3-99 澄明なる青空に②



 私とリーナの戦いが決着した。

 天地での戦いが終わり、リールエルバが世界の改変を食い止める。

 その時だった。


 別の場所で繰り広げられていた戦いの決着が、状況を更に変化させていく。

 巨大な肉塊となった世界槍の頂点付近で、凄まじい呪力が放出された。

 吹き飛ばされ、宙に放り出されていくのは、単身聖女暗殺に動いていたマリーだった。


 十字に輝く瞳で敗者を見送るのは、守護の九槍第二位たる聖女クナータ・ノーグその人だった。

 使い魔らしき紫槍歯虎がマリーの武器である槌と鑿を噛み砕いている。


 落下するマリーの額に古傷らしき貫通創が『思い出され』ていった。

 見る間に傷口が広がると、過去に処置不能な致命傷を負っていた事になる。

 その負傷が原因で、たった今、マリーは死亡してしまったのだ。


 未来から過去方向へと突き進む致命の一撃。

 聖女クナータの神働術を受けた者は、既に死んでいたことになってしまうのだ。


 更に、そこに高速で突っ込んでくる者たちがいた。

 雷光を閃かせながら激突しあう超人たちが、別次元の戦いを繰り広げている。

 燃え盛る炎と雷そのものになったアルマが稲妻の仮想使い魔、ズタークスタークと一瞬のうちに数百、数千を超える攻防を繰り広げ、蝙蝠のような翼で飛翔するサリアが氷の三叉槍を投擲して大魔将の頭部を消滅させる。


 一瞬にして再生した稲妻の少女を、背後から音速移動する守護の九槍第五位が二叉の槍を振動させて呪文を発動、動きを止める。

 アルマがズタークスタークを殴り飛ばす。

 大魔将の稲妻の身体が、決定的な崩壊を始めた。


 同じ仮想使い魔だから理解できる。大魔将を構成する呪文の密度は以前見た時よりも遥かに低くなっており、明らかに弱っていた。

 だが、空中を高速移動しながら戦う三人も既に満身創痍だ。ソルダとフラベウファ、そして聖火楽団と聖歌隊は全滅してしまったのだろうか。


 あと一撃もアルマが繰り出せば戦いは決着する筈だ。

 しかし、大魔将は最後に自身を維持するための呪文まで解放した。

 凄まじい勢いで放たれた雷撃は三人の超人たちを貫く。

 おそらく現在の地上における最強の存在が落下していくが、大魔将もまた相打ちとなって消滅しつつあった。


 これで全て終わりだと、誰もが思った。

 だが、ガルズがマリーの名を呼び、エスフェイルが絶望の咆哮を上げた瞬間。

 大魔将が二条の稲妻となって、マリーと世界槍の外壁に突き刺さった。

 マリーが一瞬で蒸発し、世界槍を焼く稲妻が急激に呪力を増して、膨れ上がっていく。


「おいおい、ありゃあ沼女現象って奴じゃねえか? 一定の確率で、稲妻で死んだ奴が哲学的ゾンビになって復活するっていう」


 博識なカインが推測を口にする。

 仲間たちも似たような事を口にしているようだ。

 だとすると、マリーは大魔将ズタークスタークによって再構成されつつあるということになる。


 それは、ただの復活を意味するのではない。

 より強力な存在として『生まれ変わる』――すなわち、転生。

 融血呪の青い流体が、稲妻の呪文と組み合わさって新たな性質を得ていくのがはっきりとわかった。


 私たちの目の前で、稲妻の色合いが変化していく。

 黄色と緑の中間たる、鮮やかな色彩。

 黄色寄りの眩さは、目の眩むような幻覚芸術じみていた。


 エレクトリックライム。

 見た事は無いはずなのに、どこかで感じた事があるような呪力の波動。

 歌姫が何かに気付いて【心話】で伝えてくる。


『あの呪力の波形は、ナンバーサーティーンのライム――?』


『それって、【賢天主】アリスが介入してきたって事?』


 半透明のリールエルバが世界の改変を食い止めつつ訊ねる。

 歌姫は撒き散らされる壮絶な威力の雷撃を全て押さえ込みながら答えた。


『哲学的ゾンビを統べる冥府の女王――もしかしたら、ズタークスタークだけじゃなくて、あの『マリー』もまた最初からアリスの使い魔だったのかもしれない』


 冥王アリス。哲学的ゾンビを統べる女王にして、かつてフォービットデーモン・押韻ライムの操り手だった末妹候補の一人。

 彩石の儀の参加者でありながら、一切戦いに参加せず、しかし一度も負けず、誰にも姿を見せないという異様なデーモン。


 私も存在しか知らなかったその魔女の思惑が、この状況に介入しているというのだろうか。

 圧倒的な呪力を纏って転生を果たしたマリーであり大魔将ズタークスタークでもある少女は、周囲を威圧しながら浮遊していく。


 歌姫の呪文が直撃するが、大魔将の力を得たマリーはそれを片手で事も無げに受け止める。

 そして手を頭上に掲げると、稲妻状の呪文で天の御殿と肉の世界槍に干渉を始める。大魔将の力で、世界の更新を引き継ごうとしているのだ。


「マリー?! 君は、一体何を――?」


「大丈夫です。ダメダメなガルズの代わりに、私が全部、やってあげますから」


 いつも通りの低い声の調子で、マリーは答えた。

 そして、わずかな笑みを浮かべる。


「みんなを殺すけど、ガルズを殺さない方法。私が、ガルズと一緒にいられない理由。それを全部、壊します――全人類を、哲学的ゾンビにする。そうして、『本物よりも優れた偽物』であるアリスお姉様に世界を救ってもらうんです」


 地獄の別勢力。

 エルネトモランの直下に存在するジャッフハリムではなく、北方の地底都市ザドーナの企みが、そしてマリーが密かに抱き続けていた思惑が、状況を根底からひっくり返していた。


 更に、混乱によってあらゆる加護が一時的に失われた地上に、新たな脅威が出現する。

 世界槍内部を突き破って現れたそれは、途方も無く巨大な翼を持つ【猫】だ。

 無数の小さな翼猫が隙間無く組み合わさって構成された大規模な群体。

 迷宮の審判にしてトライデントの細胞の【神経】たるヲルヲーラだった。


 秩序が崩壊した地上では、もう何が起きてもおかしくは無い。

 それでも、立て続けに出現した災厄に思考が麻痺しそうだった。

 巨大な翼猫が、非実体の天の御殿を突き抜けながら【心話】でエルネトモラン全域に響き渡る声――否、精神干渉波を発した。


『聞きなさい、ゼオーティアの凡庸な人類たちよ。我々多世界連合は、あなた方の有する強大な軍事力と、それに見合わない野蛮さ、文明および知的レベルの低さに対して、深い憂慮と懸念を抱いています』


 アストラル体を揺さぶる強大な支配能力。

 複数人でアストラル体とマテリアル体の両面から心身を構成、維持している私ですら全身にラグは入ってしまうほどの衝撃だった。

 もしアストラル体が希薄かほぼ存在しない哲学的ゾンビであれば、たやすく支配されてしまいかねない。


 予感があった。

 この瞬間を狙って現れた外世界の存在。

 彼らは、必ずしもこの世界に対して友好的なわけではない。


 たとえば、次元を超えて侵略を繰り返す恐ろしい外なる神々アウターゴッズという怪物たちがいる。

 セリアック=ニアの影の中で、【アウターゴッド】の一柱が唸り声を上げて天上の猫を威嚇していた。



『合理的な正義に準ずる事が出来ない愚かな土着民族。善き魂を持たぬ者は、生きながらにして死んでいるのです。未だ悪しき魂しか持っていない状態。それは生きているとは言えない。あるいは幼年期とも言えますね。地上の表現で言うならば、守護天使を選択する前の十二歳。未成熟な子供。大人未満の存在なのです』


 天から降り注ぐ高圧的な声に、複数の反発が上がる。

 それを精神干渉波で黙らせて、ヲルヲーラは続けた。


『原始的な土人の皆さんには我々の導きに従っていただきます。序列化というあなた方のルール、槍神教の正しさを、更なる正義で修正して最適化して差し上げましょう。我々多世界連合が、愚かな泥沼の紛争を繰り返すこの世界を、人類未満のあなた方を、完璧に管理して差し上げます。それこそが真に良き世界への第一歩。そうすることで、あなた方も多世界連合の一員となる資格を得るのです』


「そんなことはさせないです。世界を更新したら、お姉様と一緒に世界を一つにして、お前たちをゼオーティアから追い出してやる」


『何を愚かな。世界干渉の為に必要な知識を全て私から得ているあなたが、私に逆らうと? 大魔将の力を手にして増長しましたか、【左目】よ』


 世界を改変しようとしている沼女マリーとそれを利用しようとしている翼猫ヲルヲーラが睨み合う。

 状況を見れば、協力しているようでもある二人。

 けれど、同じトライデントの細胞であってもその思惑は大きく異なるようだった。互いを利用し、己の目的を押し通し合う。


 だとすれば、それは私たちも同じことだ。

 エスフェイルの束縛を維持したまま、私はキール隊の仲間と共に飛翔する。

 リーナもまた、ミルーニャに神滅具の維持を任せて飛び上がった。


「そんなこと、絶対にさせないっ」


「ぽっと出のにゃんこなんかお呼びじゃないっての! ぶっ飛ばしてやる!」


 人類の峻別。人間とゾンビ、眷属種と異獣、『生きている』と『死んでいる』。

 価値を決定付ける権力。

 特権者として天上から地獄を見下ろすこと。

 それこそが地上の価値観、槍神教の秩序である。


 私は、それを否定できない。

 自分の都合で迷宮を攻略し、『異獣』を殺し続けて英雄と呼ばれている私には。

 妹が何より大切。

 そして、幼馴染たちのことも、私の命と同じくらいに大切に思っている。これは、全く言葉通りに、みんなが私の命であり存在そのものだから。


 私もまた地上の秩序に従って、人に価値を定めて、序列を付けている。

 そんな私に、人の価値を勝手に定める傲慢さを否定する資格は無い。

 だとしても。


「マリーは、私が止める」


 そうしなければいけないのだと、私は直観していた。

 マリーは地上が定めている一つの『世界観』を破壊しようとしている。

 それは哲学的ゾンビたちを苦しめているものだけれど、同時に私や歌姫の幻想を成立させているものでもある。


 立場上その結論とは相容れないし――それ以上に、私はきっと彼女と同じものを見ていたはずだ。

 だとすれば、この左手もきっと届くはず。

 最後の金鎖を握りしめる。どこにいるのかはわからないけれど、メイファーラの存在を近くに感じる。


 羽ばたいて、私たちキール隊は空に飛び立つ。

 そこにマリーから無数の稲妻が放たれた。斧槍をかざして防御結界を張り巡らせるが容易く貫通され、マフスの【祝福】による支援を貰ったテールの盾が一撃で消滅してしまう。


 非実体のテールの身体は負傷したまま、治癒ができない。

 大魔将ズタークスタークの凶悪な呪文は、同じように仮想使い魔として構築されている私たちの身体を再生不可能なまでに崩壊させてしまうようだ。


 黄緑色の雷撃が夜空に踊る。

 死者すら殺す最悪の稲妻は、サリアやアルマとの戦いで弱体化しているとはいえ大魔将に相応しい必殺の呪術。

 一斉に襲いかかってくる雷が構成する呪文は多種多様な形に組み替えられた、全てが別々の術である。対抗呪文では全てに対処する事は不可能に近い。


 その不可能を可能にする至高の『歌』が、私の背後から追い風となって吹き付け、稲妻をことごとく消滅させていった。

 歌姫の頌歌オード――【過去】の呪術儀式がその本質を露わにする。


 死の記憶――その散文的な事実を生贄にして、叙情的な真実をこの世界に具現させる。世界槍を埋め尽くす青い血を上書きして、黒い血が溢れ出す。

 天を衝く槍が、漆黒に染まった。


『天空世界の言い伝えに曰く、その槍こそは紀元槍の枝の一つ、名は『威力』。月に放てば月を滅ぼし、陽に放てば陽を滅ぼす』


 それは究極の一撃。

 あらゆる呪いを凌駕する絶対の威力。

 紀元槍の枝とは世界槍のこと。


 自己相似形を描き続ける『樹』にも似た形をしているとも伝えられている万物の根源、紀元槍。その枝の一つを、『威力』であると定義して撃ち放つ。故にそれはあらゆる威力を上回る、威力という概念そのものである。


『万象貫け――【ゲルシェネスナ】』


 漆黒の世界槍の穂先から巨大な黒の極光が放たれた。

 天の御殿を貫いて闇の彼方に伸び上がっていくそれは、余波でマリーを稲妻ごと弾き飛ばし、巨大なヲルヲーラに突き刺さる。

 しかし。


『無駄です』


 翼猫の群体は、究極の一撃を真正面から受け止めた。


 炸裂した威力に耐えきったわけではない。

 あれは、歌姫の呪文の性質に干渉して書き換えているのだ。


『多世界連合が定義するあらゆる世界群は抽象的な情報空間に記述された情報を参照して存在している情報の系。物理的状態と現象的状態の二相によって表現される世界は、情報の書き換えによって自在な改変が可能です。今や究極的な実在としての情報に干渉できる私にそんなものは通用しない』


 ヲルヲーラは巨大な翼で天を覆い尽くし、天の御殿と世界槍を経由して紀元槍にアクセスしているのだった。こうして地上が混乱し、不安定になる瞬間こそ槍神教の隙を突いて紀元槍の力を掠め取る好機。

 迷宮の審判にしてトライデントの細胞――そしてその本質は次元侵略者。



 その姿はまるで神――あるいは悪魔そのもの。

 異界より飛来し、多次元を侵略し続ける邪神の軍勢だ。

 群体から無数の翼猫が分離、投下されて地上に降り立っていく。

 無差別に人々に取り憑いて、精神干渉波で支配しようとしているのだ。


 それぞれに対抗しようとする人々だったが、無尽蔵に飛来してくる翼猫――外なる神群の数の暴力には抗えない。

 だが、その絶望的な物量に真正面から刃向かおうとしている者もいた。


「ニアちゃん、リールエルバ! 力貸してっ! アズーリアも仲立ちお願い!」


 リーナが箒に乗って飛翔する。私は瞬時に狙いを理解して、左手の中にかろうじて残留していた藍色、緑色、黄色の三色を繋ぎ合わせる。

 暗黒の霧となったリールエルバ、ナーグストールに乗って飛翔したセリアック=ニア、そして箒に乗ったリーナが一つに収束。


 歌姫は言っていた。

 それは融血呪による融合に近いようで違うもの。

 参照先である仲間たちの力が主体となるから、金鎖を砕いてフィリスを全力で活性化させずとも発動できる切り札。


 絶対的な差異から『決して一つにはなれない』という事実を確定させ、そこから想定される幻想を形にする『あり得ない可能性』の顕現。

 【連関合成】。

 光を、色を、響きを、像を、言葉を、複数のものをひとつにする呪文。


 だからそれは、幻想しか参照できない。

 ゆえにこそ強固な呪文となってより大きな力を生み出すのだ。

 藍、緑、黄の明るい三色が一つに凝縮され、その中には含まれない色が燃えるような輝きを爆発させる。


 リーナとリールエルバが力を合わせて作り上げた最強の吸血鬼幻想、エルネトモランの吸血雲。それにセリアック=ニアの【猫】が加わり、新たな力が生まれる。

 真っ赤な気体によって構成された猫が、エルネトモラン上空に出現した。

 巨体といい呪力といいヲルヲーラに引けを取らない。


『たかがアバターと侮らないでいただきたいものですね。私の本来のスペックならば、この世界程度は容易く――ぐっ』


 前足を差し出し、スナップをきかせて敵を招き寄せるかのように足裏で攻撃。

 接触した肉球が輝き、呪宝石の爪が飛び出して翼猫の群体を引き裂いていく。

 猫特有の凶悪無比な攻撃が、翼猫ヲルヲーラをよろめかせていた。腹の辺りで受け止めていたゲルシェネスナが僅かにめり込む。


 三人が生み出した巨大な幻獣の名は【レッドレッデル】――遠い昔、散らばった大地の時代に数多くの邪神を生み出してこの世界から去っていったと伝えられている怪物である。


「ニアアアアアアアアア!!」


『フシャアアアアアアア!!』


 天上で、人知を超えた巨大な幻獣たちによる壮絶な死闘が幕を上げた。

 そして、無数の小さな翼猫に襲われている地上でも変化があった。

 どこからとも無く、手を叩く音がする。

 その度に溢れるのは小さなお菓子。

 

 最初にそれに気付いたのは子供たちだった。

 可愛らしい外見の動物が通り過ぎる度に歓声が上がる。

 何故なら、それは子供たちの大好きなものを落としていってくれるから。

 単純な欲望が喚起され、翼猫の精神干渉波が打ち破られていく。


 透明の号を関する私たちの『先生』。

 常識を超えた白黒兎が、お菓子を乱舞させながら大量の翼猫の侵攻を阻止する。

 更に、帽子の中から小さな黄色い斑がついた桃色の袋を取り出して、その中から水と砂糖を高熱で溶かした濃い褐色の液体を大量に噴射。


 加熱によって分子が壊れ、酸化反応と同時に無数の化合物が生成され、多様な香りと苦味が発生。

 極微な領域における複雑な化学反応によって生じるお菓子作りの神秘。

 確定しない模倣子の振る舞いを外的な意味と文脈によって操作する魔女の呪術が発動し、糖液に包まれた翼猫たちはそのままアバターを構成する情報を書き換えられてお菓子そのものになってしまう。


 粘性の高い濃厚な糖液はかぐわしくとろとろだ。

 霊樹になる林檎の果汁と神々が食するという蜜が混ざった至高の甘味。

 それにつつまれた、精巧な幻獣を模した砂糖菓子。

 降って湧いた贈り物に歓声が上がり、子供たちやお菓子好きの者たちがそれを食べ始める。


「翼の焦げ目がチャームポイントですわ。肉球を押すと爪が飛び出すのでご注意を。ゼリー状ですが。そして皆さん、食後の歯磨きと適度な運動を忘れずに。でないと丸々太った虫歯ドルネスタンルフが誕生してしまいますからね!」


 星見の塔第三十四位、【まじない使いでない師】タマラの真骨頂。

 絶望的な状況を笑い飛ばす冗談みたいな古代の『言語魔術』が、地上をお菓子まみれのふざけた世界に変貌させていく。


 一方で、激しく殴り合う猫を背景にしながら私はマリーに飛びかかる。

 斧槍の一撃を真正面から素手で受け止めたマリーは、鮮やかな黄緑を迸らせながら私を吹き飛ばす。

 入れ替わりで前衛となったキールとテールが雷撃で傷を負い、トッドの絶妙な刺突は虚を突いたものの通用していない。


 大魔将級の雷撃がマリーの頭上で収束し、無数に枝分かれしながら襲いかかってくる。振り下ろされた絶対死。その時、私の背後から伸び上がるものがあった。

 地上にいるプリエステラの両腕が太いオークに変貌し、急速に伸び上がっていたのだ。


 自己相似形を生み出し続ける枝葉は、同じように枝分かれを繰り返しながら小さな自己相似形を生み出し続ける稲妻の鏡写しだった。

 天地からまったく同じように伸び上がった樹木と稲妻が激突し、呪力を放散していく。


 プリエステラは生み出した樫を腕から切り離して必殺の一撃を回避。

 古来からティリビナの民たちを天災から守ってきた守護の霊樹を利用した防御呪術【避雷針】が私たちを守ってくれていた。


「今のうちに!」


 仲間の援護によってマリーに一瞬の隙が生まれる。

 私は、左手に残された最後の金鎖、その九つ目を割り砕く。

 メイファーラの力を参照して、灰色の光を左手に収束させる。

 それは無彩色のグレースケール。

 白黒の濃淡だけで表現されるそれこそは原初の呪い、その具現。

 

 死の無意味さに耐えることは、とても難しくて、悲しい。

 だから私はこう思う。たとえそれが作り事であっても、悲しみから他の何かへと変移させる視座があれば、それは幾ばくかの救いになるだろうと。

 無造作に投げ出された悲劇に時間的秩序を与え、再演を以て物語と成す。

 

「遡って、フィリス」


「邪魔しないで下さいっ」


 無数の稲妻を、大樹が、キール隊のみんなが盾になって防いでくれていた。

 その時間を使って、私は迅速に『呪文』を紡いでいく。

 いかにメイファーラの力があっても、解析は未だ完全ではない。

 けれど、想像でしかないけれど、私の言葉は彼女に届く。


 根拠のない確信があった。

 たとえそれが幻想でも、私の言葉は何かに届くと信じたかった。

 呪文の基本骨子は三つ。

 【哲学的ゾンビ】と【色無しマリー】――そして【骨組みの花】。


「全ての人を哲学的ゾンビにすると貴方は言った。それは地上の理ではアストラル体が無い事が『死』と見なされるから。貴方たちは生ける死人という異獣として迫害され続けてきた。異獣は殺してもいいから」


「貴方だって同じなくせにっ、仮想使い魔は人じゃないっ」


「そう――人が人じゃないものを殺すのは許される。けれど私が人じゃなくなれば、対等な人以外で殺し合うだけ。そこに特権は無い」


「だから何っ、自分は言い訳をしないから偉いとでも言いたいんですかっ」


 大樹の避雷針を焼き尽くし、一条の稲妻と化して私に肉薄するマリー。

 高精度の先読みによって斧槍でかろうじて防御。

 灰色の左手が天眼の力を最大限に引き出してくれていた。


「『心』や『魂』、『アストラル体』といった形の無い、杖的には間接的な観測しかできないものが無いから貴方たちは人ではないと否定される。私がガルズに一度殺されたのも同じ理由。人ではない、生きていないと認識を押しつけられて私は自己を崩壊させてしまった」


「だから、それがどうしたっ」


「貴方もそう! 地上の世界観を押しつけられている。『哲学的ゾンビ』っていうのは、地上人類が協力して展開している世界を塗りつぶす認識――浄界なの」


 呪文を乗せて、斧槍を振り払う。

 愕然とした表情のマリーにマフスによる神働術が突き刺さる。

 呪文を一時的に拡散させる妨害の術だ。

 時間稼ぎの間に、言葉を繋ぐ。


「私は仲間たちによって呪文的な手段で再現された。アストラル界ではなくグラマー界に記述される呪文の構造体。私の夜の民としてのアストラル体は、仮想使い魔としての情報の影や煙のようなもの」


 アストラル体は人間の精神活動、感情、そして感覚などを司る。

 現象世界を知覚する感覚質。

 色を見て、『赤い』とか『青い』とかの『感じ』を捉える感覚器でもある。


 哲学的ゾンビは、色を物理的な光学現象として識別できるが、その『感じ』が理解できないとされる。

 ゆえに杖的には何ら普通の人間そのものだが、邪視的に見ると人ではない。

 おそらくマリーもまた色の『感じ』がわからないはずだ。


 かつて、私――マリー・スーと呼ばれていた頃の幼い私もそうだった。

 あらゆる『繋がり』を見失って、ひとりぼっちで浮いていた。

 色無しマリー。命名したダーシェンカお姉様が何を参照していたのかは知らないが、少なくとも私は色が何か、きちんと理解していたと思う。


 スキリシアの村では色彩について物理的な説明をビーチェや長老様からきちんと教えて貰っていたし、黒百合宮でも沢山勉強した。

 リーナが『アズーリア』としての名前を思い出させてくれてからは、世界に満ちていた『色』が確かな質感を持って感じられるようになった。


「色の感じを知らなかった私は、始めて色を感じた時、劇的な体験だと思った。知識と認識には溝があった。新しい『色の感じ』――アストラル界を知ることができたって思ったよ」


「否定します。私だって色のない地底都市の地下室で育てられました。私は色について全ての事を教えられてから色を知ったけれど、新しい事なんて学んでいません! 全ては脳内で発生している物理的な反応でしかない」


 マリーの頭髪が稲妻そのものとなって輝く。

 頭部から放たれる呪文の雷撃は、沼女として再構成された脳内で発生している電気信号を増幅して呪文として放つ呪術、【思考の根茎】だ。

 枝分かれする稲妻が、複雑に絡み合って大樹と激突、相殺される。


「全ての心的現象は杖的な物理現象に還元可能! ゆえに全ては空虚なんです! 邪視はまやかしですが、唯一肯定できる邪視があるとすればそれはガルズの世界観だけっ!」


「それが、貴方の望みなんだね」


 灰色の呪文がマリーの言葉を解析していく。

 安易な認識による切り分けを拒絶して、目の眩むような閃光を振りまくマリーが絶叫する。


「私はただ、私たちを肯定してくれるガルズの世界観を肯定したいだけです!」


「どうでもいい」

 

 告げた言葉に、マリーが怒気を膨らませる。

 罵声と雷撃が放たれるより先に、相手の感情に言葉を滑り込ませた。


「それらは同じことだから。そんなのはただの言葉。あるいは、概念や様式に過ぎないから」


「呪文使いめ、それもまやかしですっ」


 キールが雄叫びを上げながら打ちかかるが、神経反射を加速させたマリーは超人的な反応速度で回避すると、体格で勝る相手を細腕で殴り飛ばした。

 大魔将の力を得たマリーの実力は未だに底が知れない。アルマやサリアさえかろうじて相打ちに持ち込むのがやっとだったズタークスターク。

 まともにやり合えば決して勝つことはできないだろう。


「私は色んな連関を知って、新しい何かを獲得したと思った。けど違った。だって私は、それより前にもアストラル体を持っていた。スキリシアにいた頃も、フォービットデーモンだった頃も、ちゃんとアストラル界を飛んでいた。それは、私が呪文で飛んでいたから」


 私とリーナの飛び方は似ている。

 共に呪文を使って飛翔する。邪視の適性が彼女より低い私はその分だけ劣るけれど、過程や方法はどうあれ結果は同じ飛翔だ。

 記憶を失った私が一時的に弱体化していたのは、黒百合宮で得た認識まで忘れてしまっていたからだろう。


「私は新しくアストラル体を獲得なんかしていなかった。それは知識で理解していた色彩という言葉や物理的な光を、新しい様式で再解釈したというだけ。方法が違うだけで、参照先は同じ。既知の物事でしかない『光』を認識する視点を変えて、あたかも別の『色の感じ』を新しく知ったかのような『邪視』を手に入れた」


 それは、人の呪術的思考。邪視の呪術に関する才能の開花だ。

 グラフィカルユーザーインターフェースであるアストラル界は、テキストユーザーインターフェースであるグラマー界の言い換えに過ぎない。

 そして同時に、物理現象であるマテリアル界の反映に過ぎず、それら全ては実のところ情報によって記述されるものでしかない。


 どれが『ほんとう』とかじゃない。

 そんなことはどうでもいい。

 どれも真実で事実で本当であり、同時にそうではないからだ。


「地上と地獄。地上と天獄。二つの世界に存在する視座の違いとギャップ。それが全ての原因。遠い過去に起きた言震ワードクェイクが、人類と哲学的ゾンビを分断してしまった」


 多くの異獣グロソラリア――異言の民が生み出された大災禍。

 言震は言語の混乱――呪文秩序の崩壊によって引き起こされる情報的な破壊だ。

 ならば、それは呪文によって修復できる。


「そんな歴史っ!」


「そう、ただの歴史――散文的な叙述。それは語り直して再解釈できる。たとえば物語で、たとえば歌で」


 その瞬間。

 歌姫の呪術儀式が、佳境を迎える。

 最後にして最長の、定型を大きく外れた新曲。

 無意味な音の羅列であった歌が変貌していく。


 それは過去の歌。

 ただの事実や古典的なフレーズを繋ぎ合わせた摸倣と寄せ集めの言葉。

 けれど、それらが生贄に捧げられて、新たな幻想が紡ぎ出される。


 作詞は私。

 曲名は――。


「だとすれば、言語の混沌を絶対言語の秩序によって繋ぎ合わせれば、アストラル体という視座を、地上人類の世界観を否定するのではなく、肯定することで平和をもたらせるかもしれない!」


「地上の世界観に守る価値なんてないっ」


「そんな風に否定して排除して、それこそ槍神教のやり方と同じじゃないの?!」


「だからってこの世界を肯定するんですか? 結局貴方も同じです! 我が身可愛さじゃないですか!」


「そうだね。私はあらゆるものに価値を定めて、『大切なもの』と『それ以外』とを峻別してる。けどそれは、大切な人を守る為。貴方のガルズへの想いと同じ」


 マリーの動きが、一瞬だけ静止する。

 私は斧槍の鉤部分から光の帯を放つ。最も得意な呪術の一つ【陥穽】を、ミルーニャはしっかりと使えるようにしてくれていた。

 虚を突かれ、マリーは頭部を光の帯で覆われてしまう。私を見失って稲妻を乱射するが、全てプリエステラの大樹によって吸い取られていく。


「それが人を殺す為の言い訳だって分かってる。けど、『人』を殺すのは怖いよ。『人』が死ぬのは悲しいよ。それが嫌だから、『異獣』を殺す――『上』も『下』も、それは同じ」


 魔将たちの死に際が脳裏に甦る。誰もがごく普通に意思のある人。仲間の死に怒り、悲しみ、その遺志を無駄にしないために必死に戦っていた。

 リーナはそれが嫌だから『人』を生かし、地上を内側から変える決意をした。

 アキラは異獣と化した『人』を殺して、至極当たり前のように苦しんでいた。


 ――白状すれば、私はそれが怖かった。

 だってそれは、私の欺瞞を暴き立てる糾弾に等しかったから。

 『大切なビーチェ』の為に『異獣』を殺し続ける私が、本当は同じ価値を持った『人』の命で『人』の命を贖っているのだという事実を突きつけられるようだった。だから私は彼に嘘を押しつけて、自分まで誤魔化した。


 結局の所、あれは私の利己的な行為に過ぎない。

 ガルズは私と同じ行為をして、マリーを救えなかったと言っていた。

 でも、それは違うんじゃないか。


 マリーはきっと、嘘の慰めじゃなくて別のものが欲しかったんじゃないだろうか。それは彼女が強かったから。『人じゃない』からこそ、全てを『人』として殺して、そのぶんだけ苦しんで、それを引き受けたかったから。

 なら、それはきっと悲劇じゃない。


「【骨組みの花】の仲間を貴方は殺したって、ガルズは言っていた。貴方を慰める為に死者の霊魂を再現して、それが失敗したとも。けどそれは、貴方がガルズの『死は空虚だ』っていう世界観を肯定したかったからなんでしょう? 死者の言葉を代弁なんかしたら、その世界観は揺らいでしまう。貴方はただ杖使いとして死をありのままの死として受け止めた。そして、ガルズの世界を守ったんだ」


「私はっ――!」


 拘束帯を破壊して何かを言おうとするマリー。

 けれど、言葉にならない。

 稲妻の呪文は大気の中で減衰して消えていく。


 アキラの言葉を聞いて、私はこの上ない程の救いを感じた。

 恨まれているどころか感謝されて――胸に暖かいものが広がるようだった。

 私が彼を救ったんじゃない。彼が私を救ってくれた。

 事実はいつだって双方向の解釈を許す。なら、ガルズとマリーも同じだ。


「仲間の死を引き受けて、ガルズを守ろうとした。そんな貴方の『振る舞い』を、私はとても尊いと思う。それはきっと、誰の目にも『心』として映る」


 私の言葉を聞いていたガルズが、捕縛されたまま叫ぶのが聞こえた。

 泣きそうな呼びかけに、マリーは呆然としたまま動かず、答えない。

 

「私はやっぱり地上の人間だから、『尊い』と価値を付けてしまったものを否定なんてできない。だから、私に――私たちに任せて欲しい」


「任せる――?」


「世界を平和にする。地上の人間として地上の在り方を変えてみせる。それが私たち、呪文の座の願い。【チョコレートリリー】の目的」


 天では幻獣がぶつかり合い、地上では人々が戦っている。

 誰もが、それぞれの意思を胸に抱いている。

 その多様な世界を全て否定するやり方では、結局『哲学的ゾンビの槍神教』が出来上がってしまうだけなんじゃないかと、私は思う。


 だから私はこの歌を信じたい。

 この光景を信じたい。

 そして、魔将たちの誇り高い死もまた、同じように。


「きっと、『上』も『下』も同じなんだと思う。きっと、槍神教って最初は共同体を維持するためのシステムだったんじゃないかな。外敵を排除して、仲間を守り、内部の秩序を厳格に維持し続ける――その果てが、この天の獄」


 結果として、それは序列化と排除の恐怖によって人を縛り、管理する余りにも清浄で潔癖な世界を作り出した。

 けれど、その中でも意思は完全に死んだりしていない。

 まだ人は、ちゃんと『生きて』いる。


「哲学的ゾンビは杖的には『生きている』けど邪視的には『死んでいる』。なら、私たちは呪文使いとして、その溝を埋めて、断絶を繋ぎ直す。視点をひっくり返す言葉遊びだけが、私たちにできることだから!」


 フィリスがその本領を発揮する。

 世界の色調が反転して、白が黒に、明が暗に、次々に切り替わっていく。


「まずは、物理的現象から間接的にアストラル界を観測する邪視の再現呪具、『眼鏡』で『哲学的ゾンビにはアストラル体が備わっている』と定義し直す!」


 ミルーニャとリールエルバが仕掛けたサイバーカラテアプリに含まれていたプログラム。それは、眼鏡に表示される映像を書き換えて人々に新しい現実を見せる。眼鏡をかけていない人には幻覚ウィルスが作用していく。

 全ての人がその罠にかかるわけではないけれど、まずは一手目。


「そして、個人的な体験から間接的に物理的な事実を知らしめることで、『人の心は脳の活動によって生まれる煙や影のような随伴現象でしかなく、アストラル界など幻覚に過ぎない』という認識を広める!」


 それは杖使い、鉄願の民、そしてサイバーカラテ使いの理念。

 絶対ではないけれど、その冷たい確信は人に理性をもたらす。

 矛盾した知識と経験に人々は混乱し始めた。

 けれど、それが同じ一つの事なのだと、響き渡る過去の歌が幻想を知らしめる。


「『生きながらにして死んでいる』――今までと同じ言葉。解釈をひっくり返しただけ。だからこれは、槍神教への叛逆じゃない。秩序は秩序で覆せる」


 それは二重スリット実験で杖使いが観測する極微レベルでの粒子の振る舞いのように。量子力学と導波理論のように。

 重ね合わせ。どちらとも言える。どちらでも辻褄が合う。稚拙で強引で本質から都合良く目を背けたアナロジー。

 それは結局、現実の追認。

 そして人が認識できるのは結局それのみ。あとは頭に思い浮かべた幻想だけ。


 第五階層で見たアキラは実体としての性質が余りにも強く、その他の性質が酷く希薄だった。それはカインを殺した事で精神が弱っていたからだとばかり思っていたけれど、もしかしたら彼もまた哲学的ゾンビ――沼男スワンプマンだったのかもしれない。


 極限状況に置かれた人は容易く歪み、暴力的になる。

 ならそれは環境の問題だ。

 必要なのは、世界を変える事。

 人の数だけある膨大な認識と言葉、その連関を、私たちは呪文で変幻自在に揺り動かす。


 その為に、どれだけの『世界観』が必要だろう。

 引き裂かれた世界を一つにするために、どれだけの願いが、祈りが、言葉が必要になるのだろう。

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