3-88 言葉は断ち切られ、絶望は感染する。そして
邪視と呪文に秀でた夜の民、
マロゾロンドの影響を強く受けた者は
高貴な空の民である母親の寝所にマロゾロンドが顕れた事で生まれたと言われている、伝説の呪術師。
マロゾロンドの子らとも呼ばれる九人の幽鬼の中で最も優れた霊媒――つまりマロゾロンドの器であったにも関わらず、母親が子供を産んですぐに槍神に祈りを捧げた為に創造主からの干渉が妨げられ、しかし影から呪力を引き出す能力だけが残ったと言われている。
キャカール十二賢者の旧二位として様々な予言を残したり、かつて中原(現在はこの国アルセミットがある場所のことだ)に存在した大国キャカールを統べていた偉大なる獅子王キャカラノートを導き、補佐をしたという神話の登場人物。
スキリシアを離れ、黒百合宮から地上社会に出てから驚き戸惑ったことの一つは、優しき賢者ユネクティアが恐るべき魔将の一人だと伝えられていた事だ。
そして今。
私は、神話と対峙していた。
「
魔将が浄界を発動させたにも関わらず、世界には何ら変化が無い。
ただ静謐に対峙し、共に黒衣のまま立ち尽くす。
私は地に足を着け、相手は浮遊する奇怪な怪物の上に立っているという違いはあるものの、ただ睨み合っているだけなのは同じ事。
しかしそれは、実世界でのことだ。
かつて私がエスフェイルの【影棘】をフィリスで解体した後も、似たような戦いを繰り広げたものだった。
きっとアキラあたりにはただ無言で睨み合っているようにしか見えなかったに違いない。物理的には事実そうなのだ。
けれど私たち夜の民にとって、影の中で戦うという事は全ての枷を解き放って全力でぶつかり合うようなもの。
傷つける力が増し、傷つけられる危険性も増す。
まさに両刃の触手だ。
私は意識を影の中に集中させながら焦燥感を抱いていた。
強い。
少なくとも影の世界での戦いにおいて、第十一魔将ユネクティアは第十五魔将エスフェイルの遙か上を行く。
影の下、天に夜月が輝く世界。
一面の闇の中を私は青い翼を広げて高速飛行する。
皓々と輝く夜月の明かりを、何か巨大な物体が遮った。
落下してくるのは無数の石版だ。
それらは次々と落下してある一点で停止すると、環状に並んで何らかの意味がありそうな形状を作り出す。
彼方から飛来し、闇の中に浮遊していく夥しい数の環状列石。
それこそが魔将ユネクティアの浄界なのだろうか。
中身の無い黒衣が異形の怪物に乗った魔将が私の目の前に出現する。
怪物が繰り出したかぎ爪を、枝角で受け止めた。
「珍しいかい? 環状列石なら確か『上』にもある程度残していたはずだけど」
並んだ石版が図像的意味を収束させて呪力の奔流を解き放つ。
閃光の柱はまっすぐに私を照準していた。
上下左右、あらゆる方向から迫り来る光を回避し続け、反撃の触手を解き放つ。
影がユネクティアを乗せた怪物の全身に絡みつき、強固に束縛する。
だが、魔将エスフェイルですら振り解けなかった私の束縛は容易く引き千切られてしまう。
暴れ狂う怪物が獰猛に牙を剥いた。
「おっとっと。これは危ない。こら、落ち着きなさい」
冷静な声でたしなめると、浮遊する手綱が撓む。
黒衣の袖だけがふわりと動いていた。
「大した束縛の腕だね。この子が一瞬とはいえ動きを止めるなんて」
ユネクティアはさして感動しているふうでもなかったが、静かにそう言って私を賞賛した。足下で怪物が長い首を振り回して私の触手を打ち払う。
歪んだ顔はどこか凶暴な犬を思わせる。蝙蝠の羽に蜥蜴の尻尾、かぎ爪の付いた短い足。
その細長い首の先にある乱杭歯の隙間から、黒々とした煙を吐き出していた。
燻る怒りを形にしたような唸りを喉から発する。
「冬の魔女の氷血呪でも使わなければこの子の動きを完全に止めることはできないよ。というか、氷血呪の使用を促すための使い魔なんだけどね?」
「ならっ」
私は矛先を変えて、ユネクティア本体を狙う。
しかしユネクティアは黒衣だけの存在だ。
内側には何も無い――何か『いる』ことだけは確かなのだけれど。
その気になれば幻姿霊はどのような姿にもなれる。生まれついての変身者だ。
けれど、この魔将はあえてそうした姿を晒さないことを選んでいる。
相手の存在が掴めない。私がフィリスをユネクティアに対して使えないのは、それが最大の理由だった。
無数の触手が魔将の黒衣に突き刺さっていくが、強烈な閃光が私の触手を全て切り裂いていく。
凄まじい激痛と違和感。
おかしい――いくらなんでも強すぎる。
夜の民は光に類する術を使えないというわけではない。
月光や星の光をはじめとしたイメージを用いれば、空の民や三本足の民が司る太陽や燐血の民が司る炎や雷のように光を発生させることは容易い。
しかし、それにしてはユネクティアの放つ光線は輝きが強すぎる。
「意外かい? 僕が光を操れることが」
列石が放つ光の柱をかいくぐりながら、影の世界で闇と光を撃ち合う私とユネクティア。追われているのは私だった。
「簡単な理屈さ。僕の邪視が操るのは『影』なんだよ。光があれば影ができる――これらは本来表裏一体。影とは光のことだ。日影と月影。月明かりもまた元を正せば太陽の光。ずるいとは言わないでくれよ、これは一つの独立した能力、僕の世界観なのだから」
ユネクティアの目の前から放たれる光線が無数に分裂して、更にその周囲をまとわりつくようにして影の触手が複数放たれる。
直線的な動きと曲線的な動き。
そこに、更に不可視化させた光線と触手が入り交じり、複雑怪奇な同時攻撃となって私に襲いかかる。
枝角と後ろ肢から伸ばした触手でかろうじて五割は迎撃できたが、残りが青い翼を打ち据え、貫いていった。
激しい痛みに、精神集中が途切れて紡いでいた呪文が霧散する。
「いやあ、歳を重ねると話好きになってしまうねえ。色々手の内を明かしてみたんだけれど――どうかな。僕の解析は進んでいるかな? ちなみにこちらはさっぱりだよ。君はどういった存在なんだろうね?」
朗らかにいいながら、魔将が私の目の前に回り込む。
黒衣の中の空白が、黒く発光したような気がした。
『君の、名前を、教えて、くれるかな?』
「アズー、リア」
はっとして、我に帰る。
【心話】による強制的な暗示。激痛でこちらの気が緩んだ隙を狙った完璧な攻撃だった。
しかし、相手はその名を掌握して漆黒の靄をこちらの身体にまとわりつかせようとして――失敗した。
おや? と訝しむユネクティア。
「ふむ。君は『猫に名付けられた子供』なのかな? 僕やエスフェイルが使う『黒』の色号とは相性が悪いな。エスフェイルが敗れたのはそのへんの理由もあるのかな――」
私は枝角から呪力を炸裂させて牽制と同時にその場を離れた。
穴の空いた翼を強引に触手から移植した細胞で摸倣して塞ぐ。応急処置だがこれでどうにか戦闘は続行できる。
追撃の光線を回避しながら、本命の不可視化触手を薙ぎ払っていく。
「実は僕もエスフェイルもそういう名前を貰ったんだけどね。大分前に捨ててしまったよ。彼の名が傑作でね。『狼色』って言うんだよ。もちろん、当時は意味不明な音素の連なりだったけれど」
どうでもいい戯れ言を口にするユネクティアが放つ光線。
その一本を私は正確に補足し、触手で絡め取る。
捕まえた。
いかに実体の無い相手であっても、邪視攻撃の瞬間だけは世界を知覚しなくてはならない。
ならば、邪視による光線を遡って辿っていけばユネクティアという存在に辿り着ける。
光の中を逆流していく闇が黒衣の中に注ぎ込まれ、全力を注ぎ込んだ巨大な呪文が魔将の内側で炸裂する。
その防御はあまりにも脆い。
存在が余りにも儚くて、確かな実体を持ったエスフェイルとは対照的だった。
もしかすると、ユネクティアは復活した魔将たちの中で最も弱いのではないか。
大魔将は別枠としても――ユネクティアの存在の密度は脆弱すぎる。
文字通り、吹けば飛ぶようだ。
恐るべき威圧感を放っていた魔将たちの中でその存在感は余りにも小さく、誰と戦わせても『上』という感じがしない。
だというのに。
私は確信していた。
この魔将より危険な存在はあの中には一人としていない。
ユネクティアは私の天敵だ。
「お前は存在しない――お前は、幻影だっ」
強く叫び、呪文を構築していく。
渾身の呪文を叩き込んだにも関わらず、傷ひとつ無い黒衣がゆっくりと近付いてくる。その左手から伸びるのは、暗い緑色をした細長い葉。
「これでもクエスドレム様の『手札』が参照する対象の中では最強の『切り札』と呼ばれていたんだよ――文字通り、切るのが得意でね」
無数の触手を一瞬で引き裂いて、『槍』とは在り方を異にする『剣』が月光を反射しながら振り上げられる。
私は枝角の付け根に絡まっていた金鎖を砕いて叫んだ。
「遡って、エル・ア・フィリス」
解き放たれた無彩色の光、解体の呪文を、魔将は真っ向から迎え撃つ。
「断ち切れ、エアル・ア・フィリス」
言理の妖精と言理の真葉がぶつかり合い、勝敗は一瞬で決した。
拮抗さえしなかった。
斬撃が解体の呪文を両断し、私の左の枝角を半ばから切り裂いて、翼までも断って抜けていく。
無数の光線が全身を貫いて、傷口から不可視の触手が入り込んで私の全身を蹂躙する。
致命傷だ、と思うよりも先に翻った刃が私の胴を切り裂いて、怪物の細長い首が伸びて齧り付いた。
「確かにその言理の妖精はほぼ万能の力みたいだけど――明白な弱点があるね。それはね――『ごちゃごちゃと色々と並べ立てているけれど、それって要するにただの言葉だろう?』」
それこそただの言葉だった。
けれど、邪視者が強い確信と共に言い放つその言葉はなにより力強く、そしてただの確信だからなにより早く、速い。
ユネクティアは不可視だ。
だからこそ気付くのが遅れてしまった。
ユネクティアは第七階梯の邪視者だ――つまり自らの世界観を確信している。
邪神、つまり巨人の位階にまで上り詰めた最上位の邪視者。
不可視の存在、実感の湧かない浄界。
けれど、それは余りにも巨大すぎて理解し難いだけだった。
広大に拡散した、光、像、景色。
それは影。
視覚的に理解できる世界の全てがユネクティアなのだ。
余りにも巨大すぎる怪物の中の怪物。
一つの神群の主神にも匹敵する呪力が光と影の中に充溢する。
私はこの魔将の本質を正確に理解することすらできていなかったのだ。
邪視は呪文より速く、呪文より強い。
そんなこと、わかっていたはずなのに。
私はガルズの金眼が信じる『空虚』に負け、ここでもまたユネクティアの幻姿が映す『影』に負けてしまう。
「おっといけない、殺してしまう所だった。さて、どうしてこんな所に言理の妖精がいるのかだけれど――始まりの魔将は終わりの魔将と一揃いになっているはずだ。つまりこれは――全く、あの方の気紛れにも困ったものだ。昔から振り回されっぱなしだよ。安心して隠居もできやしない」
意味不明な事を呟きながら、光と闇の触手を動かして私を持ち上げていく。
「まあ、情報構造体の摸倣は既に完了しているから実は用事は済んでるんだけどね。安心して欲しい。君に与えられた人格と役割は私がエミュレートするよ。言理の真葉でも十分にその妖精の代役になるからね。あの方には怒られるだろうけど、今の僕は彼の配下というわけでもないのだし」
「何、を――」
「君は交換可能な存在だということだよ、アズーリア。そしてフィリスも同じだ。唯一無二の存在なんてこの世にはいやしないということさ。君がここで死んでも世界は正常に回るってことさ」
ユネクティアの言う事はほとんど理解できなかったが、確かな事が一つある。
この魔将は、私をこれから殺そうとしている。
触手が引き抜かれ、私は闇の中に投げ出された。
「ああ、丁度あっちも終わったみたいだ。うん、優れた弟弟子を持って誇らしいやら肩身が狭いやら」
「さっきから、何を」
「弟子が師匠に勝ることもある、ということさ。兄弟子と弟弟子ならばもっとよくある出来事だよ――さあ、エスフェイル。きみの為にとっておいたよ」
寒気。
天に輝く夜月から、見覚えのある黒い棘が降りてくる。
「エスフェイルッ」
「貴様は殺すと言っただろうが。このエスフェイルがなっ」
ありえない。
あの
だけど、今もまだ地上で増援としてやってきた修道騎士と交戦しているはず。
現在進行形で、私はその映像を視認しているのに。
愕然とする私の目の前に、黒い棘と黒衣が並ぶ。
「流石は師兄。完勝ですな」
「僕の存在は酷く希薄で脆弱だよ、きみも知っているだろう。名前の掌握に関してはきみに追い越されてしまったし、不死の食物の扱いではダエモデクの方がずっと才能豊かだ。黒の色号使いとしては僕は下の下といった所かな」
あからさまな謙遜――いや、事実であってもそんなことは問題にならないと自負しているのか。
黒い棘に包まれた脚が、先端をこちらに向ける。
錯覚かもしれないけれど、にやりと笑ったような気がしてならない。
「どうしてここに貴様がいる」
「馬鹿めが。私は最初から四つ脚だ」
一瞬だけ意味が分からなかった。
そして、何故こんな単純なことに気付かなかったのかと自分を殺したくなった。
エスフェイルは人狼、つまり夜の民だ。
夜の民は分裂できる。
大人になって自我が固まるとそれは困難になるが、不可能というわけではない。
かつて第五階層で戦った時も奴は本体である四つの脚をそれぞれ分離させて飛ばしてきた。
エスフェイルは、自分の名前が『闇の脚』であることと、『狼の脚は四つ』であるという二つの事実を関連付けして、自らを四分割しても自我を強固に維持することに成功していたのだ。
意識を色々な場所に分散させていたせいで一カ所に集中できなかったのが仇になった。
よくよく思い返してみれば、セリアック=ニアと戦っていた時のエスフェイルが黒い棘で包んでいたのは腕一本だけだ。
「そんな、あれが、四分の一の力――?」
「力が巨大であればいいというものではないわ、馬鹿め。要は使い方よ」
横薙ぎの一撃が私の胴を撫でた。
黒い棘が青い身体を引き裂いて、鮮血を撒き散らす。
苦痛の声を漏らす私を愉悦に満ちた哄笑と共に見下ろすエスフェイル。
決定的に私は敗北していた。
そして、他のみんなも。
地上の光景が、私の認識に次々と送られてくる。
修道騎士たちは次々と敗れ、死んでいく。
「敵将、討ち取ったり!」
万殺鬼アインノーラの決闘に敗れたバルの首が掲げられる。
「くそっ、残弾がっ」
ナトが裸になった翼を破壊され、次々と襲いかかる虹色の矢によって手足を砕かれていく。
「斬首刑に処す。全軍、蹂躙せよ」
強化死人を率いる朱大公クエスドレムとガルズ、マリーが遂に市街地に現れてしまい、更には痩せた黒蜥蜴ダエモデクが吐き出す『死』の瘴気が序列十四位の修道騎士マリキアンと彼の副官が纏った試作型神働装甲七型を腐敗させていく。
メイファーラは奈落の中で消息不明。
ミルーニャとリーナも銀霊サジェリミーナの浄界に閉じ込められて消息不明。
リールエルバとセリアック=ニアはエスフェイルの【
数多くの修道騎士たちがアケルグリュスとハルハハールの魅了呪術と説得に応じて離反。
ペイルとイルスは死人たちに囲まれて孤立。
ベフォニスの前に立ったプリエステラは魔将が行動をする前に自ら杖を振り回し、次々と修道騎士を薙ぎ払っていく。
舞台に種を落とすと、伸び上がった即席植物の梢から呪術を解き放つ。
蔦で絡め取られた修道騎士たちが次々と意識を失って倒れていく。
実世界に立つ私にも杖が向けられ、私は無数の蔦に束縛されて動けなくなった挙げ句、麻痺の呪いによって行動不能になってしまう。
黒百合宮で一緒に束縛の呪術を学んだ私にはわかる。
これは完全な非殺傷呪術。
動きを制限して相手を無力化するためだけの呪いだ。
プリエステラは、ベフォニスが手を出して修道騎士たちを殺してしまう前に、可能な限り修道騎士を無力化しようとしていた。
けれど、そんな行動は当然のように誤解を生んでしまう。
「あの
「やっぱり異獣は異獣ってことかよ」
「けど、団長はラベル剥がしたんだろ? さっきだってイルスさんが」
「構うな、撃て、撃て!」
そして、戦場のただ中で戦い続ける歌姫にイナゴ型の神働装甲が襲いかかり、呪文によって紡がれる防御障壁を一枚、また一枚と剥がしていた。彼方から飛来した矢が、呪石弾が、投げ槍が、絶対の防御に亀裂を入れていく。
雨あられと降り注いだ矢と弓弦の音が紡ぐ呪文。
鰓耳の民を中心としたアストラル界からの攻撃。
更には一時的に離れていた魔将二人が戻り、包囲して攻撃を繰り出す。
非実体世界、実体世界の両面で完全に囲まれながら、歌姫はそれでもたった一人で奮闘を続ける。
だが、次第に疲弊し、僅かな遅れがその鉄壁の防御を貫通した。
そしてついに、彼女の耳を偽装していた幻術が引き裂かれてしまう。
露わになった、左右非対称の耳。
一瞬にして拡散された情報。
噂を司る天使、囁きのエーラマーンの加護を引き出した神働術によって全世界に流布した風説が一気に膨れあがり、刃となって歌姫をずたずたに引き裂いていく。
「つーか誰」「これ念写?」「ゴリ押し死ね」「なにあれ、気持ち悪」「っつーか異獣じゃねえの?」「これは謝罪会見ものだろ」「騙してたってこと?」「幻滅だわー」「どうせ身体売って手に入れた人気だろ」「処女だと信じてたのに」「スピア信者今どんな気持ち?」「ざまあ」「死ね」「ブス過ぎ」「ていうか新曲が期待外れ過ぎた」「今エルネトモランどうなってんの?」「アルバム割ったわ」
あらゆるフィルタリングを突破して、無数の悪意と嘲笑が歌姫に降り注ぐ。
それでも歌姫は膝を屈することなく戦い続ける。
だが。
「今まで好きだったのになあ。歌が台無しになった感じだわー」
夥しい数の言葉の一つが、遂にその細い身体を貫いた。
あらゆる防御障壁が砕け散り、アストラル界に存在するアバターが切り刻まれて、無数の矢が次々とその身体に突き刺さり、弓弦が放つ呪文が全身を打ちのめし、覆い被さった鋼鉄のイナゴが頭蓋を叩きつぶして脳漿を飛散させる。
戦場に溢れる屍が一つ増え、そして歌は途絶えて消えた。
代わって響き渡るのは、魔将アケルグリュスの歌声だ。
戦場の趨勢は決した。
魔将たちの完全な勝利。
後には、逃れようのない絶望が待つだけ。
影の世界に哄笑が響き渡る。
「戦場を見渡して状況を完璧に俯瞰できている気にでもなっていたのか? 一人称使いの分際で、観察者特有の全能感に浸りたがるのは悪い癖だなあああああ? そうら、お前の目ならここだ」
言葉と共に、もう一つの脚が降りてくる。
その先端に串刺しにされているのは、片眼鏡と小さな帽子の白黒兎。
「タマちゃん先生――」
私のために、戦場を俯瞰して情報を集めてくれていた私のもう一人の先生にして使い魔。
キュトスの姉妹三十四位、お菓子の魔女タマラ。
アストラル界の談話室で【ジアメア】というアバターで現れたり、クリア先生として黒百合宮で私に色々なことを教えてくれた大切な人。
その彼女が、目を瞑ったまま静かに息絶えていた。
ユネクティアが、静かに告げる。
「僕らの情報を集めて解析することで、フィリスで一網打尽――というつもりだったんだろうけど、考えが甘かったね。見られていることには最初から気付いていたよ。だからこそ気付いていない振りをした。そうして油断した君に隠れてエスフェイルに動いてもらっていたんだ。露骨に敵意を振りまくエスフェイルの姿は滑稽だっただろう? それこそが君がかかった心理的な【陥穽】だよ」
かつて私は怒りと敵意に任せて飛びかかる振りをして、エスフェイルを【
その時の事を覚えていたのだろう、エスフェイルの二つの黒い脚が私の周囲を跳ね回って嘲笑する。
「私もお前も呪術使い。言葉を弄して呪文を手繰るのがその本領の筈、だったよなあああ? 一体どれだけ予断と油断を重ねれば気が済むのだ? ええ? 三流以下の
悔しい、悔しい、悔しい。
けれど、そんな感情よりもずっと強烈な喪失感。
どうしようもないほどの大量の死に、私の心は麻痺しかけていた。
人が死ぬ。
あまりにもあっけなく。
残酷という言葉すら虚しくなるほどに。
そう――空虚に。
気付けば、周囲には大量の死体が溢れかえっていた。
エスフェイルが片手間に虐殺した修道騎士たちは、私と同じ姿をしていた。
「修道騎士の夜の民部隊だそうだ。無謀にも影を潜行する我が道行きを妨げようとしたのでな。皆殺しにしてやった」
「殺す、殺してやる、エスフェイル!」
夜の民の修道騎士は数が少ない。
そして、眷族種の特性ゆえに異獣憑きの適性を持つ者が極めて少ない。
霊魂を認識して自らに取り憑かせる憑依型は霊媒でもなければ生来の呪術抵抗の高さから効率が低下し、肉体の部位の代替となる擬態型は疑似細菌の模造細胞と適合しない。
使役型は問題無いのだが、夜の民の強みである影への潜行が一緒に出来る使い魔が中々いない為、異獣憑きとして運用するよりもひとまとまりで独立した部隊にすることになっている。
言理の妖精という特殊な寄生異獣を宿した私は特例中の特例、異獣憑きの夜の民として、他の同族とは別の配属になった。
生活リズムもそちらに合わせているので、接点だって少ない。
でも、それでも。
私と同じ、仲間なのに。
「同胞を殺されて憎いか、青い鳥の狂信者。ところでここにいる貴様の同胞、名は何というのだ?」
「え?」
私が返事に窮すると、エスフェイルは鼻を鳴らした。
「ふん、なんだ、知り合いですらないというのか? 私は言えるぞ。黒き毛ディルムランは皮肉屋の現実主義者だがその実は理想家であった。鋭き牙ボームリアは一族再興を願う前途有望な若人だ。氷柱の吐息ジルミッサはその心優しさゆえに感情を凍らせ忠実に敵を屠る機械としての在り方を選んだ。長き爪アドーリオは寡黙だが実直なる真の勇士であった。雄々しき脚ハルフェイルこそは我が摸倣子形質を受け継ぎし者。我が子を無惨に引き裂いた仇ども、探索者などと抜かす下らん略奪者どもめ! あの三人の怪物にはどんな苦しみを与えても足りぬわ!」
エスフェイルの言葉には、心からの懐かしさと親しみ、そして煮えたぎるような激怒が宿っていた。
「――全て、直属の副官たちの名だ。その下に付いた幾多のつわものも含めれば、まだまだとても数えきれぬ。四つ脚の同胞と二つ脚の同胞たち。皆、我が配下にして家族たちだ。殺してきた者たちの名など気にならぬか、地上の狂信者め」
私が殺してきた人狼種。
生き残るために。
己のために。
妹を救うために。
地獄への道行きは、屍で舗装されている。
ただひたすらに殺し続けてきた結果。
その果ての景色がこれだった。
エスフェイルには、私を憎み、殺す正当な理由がある。
けれど、それでも私は。
最後に、三本目の脚が舞い降りてくる。
血みどろの闇の脚は、無数の呪文、夥しい情報量の文字列を纏わせていた。
「貴様がこの内側ばかり見ている間に、外はどうなっていたと思う? 私はな、他の魔将に先んじて影を経由して市街地に侵入していたのよ! その後は師兄が浸透した浄界の光でこの都市全域を覆い、死人を街に溢れさせてやった」
「それじゃあ、エルネトモランは」
「既に死人で溢れかえっておるわ! 死人使いたる私と死霊使いたるあの若造の複合呪術。狂乱の渦に飲まれたこの地はじきに滅ぶ。これから我らが外に解放されれば死の拡大はより加速していくであろうな」
何のために戦うのか。
何かを守る為? 何かを為し遂げるため?
それはもう、終わってしまっているんじゃないの?
何もかもが、絶望に閉ざされていく。
闇の中で、エスフェイルが叫んだ。
「感染しろ、死に絶えろ、苦しんで絶望しろ! 愚神を崇める地上の狂信者も、不信を抱きながら凶行を黙認し荷担し続ける連中も皆死んでしまえばいい! 死人の世界で、誰も彼もが無様な肉塊となり狂乱せよ!」
三本の脚が有翼の牡鹿としての私を引き裂いて、地上にいるエスフェイルの頭部が実体の私を食い荒らし、赤い頭巾の少女が唱えた呪文によって大地から隆起した岩の槍が胸を串刺しにした。
ガルズに解体された時のような迂遠な存在の否定じゃない。
もっと直接的で暴力的な、苛烈な死が私を襲う。
復讐を完遂したエスフェイルが吠える。
「貴様の次はあの男、シナモリ・アキラの番だ! あの探索者め、次は遅れを取らぬぞ――そういえば、奴の姿が見当たらんな? おおかた貴様と共に私を討伐した英雄などと祭り上げられていい気になっておるのだろうが、それも今日までよ」
そしてアストラルネットに接続して検索を始めたエスフェイルは、不可解そうに訝しんだ。
「何だと? 地上の狂信者どもは敵将を討ち取った勇士に栄誉も恩賞も与えぬというのか。ふん、改めて確認すべき事でも無いが――貴様ら、恥を知っているか?」
もう、何も聞こえない。
闇の彼方に、エスフェイルに沈められたセリアック=ニアとリールエルバの姿が見えた。
罠によって捕らえられ、この世界に落とされたのだろう。
何かを言おうとしたけれど、もう口を開くことすらできない。
私が何も出来ないでいるうちに、セリアック=ニアの首をエスフェイルが刎ね、リールエルバをユネクティアの光線が消滅させた。
「さらばだ。名も知らぬ狂信者よ。もはや知る価値も無いがな」
エスフェイルの言葉を最後に。
私は引き裂かれ、そして――無造作に死んだ。
【後書き】
ディスペータお姉様による『あとでテストに出ますからね』コーナー
「今回は第九魔将、賛同のピッチャールー。
実は旧世界ロディニオで作られた古代兵器で、非常に高度な技術で作られています。
というと鋼鉄の機械をイメージしがちですが、生物的なのに人工的という不思議なフォルムをしています。円筒形の肉塊、という感じでしょうか。
沢山ある目はつぶらで、敵と認識していない相手に手を差し出されると握手してくれます。意外と人懐っこくて、胴体の縁を撫でると目を弓のようにして喜びを表現します。
何でもかんでも賛成してしまう困ったクセがあるのですが、ピッチャールーが賛成すると不思議と誰もが『ピッチャールーが賛成するなら仕方無い』と思ってしまうそうですよ。人徳でしょうか。
魔将の派閥としてはセレクティ派、というよりユネクティアに従っているようですね。優しそうな人だから落ち着くんでしょうか?」
「次は第十魔将、三つ首の番犬サイザクタート。
サイザクタートは突然変異で首が三つあり、本来の頭部である真ん中のサイザクタートが見る夢によって左右の頭部『ディー』と『ダム』を操っているとか。しかし、実際にサイザクタートが起きている所を見たものは誰もいません。
夢と現実の境界をあやふやにする『朱』の色号使いで、魔将クエスドレムの弟子だそうです。派閥はレストロオセ派ですが、どちらかと言うとクエスドレム寄り。虹犬という種族はジャッフハリムの王族全体に対して忠誠を誓っているようですね。
一族の聖地『湖中穴』の奪回を悲願としていましたが、第三階層まで攻め込まれたことを切っ掛けに第三階層の支配者に任命されました」
「最後に第十一魔将、光の幻姿ユネクティア。
夜の民の一氏族である
父親が守護天使マロゾロンドその人であるという九人の霊媒は
派閥はセレクティ派で、魔軍元帥の参謀役だったみたいです。側近中の側近であったユネクティアが敗れた事で、地獄は虎の子である大魔将を動かす決意を固めた、という流れのようですね。
巨人の一柱でもあります。巨人というのは邪視を極めて『なる』ものなので、夜の民でありながら巨人というわけです。普通の幻姿霊の中ではほとんど神格化されているので、実際神のようなものなんですねー」
「こんな所で今日はおしまいです。『影』が光という意味を持っているのは日本語だけじゃなくてこの世界でも一緒みたいですよー」
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