3-98 澄明なる青空に①
彼方から飛来した光が、過去に遡って自分の歴史を貫いていく。
理解不能な現象。圧倒的な絶望。根源的な恐怖が喚起され、死を意識する。
一瞬のうちに一生の記憶を――遠い昔を回想していた。
そこは、色の無い地底にある閉じられた一室。
『彼女』は、そこで育てられた。
「さてマリー。色とは何でしょうか?」
幼い『マリー』は意味がわからない、とまず首をかしげた。
色は色じゃないのかな、と思ったけれど、『お姉様』が当たり前の事をわざわざ問いかけてくるだろうか。
もっと良く考えて答えを出さないと。
けれど、考えて見れば、色が何かということについて、考えた事が無いという以前によく知らないのだった。
だって、『マリー』の育った世界には色が無い。
色彩の無い大地の底。
知っているのは、高い所から降りてくる『明るさ』と『暗さ』、そして『濃さ』と『薄さ』だけ。
色が無いのは、狭い世界の中で一番大きな存在であった『お姉様』もだ。
「だからこそ私はこのようなおかしな『号』なのでしょうね」
と言っていたけれど、よくわからない。
「ではまず、知識から。それが終わったら実践に移りましょう」
そして、色についての勉強。光についての勉強。杖における自然科学的な説明と、邪視や呪文における人文科学的な説明の両面から学び、更に使い魔の観点からそれらを結ぶ関係性やそれが人や社会に与える影響についても学んだ。
相変わらず色の無いその世界で、ひたすらに色について知っていく。
色は何か、という質問をされたなら、どのような文脈であっても正しく答える事ができる。
勉強の時、彼女はいつも指から『振り子』を揺らしていた。
いつだったか、『お姉様』がその道具のことを説明してくれたことがある。
自己相似形を生み出し続ける再帰的な紀元槍の逆位置。
純粋な乱雑さ。それを、紀元錘と呼ぶのだと。
『お姉様』が持っているのは、自ら作り出したその『制御盤』であるらしい。
世界に既知が増えれば増えるほどそこからは純粋なランダムは見出せなくなってしまう。
秩序を貫いて世界を更新する紀元槍には決して勝てない、矮小な対存在。
言っている事がわかるようでわからないのはいつものこと。
授業の後に、聞いた事のない『
『お姉様』は朝も夜も無い場所に帰っていく。
それを見送って、ひとりぼっちで地下室の中。
毎日まいにち、ずっと一人。
色のない世界に存在する光は、『お姉様』だけだった。
どれだけの時間が経過しただろう。
その域に至ったとき、『お姉様』はそろそろいいでしょう、と言った。
そして、絶えず姿を変える振り子のとがった先端を(次の瞬間には丸くなっていた)こつんとこちらの額に当ててくる。
全身が、揺れたような気がした。
自分が自分ではなくなってしまうような感覚。
恐ろしい、とても恐ろしい予感。
このまま、『お姉様』がどこかにいってしまうのではないか。
そんな気がして、朦朧とする意識を必死に繋ぎとめながら色の無い『お姉様』に縋り付く。
彼女は優しく微笑んでくれた――いつも通りに。
けれど、その口から発せられたのは、別れの言葉。
「貴方はこの暗闇から旅立たなくてはなりません。貴方の持つ巨大な運命を狙って、これから災厄が貴方を襲い、確実な死をもたらすでしょう。それを阻止するために、私は貴方の存在を揺らがせる」
借用したその『猫に名付けられた名前』が、災厄の矛先をずらす助けになればいいのですが。
『お姉様』の言う事はよくわからない。
けれど、万能にも見える彼女にも抗えない何かがあって、そのために私はどこかへ逃がされるのだということはかろうじてわかった。
運命の調律者――世界の修正力。
第三の創生竜は運命を司る。守護竜クルエクローキは世界の揺らぎを修正しようとする秩序の象徴。
たとえば世界を脅かそうとする誰かがいたら、なんとしても無害なうちに殺そうとしてしまう。
「いずれ、『その時』が訪れたら貴方には己の為すべき事がわかるでしょう。だから、それまでは静かに守護竜から隠れていて」
視界の端から端まで振り子が移動して、次に目が覚めたとき、知らない場所にいた。空が青い。太陽が眩しい。人ごみにはありとあらゆる雑多な色彩が溢れている。今までの色の無い部屋とはまるで違う、世界の――地上の色。
――特別な驚きは、何も無かった。
だって、『お姉様』はありとあらゆる情報を与えてくれた。
蓄積された『白』の知識、認識を切り分ける『黒』の言葉。
光を受容した眼球が視神経を通じて視覚野を反応させること。
生化学的な人体と言葉の関連を、間違いなく知っている。
杖使いとしての優れた適性。
光についての全ての物理的知識を有していた『マリー』にとって、新しい体験など何も無い。
そのはずなのに。
目の前で、あるはずのない振り子が揺れるのを幻視した。
次の瞬間、地上のありとあらゆる人がそうであるように、肉体と重なるもう一つの体――アストラル体が形成されていく。
エーテル体、魂魄、体内呪力――そうした『地上人にとっての当たり前』が次々と備わっていき、『マリー』はそうしてどこからどう見ても地上人そのものになっていた。
胸に、感動が溢れていく。
世界には未知が溢れている。知識だけでは得られなかった、この感覚はなんだろう? 表面的な言葉ではない。色という体験の『質』が『心』を奮わせる。
自分の体もまた、色彩に溢れている。
呆然としていると、誰かに声をかけられた。
人の良さそうな、穏やかな男性。
『金色』の瞳が、なんだかひどく印象的だったのを覚えている。
街中で座り込んでいる小さな女の子を案じているのだろうか。
手を差し出して、お父さんとお母さんはどこかを尋ねられた。
『お姉様』は何ていっていたっけ。確か。
「お空にいます」
「ご、ごめん! つらい事を思い出させちゃったね――」
「えるねともらん? なる都市の一番高い位置にある第一区とやらにいるとかいないとか。なーんか、小さな私を不憫に思って湖中穴から投棄したとかなんとか」
まさしく、その場所こそがエルネトモランの第一区だったのだけれど、それはともかく、金色の目をした男性は愕然とした様子で、
「え、ええ? まさか捨てられたって事かい? よく無事だったね――いや、それより通報しないと」
と義憤に駆られたように拳を握る。
慌てて制止した。
「あ、やめてやめて。『お姉様』に迷惑をかけたくないんです」
「そうか、君は家族想いなんだね」
なぜか、男性は目を潤ませていた。
そんなにひどい仕打ちをうけたのに、とか、一人でも大切な人が家族の中にいてくれればそれは救いになるよね、わかるよ、とか良くわからない独り言を呟いて勝手に納得しているようだった。
良くわからないが、多分この人頭悪いんじゃないかな、と『マリー』は考えた。けれど、同時に人が良くて信用はできそうだ。それならば。
「あのー、お願いが」
それは直感だった。
なんとなく、自分は彼といるべきだと、そう思ったのだ。
色々な不都合は、それまでに得ていた知識と杖の呪術、そして男性が持っていた謎の権力によってどうにかなった。
クロウサー家、という権力者一族の一員だと知ったのはかなり後になってからのこと。いずれにせよ『マリー』は、そんなふうにして新しい生活を――逃亡と隠れ潜む日々を始めたのだった。
「僕はガルズ。ガルズ・マウザ・クロウサーっていうんだ」
「どうも。マリーと言います」
――運命に追いつかれる、『その時』まで。
【骨組みの花】なんて気取りながら、仲間たちと過ごす時間は楽しかった。
それはもう、楽しかったのだ。
だから、何もかもがめちゃくちゃになって、全てを失ってしまった第六階層の絶望の闇の中で、こう思ってしまった。
もう、待つのは疲れた。
いつか『運命』という名の終わりが自分を喰いにやってくるのなら、早く『その時』とやらが訪れてくれればいいのに。
耐え続ければ、いつかは疲れる。
その辛さがわかると思ったから、『マリー』は苦しむばかりのリオンを、殺してくれと懇願するギザンを、槌で潰して、鑿で貫いた。
それが合理的な思考だと考えたからだ。
『お姉様』の下で学んだ杖的な思考の枠組み。
楽にしてあげることこそ正しさだと判断して仲間たちを『殺してあげた』。
けれど、その行為はどうしてかひどく彼女の心を苛んだ。
本来自分には存在しないはずのアストラル体が、『心』という形の無い何かが悲鳴を上げている。
それがこの地上の常識なのだと、初めて実感した。
――所詮、自分は地上の人間では無かったのだ。
仲間ごっこ。【骨組みの花】なんて、調子に乗って命名した自分の愚かさを、仲間たちはきっと滑稽に思っていたに違いない。
ガルズが賛成するから仕方なく同調する振りをしていただけ。
仲間を殺すなんて事をした自分は、もう地上の住人ではいられない。
ガルズが霊魂を具現化して行おうとした慰めさえ、もう苦痛で苦痛で仕方が無くて、たまらなく耐え難い。
――優しくしないで。私は、最初からガルズたちの仲間じゃなかった。
最後に残っていた骨花の使い魔に自分を攻撃させて、アストラル体を粉々に砕いた『マリー』は、そうして色々なものを失った。
もしかしたら、最初からそれはまやかしだったのかもしれない。
外見上は何の変化も無く、『マリー』はかつてのような状態に戻った。
けれどもう無いはずの『心』を苛む痛みは一向に消えなくて、それどころか益々苦しみは増すばかり。
ガルズにまで更に苦しみを与えてしまって、何もかも嫌になったその時。
そいつは前触れも無く現れた。
ねじくれた角と翼を持ったどぎつい色の【猫】。
こことは違う世界からやってきた、審判者を名乗る存在。
ヲルヲーラと名乗り、ガルズを甘言で唆したそいつは、ガルズには内緒で【左目】である『マリー』に話を持ちかけてきた。
『このまま地上に挑めば、【右目】は確実に死ぬでしょう』
自分に何かをさせたいのだと、すぐにわかった。
【脳】からの指令。それとは別に、【神経】であるヲルヲーラも何らかの思惑を持ってトライデントという組織に所属している。
多世界連合。そこから送り込まれた不可解な
『成功しても失敗しても彼は壮絶な苦しみの果てに死んでしまう。ガルズ・マウザ・クロウサーを救いたくはありませんか。私ならば、死ではなく生に満ちた新しい秩序で世界を更新することができます』
世界など終わって欲しいと思っていた。
けれど、ガルズがそんなふうに苦しんで死んでいくのはどうしようもなく嫌だったから、その言葉に頷いた。
口では彼と同じように終末と滅びを望むふりをしながら。
その願望は決して嘘ではなかったけれど、それよりも大事だと思えるものができてしまったから。
だから。
【骨組みの花】副長であるマリーは、乱戦の中、たった一人で聖女クナータに挑み、あっけなく敗れて死に行く中で、今が『その時』なのだと確信した。
『未来から過去へと時空を貫通していく弾丸』が生まれた瞬間の自分を、そして存在の起源を穿つその直前。
発動した渾身の禁呪が青い流体で藍色の記憶を包み込み、古い古い灰色の過去を現在と融け合わせた。
目の前に広がっていくのは、目の醒めるような朱色の夢。
紀元錘に存在を誤魔化される前の、本来の自分が『今』に現れる。
運命という名の形のない創生竜が、世界の秩序を維持するために自分を殺しにやってくるのがはっきりと予感できた。
運命に追いつかれた。
けれど、それよりも早く、速く、なにより先に。
巨大な稲妻が、世界を切り裂いてマリーを焼き尽くし、消滅させる。
そして、分岐したもう一つの稲妻が模倣子と反応し、新たな存在が誕生する。
類似を凌駕した完全なる同一の、けれど同じではない個体。
それは転生。
『沼女』として復活を果たしたマリー=ズタークスタークが、地上に閃光を撒き散らす。
死者が蘇り、過去が現在と混濁しつつある第一階層――エルネトモランは、混沌とした狂騒に満ちていた。
天地から溢れる死者たちは実体、非実体を問わずに地上に次々と出現していき、それぞれの信念に従って行動を起こす。
槍神教の秩序に疑問を抱きながら死んでいった修道騎士たちがガルズやエスフェイルに加勢し、地上に同胞を残して滅んでいった異獣がその身を盾にして市民を守ろうとする。
探索者たちは利益と信条とを天秤にかけながら状況を見定め、サイバーカラテの技を手にしたごく普通の人々が連携して降りかかる危険を振り払っていく。
人々が抱く無数の世界観が顕在化し、泡のように浮かび上がっては夢まぼろしのように弾けて、空を無数の輝きが乱舞する。
もはや星と霊魂の区別などつかない。
時の尖塔は崩壊し、中にいた者は残らず外側にはじき出され、新しく生まれていく足場の上に放り出される。
第一階層を塗り替えていくのは、流動する霊魂の世界。
世界槍から伸びる無数の枝は泡や繊維質、奇怪な肉腫に変貌していた。
荘厳な天の御殿があらゆる扉を開放しながら地上を睥睨し、天を衝く世界槍は失われた死と再生の天使と同化しながら世界を更新していく。
序列十三位――つまりは異獣の天使ハザーリャは深海を司ると言われている。
細かい網目状の
海綿質の繊維に変貌していく世界槍の細部は、気の遠くなるような精緻さだ。
それは無限の再帰的形状。
正方形をより小さい合同な正方形に九分割し、中央の正方形を取り除く。
同じ処理をそれぞれ残りの八つの正方形に適用していくことで、自己相似な形を作り上げ続けているのである。
それが立方体、無数の細胞となって世界槍を隙間だらけの構造体にしていた。
零次元は座標軸が無いため、表現不能な原点という抽象的概念である。
線である一次元、面である二次元、立体である三次元と軸が増えていき、ようやくそれらは三次元の住人にも認識可能になっていく。
二次元よりも大きく、三次元よりも小さい次元。それは、表面積が増加して無限大に発散していくが、体積は逆に極限の零へと収束していく。
そして孔だらけの空洞に、非実体の呪術の血液が流れ込んだ。
天の御殿からあふれ出した霊魂が青い流体――融血呪によって一つになり、ハザーリャを構成する海綿質繊維に浸透して膨張させていた。青い血によって屹立する世界槍は無数の非実体の触手を蠢かせながら伸び上がっていき、天の御殿の中に侵入すると死の記憶を強制的に書き換えていく。
死者の復活には際限がない。このままいけばエルネトモランは蘇った人々――十三番目の眷属種である【
それを推し進め、地上の秩序を破壊しようと目論むガルズとマリー、それに便乗して聖女を殺害しようとするエスフェイル。
更には【死人の森の断章】を使って『世界の更新』処理に割り込みをかけ、こちらに有利になる戦力を優先的に復活させつつ、ガルズとエスフェイルの術を打ち破ろうとするリールエルバ。
「正直、あの二人を同時に相手にしながら天使を送還するのはかなりきついわ。どっちかだけでも倒してくれるとありがたいんだけど。姉様はそう仰っています。セリアもそう思います」
叫びながら、群れをなして攻めてくる大量の人狼を殴り飛ばしていくセリアック=ニア。仲間たちもまた協力してくれていた。
歌姫の高位呪文が強力な大狼たちを薙ぎ払っていくが、次の瞬間には復活して襲い掛かってくる。きりがない。
『降りかかる火の粉は私が全て払う! アズはエスフェイルをっ』
ガルズとエスフェイルのどちらかさえ倒せれば、あとはリールエルバに任せられる。なら、やることは一つだ。
私は神働装甲を変形させながら新たな形態に変身する。
宣名によってかつて無いほどに呪力を高めていた私は、翼持つ牡鹿でも霊長類でも
それは、
神働装甲が影の中に沈み、そのシルエットが重鎧のものになる。
鎧と共に黒衣までも脱ぎ捨てていく。
露わになったのは、霊長類体を元にしながらも肩甲骨のあたりから青い翼、頭から黒い枝角を生やした私の姿。
今の髪と瞳の色はミルーニャを参照した純白と赤。服装も彼女とお揃いだ。
半幻獣形態。それが自分の名を掌握した、私の新しい自己像。
「ぬ――? あの面差しは、いやまさか、そんなことが」
歌姫の呪文を相殺しながら、エスフェイルが私のほうを見て小さく呟いた。理由は漠然と予想がつく。
けれど、それには構わずに私は戦意を高ぶらせていく。
雄々しい戦士として。妖しき魔女として。
邪視代行機能を搭載した斧槍【闇夜の希望】を、月光のように淡い白に輝く左手を前に出し、両手で構える。
対峙するのは、左手を暗い緑の刃に変えて二本足で立つ人狼、エスフェイル。
上空ではガルズが放つ金眼の邪視を回避してリーナが奮戦している。
「かわいいじゃねえの」
「かっこいいですよ、アズーリアさん」
カインが茶化すように、マフスが心からの賞賛を込めて言った。
リールエルバが一時的に顕現させた私の味方たち。
私という存在と紐付けされたキール隊の五人は、現世の理を歪めないように仮想使い魔として実体化させられている、あくまで一時的な存在だ。
つまりは、私と同じ。
私たちは六人一体の幻獣となって夜空に飛び上がった。
「行くぞアズーリア、一番槍はお前に任せる」
「了解っ、いつも通りで!」
キールが【鼓舞】を発動させながら私を支援し、その呪力を纏って突出した私は【影棘】を掻い潜りながらエスフェイルに急降下しながら刺突を繰り出す。
迎え撃つエスフェイル。呪文殺しの剣が致命の一撃を放ち、斧槍とぶつかり合って呪力の稲妻を撒き散らす。
「今度は易々と貫かれたりはせんぞ!」
テールが乱射される黒い棘を防御しながら突進する。
護衛として付き従っていた人狼の副官たちを盾で薙ぎ倒しながら、槌矛の一撃をエスフェイルに叩きつけた。
重装備の一式をマフスが照明の呪術で輝かせており、エスフェイルに対する防備は完璧だった。
更には的確なトッドの槍による支援が繰り出され、たまらずエスフェイルは後退する。
「学習しねえな、頭上と足元に要注意だ!」
足元で閃光と衝撃。カインの仕掛けた罠術がエスフェイルの動きを止める。
私に続いて宙から舞い降りたキールが体勢を低くしつつ槌矛の一撃を精確にエスフェイルの膝裏に命中させ、そこに私の影の触手が襲い掛かった。
呪文を断ち切る致命の剣、【
「何だと、どういうことだ!?」
「もうその剣は何度も見た。私一人じゃ対応しきれなかったけど、一度ユネクティアに『斬られた』経験を基にしてみんなが解析を進めてくれたの」
そして今、ようやく完了した。
私の胸で輝く幾何学的な図像。三角形を中心にしながら自己相似形を描く呪文。
ミルーニャ=メートリアンが開発した【
「その呪術は、もう効かない」
【
対抗呪文の構築合戦には終わりが無い。
対抗呪文に対抗する呪文、それに対抗する呪文、更にそれを打ち消す呪文――というように、対策の立て合いが際限無く続いていくのだ。
それを制するのに必要なのは、言語魔術師としての技量、相手の呪文を理解するための情報、そして多様な呪文に対抗するための広範な知識――あるいは複数分野の専門家。それはたとえば黒百合の子供たちのような。
エスフェイルは先ほどから他の魔将たちの力を復活、融合させて次々と解き放とうとしているが、それらは全て打ち消されていく。
エスフェイルの使う『魔将の力を蘇らせる』呪術を解体したのだ。
あれだけの強力な個体たちを実体として復活させるだけの猶予なんて与えない。
そしてエスフェイルはかつて私がフィリスで解体している。いかに肉体の組成を変えようとも、この距離で斧槍を叩き込んで内部から直接解体すれば死を掌握する人狼の魔将といえど完全な滅びは免れない。
一方、空の上で繰り広げられているリーナとガルズの戦いも決着を迎えようとしていた。
目にも留まらぬ速度で金色の視線を回避し、死霊が生まれる泡を全て潰していくリーナ。
地上から呪石弾を放っているのは
立て続けに発射される呪石弾の対空砲火を、ガルズはかなり長い間防御し続けていたようだが、ついに限界が訪れた。
ミルーニャの一撃で体勢を崩したところにリーナの【空圧】が命中。
世界槍の壁面に激突し、両手を広げた状態で磔にされる。
リーナが手にしている小さな盾のような道具は、ミルーニャが託した【成し得ぬ盾】の模造品だった。
互いの存在を完全に固定しながら、リーナが叫ぶ。
「ようやく、捕まえた」
「離してくれ、リーナ! 僕は地上を、この地上を壊さなければならない! 誰かがやらなければならないんだ! 君だって『上』が絶対の正義で、『下』が絶対の邪悪だなんて事を信じているわけじゃないだろう!」
叫ぶガルズの金眼は神滅具までは打ち消す事ができない。模造品とは言え、あれはミルーニャが改良を加えて作り上げた本物に迫るかあるいは凌駕しうる逸品だ。
魔将との戦いを乗り越えて秘められた才能を完全に開花させたリーナは、ガルズを完全に無力化していた。
「そうだね。正しいとか間違ってるとか、善とか悪とかで言えば、きっと地上の方がひどいんだろうなーって想像はつくよ」
リーナは少しだけ目を伏せて、言葉を探すように間を置きながら続けていく。
「――あのね、ガルズがあの時、会場でサイリウスお爺様に殺されたじゃん。沢山の人が『かわいそう』って言いながらガルズを殺すことに賛成して――私、あれがすごく怖かった。あれってごく普通の感性で、状況によっては人を助けるための原動力にだってなる感情でしょ? それがガルズを殺しちゃうんだってことが、人はそういう本性を持ってるんだってことが、どうしようもなく恐ろしかった」
人間の本性――それは善でも悪でもない。
優しさが人を殺し、悪意が人を救う。道理にそぐわぬ現実は存在し得る。
結果が事象に後付けで意味を付随させるだけに過ぎない。
「ねえ、ガルズが新しく作り出した世界って、全ての人が死んでしまう世界? それとも死んだ人が何も考えずに徘徊したり、周囲の動くものに襲い掛かるだけの世界? どっちだとしても、そんなのは極端すぎるし勝手すぎるよ。地上の人が私たちクロウサー含めて、許されない悪いことをしているんだとしても、だから単純に全員殺して裁くのって、何か違うと思うんだ」
リーナは、帽子に何気なく触れて、そこで何かを思いだしたかのように小さく息を吸い、それから帽子をぎゅっと握った。
何かに想いを巡らせるようにして、目を瞑る。
私は、クロウサー家の娘としてのリーナを知らない。
きっと、ガルズだけじゃなくて、色々な積み重ねや想いがそこにはあるのだろう、と思った。
「そして、もし死んだ人が生き返る世界になるだけなら、きっとみんなは同じ事を繰り返すだけなんじゃないかな。既存の秩序を破壊して、新しい何かを創造するって、確かに凄い事だと思うけど――それだけで世界の何もかもを変えるのって、難しいよ。悪いところを変えたらもっと悪い結果になるかもしれないし、その逆だってあるかも」
地上で、拘束されたエスフェイルが目を見開く。
半人狼の特徴を有した老女が、血溜りに沈む霊長類の女性に縋り付いて涙を流している。黒い棘の流れ弾が命中したのだ。
幸い、それを見つけたイルスがすぐさま駆けつけて救命措置を行う。
かろうじて一命を取り留めたらしい。安心したように黒檀の民の医療修道士に礼を繰り返し述べる老女は、拘束されたエスフェイルを見て、表情に強い怒りと憎しみを浮かべる。人狼を迫害した地上の人間に向けられる感情。同胞同士を憎しみで結んでしまう暴力。似たような光景が、至る所で繰り広げられていた。
「人類の変化とか、世界の更新とか、そういうことはわかんない。地獄の方がもっといい世界を作れるのかもしれない。けど、酷い事はやっぱり酷いよ。人が死んだら悲しいよ。人が人を傷つけて、殺しちゃうことだって、やっぱり怖いよ」
リーナは探索者だ。
だからお小遣いを稼ぐ感覚で、『異獣退治』をした事だってあったはず。
彼女の経験と想いを、私は正確には知らない。
だから、そんな風にして優しい言葉を口にする彼女を見て。
――やっぱり、リーナとは仲良くできても相容れることはないんだろうな、と私は思った。
「だからもう誰にも死んで欲しくないし、ガルズにもこれ以上誰も殺させない。捕まえて、ずっと生きててもらうから」
「そんなこと、奴ら槍神教が許すとでも?」
弱々しく笑うガルズを強い目で見据えて、リーナは答えた。
そして彼女は、自分の道を決定的に選択する。
「私、【空使い】リーナ・ゾラ・クロウサーは、亡きサイリウスお爺様の後を継いで、クロウサー家当主になることを宣言する!」
愕然と目を見開くガルズ。
彼が忌み嫌い、滅ぼすと誓った血族。
リーナは、それそのものになると言っているのだ。
「殺して楽になんかしてあげない! クロウサー家に専用独房を作って、ずっと私の目の届く所で拘束してやる! 死ぬまで、私が、幽閉して監禁するから!」
誰よりも自由を愛する少女は、その口で不自由を他者に強制した。
箒を滑らせながら、空中を移動するリーナ。
ガルズとの距離が縮まり、勢いのまま胸元を鷲掴みにする。
「だから、私のことをちゃんと見てて。私、馬鹿だからきっと一人じゃ間違えちゃう。世界中に散らばった血族の人たちの言いなりになっちゃうかも」
「リーナ、考え直すんだ! クロウサー家は滅ぼすしかない!」
「それが正しくても、今生きている人を殺すのは駄目だよ――ううん、私が嫌なの。だからやらせない。ガルズにも、そうじゃない方法を探してもらう。これは決定だから! 従ってもらうし、嫌がるなら無理やり押し通す!」
高みからの傲慢な物言い。
ともすれば幼く身勝手な、偽善にも解釈可能な意思。
けれどその性質は、あるいはクロウサー家当主という雲上人の中の雲上人に相応しいものかもしれなかった。
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