4-27 森の赦し




 自分が沈んでいくのを感じていた。

 意識はある。

 『俺』という存在が、何か圧倒的な存在に押しのけられ、上書きされ、変容していくかのような感覚。


 『下』の方でも外界で起きていることはわかった。

 コルセスカが俺と同様の運命を辿ったこと。

 トリシューラが、今まさに殺されようとしていること。


 そして、今ここに存在している『俺』もまた一瞬ごとに消え去り、塗りつぶされつつあること。

 冷えていく思考の中で、俺が思い出すのはカインのことだった。

 転生してすぐ、暗い森の中で俺が殺した相手。


 『介錯』した――こう言って赦されるのなら、初めて出来た仲間。

 自分が自分でないものになってしまうのが恐ろしい。自分が仲間たちの敵になってしまうことが嫌だ。だから、そうなる前に殺してくれ。


 俺はその感情を本当の意味で理解することはできなかった。

 何もわからないまま、ただあの悲痛な声を終わらせるためだけに右腕を振り下ろしたのだ。


 今、俺は別の存在になりつつある。そしてトリシューラを、彼女の世界を終わらせようとしている。

 ――だから、何だというのだろう。


 今更だ。何もかも、今更だった。

 俺が今抱いている感情が免罪符になどなってたまるものか。

 だとすれば俺は共感などいらない。感傷は感情ごと凍らせて、何もかも無かったことにしてしまえ。


 意識の底で蹲り、小さくなっていこうとする俺の頭上で、微かに声が響いた。

 どこか懐かしいような、あるいは聞いた事がないような。

 遠い遠い、母親が我が子に語りかけるような優しい声だった。


『赦します』


 そんなものは望んでいない。

 歯を食いしばって、強く頭上を睨み付ける。

 こちらの意思を無視して押しつけられてくる言葉を振り払い、敵意を持って消えろと叫ぼうとしたその時だった。


 目を見開く。

 氷の腕が、内部の血液を沸騰させながら強い輝きを放った。

 どこかで見た、その光。

 光の中から現れたのもまた、見たことのある誰か。


「カイン――?」


 腐乱した狼が、腕を咥えてやってくる。

 違うものになりつつある俺の元にやってきた、違うものになってしまった彼。

 それが、どのような意味を持つのか。


『それは、唯一の汚染されていない貴方』


 聞き覚えのある声――首筋と右腕にその存在を感じ続けている誰かに似た響きを持った言葉が、俺に道標を示す。


『シナモリ・アキラのバックアップ。感染呪術の基本原則を思い出して下さい。元々一つだったものは、呪力を宿す。遠く離れていても影響を及ぼし合う』


 元々一つのものであったシナモリ・アキラとその左腕。

 それらは呪術的に繋がっている。

 俺という本体が上書きされても、食い千切られた左腕にその存在の痕跡は刻まれている。


 だとすれば。

 関係性の拡張と、身体性の拡張。

 それらは、何を可能とするのだろう。


『全てをです――さあ、もう一度、遡って!』


 声に、どこか大人びた響きが混じって――そして、死した狼が俺の目の前に舞い降りる。咥えた左腕が、『俺』に触れた。

 更に深みへと沈んでいく自らの存在を感じながら、俺は彼を最後まで見続ける。人としての知性を失ったカインの瞳が、どこまでも優しく俺を見つめていた。





 ここはどこだろう。

 俺は周囲を見回した。

 そして、すぐ目の前に車椅子の女性が記述されていることに気がついた。

 記述――? 存在している、ではなく?


「ここは永劫線――『注釈の世界』よ。『主人公』や『語り手』であっても、ここまでは影響力を行使できない」


「貴方は? それに、注釈の世界?」


「早い話が、ここは『彼女』の領域だから不可侵ってこと。そして私は――何度か会っている筈だけど。ほら、キロンと戦った時とか、風の王を倒した時とか、つい最近も彼女と戦った時にちょっとだけ力を引き出してくれたでしょう?」


 女性が車椅子の車輪の部分を意味ありげに指差すが、よくわからない。

 がくりと項垂れる女性は、「そっかー」と残念そうに呟いたが、すぐに気を取り直して俺に向き直る。


 彼女は周囲がどのように設定されているかを俺に開示してくれた。

 そこには宇宙図が広がっていた。

 いつか俺がトリシューラと共に死の淵で垣間見た、世界の構造。

 多層をなす宇宙。


 九層を成す世界の一角で、車輪を背にした偉大なる女神が俺の左腕と繋がっているのを感じる。そこでようやく思い出した。


「そうか、貴方が、ヘリステラか」


「そうそう。本当は中立の私が介入するのは良くないんだけどね。グレンデルヒがああなっているのはこちらにも責任があるし――彼がこの世界に次元侵略者を招き入れて好き勝手にしようとしているのは見逃せない」


 星見の塔、キュトスの姉妹の長女は何らかの思惑があって俺に接触しているようだった。この不可思議な空間で、彼女は俺に何をさせようというのだろう。

 と、その時。虚空に突如として扉が現れたかと思うと、そこから緑色の髪をした少女が現れた。


「やっほーヴァレリアンヌ本人なのですよー、ノエレッテが留守なので私が【扉】を作りますねー」


「はあ」


 流石に十四番目の義肢を多用しているせいか、その度に脳裏に現れるイメージは記憶していたが、なんというかえらく気さくそうな魔女だった。彼女もヘリステラと同じく、星見の塔における『中立派』なのだろうか。


 ヴァレリアンヌが新たに出現させた扉が開かれて、俺はその先へ行くように指示される。その後どうすればいいかは追って連絡すると言われたが、これはつまり、どういうことなのだ?


「永劫線を通じて、古代へと遡ってもらうわ。グレンデルヒに勝利する為には、あなたもまたより強大な力を手にしなくてはならない。たとえば、その左腕の新しい機能とか、勝利への布石を置いてくるとかね」


 過去に遡ることで、後付けで勝つための伏線を用意する、ということか。

 確かにそれならば、絶望的な状況をひっくり返すことも可能かも知れない。


「古代世界にはその鍵があるはずです。というのはつまり――」


「はい、ここで言うと未来、っていうか過去が歪むからそれ以上は駄目」


 整理すると、俺がこの状況をどうにかするためには過去に向かう必要があり、そこで何かをすればいいのだが具体的にそれを知ってしまうと恐らくタイムパラドックス的な何かが起きてしまうので詳細は教えたくない、ということだな。


 良くある筋書きだ。しかし言語魔術師がほいほい言葉だけで過去を改竄しているというのに、俺は直接足を運んで過去を変えなければならないのか。


「不満そうだけど、やらないつもりはないのでしょう?」


「当然だ。トリシューラとコルセスカを諦めてこのまま終わるなんて選択肢は、三ヶ月前に消えてるんだよ」


 故に、迷いなど既に無い。

 俺が選ぶ前に、決定は外側に存在しているのだから。

 扉に足を踏み入れた俺の背に、小さく、ヘリステラが声をかけた。


「私の妹たちを、よろしくお願いね」


 会話の流れからすると、そう不自然ではないはずの言葉。

 だというのに俺は、その響きに奇妙なものを感じた。

 問い返す前に、世界が変転する。


 歪み、混濁し、次々と移り変わっていく光景。

 そして俺は、暗い森の中に降り立った。

 青ざめた月、風に揺れる木々。その空気に、不思議と懐かしさを感じる。


 そして俺は、それを見つけた。

 血に沈み、動かないままの狼の死骸。その傍らにしゃがみ込んで、小さな声で泣いている少女を。


 何故か俺はそれを一瞬だけコルセスカと見間違えた。そんなはずはない。目の前の少女は幼すぎるし、髪の色は蜂蜜色だ。

 こちらの気配を察したのか、少女が振り返る。怯えたように揺れる灰色の目と尖った耳、泣き出しそうな表情を見て、俺は即座にこの少女を殺すことを考えた。


 一目でわかった。これは幼き日の死人の森の女王だ。ならば、過去で俺がなすべきは彼女を殺して難敵を事前に排除しておくことか。その思考は純粋に合理的であったとは言い難い。解体されたトリシューラという光景が、凍らせたままの憎悪を呼び起こして思考に影響を与えているだろうからだ。


 しかし、怯え、震える少女を前にして拳を握りしめたとき、ふと気付く。

 彼女は、まだトリシューラを害していない。

 未だ行われていない罪を裁くことが、一体誰にできるというのだろう。

 

 幼い少女は、怯え、震えながらも、口を開いた。

 日本語ではないが、理解できる。

 レオが使用していた、古代グラナリア語の正確な発音で、少女は俺に懇願した。


「お願いです。私はどうなってもいいですから――この子を、助けてあげてください。とっても、とっても辛いって、死ぬのが嫌だって、苦しんでいるの」


 だから、どうか。

 自分よりも目の前の誰かの苦しみを耐えがたいことのように語る少女。

 その灰色の瞳の中に、誰かの姿を見て、俺は。

 最初に抱いた印象が、何も間違っていなかったのだと、そう理解した。





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