4-13 加虐嗜好



 暗転。

 そして、闇の舞台を月光のスポットライトが照らし出す。

 なにしろ四つもあるものだから、光源の数には困らない。


 幻影、夢、まやかし。

 くだらないまじないだと理解してはいても、俺はその迷路から抜け出すことができずにいた。


 走る。

 いいや、逃げているのか。

 追いかけてくるのは、俺がかつて右腕で殺めたはずの命。


 失われたもの。

 終わらせた苦しみ。

 血まみれの右腕は、キロンとの戦いで壊れて消えた。


 だから、俺の罪はもう記憶の中にしかないはずだった。

 だとすれば――あの死にながら生きている狼は、俺の記憶の中、悪夢の中から甦ったとでも言うのだろうか。


 何のために?

 ――欺瞞を曝くために。

 俺を救う為に唱えられた奇跡のようなあの呪文が、儚い嘘だと証明する為に。


 怖い。

 怖い、怖い、怖い。

 どうしようもなく、あの狼が怖い。


 感情制御は正常に機能している、恐怖はコルセスカが吸い上げてくれている。

 だというのに、理性が判断しているのだ。

 あれは恐ろしいものだ、と。

 理性的な判断の結果として脅威だと断定できるなら、それは『怖い』のだ。


 なんとなれば、あの狼は俺を守り続けてくれていた呪文を殺す為に甦ってきたのだから。死者の代弁者が嘘を吐いて生者を守る。欺瞞によって人は人を救うことができる。それが呪文の力だと、アズーリアは俺に教えてくれたのだと思う。


 だが、死者に代弁者がいらなかったとしたら?

 起き上がり、蘇り、『自分はそんなことは思っていない』と断言したとすればどうだろうか。


 逃げないと駄目だ。

 逃げないと、否定される。壊される。

 それは、それだけはどうしても嫌だ。

 

 たとえ俺の中に後悔が無くとも、迷いが無くとも。

 あの言葉を、無かったことにはしたくない。

 

 ひたすら闇の中を走り続ける。

 気付けば、足下には大量の屍が積み上がっていた。

 皺だらけの黒い矮躯。


 そこは悪鬼たちの死体の上。

 俺は老若男女の区別無くただただ殺戮を繰り返す。

 復讐は残酷だ。ただ、暴力の論理だけが全てを決定する。


 闇の中に、真っ青な猫耳が浮かぶ。

 レオだ。

 白い耳から連想してそう名付けた。その筈だが、俺の目の前にいる少年の頭頂部に浮かぶ三角形は、濃い黒紫にしか見えない。


「大丈夫です。だってアキラさんは、僕を助けてくれた」


 灰色の少年が、優しく微笑みかけてくれる。

 赤い耳の色が、まるで血の色のようだと思った。


 暗転。

 周囲の全てが消えてなくなり、虚空に現れたのはゼド。

 英雄が立つのは、公社が管理するとある呪術医院の病室。


 ゼドは侵入者だった。

 重篤な病。身体機能の麻痺。呪術適性の低下。

 呪具製作者としての道を絶たれた男の絶望を終わらせに現れた『履行人』。


 死を望む者に、速やかで安らかな終わりをもたらす職業的な嘱託殺人者。

 それが、盗賊王のもう一つの顔だった。

 侵入者を察知したトリシューラの要請に応じてその場に駆けつけた俺は、そのどこかで見たような在り方を前にしてただ立ち尽くすことしかできなかった。


 どうしようもない絶望を、投薬や洗脳といった手法を用いて対処することへの、この世界の住人たちの抵抗感や忌避感。


 トリシューラの治療方針は、たとえ精神状態を初期化した結果として以前とは異なる人格になってしまったとしても、脳を含めた肉体の健康が保たれていればそれでよい、というものだ。


 だが、それを恐れる人は数多い。

 自分が自分でなくなってしまうことへの恐怖。

 治療がそれまでの己を殺すのなら、いっそそのまま終わりたい。


 本人の同意と依頼によって、嘱託殺人は遂行される。

 探索者であり盗賊であり殺し屋でもある男は、無表情に役割を果たす。

 彼はトリシューラのやり方を否定しなかった。


 それどころか肯定した。

 だが、同時に死を望む者たちの意思もまた肯定していた。

 何を否定するためでもなく、俺とゼドは激突した。

 それが何のための戦いなのか、俺自身にも理解できないまま。


 だが決着はつかず、答えは出ないまま、俺たちは曖昧に休戦し、緩やかな同盟関係を結んだ。

 敵ではなく、だが絶対的な味方とは言えず。

 ゼドが、巨大な拳銃をこちらに向ける。


「愚かな意思と賢い最適解――その価値と優劣を定めることが、お前たちが築く王国の秩序なのか」


 問いに、俺はまだ答えを出していない。

 ゼドは、聞くまでもなくそれに同意した。

 自明だったからだ。愚かさと賢さ。

 問いの中で言葉にした時点で、その答えは出てしまっている。しかし。


「お前たちは正しく、賢く、そして俺たちに利益をもたらす。ならば、共に肩を並べて戦うこともできるだろう」


 ゼドはそう言って、【風の王】との戦いに参加することを承諾した。

 それでも、その言葉は今でも耳の奥に残留している。

 問いの答えを、まだはっきりと出せてはいない。


 暗転。

 無限の闇を通り過ぎていくのは、情熱的に睦み合う男女の姿。

 愛を囁き、抱き合い、口づけを交わし、身体を重ねる。

 感情が制御されて、全身がかっと冷たくなる。


 ここは娼館だ。それらはありふれた光景でしかない。

 だが、映し出された映像はここではないどこかを示していて。

 そして見知らぬ男にしな垂れかかるのは、

 

「コルセスカ――?」


 冷静な思考で、銀髪の少女が男と口づけを交わす光景を凝視する。

 潤んだ青い瞳は、目の前の相手がただ愛おしいという感情だけを宿していた。

 抑えられた声と吐息だけが響く中、激しく脈打ちそうになる心臓を冷気がただ抑え込んでいく。


 そこで気付いた。

 目の前にいるコルセスカには、異形の右目が無い。

 服装も普段着ているような上等なものではなく、どこか縫製が粗く質の悪い――というよりも、単純で原始的な構造の衣服だった。


 よく見れば、彼女たちがいる室内も奇妙に古めかしい、というか、文明の水準が今よりも低いように思える。

 目の前の映像が切り替わって、またしてもコルセスカと別の男性が共にいるシーンが映し出される。


 今度のコルセスカは髪が長く、身長が低い。

 そして、声が決定的に異なっていた。

 顔立ちもどこかぼんやりとしていて、目も眠たそうに伏せられている。


 次のコルセスカは少女とは言えないほどに歳を重ねていて、次のコルセスカは男性だった。その次は氷で出来た鳥、意思を持った三叉槍、途方もなく巨大な氷の像、洞窟の奥で英雄を待ち続ける氷の竜、選ばれた少年の右腕に宿る異能の力、凍り付いた銀色の森を彷徨う魔女、凍った血の吸血鬼、世界の終端で松明を持った少年を待ち続ける少女、その他ありとあらゆるコルセスカが、俺ではない誰かとの物語を紡いでいた。


 これは、神話なのだ。

 無数に拡散し伝播した冬の魔女。

 ありとあらゆる物語の中で。フィクションの中で。

 伝承と創作が混濁して揺らぎ続けるコルセスカ像。


 これら全てがコルセスカでありコルセスカでない。

 言ってみればこれらは彼女の前世だ。

 神話の魔女が参照する、様々な物語たち。


 おとぎ話のヒロイン、あるいは英雄の助言者であったり鍵となる道具であったり悪役であったりするコルセスカは、無数の使い魔を、無数の恋人を、無数の使い手を、献身的に支え続ける。


 ひどく冷静に、その映像を見続けた。

 首筋から伝わってくる冷たさが、その絆が、ひどくありふれていてつまらないものに思えてきて、たまらなくなった。


 今更だ。

 わかり切っていた事実を突きつけられて、動揺することは無い。

 冷静であるが故に、ありのままに直視できた。

 直視してしまった。


 理性が告げている。

 先程から見せられているものは全て幻だ。

 俺を惑わすための精神攻撃。

 下らない、わかりやすい、そして取るに足らない悪意。


 だからどうした。

 前世がどうであろうと、そんなものは関係が無い。

 嫉妬も動揺も苦痛も、全て冷たさが打ち消してくれる。

 今、俺が冷静であるということだけが事実だ。


 過去の幻影などに意味は無い。

 強く映像群を見据えると、それらは霧散していった。

 すると、直後に現れたのは、俺の知るコルセスカ。

 氷の義眼という異相に、俺より少しだけ低い背丈の美しい少女。


 その、背後から。

 知らない少年が現れて、コルセスカを後ろから抱きしめる。

 いいや、俺は彼の顔を、名前を知っているはずだ。


 検索した。公開されているプロフィールを見た。

 調べに調べてその約束された運命を知った。

 いずれコルセスカと結ばれるべき、前世からの絆で結ばれた転生者。


 【松明の騎士】ソルダ・アーニスタ。

 これは、かつてあったことではなく、これから起きるかもしれない未来なのだと直感的に理解した。

 可能性の恋人。蓋然性の高い婚約者。


 まだ巡り会っていないと知って、胸を撫で下ろした事を覚えている。

 それは、コルセスカが会わないようにしているからだということも。

 なぜならば、会えば必然的に恋に落ちるであろうことが確定しているから。


 それは運命で定められている。

 それが最適解なのだと。それが正解なのだと。

 それまでの経験や意思や行動すら塗りつぶして、物語という形が成立する。


 神話の魔女であるがゆえに、コルセスカはその王道から逃れられない。

 主人公とヒロインは結ばれ、幸せな結婚によって物語は完結する。

 それは正しい。それが至るべき結末。


 それまでの寄り道は、全て結末のための布石であるか、さもなくば成長のための『過ち』でなければならない。

 間違った事を続けるのは愚かであり、ひどく幼いことだ。

 そう言って、ソルダ・アーニスタは同じ目線の少女の顎を持ち上げる。


「僕の花嫁、子供のままのコルセスカ――君を大人にしてあげよう」


 俺は右腕を伸ばしてそれを止めようとする。 

 だが動かない。

 氷の右腕はコルセスカに与えられたものだ。

 彼女の願いを妨げる事は決してできない。


 何もできず、二つの影が一つに重なり合って行こうとするのを見ているだけ。

 冷静に。ただ呆然と。

 感情には、波一つ立たない。


 コルセスカは、彼女が心から望むままに幸福になっていく。

 心から?

 それは、どの時点の?


 まだそうではない――いずれそうなる。

 前と後、そのどちらの願いが正しいと言えるのか。

 どちらも本人の意思には違いないというのに。


 俺はコルセスカの意思を、その在り方を肯定したい。

 だが、それが変質した後でも、それを肯定できるのか。

 運命や物語というのは、その人の意思に含めていいものなのか。


 たとえ『違う』という結論が出たとしても、そうしたものによって作り出されているコルセスカという神話の魔女が、それを否定する事は正しいのか。

 それこそ、彼女の存在を否定することなのでは?


 どこからどこまでがコルセスカなのだろう。

 無限に連なるコルセスカの可能性、その在り方全てを包括し、核心を貫く冬の魔女の本質とは何なのか。

 あるいは、それこそがゼドの言っていた【紀】なるものなのだろうか。


 何もかもわからないまま。

 骨のような槍に串刺しにされ、凍り付いて死んでいる俺を――力を合わせて、しつこくまとわりついてくるおぞましい悪魔を打ち倒した二人は、壮麗な大聖堂で結婚式を挙げる。


 華やかなハッピーエンド。

 誰もが祝福する望まれた結末。

 醜く抵抗するのは、間違った邪悪だけ。


 暗転。

 再び、目の前に屍の狼が現れる。

 死人の人狼。

 あの夜の森で、俺が殺した――カインの骸。


 打ち棄てられたままだったはずの、異獣になりかけた遺骸。

 トリシューラがエスフェイルに与えた呪術。

 死体の脳に干渉して自在に操作する杖のメソッド。


 屍の狼は、舌を出して息を吐きながら俺の周囲をぐるぐると回る。

 敵意は無い様子だった。

 俺はどこからか丸い糧食を取り出した。

 どうしてそんなものを持っているのかはわからない。


 甘い糧食をカインの狼の口に放り込むと、彼は腐乱した舌でそれを受け止めた。

 機嫌を良くしたのか、一声吠えると俺の足に頭部をすり寄せてくる。

 人懐っこい犬のような仕草。


 振る舞いは愛玩動物そのもので、かつてのカインとは似ても似つかない。

 既に人とは呼べない、単純な情動と知能しか持たない動物。

 それでも、屍の狼は甘さを感じ取り、快の感情を得て、嬉しさに尻尾を振る。

 自分にとって好意的な相手を嗅ぎ分けて、人懐っこく甘えてくる。


 違うものになりたくない。

 その前に殺して欲しい。

 それが、彼にとって『正しい』願いだと信じて右手を振るった。


 だがそれは本当に正しかったのか。

 否、過去の時点で『正しかった』としても。

 後になって振り返って見たときに、『やはりこうすべきだった』というより正しい答えがあるのだとすれば?


 俺はこの動物のカインを否定して良かったのだろうか。

 ごく当たり前に甘さを味わい、喜び、感情表現をするカインは、暴力を加えられることなど望みはしないだろう。単純に、ありのままに活動するだけだ。


 何の権利があって、そんなことを?

 今のカインは、幸福なのではないのか?


 死者は何も語らず、それは『もしも』の話でしかない。

 問いに答えはない。

 その条理を、死人の存在が覆す。


「その懊悩は尊い」


 知らない声だ。

 甘く、柔らかく、ふわりとした風のよう。

 気付けば、闇の中に見知らぬ女性が立っていた。


「貴方の苦悩は素敵です」


 背丈はコルセスカより低く、レオより高い程度。

 長い金髪は後ろで短く結い上げられている。

 特徴的な尖った耳、この世のものとは思えない成熟した美貌。

 そして、熱病に浮かされたかのように揺らめく灰色の瞳。


「苦痛に歪む顔が好き。自省を怖がる表情が可愛らしい。歩いてきた道を恐る恐る振り返るような自信の無さが愛おしくてたまらない。自分ではないものに拠り所を求めようとする弱さを抱きしめてあげたい」


 その立ち姿は優美にして妖艶。

 深い青と鮮やかな緑の衣服は細く均整のとれた身体の線を浮き上がらせるようだった。走り寄るカインを撫でる繊細な手。指は鍵盤奏者か球技選手を思わせるほど長く、淡い桜色に染められた爪は綺麗に整えられていた。


「赦します。過ちも正しさも、それら全て、貴方の生の煌めきなのですから」


 慈母のように告げる。

 純真な乙女のように囁く。

 誰よりも近くに寄りそう恋人のように呟く。


「だからもっと苦しんで。どうかもっと足掻き悶えて。終わりの無い暗闇の中で彷徨う姿こそが、一番素敵な貴方です」


 金色の長い前髪が僅かにかかる目が、爛々と欲情に濡れている。

 加虐の悦び、嗜虐の楽しみ。

 この女は、俺が幻の中を惑う姿を眺めて、快楽を感じていたのだ。

 

「この子――カインは、死を望んでいました。自ら死ぬことを選ぶというのなら、その願いは尊重されるべきだと、私は思います。けれど、『死にたくない』という願いも同じかそれ以上に強いものでした。『たとえ今の自分では無くなってしまっても生きていたい』という願いも確かに存在した――選ばれなかった言葉。死んでしまった想い。私はそうしたものを尊いと考えます」


 細い手指がゆっくりと狼の頭部を撫でる。

 気持ちよさそうに目を細めるカインを柔らかな眼差しで見下ろす女性の表情は、どこまでも優しい。

 なにもかもを許容する、安らぎに満ちた在り方。


「生きながら死ぬという選択肢。死にながら生きるという道。【死人の森】はその理を世界に提示します。貴方はどう思いますか?」


 出し抜けに、女性が問いかけてくる。

 一歩ずつ、こちらに歩み寄り、顔を覗き込み、目を合わせて、呪縛する。

 細い指が俺の頬をそっと撫でた。


 目に見えない力で抑え付けられるような感覚。

 近付く距離、埋められていく空間。

 問いかけを前にして、俺は呼吸を止めた。

 そして、答える。


「俺は」


「貴方は?」


 カイン。暗い森。感情制御による罪悪感の切断処理。罪悪感を感じないという事に対する罪悪感。血に濡れた右腕。失われた罪。無彩色の左手と救いに満ちた言葉。差し伸べられた呪文。屍となった狼。動物の幸福。それでも、俺は。


 口を開こうとしたその時。

 近付き続けていた女性の身体の一部が俺の胸に触れる。

 そこだけ大胆に露出した豊かな胸元が、こちらに押しつけられているのだ。


 強い抵抗感と反感を抱く。

 この女の言動は全てこちらを惑わすための呪文だ。

 迂遠なやり口に、いつまでも付き合う意味は無い。


 こいつはただこちらの精神を揺さぶりたいだけの敵だ。

 殴り殺せば全て終わる。

 殺意と拳を固めたその瞬間、こちらの呼吸の間隙を縫うようにして鋭い呪文が俺の意識を刺し貫いた。


「敵意に、縋り付きましたね?」


 ぞくり、と背筋に寒気が走る。

 コルセスカがもたらしてくれる、安心感のある冷気とは違う。

 それは俺を死に誘う、破滅的な邪気だ。


「理性による判断を、生まれた反発で覆した――それは合理とはほど遠い、人らしい、呪術的な思考ですね。私が色仕掛けで相手を惑わすような奸婦であるなら、口にした問いの内容も間違っているはずだ。全て貴方を害するための惑わしだ、という論法です。ところでご存じかしら、一足す一は二なのです。さて、これは悪意のまやかしなのでしょうか?」


 女性はより一層身体を近付けて、身を押しつけてくる。

 柔らかな感触が、こちらの作り物の胸を潰す。

 女装した俺を見る彼女は、溜息を吐いてこう言った。


「振る舞いは人の本質でしょうか。言葉は真実を示すでしょうか。貴方は女性なのかしら。全て剥ぎ取って、身体の内側をさらけ出したらわかるかしら?」


 驚くほど強い力で押し倒される。

 細い腕が閃き、信じがたい力で服が引き裂かれていく。

 身体の線を隠すために服の中に仕込まれた細工の数々が破壊され、呪術の幻惑が破られる。


 露わになったのは、硬い男の身体に人工の乳房を取り付けた滑稽な俺の姿。

 指の一振りで化粧が吹き散らされ、裸の肌を細い指先がなぞっていった。


「カインについて。誰が言及したかによって考えを変えますか。あの『色無し』が言ったから正しいと? 敵である私の言葉は聞くに値しませんか。ならばカイン本人ならば?」


 気付けば、そこはいつかの森の中。

 柔らかい土を背にした俺は、のし掛かられた体勢のまま、女性と見つめ合う。

 

「死者の代弁というのは結局の所、『代弁者の意思』と『それを欲望する貴方』の共犯関係によって成立する『約束事』でしかありません」


 穢されていく。壊されていく。砕かれていく。

 灰色の瞳は、俺を捕らえて離さない。

 呼吸も出来ずに、ただ美しい顔を見ていた俺は、変化の予兆を見逃した。


 女性の可憐な顔、その右半分が急速に年老いていく。 

 皺が増え、肌が衰え、潤いが消え、乾いて朽ちてやがて腐り落ちる。

 腐乱して白骨化し、顔の右側は死人そのものになった。

 目蓋のない灰色の眼球が、剥き出しの歯と顎が動いて、再び問いかける。


「こうすれば、価値判断が揺らぎますか?」


 逃げられない。

 彼女の問いから、彼女の弾劾から、彼女の加虐から。

 是非を問う言葉の呪いに掴まったが最後、そこから抜け出すことは出来ないのだと、俺は知った。


 終わりの見えない沈黙が、森の中に横たわった。

 俺は何も言えず、答えを見つけられずに視線を彷徨わせるばかり。

 そんな俺を見下ろす灰色の瞳が、優しく揺れ動いた。


「いいんですよ。正しさも過ちも、どちらも貴方の命の煌めき。それは等しく尊いのです。矛盾の中で引き裂かれるその苦痛が、死に向かい生を志向する衝動こそが人の人たるゆえん――さあ、もっと貴方の葛藤を見せて? 貴方の煩悶を聞かせて? 貴方のたまらない泣き顔を、私に感じさせて?」


 触れられる。

 身体のありとあらゆる場所を、細い指先が撫でて、なぞって、つついて、包み込んで。寄せられた口から舌先を伸ばして、鎖骨を唾液で濡らしていく。

 

 骨と皮ばかりの右手が上半身を愛撫して、繊細な左手は下半身に伸びていく。

 情欲の熱が漏れ出すような吐息。

 小さく、喉を鳴らす。


「大丈夫ですよ、痛いだけなのはちょっとの間のこと――すぐに、痛みが気持ち良く感じられるようになりま――」


 言葉が途切れる。

 腰のあたりに伸ばされていた左手が静止。

 灰色の瞳がゆっくりと下りていく。

 

 愕然と、見開かれた。

 硬い感触。

 黒銀の拘束具、あるいは鎧。

 氷の錠、あるいは帯。


 二重の拘束。

 電子錠と呪氷帯が脆い局部を完全に覆い尽くし、急所をガードする役割まで果たしている。

 それは、二人の魔女が残した呪いだった。


 トイレすら許可がなければ行く事ができない。

 今の俺は、生理現象を完全に管理されているに等しい。

 当たり前となっていたそれの存在を思い出して、俺は我に帰った。


 そうだ、俺は二人の使い魔だ。

 俺自身がどうしようもなくとも、それだけが俺の足場だと、とうに定めているはずだ。なら、行動を迷い、足を止める必要なんて何も無い。


 女性を突き飛ばして、その場から飛び退る。

 半身を前にして構えをとると、相手は険しい目で『それ』を睨んだ。


「なんてひどい――待っていて。今、自由にしてあげますから」


「余計なお世話だ」


 定石である金的への攻撃から急所を守れるから便利なんだよ。

 さっきみたいな誘惑や魅了の類も妨害できるしいいことずくめだ。

 外す理由が無い。


「お腹を壊したらどうするんですか!」


 そっちか。

 片方の眉をきりりと吊り上げて憤る女性はどこかピントがずれているというか、どこまで本気なのか読めない。

 

「なんか呪術の力とかでそのへんはどうにかなってるらしいから心配するな。蒸れないし清潔だ」


「あら、そうでしたか。でもやっぱりいけません。男の方がそんな風に女性の言いなりになるなんて情けないですよ。めっ、です」


 なんだこの女。

 加虐嗜好者サディストめいた言動をしたかと思えば、このようにこちらの尊厳を気にするような事を言ったりする。

 内心が伝わったわけではないだろうが、薄く微笑んだ。


「だって、望んで服従する被虐嗜好者マゾヒストなんて、虐める甲斐が無いじゃないですか。それはそれで愛でようもありますが――やはり、強い意志で抗おうとするその心身を痛めつけるのが至上の悦び」


 なるほど。

 トリシューラと似ているようで、決定的に違う在り方。

 こいつは俺の敵だ。

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