3-92 黒百合の子供たち③
余りの事態に、ミルーニャとリーナが愕然と目を見開く。
しかし時既に遅し。
水銀の弾丸が機体を襲い、致命的な損傷を負ったことによりカラスの形態を維持できなくなった箒は元の姿を取り戻す。
歪みきった宇宙の中で、途方もなく巨大な双頭の蛇が二人を見下ろしていた。
その頭部には銀色の帽子。その背には巨大な翼。
ちろちろと見え隠れする舌先から伸びて蠢く、不定形の触手生命体。
その背後には、異形のまま生き続ける宇宙空間が広がっていた。
『奇形化による適応――?! そんな、世界観を見誤った?!』
『ハハハ! 我こそは双頭有翼のサジミェリーナ! 元はと言えば銀霊という種はその為の実験体でね。まあ失敗作だったがね。そこで紀元槍の出番というわけだ!』
無数の水銀を弾丸として撃ち放ちながら【心話】によって語る魔将は、ミルーニャの致命的な呪文によって蝕まれながらも平然としていた。
通用していないのではない。
それすら飲み込んで、一つの宇宙として受け入れているのだ。
『世界の
苛烈な攻撃を受けながらも、ミルーニャには魔将の言葉に対する一定の理解と共感があった。
人という殻を脱ぎ捨て、全く別の生命へと存在をシフトさせる。
否――もはやそれが『生命』でなくとも構わない。
それが『次』であるのなら。
他系統の呪術師からは異常と蔑まれる極限の思考。
しかし、それこそが杖という思考の枠組みの行き着く先なのだった。
『うるせーぼけ! 勝手に決めるなー!』
『ハハハ! 幼稚だなあ幼稚な世界観だ! 君の飛翔は私には届かない!』
叫ぶリーナの結界は既に限界だった。
立て続けの攻撃により、ついに亀裂が走る。
次に攻撃を受ければ待つのは死だけだ。
双頭の蛇の口から、夥しい数の高圧水銀が発射される。
絶体絶命の窮地。
その時、二人の前方に生き残っていた空の民が躍り出る。
翼耳を生やした女性の姿に、リーナとミルーニャが目を見開く。
手を広げ、結界を張って二人を守ろうとするその女性に、
「お母さん!」
と泣きそうな声で呼びかけるリーナと、一瞬だけ振り向いて微笑む女性。
その姿を見たミルーニャは、迷い無く呪石弾によって箒から飛び上がった。
箒を中心に展開された球状結界から抜け出し、死の放射線が荒れ狂うゼロ気圧の世界へと身を投げ出すと、牽引呪術で女性を――妹の母親を視界に入れないようにしながら真横に押しのける。
次の瞬間、小さな身体に次々と突き刺さる水銀の弾丸。
女性が信じられないものを見るように呆然として、リーナが絶叫する。
抜かりなく起動していたはずの成し得ぬ盾は、サジェリミーナが浄界内部に取り込んだ極寒奏鳴曲によって完全に凍結し、機能停止していた。
『ハハハ! 美しいがどうしようもない家族愛だね! 古い遅いつまらない! 大丈夫さ、錬金術師の悲願は私が為し遂げてあげるからね! 安心して死にたまえ! 塵理論的には永劫の未来でまた会えるよ! さようなら!』
違う。
リーナは叫びたかった。
ミルーニャは、家族愛とかそういうことを考えて行動なんてしていない。
あの誇り高い姉は、自分と違ってそんな事は絶対にしないに決まっている。
彼女は、自らの誇りの為にそうしたのだ。
大切な家族だからそうしなくてはいけない、なんて鎖に縛られた自分たち――クロウサー家とは違う。
ただ自由に。
自分の意思で、自らを不利にする道を選び取る。
余りにも不自由で窮屈そうなのに、どこまでも自由に生きようとするミルーニャのことをそんな風に言われる事がたまらなく嫌で、どうしようもなく苦痛で。
リーナは瞬間、自分が『落ちこぼれ』だということを忘れた。
『言理飛翔・百倍加速!』
クロウサー家、そしてその中でも呪文による飛翔を得意とするゾラの血族たちは、『空』や『飛行』という言葉そのものを支配し、音よりも速く飛ぶ。
呪文使いでありながら音速を超えるゾラが地上において絶大な権力を握っているのは、その力ゆえでもある。
通常は、極超音速に到達すると『呪力圧の壁』に掴まる。
音を超えて伝わる意味の波が、人間の脳に過度の影響を与え、トランス状態に陥らせてしまうのである。
この現象の為、ほとんどの知的生命はこの速度域では意識を保つ事ができない。
しかし空の民だけは常にアストラル体がマテリアル体から遊離しかけているという半トランス状態にあり、極超音速効果が悪影響ではなく好影響を及ぼすことが知られている。ゆえに、適性があれば際限なく加速が可能。
箒の周囲に展開された呪術障壁が激しく発熱し、摸倣子が電離していく。
這い這いより先に幽体離脱を覚え、呼吸するようにチャネリングを行う空の民、中でも【空使い】の異名を持つ歴代のゾラ当主はその領域を自由に飛翔する。
【空使い】にとって極超音速は基準となる速度である。
歴代最速と言われたミブリナ・ゾラ・クロウサーは最大で極超音速の百倍。
若かりし頃のサイリウスはそれに迫る九十倍まで加速できたという。
歴代最速と並んだリーナは、過去最高の音速の五百倍の速度で宇宙空間を飛翔し、呪文圧の塊となって水銀の弾丸を全て体当たりで撃墜。
呪文の尾を引いて進む流星が、巨大な水銀の蛇をずたずたに引き裂いていく。
『怖い怖い! だがまだ遅ーい!』
紛れもなく地上最速となったリーナの速度を軽々と凌駕して、巨大な尾による一撃が呪文を纏った結界を弾き飛ばした。
単純な質量攻撃によって次々と小惑星帯を貫通しながら巨大な壁に激突して停止するリーナ。
それはアマルガムによって構成された世界の果ての壁。
リーナを追い詰めるためだけに創造した行き止まりだ。
迫り来る双頭の蛇を前にして、リーナに打つ手はもはや無い。
その時、空の民の生き残りの一人である帽子を被った男が虚空を渡ってリーナに近付いてくる。
満身創痍、もはや生きているのが不思議なくらいの大怪我で、爛れた顔と崩れた肉体からはどんな人物なのか同定することすら難しい。
けれども、唯一無傷のままである帽子を見て、リーナはそれが誰であるのか判別することができた。
『ハルティール!』
『受け取れ、落ちこぼれ!』
投げつけた帽子が粒子となって分解され、リーナの被った三角帽子に吸い込まれていく。
エジーメの血族が司る始祖クロウサーの帽子を持った左手――使い魔に力を与えるその呪術が、限界を超えたリーナに更なる力を与える。
『はは――この俺の力を与えられた次期当主が、俺の力で魔将を打ち倒す――さぞ、痛快な、光景――』
最後まで言い切る事無く、男の瞳から光が失われる。
全ての生命を振り絞った最後の呪術。
死者の遺志が呪いとなり、リーナの全身を夥しい数の呪文が鎖状になって覆い尽くしていく。
嫌悪していた親戚の最後――その光景を目に焼き付けて、リーナはただ箒を強く握りしめた。
帽子の中から落ちた螺旋綴じのノートを全て引き千切り、真正面から双頭の蛇を睨み付ける。
『言理飛翔――』
『ハハハ! 古い遅いつまらない! 新世界には連れて行けないな!』
訪れた終末に相対したリーナは、ただ静かに肉声で呪文を唱えた。
大気を震わせる、余りにも遅いはずの詠唱。
だというのに、それは魔将の認識を凌駕して発動した。
「十七万六千倍加速!」
そして、リーナ・ゾラ・クロウサーという存在は宇宙から消失した。
質量操作には、一つの禁忌がある。
その数値を零にしてはならない。
それは己の存在を否定することであり、呪術を使用している主体をも喪失させかねない極めて危険な行為だからだ。
言葉の上だけでの質量ゼロ。
されど、呪文として形になったそれは現実を書き換えてしまう。
完全な非存在というのは死と同義である。
『ハハハ! 自滅するとは! 頭が悪いのかな! 悪いんだろうね! もう一人が賢かったのに比べると、これはひどい愚者だ! ハハハ!』
嘲笑する魔将。
そして異形の宇宙もまた存在しない者を指して笑い続ける。
『 』を。
『ん? おや? 誰が愚かなんだっけ?』
二つの首を傾げる大蛇。
参照先を見失った呪術師は自らの思考を精査し、エラーが無いかを確認する。
異常なし。
にもかかわらず、参照先は依然として無し。
『おや? おや? おかしいぞ? こんなことは論理的にあり得ない。こんなことは呪術的に起こり得ない』
理解を超越した事態に戸惑う魔将は、己の宇宙が破綻しているのではないかと不安を抱く。
ミルーニャによる必殺の呪文を受けても小揺るぎもしなかった世界観への確信が、その瞬間、たしかに揺らいだ。
双頭の蛇の口から、腹から、内部から。
凄まじい光が満ちあふれる。
それが魔将の終焉だった。
『馬鹿な、このサジミェリーナが、自己への確信を見失うなど――』
双頭の大蛇が水銀の身体を消滅させた。
代わって現れたのは、帽子を被った男性と女性。
共に水銀によって肉体を構成している銀霊である。
『ハハハ! 三分割した私の一人、サジミェリーナがやられてしまったねサジェリミーナ!』
『驚いた! まさか私を殺せる存在がいるなんてね! 想定の範囲内だけどねサジェミリーナ!』
不滅と不死を体現する二人は、笑いながらも壮絶な悪寒を感じていた。
人であった頃ならば、冷や汗をかいていただろう。
まるで、自分たちが何か巨大な存在の掌の上にいるかのような。
天を見上げる観測者たる自分たちが、天の頂から見下ろされているかのような。
絶望的な無力感。逃れがたい宇宙的恐怖。
「頭が高い。頭を垂れよ地虫ども」
二人の魔将が、同時に這い蹲った。
そこは無限の宇宙空間であるにも関わらず、上下の区分が有り、天地があり、確固とした向きが存在し、存在の優劣が定められているのだと両者は同時に確信してしまった。
天球座標が完全に掌握され、あらゆる占星術が無効となる。
全ての元素の根源となるエーテルが支配され、錬金術の体系自体が無力になる。
絶対なる神とはすなわち『 』のことであり、神働術など虚しいだけ。
その名を唱える事すら矮小なる存在では不可能事。
【空使い】という号、そしてクロウサーという仮の名によって間接的に認識不可能なその存在を認識しようと試みているに過ぎないのだ。
世界の根本言理に繋がった上位の存在を、人は紀神と呼び、崇め奉った。
槍神教の勢力圏に深く浸透し、最上位の存在――第零の位階として密かに『格』を高め続けていた紀元神群最大の『息吹』が、その威容のみで魔将を平伏させる。
生き残ったミルーニャや空の民たちが浄界の外側へと移動させられていく。
己の世界が無理矢理こじ開けられていくという苦痛に、しかし魔将たちは抗うことが出来ない。
決して逆らえない存在。
愚者の背後には、絶対に立ち向かってはならない何かが存在していたのだと、その時になって魔将たちはようやく理解したのだ。
遅まきながら、神働術師としての魔将がその事実に気付く。
個人の強さや賢さなど戦いにおいてはほとんど意味を為さない。
なぜならば、外部から力を運んでくる霊媒という例外が存在するからだ。
思い返してみれば。
復活した直後、会場には霊媒らしき呪力の波が幾つか存在した。その中で最も危険な霊媒と相対してしまった事に、どうして気付けなかったのか。
全能者の意のままに、宇宙が収縮していく。
ビッグクランチ。
宇宙の終焉によってあらゆる星々が抵抗する事も出来ずに消滅していく。
死人に満ちたエルネトモランの上空に、壊れかけの機械の腕につままれた銀霊が放り出される。
面倒くさそうに次元の彼方に帰って行く残骸の古き神ペレケテンヌル。
旧世界の威光に縋ってかろうじて破滅から逃れた脆弱な魔将の三分の一を絶対者は追わなかった。
惨めに矮小化したその末路は既に決定している。
余りにも広い視野によってその未来を見通すと、
「うーん、お姉ちゃん、その改造は流石に逮捕じゃないかな~速くなるのは嬉しいけど――はっ、夢っ」
まばたきして、すぐ傍で倒れるミルーニャや母親たちを確認。
次いで、周囲を取り囲む死人たちを確認。
「うわあああ何か知らないけどやべええええお姉ちゃん起きて起きて助けてー!」
泡を食って叫ぶリーナは、状況が全く掴めないまま目の前の出来事に対応する。
記憶は正常である。
リーナという存在は、確かにリーナとしての記憶だけを保持していた。
プリエステラの目の前で、魔将ベフォニス、アケルグリュス、ハルハハールがクエスドレムと激しく口論を交わしていた。
「下らん。そのような小娘、火種になるだけよ。首を刎ねてしまえ」
「おいおい、そいつは性急な判断ってやつじゃねえですかい?」
「そうですわクエスドレム様。レストロオセ様はティリビナ神群こそ新世界に必要不可欠な存在だと仰っていました。ジャッフハリムの万全たる食料自給、エネルギーの確保が地上太陽の寿命で成り立たなくなっている今、旧来の一極集中型の万能社会基盤という神話は崩壊しました。植物神たちの権能は必ずや新しい世界のワールドフォーミングを――」
「ええい能書きが長いわ! それこそ不和の種たる巨人どもを調子付かせ、ジャッフハリムを、ひいては新世界の秩序を脅かす事になろう! 理想ばかりで世界秩序が維持できるものか!」
「お言葉ですがクエスドレム様、これは理想ではなく極めて現実的な判断です。レストロオセ様の救済には彼女もまた必要な――」
魔将たちは、同じ派閥に属し、同じ主、同じ国家の為に行動しながらも、それぞれの立場や思考、視点の違いによって生まれる見解の相違が原因で激論を交わす。
それらは双方共に一定の理があり、状況にもよるが『どちらも正しい』というようなものであった。
最終的な決定を下すべき主が不在の今、魔将たちはまさしく不和の種を抱え込んでしまい、混乱している。
その様子を見ながら、プリエステラは内心で安堵する。
次の瞬間には死んでいるかもしれないという状況であるにも関わらずだ。
自分が、仲間たちにとって必要な存在であればいいと彼女は思う。
けれどそれは、同時に誰かにとって必要無い存在であること、そして誰かにとって邪魔な存在であることもまた、彼女は知っていた。
それは同じ事なのだ。
仲間、同胞、家族――共同体を切り分けて内部と外部を規定する使い魔の呪術師は、その関係性が容易に裏返せる相対的なものだと理解している。
集団というものを――関係性というものに対して感情と思考を注ぎ続けたプリエステラにとって、この状況は想定の内。
この些細な足止めが、仲間たちの道になればいい。
そう考えた彼女は、己の全てを捨てて死地に足を踏み入れた。
ティリビナの民たちの立場は危うくなるだろうが、彼女は同胞たちを信頼していた。きっと頼りになる仲間たちが後はなんとかしてくれるだろう。
死人の軍勢を率いていたクエスドレムが足を止め、更には別勢力の死人たちが出現したことによって時の尖塔への歩みは遅々として進まない。
業を煮やしたガルズが後々反抗されることを覚悟しつつ【死人の森の断章】を使用して強制的に魔将たちを従わせようとしたその時。
「これって」
プリエステラが小さく呟いた。
魔将たちにも、それが届き始めているようだった。
それだけではない。
エルネトモランにいる、全ての人々にも。
その歌は――その文字は。
はっきりとあらゆる人々の目に見えるようになっていた。
彼らは音の無いその詩歌を無言で読む。
黙読された文字が、その脳裏に音を想起させる。
音を知らぬ者は、突如として全く未知の感覚が生起されたことによって驚き。
音を失った者は、余りにも懐かしい感覚に身を震わせ。
目の見えぬものたちは、質感や匂い、あるいは直接意味を心に感じ、何らかの記憶を呼び覚まされ、連想していった。
呪文に捕らわれた人々は、自然と心に像を描き出す。
漠然とした、けれどもはっきりとした存在を。
強く、神々しく輝く像。
大いなる偶像を。
途絶えた歌が、再び世界に響き始める。
そして、それと同時に。
エルネトモランの全ての端末に不可視の呪術的ウィルスが感染し、強制的に一つのアプリケーションをインストールしていく。
狂ったような哄笑に気付いた人々は端末を確認し、そうした機器を持たぬ者も目の前にまとわりついて眼球をジャックする幻覚によって強制的にその文字列を見せられる。
意味の分からない言葉の羅列。
誰かが呟いた。
「サイバーカラテ道場?」
座禅無しでゼン・スピリット。誰でも明鏡止水。
『一般人でも強くなれる』が謳い文句の万能武術。
胡散臭い文言と表示された動画の中で、道着姿の男が力強く叫ぶ。
「発勁用意」
絶望という摸倣子が蔓延する地上で、未知の摸倣子が感染を始める。
それは全くの異物。
この世界には存在しないはずの
その日、地上に新たなる神話が打ち立てられた。
天と地とその狭間が、その名を聞き、その体系を記憶に刻み込まれたのだ。
サイバネティクスとオカルティズム。
聖婚が鳴る鐘の音を、全世界が確かに聞いた。
「NOKOTTA!」
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