としては上出来だと思う。よくやったわ。それはそれとして、ワレリィ?」
ワレリィというのは、ヴァレリアンヌの愛称である。
姉妹の十四女ワレリィは小首を傾げた。短めの緑髪が揺れる。
「はい?」
「ひとまずこの事態に対応して――この一件が終わったら、折檻部屋に【扉】を繋げなさいな」
「ひっ」
ヘリステラの、大輪の花が咲くが如き笑顔は老若男女問わず見惚れるほど美しいものだったが、ワレリィは顔面蒼白になって白目を剥き、口から半透明のエクトプラズムを吐き出した。
ワレリィは存在の核をエクトプラズムに固定し、霊魂を肉体から遊離させてそのまま【扉】の一つからの逃亡を試みるが、姉は容赦なく霊的物質を鷲掴みにすると強引に妹の口の中に戻した。
「逃、が、さ、な、い」
「あがががが」
心温まる姉妹同士のやり取りから遠く離れて、ある【扉】の一つから、脂肪と筋肉、超杖技術が凝縮された怪物的な巨大質量が古代世界に落下していた。
その場所はあたかも巨大隕石が落下したかのように陥没し、地殻が抉られ、衝突際に発生した熱はマントルを融解させ、多量のマグマを吹き出させた。
幾多の岩石が蒸発し、そこに存在していたあらゆる生物が死滅した空間。
その中央で、ゆっくりと彼女が立ち上がる。
それは丸く、重く、そしてひたすらに大きかった。
身を起こした巨体の持ち主は周囲を見回して、その異常に気付く。
巻き上げられた塵埃は本来ならば天高く昇り太陽光を遮ることで地球規模の寒冷化を引き起こし、古代世界に長い冬をもたらすはずであった。
しかし、現実はそのようにはなっていない。
周囲は既に闇に包まれていた。
そこは夜の世界。
天頂に世界の出入り口たる穴――
飛び散った塵埃は残らず闇の中に消えていき、空を飛び交う吸血蝙蝠たちの【生命吸収】によってことごとくが生態系の中に還元されていく。
女の足下を小さな鼠たちが走り回り、異変を嗅ぎつけた悪霊レゴンたちが遠くから様子を窺っている。
外世界人は、内世界と呼ばれる『世界の中に構築された世界』を見ても驚かなかった。彼女の世界にも、似たような内世界は存在する。
シミュレーテッドリアリティ――下位レベルの異世界を構築することも、その異世界の中で同じように異世界の構築を行わせることも、それを繰り返し続けることもまた可能になっているからだ。
理解できるからと言って、即座に対応できるわけではない。
次の行動をどうするか、共に落ちてきた相棒――情報構造体の青年と話し合っていると、変化は外部から訪れた。
鼠が、蝙蝠が、おぞましい悪霊たちが一斉に逃げ出していく。
月明かり一つがたった一つの光源である世界。その暗い闇の中でさえなお色濃い黒がじわじわと這い寄ってきている。
それは黒い靄――
漆黒の衣に包まれた何者かが、夥しい量の瘴気と共に外世界人たちの目の前に現れたのだった。
「このような辺境に、お客人とは珍しい。一体どのようなご用件かな」
男のような、女のような、正体の掴めない声が響く。
存在感がひどく薄いというのに、異様な不吉さを感じて女は息を飲んだ。
黒衣の人物と、どのように接するべきか判断がつかない。
この場で攻撃を仕掛けるのが最善であるようにも、友好的な対話を試みるのが最善であるようにも思える。判断基準が何も無い状態では、外世界人はひとまず自らの内側の経験を参照するしかない。
「待って。これ、日本語? おかしくない? いや、いいのか?」
(確かに妙だな。というか、そもそもこれはどういう状況――いや、ここはどこだ? 本当に『異世界』でいいのか?)
外世界人たちは自らが目にしている光景に疑問を抱く。
そして二人は目の前に糸が垂らされている事に気がついた。
それは『目に見えないことになっている糸』だ。
役者と観客とを遮る透明な壁と同じように。
暗幕が演出する『闇の世界』という了解と同じように。
人形の手足を操っているが、それは無いものとされている。
実際であり虚であるもの。
仮想的な糸。
それらが自分たちの手足に絡みつくのを感じて、二人は即座に『了解』した。
何を?
無論、役柄を、だ。
劇にも色々ある。
人が行う演劇ならば役者が台本を覚えなければならないが、そうではない劇の形式も存在する。
たとえばそれは、『人形劇』のような。
人形使い一人が筋書きを理解していれば、それは正しく執り行われる。
故に、人形たちは何も考えず、操られることに甘んじていればそれでいい。
ただただ、定められた流れをなぞるだけ。
迷い人という役柄を正確になぞった二人の異邦人は、見知らぬ地で偶然の出会いを果たし、歓待を受けることになる。
黒衣の人物は言った。
「ここはドラトリア。夜の民が暮らす、小さな王国だ。私は一応、この国の王、ということになるのかな。カーティスと言う。よろしく」
――暗転。
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