3-90 黒百合の子供たち①
「起きたか」
目覚めたナトは、まず自分が生きている事に驚き、続いてペイルとイルスまでもがいることに気付いて思わず身を起こそうとした。
失敗する。手足の感覚が無く、腹筋と上体の弾みだけで起き上がるのは難しい。
破損した神働装甲は少し離れた場所に置かれていた。ラーゼフ・ピュクシスとその部下たちが破損部位を予備の部品に交換する作業を急いでいる様子だ。ペイルが重い装甲を持ち上げてその手伝いをしている。
そこは時の尖塔にほど近い場所にある、第一区の研究施設。
第六騎士修道会――智神の盾が管理する装備開発のための一室だった。
場所が無いのか、ナト以外にも負傷者たちが床に寝かされている。直属の上司である第十五位の修道騎士ディセクターもまたそこにいた。
イルスをはじめとした医療修道士たちが忙しく駆け回っている。
「久しいな、ナト・バン・ハルバーリ・ファザ・カフラよ」
「――やめてくれ、その名前で呼ぶのは」
心底から嫌そうな表情を作りながら視線を向けた先に、精悍な顔立ちの男性が立っていた。
「馬は外かい」
「あのピュクシスとかいう者が嫌がったのでな。他の者たちは外で情報を集め、無事な者たちをこちらに誘導している」
草の民。
キャカールの大草原を移動する遊牧民たちは、今日の葬送式典に招かれ、この混乱に巻き込まれた。
しかし彼らは冷静に馬を駆り、死人たちを蹴散らしながら無事な者たちを救出していった。
三本足の使い魔として大量の呪力を宿す馬たちに群がる死人たちを、強風を纏って次々と吹き飛ばしていく草の民たちに、人々は全力で縋った。
通信網が引き裂かれ、混乱のただ中にあるエルネトモランを圧倒的な機動力で縦横無尽に駆け抜ける騎馬民族たち。
彼らは迅速に情報を収集し、体勢を整え、電撃的に会場へと乗り込むと魔将サイザクタートに一撃を食らわせ、深追いすることなく負傷者たちを連れて離脱。
部隊を分け、他の魔将たちを分断する作戦が成功していた。
魔将の数が限られている事、配下は知性の低い死人しかいないことが、草の民たちの危険な綱渡りをかろうじて成立させたのである。
「例のカラスはどうした」
「死んだよ、ちょっと前にね」
「そうか。半身に先立たれるのは我らの定めとはいえ、辛いな」
男は瞑目し、短く草の民流の祈りを捧げた。
それからナトに向かってやや躊躇いがちに問いかける。
「まだ新しい半身は決めていないのだろう? どうだ、帰ってくる気は無いか? ちょうど、空きが出てな。老いた乗り手を失ったが、馬の方はまだ年若い――お前ならば乗りこなせると思うが」
「やめとくよ。俺はもう馬には乗らない」
「そうか。お前といいオルマズのカーズガンといい、優れた勇士ばかりが草原を離れていくな」
ナトは黙してその言葉には何も返さない。
ペイルがナトが目覚めた事に気付いて駆け寄ってくるのを見て、その表情に笑みが浮かんだ。
「当分はこっちにいるつもりだよ。放っておくと死にそうな馬鹿がいるもんでね」
打ちのめされたはずの身体に活を入れて、ナトは弾みを付けて起き上がった。
バランスを崩しかけたその身体を、巨漢の腕が支える。
ラーゼフが神働装甲の修繕を終え、ナトの名を呼んだ。
「失礼、緊急の報告が!」
草の民の伝令がその場に駆け込んでくる。何事かと衆目を集めるが、息を切らせた男はよほど動転しているのか、息も整えずに喋ろうとして咳き込んだ。
深呼吸した彼は、唾を飛ばしながら外で起こりつつある異変を伝えた。
「市街地に別種の死人たちが出現し、死人同士で争っております!」
「何だって?」
思わずナトは聞きかえした。
混迷を極める状況が、大きく動こうとしていた。
「ええい、何なのだ、奴らは!」
「落ち着いて下さい、クエスドレム様」
足の止まった死人の軍勢の中心で、朱大公クエスドレムは激怒していた。
その脇でガルズが魔将を窘める。
ともすればその怒りの巻き添えになりかねないガルズは必死だった。
修道騎士の守りを突破して会場を出た魔将たち。
その場に集結したのは万殺鬼アインノーラ、三つ首の番犬サイザクタート、朱大公クエスドレム、痩せた黒蜥蜴ダエモデク、そしてガルズとマリー。
じきに他の魔将も追いついてくるだろう。
このまま時の尖塔に攻め入り聖女を殺害すれば目的は達成されるのだと息巻く彼らは、正体不明の敵によって行く手を阻まれていた。
ガルズとエスフェイルが使役する死人たちは次々と生者に襲いかかり、呪力を感染させて死人を増やしていき、その勢力を拡大させ続けるはずだった。
しかし、全く同じように感染を続け、更にはそれを上書きしていく新たな死人が出現していた。
彼らは疾走する。
のろのろと蠢く死人たちの手や歯をかいくぐり、人体の限界を超えた腕力で襲いかかってくる死人をも上回る強靱な身体能力で反撃。
更には道具を使い、呪術を発動させ、互いに高度な連携を行い、ある者は飛翔すら可能とした。
古い死人を新たな死人が叩き伏せ、その首筋に噛み付く。
すると腐敗し、破損した死人の傷に肉腫が蠢き、急速に再生していく。
魔将たちが新たな死人を攻撃していくたびにその肉体は破壊されるが、凄まじい速度で再生を繰り返す死人たちは平然と魔将たちの手から逃れ、古い死人を襲っていく。
クエスドレムとダエモデクによって強化された死人が襲いかかった。肉体の一部が膨張した死人が巨大な腕で新たな死人を圧壊させようとするが、その全身がばらばらに解けたかと思うと、無数の蝙蝠となって強化死人に噛み付いていく。
屍の亜竜が死の瘴気を吐きかけるが、既に死者である新たな死人たちには通じない。彼らはその肉体を霧に変化させると屍亜竜の体内に入り込み、内側から感染を広げる。
市街地の側溝から小さな鼠たちが素早く這い出して、暴れ狂っている屍の愛玩動物たちに噛み付いていく。
急速に感染を拡大させている、全く別勢力の死人たち。
腐敗した肉体ではなく、強靱な再生力で蘇生を繰り返す彼ら彼女らは次々とガルズとエスフェイルが生み出した死人に噛み付くと、逆に感染させていく。
追いついたエスフェイルとユネクティアが状況を見て愕然とする。
「あれは、もしや」
「間違い無い。してやられたよ。戦場の内側に気を取られて外側を見ていなかったのは僕らの方だったみたいだね」
新たな死人たちの口には、血が滴る長い犬歯――否、牙が生えていた。
どこからか、狂ったような哄笑が響き渡る。
『キャッハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!』
同時刻、第一区の宝石店で巨大な呪力が爆発し、天を衝く光の柱が立ち上った。
エスフェイルはその光景を見て、愕然と目を見開く。
闇の中で、九つの衝撃が同時に叩き込まれる。
暗視能力でもあるのか、魔将ピッチャールーは正確無比な打撃によって遂にメイファーラの短槍を弾き飛ばし、耐久力の限界を迎えた丸盾を破壊した。
後退し続けるメイファーラは、背中を壁に預けながら荒く息を吐く。
もはや退路は無い。
九本の腕による多方向からの一撃を受ければ、その身体はばらばらに引き裂かれるだろう。いかに天眼の民が超知覚によって未来予知めいた回避を行うと言っても、回避不能の未来までは覆せない。
メイファーラの表情に、諦めが広がっていく。
「ここまで、か」
メイファーラは目を瞑って、指先を額に当てた。
その身体から呪力が放出される。呪術の予兆を感知したピッチャールーは自動的に対呪術用の攻撃端末を吐き出していく。
放たれた呪術を吸い込んで防御をするばかりでなく、発動の予兆を感知して敵に殺到して爆発するという高性能な兵器。
だがその自動的な反応が、九本の腕が攻撃をするまでの一瞬の間を作り出した。
メイファーラの背後に、淡い光を放つ半透明の女性が出現した。
その雰囲気、顔立ちはどこかメイファーラに似ている。
アストラル体はそのままメイファーラの身体に重なり、内側に入り込む。
憑依型の寄生異獣。
きぐるみの魔女トリシューラが体系化した寄生異獣の技術は、実際の所は以前から存在した使い魔や霊体の使役を体系内部に位置付けただけに過ぎない。
きぐるみの魔女がもたらしたのは、擬態型の寄生異獣によって異なる生命を肉体に宿し、四肢の代わりにするという技術のみ。
それによって使い魔を掌握する精度や霊体に逆に支配される危険性も減ったものの、きぐるみの魔女が現れる前から二つの技術は利用されていた。
ペイルのように、倒してきた相手の怨念や呪詛を自らの鎧として纏い、外部からの悪意を防ぐという発想は極めて古いものだ。
ハルベルトの呪いによって呪いを弾くという発想にも近い。
あるいは、守護霊や祖霊と言われる霊体を憑かせて身を守る事もごく日常的に行われている。家族や一族といった血を重んじる呪術師たちは、常に自分たちが先祖に守られていると信じ、その信仰心が力となるのである。
それらは広義の憑依型寄生異獣であり、別段珍しいものではない。
だが、メイファーラは出現させた霊体を纏うのではなく、身体の中に完全に入り込ませた。
鎧を着込むと言うよりも、自らを鎧にするように。
あるいは、それは器と言うべきだろうか。
黒百合の子供たちは、そのほとんどが霊媒としての素質を有する。
その中で、メイファーラだけは特に第七位の天使シャルマキヒュの霊媒ということもなく、ごく普通の子供であるとされていた。
それは間違いではない。
彼女は確かに、シャルマキヒュの霊媒ではなかった。
「
――精神感応とは、大量の情報を心身の内側に取り込む技術である。
ならばそれを得意とするメイファーラは、情報の媒介者と呼べるのではないか。
瓜二つの顔、体格をした女性の片方だけの髪の房が、揺れるメイファーラの髪の一本にまで完全に一致し、浸透する。
直後、攻撃端末が殺到して爆発。
更に次々と叩き込まれる九本の腕。
魔将ピッチャールーは機械的に相手を完全に消滅させた事を確認。
戦闘が終了したと見なし、地上へと戻り他の魔将と合流すべく動き始める。
その、瞬間。
「ごめんね」
腕の一本が、勢いよく斬り飛ばされた。
理解不能の一撃。
予想外の事態に、しかしピッチャールーは即座に反応。
ぐるぐると回転しながら腕を縦横無尽に振り回す【
しかし、その無軌道な破壊の渦を全て正確に把握して、鮮やかな反撃が魔将の眼球を、そして腕を引き裂いていく。
槍ではない。
数本に分かれた短い刃。
短剣? 否、そうではない。爪だ。
ピッチャールーは相手の不意を突くべく口から閃光弾を発射した。
強い光が奈落の底を照らし、正体不明の襲撃者の姿を露わにする。
「うー。見られると困るんだけど」
あまり危機感がない、暢気な少女の声。
前傾姿勢で身を低くした二足歩行の影。
その黒い目が淡い光を宿した。
「でも運がいいや。相手が機械の貴方で――ここが人気の無い場所でよかった」
刃のように鋭い爪が、光を反射して獰猛に輝く。
床を踏みしめる脚もまた強靱にして危険な刃を有しており、全身は灰色の鱗で覆われている。
全体的には霊長類に似た姿でありながら、手足や肌、尻尾や頭部といった特徴的な部分は爬虫類のそれ。
長い尻尾で全身のバランスをとり、灰蜥蜴人は床を踏み抜きながら疾駆する。恐るべき速度で猛攻をかいくぐるとすれ違いざまに爪による斬撃を加えていった。
頭部の右側から、長く長く伸び上がった見事な角が後方に向けて生えている。
蜥蜴人の上位種、
背後に伸びていく右側の角が、髪の一房のように棚引いたように見えたのは、光の悪戯だろうか。
角の根本には眼球のような天眼石の飾りが輝いている。
そのシルエットは依然として左右非対称。
「ごめんねー。あたし、ここではまだ死ねないんだー」
少しだけ崩れた一人称の発音で、亜竜人の少女が古代兵器を引き裂いていく。
肉体を変異させる能力には様々な変種がある。
その中でも天眼の民の変身は古代の血を『思い出す』ことで発動する。
古代の血とは、霊長類と混血を繰り返して現在の姿を獲得する以前の種の記憶。
一族の祖霊の力によって、祖先の形質を強制的に発現させ、一時的な突然変異として覚醒する能力。
霊的外部記憶装置の参照。
一族が積み重ねてきた後天的な獲得形質すら継承するその能力は、身体能力、呪術適性、それらを使いこなす技術の全てを飛躍的に向上させる。
先祖たちが己を鍛え上げ、知識を集積させてきたその全ての経験を参照し、自らの力にできるからだ。
それは、祖となった一人が不老不死となり、気の遠くなるような時間、ひたすらに自らを鍛え続けた結果として得られる力に等しい。
『過去』という膨大な時間から呪力を引き出す『灰』の色号が鈍い光を鉤爪に収束させる。
黒い両目が爛々と光り、額で不可視の第三眼が可視域を超えた閃光を放った。
その刹那、世界が凍り付いた。
――天眼の民に加護を与えるシャルマキヒュ本来の権能は天眼だけでない。
それは【凍視】と呼ばれる時間停止能力であり、これは「無秩序な混沌である全ての分子運動を未来永劫に渡って把握することは不可能でも、時間と空間を限定すれば可能である」とする己の能力への確信によるものである。
天眼の機能を超過駆動させることによって引き起こされる擬似的な時間停止。
これは受動型でありながら投射型の邪視と同等の効果を発揮するという極めて高度な技術であり、神話の時代より天眼の民からは失われていた。
【シャルマキヒュの凍視】という高位呪術は本来の姿を失い、投射型の邪視者が対象を束縛する呪術として扱われるようになって久しい。
奈落という閉鎖された極微空間に満ちる塵の一つ一つ、粒子の微細な存在を完全に把握した天眼の民は、その動きを完璧に近い精度で予測。
極めて高精度な予測演算は彼女の中で『世界を三秒先まで把握している』という確信を抱かせ、内的宇宙から溢れ出した確信は閉鎖空間を浸食して擬似的な浄界を構築する。
魔将の動きが停止する。
たった三秒。されど戦場の三秒は勝敗を左右しうる。
停滞した状況で一人だけが動けるのなら、回避不能の攻撃を逃れ、反撃を行う事すら可能だろう。
そして、致命的な一撃を与えることも。
天眼をオーバークロックして灰色の光を纏わせた爪を魔将の胴体に突き入れる。
【シャルマキヒュの凍視】からの【
天眼を輝かせる亜竜人の手から、魔将の時間が吸い取られていく。
「あたしのこの姿を見た人は、みーんな忘れちゃうんだよー」
相手の積み重ねた時間、戦闘経験を奪い我がものとする【生命吸収】が発動。
時間停止が解除され、魔将が気がついた時には状況を認識することすら困難になっていた。
ピッチャールーが蓄積していた戦闘記録が残らず消失していき、目の前の敵対者の輪郭すらあやふやになっていく。
異常な事態が進行していることだけを理解したピッチャールーは緊急用の離脱機能を作動させる。
手足を畳み込むと、筒状の胴体の下部から呪力噴射を行い飛翔。
勢いよく奈落から地上へと飛び上がり逃亡していく。
「おっと」
降り注ぐ月明かりから逃れ、闇の中で小さく呟いた。
「あとはお任せ、かな」
朗らかな声は、奈落の底で消える。
その正体を記憶している者は、誰もいない。
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