4-30 死人の森の断章9 冥道の幼姫




 それは、気の遠くなるほどに昔々のこと。

 どこまでも広く夜のように黒い森の奥深く。

 その暗がりに、小さな女の子が住んでいました。


 暗がりの中には妖しくも艶めいた黒百合が咲き誇っており、こぢんまりとした、けれど立派なお屋敷が建っていました。暗い色の煉瓦が組み合わさった壁のあちらこちらにつたが這っている、とても古いお屋敷です。

 小さな女の子は、そのお屋敷を一人で取り仕切る年若い女主人でした。


 女の子はどうして自分がそこに住んでいて、ひとりぼっちで暮らしているのかわかりません。ただ何となく、食事をして、お屋敷の掃除をして、庭の手入れをして、黒百合のお世話をして、森をお散歩して。ぼんやり気楽に生きていました。 


 食べ物は自分一人で生み出せましたから飢えることはありませんでしたし、そもそも誰かと一緒にいたことがないので寂しくなんかありません。

 自分が何を知らないのかもよくわからないので、何かを知りたいと思うことだってありませんでした。


 女の子には記憶がありませんでした。

 ある日、気がついたら彼女はそこにいたのです。

 ぶかぶかの、大人の女の人が着るような衣服を身にまとって、森の中、月明かりの下で呆けている。それが最初の思い出でした。


 何をしたらいいのかわからずに、しばらくじっとしていた女の子は、自分が何もわからないことすらわからないまま、なんとなく立ち上がり、そのままあてもなく歩いていきました。そうして、その暗がりにたどり着いたのです。


 ちょうど、木々が屋根になるように月明かりを遮る位置にそのお屋敷はありました。

 不思議と女の子は、その薄暗い場所に広がる光景をはっきりと見通すことができたので、怯えることなく開け放たれたお屋敷の門を通り、黒百合が咲き誇る庭をきょろきょろと見渡しながら、何不自由せずお屋敷の玄関にたどり着くことができたのです。


 女の子はどうしてかその黒百合に彩られたお屋敷が懐かしくなって、とても落ち着いた気分になりました。誰もいないお屋敷はあちらこちらが埃をかぶっていて廃墟も同然でしたが、彼女はこの場所で生活することを自然と決めていました。


 掃除は大層な仕事でしたが、どうにかやり遂げた後、ぐうぐうと鳴るお腹に応えるかのように、女の子は口から知らない言葉を歌のように紡ぎ出していました。

 文字の一つ一つが集まると、目に見える黒いかたまりとなって、女の子の小さなてのひらの上におさまりました。女の子は自らの不思議な行いに目を丸くします。


 黒いパンとも、果物とも、加工した肉ともつかない、よくわからない食べ物。

 さすがに魚には見えませんでしたが、練り物ということもあったかもしれません。もっとも、女の子はそんなものは知りませんでしたが。


 けれど、その黒いものを見ていると自然に唾が口の中に溢れてくることは確かでした。とてもすてきな香りがしていたことも、てのひらから感じられる柔らかさが口の中に運んでみたくなるほどにふわふわだったことも影響しているのかもしれません。


 大きく口を開けて、女の子は黒い食べ物(もちろんそれが食べ物なのだと女の子には最初からわかっていました)を口の中に放り込みました。ひとのみです。それを「はしたない」だなんて口やかましく言うような大人の人はここにはいませんでした。


 たくさん噛んで、食べ物をのどの奥に送り込んだ女の子は、灰色の目をとろんとさせて幸せそうなため息を吐きました。

 自分の部屋と決めた場所へと駆けていって、勢いよく整えた寝台の敷布の上に飛び込みます。


 ふかふかの雲のような毛布の上に寝ころんで、ごろごろと転がります。蓑虫みたいにお布団にくるまって、またしてもごろごろします。大人はいないので、ここでは転がり放題だし、いつまでもお布団から出なくてもいいのでした。


 女の子は一から十までそんな具合で、気ままに楽しく毎日を過ごしていました。

 ある日、女の子は食べ物を生み出す自分の言葉が、もっと自由なものであることを発見します。それは何でもできる、力のあるおまじないでした。


 楽しい気分でくるくる踊って、お屋敷の中にあった靴で足下を太鼓に見立てると、飛び跳ねながら演奏します。両足が自在に決める音楽の速さで、流れ出す歌の色合いはどんなふうにでも変わりました。そして、それにあわせてたくさんの黒百合たちも生き生きと伴奏をしてくれます。


 土や木の下に隠れている虫たちに、小動物たち。彼らもまた、女の子と一緒に歌い、踊ります。すると、黒い食べ物を生み出すだけだった言葉は、ありとあらゆるものを形にしていきました。


 それは様々な楽器だったり、絵を描くための道具だったり、立派な万年筆だったり、見たこともない奇妙な材質の板だったりします。

 女の子はそれらを使って様々な音楽を奏で、絵を描いて、詩歌を書き出して、それらを一つの道具でこなしたりしました。


 そうして出来上がったいろいろなものは、現実のものとなって彼女の生活をよりいっそう豊かにしました。

 女の子は、この色々なこと、不思議なこと、すてきなことの全てを、記録しておこうと思い立ちました。


 自分がなぜか知っている不思議な歌、言葉の全て。

 すてきなことをほんとうにしてしまう、黒い色をした力の全てを。

 ひとまとまりにして、大事にとっておこうとしたのです。


 それはとほうもない量になりました。

 一冊の本にしても収まらず、幾つも、幾つもに分冊して、ようやく全てが書き終わったころ、黒い装丁の立派な本は文机の上に塔のように積み重なる程になっていました。


 こんなにたくさんの本を、いったいどうしたものでしょう。

 女の子は困り果てました。その上、あんまり作業に夢中になりすぎて、自分でもどの本に何を書いたのかわからなくなってしまっていました。


 ただ、心の奥から湧き出てくる言葉を形にしただけだったのに。

 確かめてみると、それは九つに分かれた物語のようです。 

 ぱらぱらと項をめくってみると、驚くほど長かったので、女の子は疲れてしまいましたが、それでもさわりの部分だけは確かめることができました。


 一冊目は、お墓の下の暗い王国に住んでいる、こうもりと、ねずみと、それから不気味な生き物たちがお友達の、とある王様の話。夜の世界の誰からも怖がられて独りぼっちの、かわいそうな人の話。


 二冊目は、とても大きな一族に生まれたけれど、一番偉いのは自分だとだだをこねて、とうとう家を追い出されてしまった男の人の話。旅をしながら人を襲って、ついには自分で勝手に王様だと名乗るようになった悪い人の話。


 三冊目は、誰よりも偉大で、誰よりも多くのものを手に入れたけれど、その全てを失ってしまった王様の話。最後に自ら命を絶とうとしたけれど、終わりをお化けに食べられて、狂ってしまった男の人の話。


 四冊目は、お空に浮かぶまん丸なお月様に住んでいた、意地悪な王子様の話。とっても可愛らしくてみんなに愛されていたけれど、自分は誰も愛さず、たくさんの悲しみを生んだ男の子の話。


 五冊目は、動物たちに知恵と言葉を与える力を持った王様の話。いろいろな姿形の人たちが仲良く一緒に暮らせるように王国を作ったけれど、そこは地獄となり、誰もがいがみ合うようになってしまった悲しい話。


 六冊目は、誰からも恋されて、誰にでも恋したけれど、一生満たされることがなかった王様の話。恋の病に苦しんで、引かない熱にうかされる、恋に恋い焦がれ続ける男の人の話。


 七冊目は、懐かしい花が咲き誇るお屋敷で、季節がひと巡りするだけの短い時間を一緒に過ごした子供たちが、大きくなって再会し、力を合わせて困難を乗り越えていく話。黒百合の子供たちの物語。


 八冊目は、どうしたことか、絵のような不思議な文字で書かれていて、それを書いた女の子自身にも全く意味がわかりませんでした。自然と女の子の興味は、その八冊目の本に惹き付けられました。


 そして九冊目は、ある日気がついたら森の中にいた女の子が、不思議なお屋敷にたどり着き、不思議な言葉で色々なものを作り出して、その言葉たちを本にまとめていくというお話でした。ふと思いついて、女の子が再びその九冊目を読み進めていくと、ちょうど女の子が九冊目の本を読み進めていくところでした。


 このあとどうなるんだろう、と本の中で女の子が考えたので、それを読んでいる女の子も全く同じことを考えました。

 本の中の女の子は、このままではらちがあかないと考えて、読んでいる女の子に呼びかけました。そちらでこの続きを読んで下さい、それか書き足して下さい、と。


 女の子は、きっと自分もまた読まれているのではないかと考えたので、どこかから読んでいるであろう女の子に向かって全く同じことを言いました。呼びかけられたであろう女の子も同じことをしたかもしれません。女の子が三人以上いるのか、本の中の女の子が読んでいる本の中がここで、女の子が二人だけなのかはよくわかりませんでした。


 となると、まずは自分から行動しなくては始まらないのではないかと女の子は、つまり本の中の女の子と、本を読んでいる女の子と、確かめようがないもののそれを読んでいるであろう女の子と、その他あまたの女の子たち、あるいはぐるぐると巡る二人だけの女の子が一斉に考えて、続きに向かいました。新しい何かをするか、読むか、書くかすればいいのです。


 しかし、外は最近になって物騒になってきていました。

 女の子が閉じこもって本を書いている間、とても恐ろしい狼や、鎧兜を身にまとった戦士、それに様々な姿格好の人々が森をうろつき始めたのです。


 幸い、女の子が住む屋敷は不思議な言葉の力によって守られており、見つかることはありませんでした。とはいえ、とてもお散歩にいくような気にはなれません。

 そして困ったことに、新しい言葉は新しい何かを見つけないと紡ぐことが難しかったのです。森の色々な風景は、言葉を生むために必要なものでした。


 そこで、女の子は妙案を思いつきました。

 九冊ある本に書いてあることを抜き出して、組み合わせていったら新しいものができあがるのではないかと考えたのです。既に書かれたことでも、違う組み合わせでなら新しい発見があるかもしれません。


 そんなわけで、女の子は九冊の本を読んで、それらのいいところをとってきて九冊目の本の続きとして付け加えることに決めたのでした。

 女の子は、正しい順番などお構いなしに無造作に八冊目の本に手を伸ばしました。もっとも、逆向きの順番と考えれば、それは正しいと言えたのですが。


 そんな時でした。

 お屋敷に、初めてのお客がやってきたのは。

 激しいノックの音に、女の子は雷が鳴ったのか、それとも強い風がびゅうびゅうと吹いて何かものが戸に当たったのか、猪が体当たりしたのかと思ってびっくりしました。


 けれど、すぐにそれがだれかの呼びかけであると気付いて、怖くなりました。あちらこちらをうろついている怖い狼や鎧姿の人々がとうとうここまでやってきたのかと思ったからです。


 女の子はお布団の中に隠れました。安心できる暖かな毛布で全身をすっぽり覆っていれば、誰かがお屋敷の中に入ってきてもきっと見つからないだろうと考えたのでした。

 目をつぶって、まぶたの裏に濃い黒紫の黒百合を思い浮かべながら、ゆっくりとその数を数えて心を紛らわせました。


 鼻をくすぐる強い香りにくらくらしながら、女の子は必死に恐怖と戦いました。

 やがて戸を叩く音が止むと、女の子はおそるおそるといった風情で寝台から這いだします。部屋の床一面は、おびただしい数の黒百合で埋め尽くされていました。それを見た女の子は、もう安心だ、と胸をなで下ろしました。すると花畑は夢のように消え去りました。


 元気が出てくると、今度は好奇心がむくむくとわき上がってきます。

 いったい、戸の外にいたのはどんな人物だったのでしょう。もうどこかに行ってしまったでしょうか? 今から様子を見に行けば、後ろ姿くらいは見えるかもしれません。


 思い立ったらすぐに行動に移してしまう、ちょっと軽々しいところが女の子にはありました。小走りに屋敷を駆けていくと、まだまだ段差が高く感じられる階段を一段一段、一生懸命に昇って、二階の露台へと向かいます。


 上から庭を見渡しますが、それらしき姿はありません。

 変だなと思ってふと真下を見ると、扉の前に誰かが倒れているのが見えました。

 ぴくりとも動かないつま先を見て、女の子は大変だと慌てました。


 大急ぎで一階へと向かいます。階段を一段飛ばしで「落ちて」いきます。最後は二段飛ばしに挑戦です。両足で激しく床を叩いて両手を伸ばすと、どこからともなく拍手喝采。と、そんなことをやっている場合ではありませんでした。女の子はいつもの楽しいお屋敷生活で、遊び癖がついていたのです。


 正面玄関にたどり着き、大きな戸にお願いして外側に開いてもらいます。

 ひとりでに動く扉。引きずられていく、外で倒れている男の人。

 苦しそうなうめき声に、女の子は扉に待ってとお願いします。なんだかさっきから失敗続きでした。


 倒れていたのは、少し年の行った、白髪の男の人です。

 女の子はこんなに近くで人を見たことが無かったので、最初は物珍しげに指先でつついたり、おっかなびっくり顔をのぞき込んだりしていましたが、男の人が苦しそうにしているのに気がついて、なんとかしなければと考えるようになりました。


 少し考えると、女の子はいつものようにきれいな声で黒い色の言葉を紡ぎ出しました。黒百合たちがざわめき、軽やかな響きに合わせてきます。しばらくすると、白髪の男の人は元気になりました。


 男の人は自分の身に起きたこと、女の子の不思議な力に驚きましたが、すぐに頭を下げてお礼を言いました。

 それから男の人は、上の方に見慣れない形の飾りがついた杖を頼りに立ち上がると、自分は外にいる狼たちに追われているから匿ってほしいとお願いしました。


 女の子はうなずきました。男の人を哀れに思ったからです。

 屋敷の中に招き入れると、彼はどこか薄気味悪そうに、それでいて興味深げにあちこちをながめていましたが、案内された広間に着くと、あれこれと質問してきました。


 どうしてこんなところに一人で住んでいるの?

 お父さんやお母さんは?

 どうやって暮らしているの?


 次から次へと浴びせかけられる質問に、女の子はすっかりびっくりしてしまいました。何しろ、今までこんなふうに話しかけてくるような相手は彼女の周りにはいませんでしたから、目を白黒させて戸惑うことしかできません。


 それに女の子は、それらの質問にきちんと答えることができませんでした。

 今までただなんとなく生きてきただけだったので、自分で自分のことがよくわかっていなかったのです。


 そのことに初めて気がついて、女の子はなんだか悲しくなってしまいました。

 しょんぼりと俯くと、男の人は慌てたように話題を変えて、一人で頑張っていて偉いだとか、しっかりしているとか、助けてくれてほんとうに感謝しているといった事を言って女の子を元気づけようとしました。


 大きな男の人が大弱りになっているのがなんだかおかしくて、女の子はお腹をかかえて大笑いしました。声を上げると、その明るい音が不思議な力となって女の子の暗い気持ちを吹き飛ばします。


 それから、二人はしばらくの間いっしょに過ごしました。

 男の人はまだ少し調子が悪く、おまけに森中にいる狼に見つかって食べられてはいけないので、お屋敷の外に出ることができません。


 不思議と、お屋敷の中ではどれだけ過ごしてもお腹が減ることはなかったので、男の人はそのまま空いている部屋で寝泊まりすることになりました。

 最初、男の人は屋敷の中のこまごまとしたことをしてくれようとしたのですが、女の子にそんな気遣いはいりませんでした。


 不思議な言葉が女の子の細い喉から湧き出たかと思うと、次の瞬間には掃除も、片づけも、高いところへ手を伸ばすことも、屋敷中の戸締まりにいたるまで、全てが完璧に済んでしまいました。男の人はびっくりして女の子を見ていましたが、すぐに興奮したようにほめちぎりました。


 男の人は、森の外に広がる世界のこと、自分のこと、家族や友達のことなどを話してくれました。どれもこれも女の子にとっては初めて聞く話で、ついつい身を乗り出すようにして続きをせがんでしまいます。


 ところが、どうしたことでしょう。男の人の目が、どんよりと暗くなってしまいました。そして、めっきり疲れ果てた顔をして、ぽつりぽつりとこぼします。

 ずっと娘とうまくいっていないこと。

 自分はその子が小さかった頃に、たくさんひどいことをしてしまったこと。


 男の人は今ではそのことをとても後悔しているけれど、どう謝っていいのかわからないのだそうです。

 そして、女の子を見ていると、小さな頃の娘を思い出すのだと言いました。


 こうやって話を聞いて貰っていると、まるで何もかもが上手くいっていた頃が戻ってきたみたいだ。できれば、ずっとここで暮らしていたい。

 そんなことを、女の子の機嫌を窺うようにして言う男の人は、どこか卑しい感じがしました。


 女の子は、男の人の下げられた頭に手を伸ばし、小さな両手で抱き寄せました。

 年齢以上に疲れ果てて、老いた白髪に包まれた頭を、優しく撫でます。

 それから、つらかったね、がんばったねと、彼の送ってきた人生に対してはとても想像力が及ばないながらも、精一杯の慰めを与えてあげようとしたのです。


 小さな女の子にあやされて、男の人は一瞬だけ顔を歪ませましたが、すぐにその顔から涙がこぼれ落ちます。やがて、赤ん坊のように声を上げて泣き出してしまいました。女の子はそんな彼を、ただ黙って包み込んであげました。


 それから、しばらくの時間が経ちました。

 女の子と男の人は、仲良く屋敷の中で生活を続けていました。

 お話をしたり、女の子が得意な言葉の力で遊んだり、手先が器用な男の人に工作を教えて貰ったり。


 穏やかな時間は飛ぶように過ぎていきます。

 ある日のこと、男の人が訊きました。

 一度も入ったことのないあの部屋には、いったい何が置いてあるのかと。

 指さされた部屋には、いつか女の子が書き記した九冊の本がしまってあります。


 女の子は正直に答えます。

 あそこにあるのは、とてもたくさんの言葉の力を閉じこめたかけらたち。

 あまりにも大きな力をもっているので、うっかり触ってしまわないようにあまり使わない部屋にしまっておいたのでした。


 そこに、女の子が使う言葉の力の全てが隠されていると知った男の人は、一瞬だけ目を大きく見開きました。

 その様子がなんだか怖くて、女の子は不安に駆られます。男の人が、どこか遠くに行ってしまうような気がしたのです。


 男の人はすぐになんでもないよと言って、柔らかなほほえみを見せてくれましたので、女の子はすっかり安心しました。

 そして、危ないからあの部屋に近づかないで欲しいとお願いしました。

 ところが、男の人は女の子の頼みとは逆のお願いをしてきます。


 どうか、あの本を貸してくれないだろうかと。

 男の人は、長いこと家を留守にしてしまっているので、残してきた娘が心配だと言います。一度家に戻って、無事を伝えたい。その後で、きちんとここに来て本を返しにくるから、どうか信じて待っていて欲しい。


 真剣なまなざしで訴える男の人を、女の子は信じることにしました。それに、男の人の帰りを待っているであろう子供のことを思えば、二人を再会させるためにできることをしてあげたかったのです。


 女の子は、本の中から一番安全に取り扱えるものを選び出し、男の人に預けました。

 男の人は何度もお礼を言って、本の力で守られながら屋敷を去っていきます。

 遠ざかっていく男の人の背中を見ながら、女の子は相手と「約束」をしていないことに気がつきました。


 とはいえ、別に大丈夫だろうと考え直します。疑うようなことをしなくても、きっと男の人は戻ってきて本を返しに来てくれるでしょう。そうして、また一緒に仲良く遊ぶのです。今度は、男の人の子どもも一緒だと楽しいだろうなと思いました。


 そして、長い時間が経ちました。

 いつまでたっても、男の人は帰ってきません。

 迷っているのでしょうか。彼の身に、何かあったのでしょうか。

 心配でたまらなくなって、女の子はいてもたってもいられなくなりました。


 いっそ探しにいってしまおうかと思ったそのときです。

 屋敷の扉を蹴破って、物々しい槍や棍棒を持った人たちが、一斉にやってきました。

 女の子はびっくりしましたが、大人の人と話すのは初めてではなくなっていたので、今度は落ち着いて相手をします。


 少々乱暴な人たちだけれど、丁寧におもてなしをすればきっと前の男の人のように仲良くなれるに違いないと思いました。

 ところが、不躾なことに男の人たちは遠くから石を投げつけてきたり、槍で刺してきたり、棍棒で女の子をぶったりしてきます。


 たちまち屋敷の床に敷いてあった絨毯が真っ赤になって、女の子はぐったりとその場に崩れ落ちました。転がった石が強い光を放つと、女の子の手足はあちこちに飛び散ってしまいます。


 わけもわからず、女の子は目を白黒させました。

 大人の集団は、女の子の頭を不気味そうに見下ろしながら槍を突きつけて、それから本はどこにあるのかと訊ねます。


 女の子は正直に本がしまってある部屋の場所を教えて、危ないから近づいてはいけないと言いました。

 しかし、彼らは言うことを聞いてくれません。

 荒々しく部屋の扉を開けると、残る八冊の本を持ちだそうとします。


 女の子には、彼らがどうしてそんなことをするのかわかりませんでした。

 本を手に抱えた一人が、口元を意地悪そうに歪めて言います。

 女の子は裏切られたのだと。

 そして、女の子は知りました。

 

 以前ここにやってきた男の人は、この場所を彼らに教える代わりにたくさんのお礼を貰ったということ。本を返すつもりなど最初から無く、酒場と言う所で自慢げに頭の弱い「ばけもの」を騙して宝物を手に入れたと言いふらしていたこと。


 女の子は、それを聞いて、とてもとても悲しい気持ちになりました。

 それから、もう男の人とは会えないのだと知って寂しい気持ちになりました。そう、誰かと一緒に過ごしたことで、女の子の心には色々な気持ちが芽生えていたのです。それは、きらきらと楽しかったり、どんよりと悲しかったりするだけではありません。


 どろどろに熱く、真っ赤に燃え上がるような、怒り。

 女の子は、初めて怒るという感情を知りました。

 ばらばらだった手足がひとりでに動きだし一つになり、黒百合が一斉にざわめいて、暗いお屋敷は礼儀知らずのお客人たちを閉じこめました。


 大きな怪物のはらわたの中に閉じこめられた哀れな大人たちは、見るも無惨な最期を迎えました。とてもとてもかわいそうなことをしてしまったと後悔した女の子は、その光景を九冊目の本から抜き出して、裏庭に捨ててしまいました。そして、黒いパンを詰めて代わりにしました。


 あたりに散らばった、悪い大人たちのなれの果て、千切られたり捻られたりと原型をとどめていないパンを拾い集めて、女の子は庭にまきました。

 すると、どこからともなく小鳥たちがやってきて、それらを啄みます。

 小鳥たちのさえずりや地鳴りは、歌のように森の中に響きわたり、汚いものを取り去ってくれました。女の子はそれを見て心を慰めるのです。


 けれど、女の子はそんな風に恐ろしいことをしてしまえる自分が怖くなりました。

 なにより嫌だったのは、自分が大人の人たちを物言わぬパンにしてしまう時、とても愉快な気分になっていたことです。


 怖くて、嫌で、ひどいことのはずなのに。

 もうしたくないと思う以上に、もっとパンがおいしそうに焼き上がるのが見たいと感じてしまう自分がいるのでした。


 ぎゅっと目を閉じると、瞼の裏に見知らぬ三角錐の何かが浮かび上がります。

 怖くなって、女の子は目を見開きました。

 すると、庭で異変が起こります。


 なんと、パンが撒かれた土の中から、さきほどの人たちが出てきたのです。

 色々なところが軽くなって、すっかり様子が変わってしまった人々を見て、女の子は目を丸くしました。彼らは先ほどとは打って変わっておとなしく、小さな女の子の目の前に集まってくると、身を低くしました。


 膝を突いて、あるいは膝がない人は両手と頭を地面に擦り付けて、それぞれに女の子に対して恭しい態度をとります。

 そうして、口々に女の子へ向かってお願いするのです。

 まるで、祈りを捧げるように。


 偉大な殿下。われわれの大いなる母。

 未来の女王、あちらとこちらとをつなぐ、幼き姫よ。

 どうか、われらさまよえる『しびと』を、お導き下さい。


 女の子には彼らの言うことがまったくわからず、ただ首を傾げるばかりでした。

 今は、まだ。



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