3-89 『この夜が明けるまであと百万の祈り』



 シナモリ・アキラが語りて曰く、


『個人的な好みで言わせてもらえば――悩むくらいなら両方の要素をぶち込んでしまえばいい。収拾がつかないとか辻褄とかバランスとかは気にしないで、滅茶苦茶なくらいが一番面白いと、俺は思う』


 筋書きプロットをどうしよう、という話だ。


『全員生き残って大団円で終わる筋書きと犠牲を払ったけどその悲しみを胸に強く生きていくみたいな筋書き、どっちがいいと思う?』


 実のところ、これは好みの問題というよりもただの結果論、現実の受け止め方をどうするか、という話なのかもしれない。


 それでも、と誰かが言った。

 語り方を変えて、言い回しを整えて、視点を、距離を、一つずつゆらゆらと揺らめかせて。

 そうして見えてくる色合いは、きっと綺麗なものでしょう。

 たとえ事実がそうではなくても。

 そうあるのだと、幻想を抱きたいという、願い。


 ある人はそれを信仰と呼んだ。

 別の人はそれを価値観と規定した。

 世界観、と言った人もいた。

 言葉は一つ一つ違うけれど、それらの記号が参照している現実はひとつ。

 なのに、目に見える世界ことばはこんなにも揺らいでしまう。


 これはたとえばの話。

 現実を参照して自動的に肉付けされていく物語素体があるように、物語素体を参照して改変されていく現実も存在する。

 それが呪文だと、言語魔術師たちは誇らしげに語る。

 嘘と詐術を織り交ぜて、酷い反則を平然と騙る。

 ありとあらゆる結果は後付けの言った者勝ち。

 

『このままフィリスを使い続ければ、浸食されるのは君だけに留まらないだろう』


 ラーゼフ・ピュクシスはそう語った。

 智神の盾――槍神教内部に公然と入り込んだカタルマリーナ派が完成させた異獣憑き。異獣をまつろわせる宣教聖騎士。【大断絶】以降の歴史で誰も適合した事のない、終わりの魔将の対となる一つの神話体系そのもの。


『あなたもジルも、そしてみんなも。もうフィリスに負けるほど弱くない。呪文の力を掌握して、自在に操る一人前の魔女なんだから。力を合わせればフィリスに負ける事なんてない。もちろん、マロゾロンドにだって』 


 フィリスの封印は黒百合の子供たち全員で行っているもの。

 黒百合の子供たちもまた、フィリスによって浸食されている。

 世界それ自体を――紀元槍を浸食する紀元槍の端末。


 自己をセルフ参照し続けるリファレンス再帰的な幻想エンジン

 それは蒸気の圧力をエネルギーに変換する機械のように。

 あるいは、電子制御技術によって人間存在そのものを解体する理念のように。


 意味を呪力に変換して、心をモジュールとして扱う単位。

 零落した神秘を大量消費し、神聖なる俗情を崇拝する。

 それが意味しているものは、すなわち――。






 ――――幕間内幕間『スペル』――――





「釣り合い。何それ」


 長い昏睡から目を覚ました私にそう言って、ハルベルトはフードを脱いだ気を抜いた姿で軽く寝台に腰掛けた。

 そのまま後ろに倒れ込み、霊長類体の私の脚の上に背中を乗せる。

 ちょっと重い。


「だって、気にするなって言われたって、周囲はそういう風には見てくれない。私だって気にせずにはいられないよ」


「違う」


「何が」


「根本的に」


「根本的って」


「そもそもハルと釣り合う相手なんて存在しない」


「――はい?」


 なんだか凄いことを言い出したなあ、とぼんやりと考える。

 そもそもどういう会話なんだっけ、これ。

 確か、私が夢の世界でハルベルトに向かって釣り合わない、とか言ってしまったのが原因だった気がする。


『だいたい、私は最初から貴方に釣り合わない。こんな化け物――こんな、知能が無い――脳すら存在しない下等な生き物、貴方の使い魔に相応しくない』


 こんな事を、言ったような。

 他の夜の民に対して随分と失礼だなあ、と今さらになって思う。

 そして――思い出すのはマリーのこと。

 昔の私じゃない。ガルズのパートナーである哲学的ゾンビの少女の方だ。


 哲学的ゾンビって何だろう、と思う。

 クオリア――感覚質、つまり感覚を司るアストラル体が死んでいるのに、生身のマテリアル体は生きている状態だから、ゾンビ。

 まとまらない思考を抱えていると、ハルベルトはこんな事を言い出した。


「交換可能性に人は耐えられない。けど、唯一絶対なる信仰対象――規範、道徳、正義、信念、価値観、世界観、そういったもの以外の全ては大体交換可能なもの。だから、壊れそうになったら自分を支える枠組みを確認するの。それを信仰と呼ぶのだと、ハルは思う」


「唯一絶対――えっと、ビーチェのことかな」


 頬を張られた。

 あまり痛くはなかったけれど、すごくいい音がした。


「何するの」


「そっちこそ何を言うの。そこでハル以外の名前を出すなんてあり得ない。やりなおしを要求する」


「えええ」


「はい、もう一度」


「う、うん。唯一絶対――えっと、ハルのことかな」


 ハルベルトは再び私の上に寝転んで満足げな顔をした。

 だから重いってば。


「愛は惜しみなく与えるもの。恋は鷹揚に貢がせるもの。そもそもハルと釣り合う相手がいないのだから、アズが下らないことを気にする必要はないの」


「幾ら何でもちょっとそれは」


「重力と同じ。質量の大きい方に引き寄せられていればいい。上から下へ落ちていけばいい。月のようにずっと同じ軌道を回っていればいい」


「そんな、こと」


 出鱈目で傲慢な私のお師様が、身を起こして手を寝台についた。

 寝台から上半身だけを起こした私にずいと詰め寄ってくる。


「アズ」


 黒玉の瞳が真っ直ぐに私をみつめる。

 いつの間にか私の方も黒衣のフードを脱がされていて、なんだか逃げ場が無いみたいだった。


「――うう」


「屈して、預けて、委ねて。全部」


「こ、これどういう状況なの?!」


「ん? 正式な契約を結ぶだけ」


 あ、なんだ、それだけか。

 あまりにも距離が近い上にハルベルトの目が綺麗で顔立ちは相変わらず可憐で睫毛とかとっても長くて鼻とか唇の配置とかも完璧で色々焦ってしまった。


 人の顔を覚えるのが苦手な私でも、彼女の顔はしっかりと区別がついてしまう。綺麗さの基準となるビーチェと比較してみると、最近はハルベルトの方がやや優勢で私の中の価値観が揺らぎつつある。これは大変なことだった。


 などと考えていたからだろうか。

 不意打ちだった。

 口の中に手を突っ込まれる。

 なんか、舌を摘まれた。


「ふあ? ふぁにふるの?」


「噛まないで口開けて」


 慌ててハルベルトを押しのける。


「いや、何? いきなりなんなの?」


「だから、契約。呪文の座としての」


「それで何で舌を摘むの?!」


「舌っていうのは調音器官の一つで、それでいてあなたの象徴である触手のアナロジーでもあるから。ハルたちの繋がりを強固にするのに最適な部位」


「そういうものなんだ――」


 困惑しつつも、お師様がそう言うなら、と私は口を開いた。

 ちょっと、いやかなり怖いけど、それが必要なら。

 ハルベルトの細い指先が私の平たい舌の表面をなぞっていく。


 敏感な表面が呪力を感知。刺激に対して反応しそうになる神経反射を押さえ込んで、寝台の敷布を強く握る。

 喉に近い奥の方。

 何らかの呪文を刻まれているみたいだけれど、それが何かは私には教えない、ということだった。

 秘密、神秘こそが呪文の力を強くする。


「だから、ハル以外の誰かに口の中を見せたら駄目。歯医者と口腔外科にかかる場合は守秘義務誓約があるから大丈夫だとは思うけど――念のため個別に呪文で口外を禁止すること」


「ふぁい」


「動かさないで」


 真剣な口調で怒られた。ごめんなさい。

 そうやって、なんだか長いようで短い時間が終わった。

 口をずっと開いていたら少し顎が疲れてしまったみたいだ。唾液が溜まる度にハルベルトが極微レベルにまで弱めた【生命吸収】で吸い出してくれたけど、あの大量の唾液はどこに消えたのだろう。不思議だ。


「じゃあ、次はアズがして」


「はい?」


 そう言ってハルベルトは目を瞑る。

 そして、私の目の前で口を開いた。


「何?」


「――だから、同じ事をアズもハルにするの」


 あ、そういうことか。

 考えてみれば自然な成り行きだった。

 主人と使い魔、師匠と弟子、姉と妹――こうした関係は、決して一方的なものじゃなくて、双方向的なものなのだ。


 その事を思い出した私は、先程ハルベルトが私に対して用いた技を思い出し、摸倣して再現する。

 大人しく目を閉じて口を開くハルベルトはなんだか餌を待つ雛鳥みたいだ。

 いつもは目つきがだいぶ悪いので、こんなふうにしていると大変可愛らしい。

 うーん、もうちょっと見ていたいな。


「はやくして」


「はい」


 急かされたので急ぎ口腔内に指を入れる。

 熱い吐息がかかって、唾液で指先がしっとりと濡れた。

 ハルベルトの口は小さいと思っていたけれど、目一杯開いているので私の指先はちゃんと入る。ずっと開きっぱなしにさせてるときっと疲れさせてしまうだろう。手早く済ませないと。


 契約の呪文と、儀式の核となる私だけの呪文を構築していく。

 溜まった唾液はこっそりと伸ばした触手で吸っていく――ばれないよね?

 指で真っ赤な舌を撫でて、なぞって、文字を描いて。

 彼女が知らない、私からの呪文を刻み込む。


「ハルも、これは誰にも見せちゃ駄目だからね」


 肩を軽く叩かれて、何かと思って見ればハルベルトは端末を手にしていた。


『当たり前』


 いつかみたいに、文字で言葉を伝えてくる。

 それがなんだかおかしくて、呪文を記す指先がちょっとだけずれてしまう。


「あ」


『あ、ってなに。何があったの』


「大丈夫大丈夫、問題無いよ」


 実際に大丈夫だった。許容範囲である。

 というわけでその儀式はつつがなく終わった。

 私の舌に刻まれた呪文がどんなものかはわからないけれど、それはハルベルトが知っている。


 相手のことを相手よりも一つだけ多く知っている。

 そんな些細な事が、どうしようもなく嬉しかった。

 だから大丈夫。

 彼女に私自身を預けるということを、私はもうすっかり受け入れてしまっていたのだと、その時改めて思い知った。


 その後、ハルベルトはやたらとくっついてきては「一緒にステージに立って」だの「バックダンサーとかでいいから」だのと無茶ばかり言って私を困らせ、乱入してきたミルーニャに三秒でねじ伏せられて涙目になったりしていたが、最後の「曲に詞を付けて」というのには私も心動かされてしまった。

 

「でも、そういうのってもう決まってるんじゃないの?」


「ライブの予定に無い新曲を最後にねじ込む。そしてそれは呪文の座であるハルが行う真の呪術儀式でもある」


 なら――それを手伝うことで、私は呪文の座の使い魔として本当にハルベルトを手助けすることができるのかもしれない。


「ハルを支える方法は沢山ある。けど、アズには言葉を任せたいの。あなたの言葉を歌いたい。そう思うから」


 みんなで集まって今後の方針についてそんなふうに話をしていると、出し抜けにどこからか白黒兎がやってきた。


「あ、クリアせんせーだ」


「タマちゃん先生、どうしたんですか」


 私のもう一人の師はぴょこぴょこ二足歩行で私たちの中心にやってくると、ぱんぱんと手を鳴らしてお菓子をみんなに配っていく。

 それから気取った仕草で片眼鏡に手をやりながら、


「思い出しますわね、ワタクシもかつて歌姫の作詞を担当したことがございます」


「タマちゃん先生が?」


「カタルマリーナお姉様の?」


「あれは夜月が幾つの闇を巡った時代だったでしょう。ニューアルバムについて迷っていらした彼女の手を取って、詞とはお菓子のようなものである、と言うことについて熱く語り合いましたの。手で。にぎにぎと」


「はあ」


「作詞のコツをアドバイスできると思いますわ。肝要なのはクルクル回って優雅にターン!」


「それもう作詞じゃないですよね」


 相変わらず訳のわからない人だなあ。

 らしいといえばらしいのかもしれない。

 キュトスの姉妹の中でも、この人は基本的に自由人だ。カタルマリーナ派のようでありつつも他の派閥――というかほぼ全ての姉妹と何らかの交流があったりするようだし。


 白黒兎は左右で色が違う耳をぴこぴこと動かしながら、私とハルベルトを交互に見た。そして、どこか感慨深そうに呟く。


「ワタクシたち、いつか出会った際にはきっと固い絆で結ばれるとかねてより予感しておりましたの」


「そうなんですか?」


「ええ。ですから、どうかこれからも末永く――」


 不可思議な言葉は虚空に響いて消える。

 誰かがかけた思い出の呪文。

 泡のように浮かんで消えていく、死と絶望の直前にあった、そんな一幕。

 暗転。





「少しだけお時間をいただけませんか」


 そう頼まれて、断れる私では無い。

 ミルーニャの導きに従って、私は暗い個室に連れてこられていた。

 彼女の工房、その地下に設けられた部屋――祭壇、だろうか。

 重々しい雰囲気、見慣れない多数の機械に呪術的な意味を工学的に操作するために機能的に配置された呪具。


 ミルーニャが映像投影機を操作すると、高精彩な立体幻像が現れる。

 落ち着いた雰囲気の女性だな、と思った。

 ゆったりとした長衣は瑠璃色で、表情は宗教画の聖人のよう。

 小さな壺を持っているが、あれは何だろう。


 ぴんとくるものがあった。

 きっとあれは薬壺だ。

 面識は無かったけれど、圧倒的なまでの存在感でその正体はすぐにわかった。ミルーニャが紹介した、ということは間違い無いだろう。

 キュトスの姉妹が四十六位、ベル・ペリグランティアその人で間違い無い。


 お互いに挨拶と自己紹介を済ませて、私は予想が当たっていた事を知る。

 通信映像の中で、ミルーニャの師は感情の読みづらい笑みを薄く浮かべた。


「ごめんなさいね。忙しいところをお時間とらせて。けれど、どうしてもあなたという名前を一度見ておきたくて。ハルベルト=ヴァージリアが選んだあなたを」


「名前を見る、ですか?」


「ええ――これも奇縁というものなのかしらね。私の異名をご存じ?」


「いえ、不勉強で申し訳ありません」


「いいのよ。四十六位なんて位階にいる姉妹のことなんて知ってる方が驚きだもの。それでね、私の号は【瑠璃光の薬師】っていうんだけど」


 製薬会社の社長らしい――というか医術や薬品を司る魔女らしい二つ名だ。瑠璃光というのがよく分からないけれど。

 けれど、その次に彼女が口にした言葉はもっとよくわからなかった。


「ヴァイドゥーリヤ――トリシューラに異界の神話を教え、呪術医としての手ほどきをした私が、メートリアンを通じて貴方という存在に引き合わされた。興味深いわね」


「ええっと」


 ううん、なんだか意味が分からない。

 というより、わからないように言われているように思える。


「見せて頂戴、アズーリア。貴方が語る詞章、未知なる異言浄瑠璃を」


 こっそりと、ミルーニャが耳打ちしてくれた。


「アズーリア様の作詞と物語素体編纂の呪文に期待している、と師は仰せです」


 なるほど。

 それならば、期待に応えるにやぶさかではない。


「お任せ下さい。必ずや、素敵な結末にしてみせます」


 医術の魔女はにっこりと微笑んだ。

 それから、そうそう、と付け加える。


「そういえば、保存していたメートリアンの万能細胞の件だけれど。あの毛髪やらは本当にあなたの同意があって送ったのよね? 摸倣子解析は既に開始して」


「ぅわあああー!! あーあー! なんか機材の調子が悪いみたいですねー!」


 何故かミルーニャが大慌てで騒ぎ出し、映像はふつりと途絶えた。

 わけもわからずその場所から追い出されて、その一幕は終わりを告げた。

 そんな、ちょっとした出来事。

 暗転。




 ――――幕間内幕間『スペル』 終――――







 迷宮都市エルネトモランは、悲鳴と悲惨で溺れかけていた。

 溢れかえった死人、そして迫り来る魔将の脅威。

 次々と斃れていく修道騎士たち。

 絶望と恐慌に駆られ、人々は冷静さを忘れて逃げ惑う。


「どけっ、俺が先だっ」


「お願いだからこの子だけでも!」


 積載人数を超過して詰め込まれた列車や大型箒から人が振り落とされ、そこに群がる死人の群れ。襲われた者もまた死人となり、涎を垂らしながら生者を求めて徘徊を始める。


「連中、呪力に反応しやがる! おい、九位以外全員追い出せ!」


「ふざけんなっ、てめーらだって呪具持ってるだろうが!」


 ある者は迫り来る死人の脅威すら忘れて互いに罵り、ついには争い合う。

 先を見越して商店の食料品売り場に向かった人々は、既に溢れかえっていた死人に襲われる。


 大型車輌の運転手が警笛クラクションを鳴らしながら死人たちを次々と轢いていく。はね飛ばした中には生きている者もいたが、必死な運転手はそんなことには気付かない。


 車体に縋り付いた大量の死人。

 正面の窓に張り付いた夥しい人影によって視界が遮られ、運転を誤って建物に突っ込む。爆発炎上。

 中から炎を纏った死人たちがゆっくりと現れる。


 あらゆる交通機関が次々と機能停止し、病院の霊安室を起点として発生した大混乱は周辺に波及。

 報道関係者たちは必死に状況を伝えようとするが、早口に喋る女性報道官が背後から死人に襲われたかと思うと念写官の視界までもが揺れ、直後に断絶。


 物陰に隠れ、端末を手に必死に遠方の家族に連絡しようとした者が呪力を感知した死人に群がられる。

 都市の外側から詳細を知る術は次々と失われていく。


 第十三区に存在する【異獣動物園】が解放され、自由を得た地獄の住人たちが暴れ出し、死人に噛み付かれた様々な動物たちが暴れ狂う。

 錯乱した古代の巨象が牙を振り回して舗装された道を踏み砕きながら疾走し、内臓をはみ出させた狂犬たちが屈強な戦士に飛びかかって素早く噛み付いていく。


 第六区では歴戦の探索者や呪術師、大学関係者たちが結界を張り巡らせて死人の侵攻をかろうじて押し留めていたが、ある者が親しい相手が死人化していることに茫然自失となり、空いた穴から死人の侵入を許してしまう。

 混乱は終わらない。

 安全な場所など、もはやエルネトモランにはどこにもなかった。


「ねーちゃん、怖いよ」


「大丈夫、大丈夫だから」


 混乱に包まれた市街地を、姉が小さな弟の手を引いて走る。

 その目の前に、虚ろな目をした男が現れる。


「お父さん!」


 少年の表情がぱっと華やいだ。

 対照的に、少女は青ざめてその死人を見ることしかできない。

 天の御殿をも取り込んだガルズの浄界は、死者の記憶を再生する。

 死んだはずの父親が理性のない死人となって現れるという残酷に、少年は歓喜し、少女は恐怖する。


「お父さん、助けに来てくれたんだ!」


「駄目、行っちゃ駄目!」


 目を輝かせて死人に走り寄ろうとする弟を必死になって庇おうとする少女に、ゆっくりと迫る影。

 市街地に混沌が広がっていく。

 そして、秩序が維持されている場所ではそれ故に生者と生者が争い合う。

 地上に存在する巨大な教会の礼拝堂に立て籠もった人々の中心で、青年が熱弁を振るっていた。


「この苦境でこそ! 我々は父なる槍神に祈りを捧げ! 敬虔な心で信じるべきなのです! さあ皆さん、清浄なる世界を実現するために祈りましょう!」


「何が槍神じゃ、肝心な時に何もしてくれん神など碌なもんではないわ! 加護を与えてくれるマロゾロンド様の方が遙かにましだろうが!」


 黒い長衣で全身を覆った老女は、典型的なマロゾロンド信者の霊長類に見えた。

 手に持った籠の中に入っているのはお菓子。信心深い老女はマロゾロンドに祈りを捧げる為に教会を訪れていたが、その最中に混乱に巻き込まれたのだ。


 小さな子供たちに菓子を与えて慰めていた彼女に、食料を公平に分配すべきだと文句をつけた青年。

 二人の間で口論が交わされる。


「お義母さん、もうそれくらいで」


「あんたはひっこんでな!」


 老女が、肩を掴んだ女性の手を勢いよく振り払う。

 その弾みで、黒衣が一瞬だけはだけてしまう。

 露わになる老女の手。

 闇のように暗い色。


 毛深いその手の甲を、礼拝堂の誰もが見た。

 お菓子を機嫌良く頬張る子供たちは不思議そうな顔をしていたが、保護者たちが大慌てでそれらを取り上げる。不満の声。


「おい、ばあさん、その手ぇ見せてみろ!」


「お、お止め! 触るでないよ!」


 屈強な男性が老女の黒衣を剥いて、その素肌を露わにする。

 豊かな漆黒の毛。反対側の腕は茶色くふさふさとした獣毛。


「ババア、てめえ半人狼だな?!」


「ならこの女もか! おら、大人しくしやがれ!」


「お止め! その子は死んだ息子の嫁で血は繋がって無いんだよ! そいつなんぞ娘でもなんでもないわ!!」


 必死になって関係が無いと繰り返す老女と、悲鳴を上げる女性。

 集団の中心であった青年が、礼拝堂に響き渡るように叫ぶ。


「あなたには神の怒りが下されるでしょう!」 


 背後に聖なる槍の彫刻、頭上からは色つき硝子から月光が柱となって降り注ぐ。

 精神に働きかける『場』の作用。

 青年の姿はどこか神々しく感じられ、その場にいる人々は極限の精神状況で縋るものを欲していた。

 誰もが青年の背後に槍神を見た。


「今こそ! 我々人類は一致団結して槍神に祈りを捧げるべきです! さすれば救いが訪れるでしょう!」


「そうだ、人狼には法が適用されねえはずだろ」


 誰かが、思い出したように呟く。

 賛同の声が次々と上がる。


「異獣なんざ追い出しちまえ! 死人どもの仲間じゃねえか!」


「おお、皆さん、わかっていただけますね? 均質な祈りに、異物は必要無いのです。異獣とは人では無いのですから。調和と秩序こそ至上!」


 にこやかに笑う青年が、かつて異獣との融和を叫んでいた事を知るものなど、誰一人として存在しない。


「追い出せ! 追い出せ!」


「やめとくれ、その子が死んじまう! あたしゃ構わないから、その子だけは!」


「ねーお母さん、なんでみんなはお菓子のお婆ちゃんをいじめるの?」


「しっ、見ちゃ駄目よ」


 秩序の名の下に、絶望と悲鳴が生み出されていく。

 エルネトモランの各所で、同じような出来事が起きているのだった。





「かくして世界の崩壊は始まった――か。この一面の青い闇の中で、果たして下界の人々はどう振る舞うのかしらね」


 儚い声が駕籠の中から響いた。

 会場から少し離れた場所に残っていた兎たちの集団もまた、死人の軍勢に襲われていた。それも、魔将によって強化された異形の死人たちだ。


「お逃げ下さい! ここはもう限界です、陛下!」


 強力な怪物に相対しながらも、一歩も退かない耳長の民の精鋭集団。

 呪文と杖の適性に優れた兎たちは魔導書を手に強化死人を迎撃する。

 しかし、限界はいつか訪れる。

 ただでさえ、駕籠の内側から漏れる呪波汚染で肉体を蝕まれているのだ。むしろ、兎たちにとってはそちらの方が脅威であった


「この場を離れましょう! 残念ですが、あの方はもう――」


 必死になって叫ぶ兎たち。

 駕籠の内側から出現した無数の武器――中央に柄があり、その上下に槍の穂先めいた刃が付いた武器だ。刃の数は一つだったり三つだったり鈴が付いていたりと多種多様。一番多いものは九つもある。


「陛下、このような場所で金剛杵を使用することは許可されておりません!」


「大丈夫、ちょっとだけ。弾き飛ばすくらいならあの人も許してくれるでしょう」


 金色の武器が浮遊し、磁力の結界を構築して死人たちを吹き飛ばす。

 兎たちは大慌てで駕籠を担いで避難を続けるが、内側の貴人の指示は高所で状況を見守れというもの。

 未だ混乱の中心たる第一区から逃げられず、心労に胸を痛めながら兎たちは駕籠を運び続ける。


「さあ、見せて頂戴、ヴィルギリア。貴方が選び取った、呪いのかたちを」


 駕籠の中でざわりと凄まじい呪詛が渦巻いて、強化死人の猛攻にも耐えきった兎たちが思わず膝をつく。

 外界の様子など些末事とばかりの平然とした口調。

 ただ静かに、御簾の奥でその女性は呟いた。


「夜が明けた後。青空に昇る月は、何色をしているのかしらね」




 ――そして。

 誰かが、その呪文を口にした。

 それは歌詞だったのかもしれない。

 ただの散文詩だったのかもしれない。

 あるいは、意味のない呟きだったのかもしれず。

 もしくは、他愛ない引用という可能性もあった。

 いずれにせよ、それが始まり。


「言理の妖精語りて曰く」


 離れた場所で、同時に発せられたその詠唱。

 絶望が広がり、大量の死が積み上がる中。

 三つの呪術儀式、その最初のひとつである【過去】の歌が甦ろうとしていた。


 曲名タイトルは――【この夜が明けるまであと百万の祈り】。

 


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