3-100 澄明なる青空に③




 気が遠くなるような道のりだけど、それでも私は、私たちは願った。

 月の歌姫が優しい世界の秩序を祈った。

 白い少女は人の本性に抗い、ただ強く優しく在ろうとし続けた。

 空を舞う魔女は自由を望み、けれど絆もまた慈しんだ。

 樹妖精の巫女は多くの悲惨を目にしながら、それでも仲間を信じた。

 吸血鬼の公女は己の憎悪を支配欲に変えて、復讐によって人々を守ろうとした。

 聖なる姫はその信仰の為に誰よりも強く、姉を信じる自分を信じた。

 天の瞳は、全てをありのままに見届けた。


 その先が果てしなくても。

 どれだけ不可能に思えても。

 有り得ない幻想だから、それは信じようとする渇望に繋がる。

 乾いた事実の裏側に想像の余地を広げていく。


 私の左手が、世界に響く歌声が。

 幻想を解体し、再構築する。

 異獣をまつろわせ、人という枠組みの中に組み入れる。

 哲学的ゾンビを鉄願の民に。枯れ木族をティリビナの民に。人狼と吸血鬼を夜の民に。人の心を守る為の『異獣』というラベルを書き換える。


 けれど結局それは、武力によって平定し、無力化するという前提が無ければ意味が無い言葉だけの変革だ。

 心を安堵させる為に武力としてのサイバーカラテがあり、同じように未来への希望として英雄がいる。


 英雄として望まれた以上、私はこの戦いを終わらせないといけない。

 迷宮を進み、人を殺し、屍を積み上げ、その果てに地獄に辿り着く。

 三界に歌を響かせて、二つの世界を一つに繋ぐ。

 だから私は、それまで戦い続ける。


 ――この夜が明けるまで、あと百万の祈り。


 今はまだ、遠くても。

 見たことのない、見ることができない幻想を、想像することだけはできるから。

 血まみれの道を切り開くのは私の役目。

 平和を作る秩序の歌姫、未来の月の女王である私の主人は、ただ幻想を歌い続けて欲しい。


 これからも私は人を殺し続ける。妹の為に、主の為に。

 その邪悪を、受け止めきれるだろうか。

 全てを引き受けたマリーのように。


 灰色の光が収束して、マリーから世界槍への干渉は完全に打ち消されていた。

 マリーはただ静かに、私を見て、ガルズを見て、眼下の人々を見て、それから、自分を見る目が少しだけ変わっていることを知った。

 

「絵空事。ただの夢でしょう、それは」


「うん、そうだね。ただの言葉。けれど、私たちは呪文使いだから。嘘を嘘のまま、本当よりも本当らしく語ってみせる。それだけは、保証できる」


「――馬鹿みたい。ダメダメじゃないですか。何もかも、穴だらけで、言い訳しか無くて――けど、そうですね。もし、それが最後まで貫き通せるのなら。貴方が本当に血まみれの英雄として地獄への道を切り開けるのなら」


 マリーの瞳が私を見て何かを告げようとした、その時。

 闇に包まれていた空が、突如として揺れた。

 恐ろしい脅威を感じた私は天を見上げる。

 天の御殿に重なり合うようにして、リーナたちが作り出した幻獣が邪神を倒していた。


 ヲルヲーラに覆い被さり、その巨体を構成する群れの大半を吸収していくレッドレッデル。歌姫のゲルシェネスナが大半の個体を消滅させると、翼猫は全体を維持できずに崩壊していく。


 だが、完全に勝利したはずであるのにも関わらず嫌な予感は消えなかった。敗北したはずのヲルヲーラが【心話】で叫ぶ。


『まだです! この為に、緻密な誘導を繰り返して餌を地上に運んだのですから。世界の修正力は言震の火種を見逃さない! 決定的な瞬間が訪れる前に、秩序を守護する世界法則に下らない呪文を破壊してもらいましょう!』


 完成した過去の歌を破壊しようと現れたものがいる。

 それは世界の修正力。

 歌姫の頌歌は、秩序を破壊する秩序だと非難する悪意。


 かつてプリエステラに牙を剥き、今は私や歌姫、そしてマリーまでもを亡き者にしようとする第三の創生竜。

 それを利用することこそが、ヲルヲーラの狙いだった。


『私の勝ちです! 自らの世界の理で自滅するがいいでしょう、行き止まりへ向かう子供たち! あとは我々が正しく優れた真の大人に教育して差し上げます!』


 竜の顕現と同時に、蓋然性の理が飲み込まれていく。

 その瞬間、極めて不運な事に、天の御殿が数億年に一度の魂の整理を始めた。

 解き放たれたのは光。

 全ての門や扉、窓から霊魂が吐き出されつつあった。


 ガルズとエスフェイルが段階的に行おうとしていたものとは、その規模と速度がまるで違う。このままでは全ての魂が一斉に放出され、荒れ狂う呪力は制御される事無く全てのアストラル界、全ての視座、全ての世界観を破壊する暴力的なエネルギーの嵐となって世界を蹂躙する。


 星空のような魂の奔流。

 理論上、仮定されているだけの天文学的なスパンで発生する自然災害。

 だが起こり得る事は呪術的には必ず起こすことができる。

 蓋然性には偏りがあり、運気は呪術によって操作可能。


 それが呪術世界の摂理だ。

 最悪の不運が、この瞬間、ヲルヲーラによって呼び込まれていた。

 かの竜の『餌』を一カ所に集め、攻撃の余波によってアストラル界を消滅させることで、次元侵略を容易にする為だけに。


 悪運の蓄積。

 言震を防ごうとする私たちの行為を、更なる言震を呼び込みかねない危険な試みだと自動的に判断した世界の防衛機構が、運命を強引に修正する。


 運命の修正力たる守護竜クルエクローキが吼える。

 形の無い絶対的な力。

 私は、天の御殿に巻き付く有翼の大蛇を幻視した。

 

 天から地上へと放たれる極大の閃光。


 全てのアストラル界を消滅させるための、それは死の奔流。

 ヲルヲーラの崩壊と共にレッドレッデルも崩れ、リーナたちが地上に落下し、ハルベルトは呪術儀式を歌いきって不滅の歌姫モードが解除されてしまっていた。

 私もまた、金鎖を完全に使い切っている。

 絶望的な状況で、ただ一人動いたのは、マリーだった。


「そんなの、ダメですっ!」


 稲妻が天に昇り、大魔将の圧倒的な力が絶望的な死を一時押し留める。

 だが天の御殿から降り注ぐ膨大な霊魂の流れ、滝のような霊的エネルギーは止まらない。


 全身を構成する呪文を崩壊させながら、マリーが消滅していく。

 ガルズの絶叫。金眼の邪視が【成し得ぬ盾】の拘束を突き破って霊魂の嵐に突き刺さるが、大海そのものが滝となって降り注ぐような勢いの前に、それは余りにも弱々しかった。


 フィリスはもう使えない――使えば、私は浸食を抑えられなくなる。

 それどころか、同じようにフィリスを引き受けてくれている私の詠唱者たち、黒百合の子供たちまでフィリスに喰われてしまうかもしれない。


 更に言えば、フィリスは世界を浸食する呪祖。

 紀元槍に繋がって、より多くの人々の世界まで浸食した場合、結果としてヲルヲーラの目論見よりも酷い結果が引き起こされる事だってありうる。


 パラドキシカルトリアージは一瞬の誤魔化しにしかならない。

 時間遡行はマロゾロンドの顕現という更なる災厄を呼び込みかねないし、サリアがすぐ傍で同じ能力を発動させていないと上手く成功させる自信が無い。


 私は、翼を広げた。

 周囲で、マリーとの戦いでぼろぼろになったキール隊のみんなが苦笑いしていた。無茶な作戦無視や独断専行で周りに迷惑をかけるいつもの癖。死んでからも迷惑をかけ続けることになるなんて、我ながら信じがたいほど愚かだ。


 けれど、私は天高く飛翔して、左手でマリーを掴んだ。

 消えかけたマリーを、マリーだった私という類似した存在に重ねる。

 仮想使い魔として再構成された私たちは、とても似ている。

 だから、同一であるとみなすことも可能だ。


 死の記憶を参照し、私の一部である仮想使い魔として再生されているキール隊のように、マリーを私の中に組み込んでいく。

 私は幼馴染たちの記憶を参照して生み出されている仮想使い魔。

 記憶を参照して、幻想を呼び出すことが私の本質だ。


(いいんですか? 貴方の一部を私は削ってしまう――それに、貴方の仲間たちにだって負担がかかります)


 刹那、思考に届くマリーの言葉。

 私の中のマリーという領域を埋め尽くしていく彼女という情報。

 でも構わない。

 今の私は、アズーリアだから。


(――いいでしょう。なら、力を貸して下さい。力を貸してあげますから。私は、いつでも貴方の内側で見ています。もし道を誤るようなら、その時は道を切り開く為の稲妻が内側から貴方を焼き尽くすことでしょう)


 それでいい。

 私は、左手に目が痛くなるような黄緑の稲妻色が宿るのを確認して、斧槍を伝う色彩を天に解き放った。

 限界を超えてフィリスを行使して、幻想韻雷ペリドットの雷が死の奔流、創生竜の吐息を押し留める。

 

 限界を超えた侵食。

 私を、世界を食らうフィリス。

 この身を維持する呪文が、崩壊を始める。


 それだけではない。仮想使い魔の術者である仲間たちもまた苦痛に襲われているはずだ。

 それでも、皆は必死になって私の維持に力を注いでくれている。

 地上を、人々を守る。ただそれだけのために、意思を一つにして。


 だが、大魔将マリー=ズタークスタークの力をもってしても押し寄せる死、過去に存在したあらゆる記憶や世界観を凌ぎきることは不可能だった。

 それは邪視。

 今までに存在してきた、ありとあらゆる視座が私の呪文を破壊していく。


 私はこれまで、何度も邪視に敗れてきた。

 その度に仲間たちの手を借りて立ち上がって――けれど、今度ばかりは仲間たちの力を持ってしてもどうしようもない。

 次第に私は押されていき、地上へと近付いていく。必死に斧槍を押し込んで雷撃を放出するが圧倒的に出力が足りていない。


 その時、仲間たちの共有仮想使い魔である私の中を複数の通信が通り抜けていく。それはこの場を切り抜けるための議論だ。

 言葉を交わしているのは、ハルベルトとミルーニャ。


(あらゆる呪術はオープンソースであるべきです! 今こそ、秘匿された言理の妖精の本質を開示するんですよ! そうすれば、アズーリア様をきっと救える!)


(あらゆる呪術は神秘であるべき。閉ざされた幻想がアズーリアの呪力を高めるの。そんなことをしたらアズーリアが消えてしまう)


 二人は対立しながらも、共に私を、地上を救うために必死だった。

 けれど、私は確信する。

 きっとこれが、勝利のために必要な最後の鍵。


 白と黒の反発する輝きを、私は即興で繋ぎ合わせた。

 無味乾燥な悲劇、残酷な事実、確かな現実を。

 収拾不能な喜劇、滑稽な真実、柔らかい幻想に。

 暴力によって流される鮮血を、言葉を紡ぐためのインクで翻弄する。


(貴方の不死は、不滅は、永劫は、こんな事で揺らいだりしないでしょう! いいえ、たとえ揺らいでも、です。私の不死を否定した幻想は、何があっても壊れない。師であり幻獣としての存在の根幹を支える貴方の他に、誰がアズーリア様を信じられるって言うんですか!)


 ――違う。これは私の思いつきじゃない。ミルーニャの意思が私という仮想使い魔に反映されて、その反響が私の意思としてみんなに拡散しているんだ。

 存在が響いていく。

 それは世界を浸食するように。


 フィリスの活性化が抑制限界を超え、遂に暴力的に周囲に感染と拡大を始める。言理の妖精は摸倣子に入り込み、まずエルネトモランの人々に取り憑き――更に、ミルーニャが、それに続いて仲間たちが全世界に拡散させた呪文によってありふれたものに陳腐化してしまう。


 幻想は瞬時に零落してその力を減じ、私もまた死の奔流に負けて消滅するかに思われたが、そうはならなかった。

 なぜなら、その万能の呪文には肝心の中身がない。

 お定まりの起句、ただそれだけ。


 万能なのは当たり前だ。何をどうやって幻想を紡ぐのか、自分で考えなければならないのだから。

 開示されたのは、その為の入り口。

 切っ掛けであり道具であり補正具である、最初の一言。


「言理の妖精語りて曰く」


 世界に、言理の妖精が満ちていく。

 誰かが言った。


「言理の妖精語りて曰く」


 誰かが囁いた。


「言理の妖精語りて曰く」


 誰かが呟いた。


「言理の妖精語りて曰く」


 誰かが歌い、唱え、吟じ、叫び、吼え、念じ、祈り、願った。


「言理の妖精語りて曰く」


 世界に呪文が満ちていく。

 一人ひとり、その形は違う。

 詠唱の抑揚、想像の細部、言葉が発せられるまでの文脈、それぞれが抱えた意思、果たすべき目的、全ては違ったけれど。


 それらは幻想として一つの大きなうねりとなり、地上から天へと解き放たれる。

 膨大な量の呪文が、私の背に収束し、斧槍の先から放出された。

 天の御殿に巻き付く守護竜が吐き出す死の奔流が、一瞬だけ押し戻される。


 だが、その勢いと蓄積された量には終わりがない。

 過去の死は現在の生命より遙かに膨大な量を誇る。

 たとえ全世界の人が協力してくれたとしても、世界そのものの具現である創生竜の一角に抗うことなど不可能なのだろうか。


 その時。

 私は、既知のはずなのに未知の何かを耳にした。

 それは、完全に寄せ集めの馬鹿馬鹿しい発想。

 人々の囁きが聞こえる。


「言理の妖精、発勁用意!」


「おい何か混じったぞ」


「サイバーカラテ道場の理念に曰くだが、これって妖精の使い方の情報を共有して効率化図った方がいいんじゃね?」


「それだ。全員で試してない呪文片っ端から試していった方が速いな」


「これとこれ組み合わせたらどうなるか誰かやってみた? まだだったらこっちでやるけど」


「報告待ってるー」


 サイバーカラテの使い手たちが、妖精の扱い方についての情報を交換し、その使用方法の最適化を試みた時から、それは始まった。

 試されていない可能性の穴が次々と埋まっていく。


 効率化された手法。

 試行錯誤は精錬、高速化され続ける。

 可能な有限の文字列から、状況に対応することができる蓋然性が高いパターン、すなわち必要な呪文だけを選別して次々に構築。


 呪的発勁と誰かが叫んだ。

 膨大な呪文のデータを共有、相互参照して、サイバーカラテという杖的な理によって呪文を操り、集合知によって最適化する。


 広がる神秘。膨れあがる幻想。

 幻想が幻想を参照し、架空の体系内においてのみ整合性が保たれるという疑似科学の枠組みが無数の宇宙となって開闢しては終わっていく。


 世界観が、言葉が、関係性が、身体性が拡張されて、気付けば現世に満ちていたのは溢れんばかりの情報の渦。

 それは虚構と幻想の誤情報でしかない。

 先人が築き上げた叡智、世界に積み上がった屍、大量死の記憶――その確かな質感と重みに比して、量で上回っているだけの言葉だけの数の優位。


 事実の単純な蓄積――過去。

 その硬質な世界に、幻想に幻想を重ねた砂上の楼閣たる呪文が立ち向かう。

 青い翼を広げ、枝角に呪力を纏わせ、斧槍から稲妻を迸らせる。

 そして左手には、夥しい数の色、色、色。


「言理の妖精語りて曰く――【万色彩星ミレノプリズム】」


 立ち塞がる死に、勝てないという確信しかない。

 けれど、世界中の勝利への渇望が私の背中を後押しする。

 仲間たちの信頼が私の心を塗り替える。

 だから、私は竜の吐息を引き裂きながら飛翔した。


 勢いを増して襲いかかってくる霊魂の滝。

 道を切り開く為に、キール隊のみんなが盾となり、私の身を守る。

 無茶な行為の反動で、ついに彼らの肉体が崩壊を始めた。

 

「我々の事は心配するな。お前の記憶にキール隊が刻まれている限り、我々はお前の一部としていつでも力を貸すだろう」


 先陣を切ったキールが背中を見せたまま散っていく。


「降りかかる火の粉は盾である俺が全て振り払う。お前は一番槍としてひたすら前に進んでいけ」


 テールがその身体を盾にしながら霧散していく。


「支援が必要なら、いつでもどこにでも駆けつけて槍を突き出すさ。君の呼吸は掴みやすい。後ろからですまないけど、こうやって君を守らせてもらうよ」


 背後から突き出された槍が襲いかかってきた霊魂を弾くが、その反動でトッドもまた消えていく。


「アズーリアさん、あなたの行く手に、神のご加護があらんことを――あなたが信じ、胸に抱く決意こそがあなたの神です」


 マフスが全ての力を振り絞って私に神働術による支援を行い、私の全身に力が漲っていく。


「いいぞアズ公、行きやがれ。お前は俺を救ったあいつを救ったんだぜ。気負わず行けよ、今度も上手くやれるさ」


 背後から私に襲いかかろうとしていた翼猫ヲルヲーラの生き残りが、カインに突き飛ばされ、諸共に死の奔流に巻き込まれていく。


 過去を引き裂いて、邪視を貫通して、事実を切断し、悲劇を引き倒す。

 斧槍を縦横無尽に振り回し、私は雷鳴を轟かせながら突き進む。

 竜の吐息の中に侵入した私は無数の霊魂に包まれる。


 真横からも襲いかかってくる激流。

 迫り来る死を、真下から投擲された致命の刃が悉く両断していく。

 暗緑の剣。エアル・ア・フィリスが、闇色の体毛に包まれた人狼の腕に握られて天にまで届いていた。


 余力が無くなった私の拘束を振り解いたエスフェイルは、世界を侵略しようとする外敵の目論見に抗う為、自らが傷つく事も厭わずに戦う。

 振り回された刃はやがて砕かれ、脚の一つと共に消滅していく。


 その隙に更に上昇する。

 天の御殿はもう間近。巨大な竜がはっきりと実体化して、明確な敵である私を滅ぼすべく襲いかかる。


 それは、途方もなく巨大な世界法則のほんの一端でしかない。

 だが、それだけでも私を滅ぼすには十分過ぎる程の呪力を内包していた。

 過去最大の破壊、ある意味ではゲルシェネスナすら凌駕する【運命】という紀元槍の枝が竜となって牙を剥く。


 ――発勁用意。既に、とてもありふれたものになった声が響いた。

 

 竜の顎下を、鎧のような右腕が鋭く打撃する。

 断端部から機械的な部品を覗かせたちっぽけな腕。

 天の御殿の内部から出現したそれは、私を襲うこと無く反転し、自身に数倍する巨竜に挑む。


 金属質なその腕を、私はかつて見たことがある。

 けれど、それがこんな所にあるはずがない。

 彼がこんな所にいるはずがない。

 だからそれは、私が見た都合のいい幻想だったのかもしれない。

 

 それでいいと思った。

 幻想に救われて、支えられて、今私はここにいる。

 鎧の腕が稼いだ一瞬が、私の左手を空の色に染め上げた。


射影即興喜劇アトリビュート――瑠璃彩星ラピスラズリ


 長大な蛇竜が放つ運命操作の視線を、視線ごと鉤で引っかける。眼球を抉り出して、網膜を灼き尽くす稲妻が竜の邪視を消滅させる。

 吐き出された毒液が蓋然性を狂わせ、あらゆる『あり得ない悪運』を必然レベルにまで貶めようとする。直前に斧が牙を粉砕し、穂先が口を縫い止める。


 膨れあがった幻想の刃が斧槍から溢れ出し、守護竜クルエクローキの口から入って目と目の間を通り脳を断ち切り首を裂いて鱗を砕き翼を吹き飛ばし心臓を始めとした臓器を蹂躙し尾へと抜けていった。


 そのまま天の御殿それ自体へと光を撃ち込み、今まで解放された全ての霊魂を強引に束ねて内部に押し込んでいく。

 私の枝角と両足から伸びた影の触手が、深淵の底と繋がって黒衣の天使を引きずり出した。


 物言わぬマロゾロンドは、私とリールエルバ、そしてセリアック=ニアの祈りに応じて本来の役目を果たす。

 それは神話に名高いマロゾロンドの御霊送り。


 己の存在を保つ為、古き神たちはその本質に沿った要求を断れない。

 渋々ながらといった風に無数の触手を伸ばし、私たちに召喚されたマロゾロンドが地上を彷徨う魂を天の御殿へと正しく送り返していく。


 それは、中断された葬送式典の正しい閉幕でもあった。

 天の御殿が閉じられ、ゆっくりと次元の彼方へと去っていく。

 役目が終わったマロゾロンドがやれやれとばかりに小さくなっていき、極小の黒い点となって消失した。 

 

 私が解き放った呪文がいつの間にかガルズが展開した夜の浄界を切り裂き、世界には真昼の明るさが戻っていた。

 青。

 抜けるように高い空が、頭上に広がっている。


 透き通る空の端に、欠けた太陰がうっすらと見えた。

 夜のように強くは輝かない第四衛星は、広がる蒼穹に包まれて、いつもよりも青色に近いような気がする。

 周囲の色に認識が引きずられただけの目の錯覚なのだろうけれど、私にはそれがとても綺麗に思えてならなかった。




 地上を襲う脅威は去った。

 リールエルバによって死霊術は完全に無効化され、ガルズはマリーを失った事で打ちひしがれ、もはや抵抗する気力を失っていた。

 傍に寄りそうリーナが、少しだけ眉を下げる。


 聖女クナータは取り戻した掌握者としての権限で第一階層を迅速に修復して時の尖塔を再構成。そこから繋がっていた各区画までも修復していくと、全壊しかけていたエルネトモラン全域がかろうじて崩落一歩手前で持ち直す。


 仲間や地上の人々も、フィリスの反動でそれぞれ精神力をごっそりと削り取られながらも、どうにか一命を取り留めているようだった。

 吸血鬼化によって救われた者たちは日陰に隠れ、陽光の恐ろしさに怯えながら縋るようにリールエルバの名を呼ぶ。


 事前の対処が間に合わず、助からなかった者もいる。

 重傷者が次々と息絶え、イルスとプリエステラを始めとした医師たちが駆け回り、ミルーニャが大量の治癒符で迅速に手当を施し、救える者と救えない者とを冷静に切り分けていく。


 そんな中、地上に降り立った私は斧槍を構えたまま、静かに口を開く。


「何か、最後に言う事は」


 私を殺すための最強の剣と腕の一つを失い、模造の月と夜の浄界を奪われた魔将は、ごく普通の狼となって私の前に三つの脚で立っている。

 ぴんと立った耳は誇り高く、瞳の戦意は衰えていない。


 その足下からは、かつて対峙したときのような凶悪さはまるで感じられなかった。天の御殿は去り、顕現していたハザーリャもまたリールエルバによって送り返された。全てを失った人狼は、無力な身体で吠える。


「我こそは魔将エスフェイル! 槍神を滅ぼす者にして、狂信者どもの屍で未来への道を築き上げる邪悪なり! 憎まれ、恨まれ、呪われることこそが悪の証明、この道の本懐! 地上の狂信者ども、我を恐れよ! 英雄気取りの愚か者め、喰い殺してくれようぞ!」


 離れた場所で、半人狼の老婆がその叫びを聞いていた。

 傍らには、一命を取り留めて安らかな寝息を立てている家族らしき女性。

 老女の嘆きと悲しみ、怒りと恨みの感情を魔将がどう受け止めたのか。

 その上で選択された叫びを、私は真正面から受け止めて、こう返した。


「邪魔だ。死ね、エスフェイル」


 飛びかかってきた狼の肩に穂先を突き入れ、割れた石畳に叩きつけ、鉤で肉を抉り、引き倒して仰向けに倒すと斧を振り下ろす。

 鮮血が飛び散った。そして、改めて思う。

 エスフェイルは、こんなに小さかったのか。


「くく、上等な面構え――まるで、我が師のようではないか。邪悪さに染まり切った鬼畜外道。正しく人殺しの目よ」


 弱々しい掠れ声。

 死を間際にしながら、エスフェイルは私をそう評した。


「そう――ようやく私は、ビーチェに並べたんだね」


 エスフェイルはわずかに目を見開き、それから納得したように息を吐き出した。


「そういうことか。貴様が、あの方の――くはは、奇縁よな。否、これは必然というものか」


 笑うエスフェイルに、私は宣言する。

 その背後にいる、誰かに届かせるように。


「私は妹を取り戻す。何人殺しても、どれだけ屍を積み上げても、必ずあの子にもう一度会う」


「あの方は、我らの側に立つ事を自ずから望まれたのだ――それでもか」


 そうじゃないかとは、思っていた。

 そうだったらいいな、と都合のいい部分だけを夢想していた。

 そうであって欲しくないという願いは、儚く散った。


 相補の魔女セレクティフィレクティは転生のたびに魂を上書きする。

 けれど、その魂が他の魂を上書きできるほど『優先度』の高い転生者の魂だったらどうなるのだろう?


 もしかしたら、妹ベアトリーチェは逆に身体の掌握権限を取り戻して魔女の魂を乗っ取ったりして生き残っているのではないか。

 神童と呼ばれた彼女になら、同じく転生者であったかもしれないビーチェにならできるような気がしていた。


「二重転生者たるあの方は、外世界人ゼノグラシアにして|内世界人<グロソラリア》。今や古代の魂と完全なる共存と融合を果たし、号通りに『相補』の体現者となっておられるのだ。迷宮の主ベアトリーチェ=セレクティとして。更には貴様の本来の妹もまた、フィレクティ様の――」


 人狼の口から、大量の血液が溢れ出す。

 消えかけていた命の灯火が、ようやく尽きようとしているのだろう。

 急き立てられるように、私は本当の願いを口にしていた。


「それでも。私は、ビーチェの願いを踏みにじってでも、あの子が欲しい」


「やれるものならやってみるがいい、アズーリア・ヘレゼクシュ。あの方は決して負けぬ。最後に勝つのは、我が主だ」


 力強く言い切ると、魔将エスフェイルは獰猛に牙を見せたまま、灰となって風の中に消えていった。


 闇色の体毛が、青空に散っていく。

 その向こうに、私は必然の未来を思い描いた。


 きっとそれは、最期の瞬間にエスフェイルが幻視したものと同じだろう。

 戦いの果て、辿り着いたその場所で、私と妹は対峙する。

 永続者アズーリア・ヘレゼクシュ。

 迷宮の主ベアトリーチェ=セレクティ。


 譲れない願いの為に、私たちはぶつかり合う。

 その先に待つのは、悲劇だろうか。

 それとも取り繕っただけの偽りの喜劇だろうか。


 端末越しに聞こえた声が脳裏に再生される。

 私は無性にあの隻腕の外世界人の言葉が欲しくなって――それから、そんな甘えを振り払うようにすうと息を吸い込んで、空を見上げた。

 

 死が堆積する過去を足場にして、不安になるほど広大無辺な世界を現在が動かし、その先に未知なる未来が待っている。

 煉獄から地獄へと向かう過酷な道行きに、青空は無い。

 だから、せめてこの瞬間だけは地上の空を目に焼き付けておこうと、私は首が痛くなってもずっと空を見続けた。


 いつまでも。

 祈るように。




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