3-101 『特権者の英雄症候群、さもなくば――』①



「最初におかしいと思ったのは、殺害された人数」


 ハルベルトは静かに呟いた。

 左右非対称の耳は晒したまま。

 今回の戦いで、その正体は万人が知るところとなってしまった。


 けれど――過去の歌を響かせた今ならば、もうその耳を隠し続ける必要も無い。

 困難は果てしなく、地上の秩序は未だ歪んだままだ。

 槍神教を相手にした戦いは終わらない。


 それでも、世界を変える下準備にはなったはずだった。

 ハルベルトを、そしてアズーリアを世界に認めさせること。

 それが最初の一歩だ。


「ガルズによる十三人の殺害――その最初の一人であった夜の民の群青司教は確かに食用奉仕種族を触手で黒衣の中に引き摺り込んでいた。そして、体内から溢れ出た骨の槍で分裂した三つの体を貫かれて死んだ」


 そう。これは最初の一歩に過ぎない。

 道のりはまだ長く、煉獄と地獄には過酷な戦いが待っているだろう。

 同様に、この天獄でも。


「――リーナもメイファーラも、この事件はあまり調べることが出来なかったと言っていた。爆発物の持ち込みも人を挟んで場所を迂回して、念入りな過去視対策をしていたと。けど体内から骨を操作するのなら爆破なんて最初から必要無い。目立たせたかったんだとしても、足がつく危険性は高くなってしまう」


 アズーリア・ヘレゼクシュは疑似細菌によって肉体を構成している変身者――夜の民だ。その夜の民が体内の骨を操作されて殺害されるのはおかしいという理屈で呪文を構築し、更にハルベルトと認識を重ねてガルズとマリーの攻撃を凌いだ。


 だとすれば、明らかに奇妙な点がある。

 群青司教は夜の民。強力なマロゾロンドの加護を受けた神働術使いだ。

 そんな人物が、容易く体内の骨を操作されて殺されるだろうか。されたとしても、即座に変身すれば済むことではないのか。


「もう一つ。あの昼食会で、群青司教はフォークに『引き裂かれて』四体に分裂していた。そして、死亡したのは三叉の槍に『貫かれて』屍をさらしていた三体」


 ハルベルトの記憶力は極めて優れている。

 上位の言語魔術師には、膨大な量の呪文を瞬時に組み上げる能力だけでなく、古代の叡智という膨大な情報量を参照する能力も求められる。

 その彼女は些細な違和感を決して見逃さない。


「残りの一体はどこに消えたのか。あなたはどう思う。群青ウルトラマリン司教――影の海を越えて来たるもの。元キャカール十二賢者第二位にして第十一魔将、ユネクティア=ヌーナ=ウルトラマリン」


「夜の民の数なんて、気がついたら増えたり減ったりしているものだよ。あまり気にしても仕方が無い」


 そこは暗がりだった。

 聖女によって瞬時に修復された時の尖塔内部。その一画に存在する、不自然なまでに薄暗い場所。


 設えられた調度品――その影から、小さな黒衣がのそりと姿を現した。

 年老いて小さくなった――あるいは、分裂によって矮小化した姿。

 己の存在を『影』として世界に拡散させ、偏在させている魔将。


 ユネクティアは確かに敗北し、死亡した。

 それはかつても今回も同じだ。

 しかし、分裂した別個体は密かに地上に侵入し、潜伏していたのだ。


「黒衣の中は正体不明――変身能力に優れた高位の幻姿霊スペクターならば、別氏族の真似をするくらいは造作も無いということ」


 誰にも気付かれないほどに脆弱な存在の強度。

 衰えた呪力と知性、情緒と実体。

 脅威とは呼べないそれを、しかしハルベルトは最大の怨敵に相対したかのような険呑な視線で睨み付ける。


「怖いな。僕は無害だよ。こんなに弱体化した状態じゃ戦えもしない。ただ静かに槍神教の中に入り込んでいるだけ。地上で青い鳥ペリュトンの振りをしながら隠れている他の氏族たちの支援をしているだけさ」


 魔将ユネクティアの言葉には、明らかに知性が感じられた。

 弱体化したはずの小さな存在。だというのに言葉とは裏腹に黒衣はその布面積を広げていく。

 復活したユネクティアは、間違い無く完全に滅ぼされたはずだ。


 【闇夜の希望】はミルーニャが対邪視者戦闘を想定して作り上げた傑作である。

 斧槍の幻想神滅具は間違い無くユネクティアを完璧に殺し直していた。

 だとすれば、ここにいるのは過去に逃れていた分身の一体。

 その存在強度が、如何なる理由によるものか、増大し続けている。


「――貴方は巨人。つまり神。ただ邪視を極めただけでも強力な呪力は得られるけど、貴方には信者たちが――信心によって支えられ、加護を与える民がいるのではないの。地上の夜の民はもちろん、たとえば食用奉仕種族とか」


 地上から排除されている『夜の民ではなくなったものたち』やトントロポロロンズたちにとっての神、あるいは救世主。

 そんな存在であるとすれば、信仰心は弱体化したユネクティアに再び力を与えるだろう。


 ユネクティアは年老い、小さくなり、知性と振る舞いが幼く退行していた。

 矮小化した情緒と知性。

 ゆえにこそ、同様にささやかで制限された情緒と知性しか持たない食用奉仕種族たちはユネクティアを神と崇めたのではないか。


 低い目線で。狭まっていく視座で。

 それは、同じ事だと。 

 名目上は槍神の敬虔な信徒たる聖人を尊敬するというような間接的な槍神崇拝であっても――それは事実上、ユネクティアへの信仰なのである。

 

 一度魔将として滅ぼされ、弱体化しつつも地上に潜り込んだユネクティア。

 だが、下方勢力としてのラベルはどうしたというのか。審判たるヲルヲーラの力によって本来ならば地上へと侵入することはできないはずだ。


「ガルズたちは本命を隠す為の目眩まし。その裏で動いていたトライデントの細胞は、おそらく【神経】のヲルヲーラだけじゃない」


「もう全部わかっているんだね。まさにその通り。十四番目の細胞【神経】のヲルヲーラは僕の手足みたいなものなんだよ。この十五番目である【脊髄】ユネクティアのね。ちなみにお師様は七番目――【右足】のセレクティだ。十六番目が【右目】のガルズで十七番目が【左目】のマリーだそうだよ」


「察するに、全部で十九人。様々な終末の予言や伝承に記されている十九の獣たちになぞらえているというわけ」


 ジャッフハリムの十九魔将。あるいは、フォービットデーモン。

 そして、トライデントの細胞。


「貴方は、地獄の――ジャッフハリムの為に戦っているのではなかったの」


「少し誤解があるな。まず僕はセレクティ様の派閥でもあるが、それ以前にトライデントの細胞であり、また更にそれ以上にユネクティアという個人でもある。エスフェイルの手前、望まれたからには『立派な師兄』を演じるのが僕の神としての生態だからそれらしくはしていたけれどね。実を言えば僕は複数の目的と理念と人格の統合体だったんだ。今の僕はその一つが独自に発展を遂げた結果。ユネクティアの一面を拡張した存在だよ」


 黒い魔導書【異界の黙示録】を広げて、ハルベルトは攻撃の準備を行う。

 地獄の魔将というだけならばハルベルトにとっては必ずしも敵ではない。だが、トライデントの細胞なら話は別だ。

 

「あなたの望みは何」


「さあ、何だと思う? 考えてみよう。鍵は食用奉仕種族の特性だ。彼らは意思ある『人』になり得る可能性を秘めているが、彼らが『人』になるということは『食べられるために生まれてきた』という存在の根源を否定する事に等しい。知性と情緒を向上させ、被食欲求を抑制すれば『人』らしくはなるだろうが、それはもう食用奉仕種族ではありえない――彼らそのものの否定だ。多様な在り方を認め、肯定し、祝福するやり方では救えない――」


「それは詭弁」


「だが詭弁も一面の真実になりうるのが呪術というものの力だ」


 小さな黒衣が膨れあがり、中身が空洞となった黒衣がハルベルトの前でゆらゆらとはためく。

 空虚の中で、影が輝く。


「さて、行き止まりの地上が生み出した退廃文化――その結晶たる食用奉仕種族だが、決定的に足りないものがある。今の君たちならわかるよね? それはアストラル体だ。地上が『彼らは人だ』と認識する手続きだ」


 そう。

 ガルズが彼らを操って殺害を実行した可能性がある以上――彼らもまた死人、つまりはゾンビであるはずなのだ。


「ありがとうハルベルト。君たちのお陰で彼らは『人』になれた。実体としては今までのままだが、君がもたらしてくれた世界観の影響で、これからはアストラル体を纏う個体も生まれるようになるだろう。つまりは――霊的な味わいが、魂の美食が可能になったわけだ。素晴らしいじゃないか? 美食、それは食文化のミーム! 地上人類には邪悪な独創性があって素敵だよね。だから嫌いになれないんだ」


「もう一度訊ねる。望みは、何」


 無数の文字列が浮遊し、黒いインクが黒衣を包囲する。

 魔将は静謐な空気を湛えたまま。

 ハルベルトは、怒りに歯を軋らせた。

 身体など無いというのに、相手が嘲笑した事が理解できたからだ。


「退廃文化が作り出す呪力を肉体に取り込むことで、人類は新たな段階に移行するんだ。【生命吸収】の秘儀。【命脈の呪石】の神滅具。ゾートやメクセトといった言語支配者たちが試みた『不死』――すなわち次世代の人類を作り出し、過酷な環境に適応できる『人類』を創造するための様々なアプローチ。僕もそれに倣おうと思っただけのこと」


 それは、火竜を復活させた後――あるいは世界を更新した後の事を考えているという点では、ジャッフハリムの利益に繋がる目的なのだろう。

 更には呪術師としての階梯を昇ろうとする行為でもあり、ハルベルトにとってもある程度までは理解可能だ。


 トライデントの細胞としての目的は不明だが――それでも、ハルベルトとは絶対に相容れることは無い。

 そもそも、ユネクティアの言葉は余りに地獄の理念に反している。

 地上に甘く、共感を寄せる魔将。その思考は、まるで。


「僕の才能では黒の色号によって不死の食物アンブロシアを完成させることはできなかった。ダエモデクは己の存在を他者に分け与えることで擬似的な他者の不死を再現していたけれど、肉体を使い切れば後は痩せた身体が残るだけ。結局は有限の中での足掻きでしかない。彼は素晴らしきジャッフハリムの理想、共生と再分配の体現者だが、やはり有限性が彼らの限界なんだよね。悲しいことだ」


 その口ぶりは、密かに地上に入り込んでいた魔将と言うよりも。

 正しく槍神教の司教であるかのようだった。

 このような人物だからこそ地上で司教の座にまで上り詰めることができたのか。それとも、別の要因があるのか。


「有限性が問題となるのなら、『無いところ』から資源を持ってくるしかない。それは君たちが操る幻想――言理の妖精というやつだよ。あの方の気紛れには困らされたけれど、機会を待ち続けた甲斐はあった。これで僕の民たちは『完成』した。特に羊少女はこの為だけに僕が作ったと言っても過言じゃないからね」


 いずれにせよ、ハルベルトは目の前の存在を看過できない。

 ユネクティア=ヌーナ=ウルトラマリンは、神でありながら庇護すべき民の犠牲を前提として築き上げられる世界を目指している。

 それが人類の進歩だとすれば、それは邪悪な適応だ。


 神に、そして人を超えた新人類に捧げられる為に存在する生贄の羊。

 消費されるためだけに『人』の下位に序列化される。

 黒衣の神は、紛れもなく地上秩序の体現者だ。

 そして――彼女は、神であろうと天使であろうと『それ』を許さない。


「お前が、この世界の歪みか」

 

 黒玉の瞳に燃えるような怒りを宿して、ハルベルトは鋭く問いかけた。

 同時に、途方もなく巨大な『影』が膨れあがる。

 それが答えであり、戦いの幕開けを告げる合図だった。


「これこそ正しさ、これこそ秩序、これこそ平和に他ならない。僕が最小の犠牲で世界を救済してあげよう。あらゆる存在が異獣から『人』になるというのなら、その『人』の中から『犠牲にして良い人』と『犠牲にしてはいけない人』が生まれるのは必然だ。僕は君の先に立っている。君は――幼い」


 魔導書から文字が、紙片が溢れて世界が白と黒に染め上げられる。

 左右非対称の耳に呪力を纏わせて、彼女は音ならざる音を聴く。

 速やかで確実な【審問】。対象の世界観を解析。

 ハルベルトの持つもう一つの『顔』が襲い来る『影』を弾き飛ばす。


「第六騎士修道会【智神の盾】所属、魔女術異端審問官ウィッチクラフト・インクィジター黒血インクジェットのハルベルトは、対象を秩序内部の歪みと判断し、これを異端として断罪する」


 口上が終わるのを待たず、極大の閃光がハルベルトに放たれる。

 融血呪の青い流体が、闇色の触手と眩い光線を一つに融け合わせていた。

 横殴りに吹き付けてくる雨のような圧倒的な光線の束。

 だが、それらの目に見える脅威はすべて囮にすぎない。


 必殺の呪術を全て防ぎきったハルベルトを、窓から入り込んだ日差しが貫く。

 ありふれた太陽光線――灼熱の日影。

 それは、魔女を焼き尽くす火刑の裁きだった。

 炎が大量の紙片を燃やしていく。


「正統は僕だ。下らない宗教観で勝手な異端認定はやめてもらおう」


「なら、その正統ごと歪んだ神と天使を裁いてみせる」


 黒衣の背後で、魔導書を真横に構えた魔女が呟いた。

 燃やされたのは、ただの紙片。

 灰になって散っていく偽物を見て、ユネクティアが愕然とする。


「何っ」


 愕然と振り返るユネクティアだが、魔女の姿は捉えられない。

 勢いを増す炎の中で、舞い散る紙片は燃え尽きることがなかった。

 焚書など無意味、検閲など妄言。

 なぜならばそれは情報化の象徴だ。拡散と複製を続ける自律的な情報を滅ぼす事など到底不可能。


 炎が一瞬にして消し飛び、それが姿を現した。

 紙片が翼の形をとっていく。

 左右に五翼ずつ。紙片とインクで出来た黒と白。

 十の翼を広げて捉えがたい存在が出現する。


「天使の加護――神働術?! だがこれは、アエルガ=ミクニーでもラヴァエヤナでも無い! 何だこれは、十枚の翼? こんな天使は、こんな古き神は僕でも聞いたことが――」


「誰でも知ってる。この天使は偏在しているから。この【異界の黙示録】はその性質を最も効率的に表現するだけ。魔導書の形をした人工霊媒」


 一次資料が存在せず、当事者が証言することもまたあり得ない。

 引用と又聞きのみがその輪郭を浮かび上がらせる、それは噂の天使。

 翼だけが呪力を宿し、形の無いその天使を認識することは決して出来ない。


 それは知識として、言葉として、言い伝えとして、間接的にのみ認識可能な存在である。

 ユネクティアは、息を飲んだ。


「そうか――『噂』でだけ聞いたことがある」


「そう。噂、情報、つまりは『ミーム』。その単語は、古き神にして形無き天使、囁きのエーラマーンを語源としている。この魔導書はかの天使を間接的に参照して、情報操作系の神働術を発動させる」


 文字が流動し、形を変える。

 この世界では、文字情報はその姿を絶えず変化させていく。

 『情報』に対して加護を与える天使エーラマーンは、あらゆる記述を少しずつ変質させてしまう。『噂』や『風説』、あるいは『誇張』や『誤報』。


 その力は時に念写にまで及び、時に世界すら揺さぶり災厄を引き起こす。

 言震ワードクェイクの被害を時に深刻化させ、時に軽減する。

 情報の性質を拡張するという、言理の妖精とは別の意味で呪文を体現する存在。

 

「さて――ここに、魔将ユネクティアという存在に関する様々な俗説、風説、噂がある。高名な人物だけあって逸話や言及は膨大」


「や、やめろ、よせ!」


「もっともらしい情報圧の嵐に、あなたはどれくらい耐えることができるのか、確かめさせてもらう」


 【風説】が現実を惑わして、世界が紙片と文字で塗りつぶされた。

 圧倒的な速度と確かさの『影』を上回る『噂』の嵐。

 一定の整合性に従って成立していた存在が、無数の可能性を詰め込まれて内部から崩壊していく。


 神としての秩序だった構造は乱雑さに耐えきれない。

 ユネクティアとしての存在を維持出来なくなった何かは混沌の中に放逐された。

 十枚の羽の中心で、姿無き声、幽かな囁きがアストラル界に響く。


「人は己の本質に抗える――それを証明してくれた人がいるの。だから、あなたの加護なんて、彼らにはもういらない」


 ユネクティアは死んでいなかった。

 それどころか、かつてよりも遙かに巨大な情報量と存在強度を獲得している。

 そして、無秩序で矛盾だらけの自己を維持出来ず自己崩壊を繰り返す。

 だが死ぬ事は無い。できないのだ。膨大な情報量や推測、『生存説』がその命を終わり無く繋ぎ続ける。完全な不死の牢獄に囚われて、永劫に混沌を彷徨うのみ。


 囁きの天使に導かれた先で、ユネクティアだったものはそれに遭遇した。

 昼間でも浮かぶ第四衛星。

 そこから、途方もなく巨大で小さな存在が舞い降りてきた。


 その輝きの彼方から飛来してくる兎の名は、耳長のロワス。

 第六の創生竜、論理と秩序の体現者。

 矛盾竜ロワスカーグは、世界の歪みを発見すると、その習性に従って自動的にユネクティアだった混沌を捕まえて、一口に丸呑みした。


 天使と竜は役目を終えてどこでもないどこかへと去っていく。

 あとには、静かに佇むハルベルトが残るだけ。

 その時、彼女は弾かれたように振り向いた。


「誰」


 拍手の音がする。

 暗がりで壁に背を預けていたのは一人の女性。

 音叉のような二叉の槍と巨大なヘッドフォンが特徴的な姿。

 守護の九槍、その第五位。


 大魔将との戦いで負傷した身体はあちこちが焼け焦げ、軽鎧はぼろぼろだったが、表情はうっすらと笑みを浮かべている。

 楽しそうにハルベルトに喝采を送りながら、彼女よりは幾らか年上に見える修道騎士が口を開く。


「お仕事、お疲れ様。あ、今のお仕事もだけど、さっきのステージもね。素敵なパフォーマンスだったんじゃない? わたしが前座になっちゃってちょっと悲しかったけど、まあ神様を讃える曲なんてみんなつまらないかー」


「消えて」


 如何なる思考を経た判断なのか、ハルベルトはその相手を瞬時に敵と見定めた。

 放たれた紙片と文字列が無言の歌、黙読の物語を呪文として解き放つ。

 だが。


「それはきらーい。わたしが好きなのはあなたの歌だよ」


 音叉の槍が一閃して、魔将を圧殺した攻撃が吹き散らされる。

 同じ呪文使い――それも、音を操る事に特化した言語魔術師。

 その実力はどこか底が知れない。


 呪術儀式を終え、更に強力なエーラマーンの神働術を使用して消耗しきったハルベルトには、この難敵を打倒するだけの余力が無かった。

 風のように軽やかに間合いを詰めると、第五位はハルベルトの眼前に立つ。

 

 槍を持っていない方の腕が鋭く動くと、ハルベルトを壁際に押しつけた。

 高い目線。女性としては長身なメイファーラを超える高さから、冷たい黒の瞳がハルベルトを見据えていた。

 獲物を前に舌なめずりをする獣のような、獰猛な欲望と好奇心を隠しもしない。


「ずっと、お話したいと思ってた。けど中々時間がとれなくて――あなたはあなたで、あの小さい子とばっかり一緒にいるから」


「だから、何」


「嫉妬しちゃうなって話」


「離してっ」


 力では叶わないと悟って、ハルベルトは声を拡大して呪文として放つ。

 発生した斥力が破損したヘッドフォンを吹き飛ばし、その両耳が露わになった。

 ハルベルトは愕然と目を見開く。


「びっくりした? 嬉しいな。わたしのことを知って貰えて。できれば、もっと深いところまで知って欲しいけどね」


 その両耳は、左右非対称だった。

 右側が兎の垂れ耳で、左側が妖精の尖った耳。

 ハルベルトとは丁度正反対。

 しかし、より決定的な違いはそこではない。


「自己紹介するね。わたしはトライデントの細胞が五番目――【右耳】のテッシトゥーラ。丁度、守護の九槍としても第五位だからわかりやすいでしょ?」


 長い左右の耳が、無惨にも半ばで断ち切られていた事。

 痛々しい断面には火傷の痕跡。

 半透明の長い耳の輪郭は、アストラルの幻肢。

 ハルベルトの瞳が一瞬悲しげに揺れるのを見て、第五位――テッシトゥーラは笑顔を作った。


「思った通り、あなたって素敵。優しいし可愛いし、なにより声が綺麗。うん、やっぱり、欲しいな」


「どういう、こと」


「あなたはわたしの対となる存在ってこと」


 テッシトゥーラは壁に手を突いて、ハルベルトにゆっくりと顔を近づけていく。

 逃れようとするハルベルトだが、退路は無い。

 短く息を吸って、抗えないという恐怖に表情が僅かに歪む。


「その反応。傷付くなあ。あのね、六番目の【左耳】は空席なの。あなたのためにとってあるから。ああ、九番目と十番目の両腕も残り二人の末妹候補の為に空席にしているらしいよ」


 トライデントの目的、その全容は不明だが、他の末妹候補を取り込もうとしている事はわかっていた。

 四魔女全員が末妹となること。

 それは、四魔女全てをトライデントにするということだ。


「断る」


「ならわたしも、それを断る」


 次の瞬間、テッシトゥーラは信じがたい暴挙に出た。

 抵抗する暇など与えない。ハルベルトの神経反射を超えた動き。

 額に、唇が触れた。


「いやっ」


 悲鳴のような拒絶。

 ハルベルトは自らの錯乱ぶりに自分自身が一番驚愕しているかのように目を見開き、それでも動揺を抑えきれずに滅茶苦茶に暴れる。

 テッシトゥーラは苦笑しながら一歩、二歩と後退った。


「傷付くー。血の気引いてるけど大丈夫?」


「何、を」


 震える声で不躾な相手を睨もうとするハルベルトの瞳に、力はない。

 膝が折れて、その場にへたり込む。

 テッシトゥーラは嗜虐的な光を黒い目に宿して、囁いた。


「予約。あなたは、いつかわたしのものにするから」


 ヘッドフォンを付け直して、修道騎士が立ち去っていく。

 ハルベルトは呆然として座り込んだまま動けない。

 その頬を、静かに涙が流れ落ちた。






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