3-97 それは、世界がこんなにも光に満ち溢れているから③
ついに時の尖塔内部に侵入を果たしたガルズとマリーがリーナと激しくぶつかり合う。いつの間にかリーナはかつてとは段違いな程に成長を遂げていた。
凄まじい速度で飛び交いながら【空圧】を放ってマリーを吹き飛ばす。
吸血鬼の軍勢、修道騎士、自動鎧を同時に相手取りながらリールエルバの
しかし小さな体が次々と重なり合って元の大きさに戻ったセリアック=ニアと私、そして遠くから駆けつけてきたプリエステラが加勢すればその拮抗も崩れる。
その時、空で巨大な咆哮が聞こえた。
それは
あらゆる呪文を両断する剣によって、魔将ユネクティアはついに歌姫の極大呪文を打ち破ったのだ。
歌姫の追撃を振り切って、光となってユネクティアが私の前に立ちはだかる。
影の触手――光と闇が曲線を描いてセリアック=ニアとプリエステラを吹き飛ばし、最後に私に襲い掛かる。
真っ向から受け止めた。
足下から這い上がった闇が私の全身にまとわりつき、漆黒の鎧が実体世界で鈍い光を放つ。
反対に、今度は私の影が黒衣を纏ったような輪郭になった。
呪術抵抗と物理防御の交換。
私の新しい装備は状況に応じてどちらを重視するかを選ぶことができる。
実体化した影を重装甲が受け止め、左手が作り出した宝石が光線を閉じ込めて拡散させ、不可視化された本命の感応の触手を見切って迎撃。
だがそれすらも囮に過ぎない。
ユネクティアの黒衣から煙を吐き出す乱杭歯が、細長い首が、獰猛な犬と蜥蜴を合わせたような奇怪な胴体が出現する。
凶暴な使い魔は私の束縛でも止めることができない。
その上、ユネクティアは暗い緑色の葉――呪文殺しの剣である【
更に、呪文竜がいない今、浄界の発動を妨げる者はいない。
「
それは一見して世界に何の変化も齎さないが、『影』であるユネクティアの存在が目に見える世界全てに浸透していくのを感じた。
巨人。最速にして最強の邪視者。
遅い呪文では対抗する術は無い――それが常識的な判断だ。
けれど、と私は呟く。
可動式の左手部分の篭手が開放されて、露わになった左手の薬指を摘むと、そのまま剥がした。
感じたことの無い痛みが、離れた場所にいる誰かを参照する。
続けて小指の爪も無理やり
二度とやりたくないと思うほどに痛かった。
それでも、純白の輝きは彼女との何より速い繋がりを感じさせてくれる。
引喩――知らなければ無意味だけれど、知っている者に対しては呪文効果を加速させることが出来る効率化の手法。
それは『
その意味内容はここには存在しないし目に見えない。
目に見える邪視が全てじゃない。形になった呪文だけが全てじゃない。
意味の間を繋ぐ『行間』の呪力。構造と連関、語りえぬ雄弁、静謐なる力。
『紀』であり『神話』であり『言理の妖精』であるもの。
私の――私たち黒百合の子供たちが共有する幻想の力だ。
「
第八の金鎖が開放される。
左手小指から出現した凍結の呪力が煙を吐き出す異形の怪物を停止させ、薬指から出現した眩い光がユネクティアの神速の斬撃を硬質な音と共に弾き返す。
ミルーニャと繋がった私の左手薬指から出現した呪具こそは、私の新しい杖。
痛みが繋ぐ、私の邪視。
出現したのは長大な柄、白銀に輝く斧の刃、反対には鉤、そして中央に鋭角の穂先――優美さと力強さを併せ持った斧槍。
舌獣イキューを素材にした、舌という部位による邪視能力を高める機能を持つ。
舌は味を感じるだけの器官ではなく、調音器官でもある。
舌と言語には密接な繋がりがあり、語源が同一である言語も数多い。
更には手を持たぬ多くの動物にとっては殺菌と治療の為の器官でもある。
指を持たぬ非霊長類系の種族にとっての指。
すなわち、器用な触手。私にとって最も馴染み易い邪視の部位。
痛覚を有する痛みを捉える器官として、私とミルーニャを繋ぐ場所。
それは呪文を加速させ強化する邪視。
それは私が最も扱いに習熟した触手斧槍。
それは言葉を司る杖。
「左手薬指、
参照先である原典が存在しない、ミルーニャが一から創作した幻想の神滅具。
圧倒的強度と速度、加えて解析が困難な斧槍が剣を弾いた。
自在に歪み、しなり、触手のように軌道を変えながら突き、払い、引っ掛ける。
言葉が音になるより早く呪文を『知っている』舌が発動を加速させ、引喩の効率化が呪文の遅さを補い、多重化した意味が手数を増やしていく。
月の白に輝く斧槍が、闇色の黒衣を両断した。
「やはりそれは星見の塔第二位、ダーシェンカの【燦然たる珠】と同じ引喩呪術。君はどうやらその弟子らしい――全く、第二位と第三位の弟子と同時に戦うことになるとはね」
黒衣の端が灰になっていき、巨大な存在がゆっくりと希薄化していく。
同じように消滅していく使い魔の背後に下がったユネクティアは、最後の力を振り絞って跳躍し、エスフェイルの傍に辿り着く。
「師兄? そんな、まさか、貴方までもが」
「いいかいエスフェイル。あれの正体がわかった。解析結果をこの剣に封じたから、後は任せたよ」
「ですが、ですがっ」
「そんな声で呼ばないでおくれ。君はもう僕より強い。これからもっと強くなれる。だから、ほら、前を向いて――」
黒衣が灰になって消えていく。
エスフェイルの慟哭が遠吠えとなって夜に響いた。
「これで、十人目」
静かに呟いて、暗に十一人目が誰かを仄めかす。
エスフェイルは【静謐】の対策を編み出していたが、今や私の戦い方はそれだけに頼ったものではない。
歌姫が尖塔の内部に追いつき、他の仲間たちも次々と集まってきている。
ガルズとマリーは追い詰められ、頼みの大魔将は封じ込められたまま。
いかにエスフェイルが強かろうと、もはや打つ手は無い。
すぐに終わらせてやる。
駆け出した私を、エスフェイルの憎悪に満ちた眼光が貫く。
ふと、思い出してしまう。
この状況は、いつかの第五階層での戦いの裏返しだ。
時間稼ぎの為に次々と仲間が死んでいき、ただ一人、お前が最後の希望だと逃がされる――。
あの時、私は【死人の森の断章】の解析をするために逃げ回っていた。
待て。
ガルズが、黒い魔導書を持っていない。
壮絶な悪寒。
エスフェイルの狼の頭部、そこから繋がった模造の月、その上の赤頭巾の少女から巨大な呪力が放出される。少女が衣服の中に抱え込んでいた黒い魔導書が浮遊して、急速に項がめくられていく。
「『掌握』が完了した! 皆の死は無駄にはせんぞっ! ガルズ、今だ!」
エスフェイルが叫ぶと同時に、ガルズの金眼が閃光を放ち、虚空に無数の泡が浮かび上がっていく。
世界槍が鳴動し、高い天井をすり抜けて非実体の宮殿が降ってくる。
睥睨するエクリーオベレッカが召喚されたのだ。
『なるほど――エスフェイルが復活してからずっと、この瞬間を待っていたのね。邪視と使い魔系統に特化した死霊使いのガルズだけでは、【死人の森の断章】の掌握は不完全だった。だから呪文と杖に優れたエスフェイルの力がどうしても必要だったというわけ』
リールエルバの冷静な分析。吸血鬼たちに指示を出して魔導書の奪取を試みているが、凄まじい振動で第一階層そのものが揺れ動いている上、呪力が高まり続ける二人の圧力によって近づくことが出来ない。
『底なる古き神ハザーリャと頂なる古き神エクリーオベレッカの力で世界槍の核に干渉し、最上の霊媒たる聖女を生贄にして今と異なる世界法則――火竜でも降ろすつもりかしらね? あは、割と洒落にならない状況じゃなぁい?』
冗談めかしているが、リールエルバも必死だった。
ガルズとエスフェイルの呪術儀式は完成しつつある。
この場でそれを阻止できるのは、あの魔導書について詳しい知識を有するリールエルバだけだ。
私は斧槍を構えて突撃する。背後から歌姫が呪文で加勢し、セリアック=ニアが爪を伸ばしながら疾走し、リーナが箒に乗って飛翔していく。
直後、エスフェイルが複数に分裂した。
操られた死人の少女が凄まじい呪力で歌姫と激突し、模造の月がセリアック=ニアの一撃をあえて受けることで自らを呪宝石に変えて自爆。
衝撃で私やリールエルバの吸血鬼たちが吹き飛ばされる。
ただ一人、リーナだけがプリエステラの花弁の防壁に守られて元の人狼に戻ったエスフェイルに肉薄し、浮遊する魔導書を掠め取っていく。
しかし。
「遅いわ――既に掌握したと言っただろう。全ての呪文は完全に習得し、我が物としている。このエスフェイル自体が【死人の森の断章】であると知れ!」
エスフェイルの絶叫と共に、天地から無数の光と泡が溢れ出した。
第一階層が――白く清澄なる空間が歪曲していく。
ガルズの浄界よりも巨大な何かが、世界槍という異界そのものを歪め、改変しているのだった。
死を司る天使たちが、天地の獄を一つに融け合わせていく。
トライデントの細胞たるガルズとマリーが唱和する。
――イェツィラー。
青い流体が天地を繋ぐ。
そして、全ての音が消えた。
空が降ってくる。大地が隆起する。
そこが高層建築の最上階近くであるという現実すら崩壊して、第一階層が変貌していく。
それはその周囲――エルネトモランすら侵食して、巨大な世界内部の異世界を形成していく。
ゆっくりと拡大するそれは、新たな世界のあり方。
死者たちが、現在から遡って順番に現世に解放されていく。
今までの、ガルズとエスフェイルが行っていたような規模とは違う。
全生命が最初に死んだ瞬間にまで遡る、極限の魂の解放だ。
夜空には天の御殿、大地は輪郭の定まらない光る泡。
エスフェイルは左腕に【言理の真葉】を宿し、ゆっくりと二つの足でこちらへと歩いてくる。
その周囲に宿る、膨大な呪力――そして魂。
私たちが一斉に攻撃を行うが、その全てが無力化される。
エスフェイルが操って見せたのは、これまでに見たことがある呪術ばかりだ。
十種の多種多様な呪力――死んでいった魔将たちの力を振るいながら、エスフェイルは宣言する。
「狩りの時間だ。今から貴様らを一人残らず殺してくれる――安心しろ。新たな世界の理では、それこそが正しき在り方なのだ」
圧倒的な力を得たエスフェイルに私たちは立ち向かっていく。
ぐるぐると逆転していく力関係。
追うものと追われるもの、攻めるものと守るもの。
憎しみと怒りの向きさえ反転して、対には生死すら曖昧になる。
そして――。
硬い泡を弾けさせながら転がっていく私を無数の棘が、使い魔が、瘴気が、光線が追撃する。
仲間たちの援護がそれを防ぐが、あらゆる攻撃を解体するエスフェイルの疾走は止まらない。
神速の刃と私の斧槍が二度、三度と打ち合わされる。
その腕力、技量共にエスフェイルが遥かに上。
当然だ、夜の民四氏族で最も身体能力に優れているのは人狼なのだから。
ユネクティアを上回る速度の斬撃が私を後退させ続ける。
怒涛のごとき呪術が炸裂し、私は吹き飛ばされる。
ユネクティアが私の正体を解析したというのは本当だろう。託された刃は間違いなく私の構成を切り刻む。
あれは紛れも無く最強の呪文殺し。私の天敵だ。
歌姫の呪文すら断ち切って、エスフェイルの必殺の一撃が振り下ろされる。
回避も防御も誰の援護も間に合わない。
勝利を確信したエスフェイルが叫ぶ。
「断ち切れ、エアル・ア・フィリス!」
絶体絶命。
最後の金鎖を砕く間も無く、即興で打開策を思いつく余裕すら無く――。
私は何も出来ず、致命的な剣を見ることしかできない。
そして。
硬質な音がした。
分厚い盾に、剣が弾かれる音だ。
更にはその背後から絶妙なタイミングで正確無比な刺突が繰り出され、眼球を狙われたエスフェイルは後退を余儀なくされる。
「何をやっている、アズーリア・ヘレゼクシュ! 敵はまだ目の前だぞ! これは演習ではない、気を引き締めろ!」
力強い声に宿る懐かしい呪力の響き。【鼓舞】の呪術が私の心を奮い立たせる。
背後からかけられた祝福祈祷が傷ついた私の心身の苦痛を和らげ、身体能力を上昇させていく。
そして、時の尖塔だった頃の名残として存在した複数の罠が起動してエスフェイルを誘導。その先に設置されていた起爆呪符が炸裂する。
薄らと体を透けさせた、五人の修道騎士たち。
その戦い方、その声、その存在感、その全てに、失われたものへの懐かしさを感じて、私は思わず震える声で彼らの名を呼ぼうとしたけれど、
「細かいことだの湿っぽいのは無しにしとこうや。それより、俺はあいつに借りを返したくてしょうがねえんだ。お前無しじゃ始まらねえからよ、いっちょ頼むわ、アズーリア」
初対面の異邦人とも気軽に打ち解けるような軽やかさで、彼は以前と変わらない口調でそう言った。
皆が揃って頷く。
背後で、リーナから渡された【死人の森の断章】をエスフェイルを上回る速度で掌握してみせたリールエルバとセリアック=ニアが得意げに言い放つ。
「だから言ったでしょう。これは私が一番上手に使えるんだって。【死人の森の断章】の使い手として最もふさわしいのはこの私。誰にも異論なんて言わせない――この光景が、それを証明してると思わない? と姉様は仰っています。セリアもそう思います」
今回ばかりは、私もセリアック=ニアに同意せざるを得なかった。
遠くから、多くの修道騎士や探索者が集まってきている。その多くの肉体は半透明で生きている雰囲気を感じない。
遠くから、ミルーニャが駆け寄ってきてくれている。
後ろにいるのはミルーニャに雰囲気の似た女性だ。その隣で青い顔をしている白髪の人物にはなんとなく見覚えがあるような気がした。どこかで見た弩を手に持っており、その後ろからやはり見覚えのある青年と黒檀の民の男が現れる。
エルネトモランのいたる所で、似たような事が起こっているようだった。
途絶えることのない歌が響く。
既に集団戦闘の手法を確立しつつあるサイバーカラテ使いたちの、「発剄用意」の声が機能的に連鎖していく。
ガルズが半透明の死霊と腐敗した死人を率いて金色の光を放射し、マリーが青い流体を掌に集めて天空に手を伸ばす。
エスフェイルが吼え、その背後から夥しい数の人狼たちが蘇り、軍勢となって顕現する。
「おのれ、どこまでも私の前に立ちはだかるか、狂信者ぁぁぁぁっ!!」
「狂信者なんかじゃない――教えてやる、私の名前を」
そう――私は、エスフェイルに名前を教えたことは一度も無い。
だから、今ここで宣名をしよう。
名前の意味を知らなかった。
空がどうして青いのか、問いの答えを見つけられなかった『猫に名付けられた子供』。名前の意味を知らないから、宣名が正しく出来ない私。
けれど、今はもう知っている。
私は――澄明なる青空という記号やその意味それ自体は重要じゃない。
全ては連関の中に。
「『仮想使い魔』っ! もはや夜の民であることすら放棄した貴様を、師兄より受け継いだ剣で解体するっ!!」
黒百合の子供たちによって詠唱、維持される超高度な複合呪文。
幼馴染たちが過去の思い出を語り、私を外部から再生するとは、つまりそういうことだ。夜の民を完全再現する、世界を騙す呪文。
生きた仮想使い魔――幻獣。
私は知性ではないかもしれない。人ではないかもしれない。呪文によって人工知能を実現するなんて夢のまた夢かもしれない。哲学的ゾンビかも知れないし、生命というより現象に近いのかもしれない。
けれど、私は流れ行く時間の中に確かにいる。
特定期間のいつかに、不動の『かたち』で響いてる。
黒百合の子供たちだけじゃない。
世界中の沢山の私じゃない誰かが、私という存在を規定する。
だってこの世界には模倣子が満ちている。
わずかでも関連と類似があれば、そこには呪力が生まれるのだ。
未知が既知になるまでのわずかな瞬間。
知らない幻想の狭間に住まう、私という存在の本質は、幻。
うつろい、不確かで、形のない、そして本当はなにものでもない。
私には足場が無い。私は存在しない。ゆえに。
「号は
存在しない幻想として、永劫に響く歌声に誰よりも寄り添える。
だから私は、私こそが。
「キュトスの姉妹の七十一番、未知なる末妹ハルベルトの使い魔にして一番弟子! 私の名は、永続者アズーリア・ヘレゼクシュ!」
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