3-86 影に沈み、振り返らずに去っていく①




 セリアック=ニアは苦戦していた。

 戦いが成立していたのは、ほとんど奇跡にも等しい僥倖である。

 第十五魔将にして人狼ウェアウルフの長、エスフェイル。

 直立二足歩行する狼は、右腕のみを漆黒の黒棘で包み込んで武器としている。

 切り払い、突き、抉り、しならせて引き裂いていく。

 三角耳の少女は力で劣っているわけでも、機敏さで負けているわけでもなかった。細腕からは想像もつかない猫の取り替え子チェンジリング特有の怪力。常人を超える瞬発力。そして高い呪力に加えて高度な教育。

 ドラトリアというマロゾロンドの加護を利用した技術の研究が盛んな国で王族として育ったセリアック=ニアは、当然のように夜の民が使える呪術に関する詳しい知識を有していた。

 本来、葬送式典の協力という名目にここまで来た人材なのだ。

 ゆえに、本来は夜の民と同種である人狼エスフェイルとも相性は良い。

 そのはずだった。


「くははははは! どうしたどうした、ぬるいぞ小娘ぇっ! 片腕一本でこれとは、少々情けないのではないかなぁ?」 


 剛腕が一閃され、セリアック=ニアは吹き飛ばされる。数回転がると、しなやかな動きで態勢を立て直す。四つん這いの姿勢のまま跳躍。

 直後、それまで彼女がいた場所に次々と突き刺さっていく無数の棘。


「ナーグストール!」


 セリアック=ニアは壁面を殴りつけ、砕けた建材を球体に変化させる。彼女の動きに連動するように、球体が連結したような巨大人体模型が壁を粉砕していた。

 抗呪術加工がされた壁面が変化するまでには時間がかかる。それゆえに中空に停止した無数の球が目眩ましになった。

 追撃する棘が球体をずたずたに引き裂いていくが、狙いが定まらない射撃はセリアック=ニアには命中しない。

 弾幕の速度と火力と範囲は厄介極まりない。命中精度がさほどではないのが唯一の救いだった。

 セリアック=ニアは先程手に握っておいた球体を完全に宝石化させた。

 呪石弾。それも、精緻に加工された高位の呪宝石弾である。

 セリアック=ニアの攻撃は三工程に分かれる。

 物体を爪で斬りつけるか殴りつけることで対象の球化を行う第一工程。

 球体を宝石に加工する第二工程。

 そして任意の呪文を封じ込めた呪宝石を一斉に炸裂させる第三工程。

 セリアック=ニアの能力の具現として影の中から出現する幻獣ナーグストールは彼女の肉体と同調して動き、同時に対象を攻撃し、時に防御も行う。

 遠隔操作することも可能だが、距離が離れれば離れるほど力と精密性は弱まる。

 セリアック=ニアはナーグストールの大柄な膂力を利用して、豪快に呪宝石を投擲した。

 それはエスフェイルの手前で強く輝くと同時に衝撃と轟音と熱を撒き散らす。

 夜の民の弱点を知悉しているセリアック=ニアは最適な呪文を瞬時に選択して呪宝石を創り出す。

 轟音で聴覚機能を奪い、呪香水によって嗅覚経由で幻惑呪術をかけ続けることも忘れてはいない。

 あとは接近し、相手の肉体を丸ごと呪宝石化させて熱と閃光の呪術を至近距離で炸裂させれば勝利できる。

 だというのに、何故。


「ふははは! 不思議かね? 攻撃を目で追えていない私が、音で把握できぬ我が、鼻が化かされているこのエスフェイルが、貴様の斬撃を完全に無効化出来ていることが!」


 繰り出した爪の一撃が、エスフェイルにあと少しで触れると言うところで届かない。数本の茶色い体毛が千切れ、丸まっていく。この規模では威力のある呪宝石は作れない。もう一度。

 セリアック=ニアは二度、三度、爪を繰り出し、その度にナーグストールが連動して拳を放っていくが、全て有効打になる前に紙一重で躱されてしまう。

 飛び散るのは相手の肉体ではなく、体毛だけ。

 反撃の右手が振り払われ、セリアック=ニアは腕を交差させて防御しつつ飛び退った。いかに強靱な肉体を有していてもまともに受ければ酷い怪我を負う。

 衝撃。引き裂かれた腕が瞬時に治癒していく。

 離れた場所から【修復】をかけたのは医療修道士イルスだった。

 彼は他の医療修道士たちと共に負傷者を一カ所に集めて迅速に応急処置を行うと共に避難、誘導していた。

 戦場の至る所で生まれている負傷者たちに矢継ぎ早に――というよりもむしろ平行して二つ、三つと複数の治癒術をかけ続けている。


「――邪魔だな」


 エスフェイルの呟きに、セリアック=ニアは敏感に反応した。

 無言のまま、擂り鉢状の会場の端から中央に向かって走る。

 イルスを鋭く睨み、助力は不要と告げる。

 先程まで援護していた彼女の親友――リーナの【空圧】すら余分。

 そう言わんばかりの、孤高な戦いぶり。

 まるで傍らに存在するのはたった一人でいいと、強く信じているかのようだ。

 了承を待たずにエスフェイルに意識を戻す。

 円形に迫り上がった巨大な舞台、その階段を幾度も殴りつけ、大量の破片を撒き散らして球化させる。

 無数の呪宝石が一斉に光線をエスフェイルに照射した。


「ぬるいわ」


 大量の光線が、エスフェイルに届く直前で全て霧散する。

 人狼の目の前に撒き散らされた、大量の体毛によって。


「以前、我が四肢の突撃を見切られた上に投げ返されたことがあってなあ」


 エスフェイルは怨念の籠もった声で呟く。


「理解しがたい技術であったが――あれは確かに鎧の籠手に皮膚を、神経を張り巡らせて我が肉体を『感じ取って』いた。硬質でありながら繊細――なるほど、これは学ばねばなるまい、と思ったものよ」


 エスフェイルの体毛が、不吉な夜風に吹かれて微細に動く。

 よく見れば、その一つ一つが意思を持っているかのようにくねっていた。

 青い鳥ペリュトンは影から感応の触手を伸ばす。その触手は身体のあらゆる場所から分化させることが可能だが、基本的には後ろ肢か枝角からだ。

 人狼にも同じ事が言える。四氏族で最も実体が確かな彼らが触手を伸ばすのは脚と、そして豊かな体毛。

 ふさふさとした茶色の毛並み、その全てがエスフェイルの触手である。


「全身の体毛を硬質化、更に縦に三層構造に変異させる。外部の呪力に反応して尖端部である第三層を分離。それを確認した第二層が瞬時に危機を信号として我が体細胞群に伝達、肉体は反射としてプログラムされた回避行動を選択する。最終的に第一層が肉体の防御と体毛の再生を同時に実行するというわけだ」


 夜の民は例外なく呪文系統に秀でている。

 人狼であるエスフェイルは、呪文と杖に特に秀で、邪視と使い魔の適性まで有する上に近接戦闘もこなせる万能の超高位呪術師だ。

 敗北の経験から学びそれを自らの強化に生かす柔軟性は、時間が経過すればするほど、そして冷静になればなるほど厄介極まりない。


「理解できるだろう? 隔絶した実力差というものが。貴様はこのエスフェイルとほぼ同じ適性を有しているゆえに猶更な。たとえば――そうだな」


 エスフェイルは棘まみれの棍棒となった右腕を自らの影に突き刺した。

 途端、無数の影が棘のように大地を走り、セリアック=ニアの周囲に黒い線を引いていく。

 いつの間にか地面に突き刺さっていた大量の棘。

 エスフェイルの放った流れ弾は計算された場所に配置され、影によって結ばれることによって特定の意味を持つ円形の図像とそれを取り巻く文字列を作り上げる。

 杖に属する触媒を用いて儀式を準備し、呪文に属する図像を用いて複合的な呪術を発動させる高等技法。

 影の呪文円が高位の儀式呪術を発動させた。

 

「逆さまに天を衝け――【玲瓏ルナティック】」


 セリアック=ニアの真下から、凄まじい呪力と閃光が立ち上った。

 広範囲に仕掛けられた罠から回避することはどうやっても不可能。

 咄嗟に小さくなったリールエルバを背後に庇い、地面に向かって殴りつける。

 下から上へと衝き上がっていく光と衝撃波はセリアック=ニアとナーグストールの心身をずたずたに引き裂いて、空高く吹き飛ばしていった。

 地面に叩きつけられた彼女に追撃。

 転がって躱すと蹴り飛ばされる。気力のみで起き上がった彼女の小さな頭部を左手が鷲掴みにして外壁に叩きつける。


「どうだね。私が使える唯一の閃光を放つ呪術の味は。月明かりだけはこのエスフェイルの味方というわけだ」


 強く壁面に押しつけられたセリアック=ニアが小さく呻く。

 その背後、壁を透過して内部で小さくなったリールエルバは震えるのみ。

 離れた場所で、肉塊球の護衛が模造の月に敗れて転がっていく。

 絶体絶命の窮地。

 その時だった。

 無数の呪術が真横からエスフェイルに襲いかかる。

 咄嗟に人狼はセリアック=ニアを盾にしながら回避――しようとして呪術が正確に自動追尾してくることを理解し、人質を手放して身軽になると速やかに四つ脚形態に移行して駆ける。

 唯一黒い棘に包まれた右前足で壁を掴み、垂直に移動。

 囮として残した体毛に追尾呪術が炸裂。

 エスフェイルは攻撃を全て回避してみせた。

 彼は振り返って目を見開いた。

 ずらりと、多様な集団が並んでる。

 それは、不揃いな装備に身を固めた複数の集団からなる連合であった。

 各々が高らかに名乗りを上げ、自らの呪力を向上させる。

 一般に、個人名よりも集団名の方が掌握や呪殺が困難である。

 彼らの宣名は明らかにエスフェイル対策を意識したものだった。相手の攻め手を封じつつ自己強化を行うという工夫が見られる。


「三千都市連合の天眼の民戦団【フェロトヤイキト】の手勢三十余名、聖姫様の撤退をお手伝いいたします。我らが足止めをしている間にこの場から離脱して下さい。お早く!」


「義によって馳せ参じた。北辺帝国神聖騎士団所属、【死人殺し】のディムズ兄弟とは我らの事よ!」


「我らボーステンタクス四大戦士団が一つ、夜月騎士団! 皆の者、東部諸国連合の至宝、聖姫様をお守りせよ!」


「キャカール十二賢者が第二位、イヴァ=ダスト。貴様の滅びを予言しよう」


 様々な集団や個人が現れ、それぞれがエスフェイルに挑んでいく。

 まず【死人殺し】のディムズ兄弟が息のあった連携で攻め立てる。

 義兄弟の契りを結ぶことにより、家族や同胞といった呪力で自らを強化する彼らは総勢七十名余り。

 狼の影から射出される黒い棘を、彼らは照明符を貼り付けた丸盾で弾いていく。修道騎士の標準装備である盾の装甲すら意味を成さない恐るべき貫通力の黒棘ではあったが、強烈な閃光を浴びせられた事によって威力が減少、盾で受け止められるようになったのだ。

 更にディムズ兄弟たちは会場に大量に放置されていた呪術灯を手にしていた。

 色とりどりの光る棒が空中にばらまかれる。


「万色精霊、一斉解放!」


 北辺帝国に存在する世界槍。地上に露出している石突き部分から地獄の地底都市ザドーナに向かって絶え間なく出撃し続けているという万色精霊たちは、様々な色彩が持つイメージを実体化させることによって死人――すなわち北辺帝国最大の敵である哲学的ゾンビたちを攻撃するという。

 色とりどりの燐光が散らばった呪術灯を次から次へと飛び移り、エスフェイルへと殺到していく。

 それらは頑丈な蔦となって人狼を拘束し、燃え上がる赤い炎となってその全身を焼き、青い稲妻となって感電させた。

 続けて前衛たちが赤い槍を構えて突撃し、後衛たちが緑の杖や青い投石器から次々と呪術を放つ。

 冥王との戦いを切り抜けてきた強者たち。その戦力はエルネトモランの修道騎士たちに決して劣るものではない。


「ぬるいわ、雑魚ども」


 全ての攻撃を耐えきって、エスフェイルの瞳が妖しく輝いた。

 途端、エスフェイルを攻撃していたディムズ兄弟団が一斉に倒れる。

 鎧や長衣の隙間から流血しており、全員が絶命していた。身体に存在する陰影に干渉し、肉体の至る所を傷つけるという古代呪術である。


「これは中々の大呪術でなあ。立体の陰影そのものを操れる者もそうはおるまいよ。これを破りたくば、いにしえに存在していた夜の民、純正二次元人でも連れてくることだな」


 実際には、模造の月を用意しなければならない、真夜中でなければならない、自らもある程度実体を維持していなければならない、激しく消耗するために連発はできない、等の制約が多い。

 その昔、私にこの呪術を教えてくれた長老は言っていた。

 これははっきり言って実用的ではなく、使うのは実力を見せびらかしたいだけの自惚れ屋だけだと。

 極度の精神集中を行わなければならないこの術は、使用の瞬間に必ず無防備になるからある。

 その隙を逃す夜月騎士団の闘士たちではなかった。

 夜の民の触手槍士を中心に構成された、エスフェイルの影による攻撃への耐性を持った戦士たちは、長くくねる闇色の槍を突きだした。

 その穂先だけは自らの肉体を変異させたものではなく、槍神教の司祭によって祝福された光を放つ刃である。

 夜月騎士団の攻撃はエスフェイルに有効打となるが、エスフェイルの攻撃は夜月騎士団には通用しづらい。

 この苦境を、エスフェイルは模造の月を呼び出すことで乗り越えた。

 頭上から舞い降りた巨大な質量の内側から、これまで取り込み同化を繰り返してきた死人の腕だけが無数に伸びる。

 死人の手が穂先を握り込むと光は勢いを減じた。

 その瞬間を狙ってエスフェイルは影から感応の触手を伸ばす。

 当然のように相手集団が攻性防壁による反撃を開始。

 実体世界における杖の戦闘から、非実体世界における呪文の戦闘への移行。

 『火』のイメージを纏った半透明の触手が影の中を進んでいく。

 エスフェイルは『地』の形態を取るエーテル体でそれらを遮断。オーラを展開してアストラル体を分散する。自我から低位我のみを摸倣して抽出すると簡易型の仮想使い魔を形成。霊的侵入クラッキング

 半透明の狼の頭部が次々と夜の民たちの影を食い千切り、びくりと痙攣したあと次々と斃れ伏していく。

 勝利に酔いしれる間もなく、次なる脅威がエスフェイルに迫る。

 赤い頭巾が、静かに揺れる。 


「全ては予定調和――滅ぶが良い、矮小なる者よ」


 賢者イヴァ=ダスト。

 それは大地が丸かった時代のこと。大規模な言震によって大地が引き裂かれるという『滅び』の予言を行った超高位呪術師。

 彼女は模造の月の制御を乗っ取って動きを止め、エスフェイルからの呪文干渉を完全に遮断したばかりか逆に手痛い反撃を加え、【影棘】と【玲瓏】による同時攻撃を杖で大地をついて発動させた初級呪術【報復】のみで無効化し、最後の物理的突進を隆起させた大地によって妨げる。

 ぶかぶかの赤い長衣と同色の頭巾。

 不似合いな長杖を手にした幼い少女にしか見えないが、その身に宿った呪力と叡智は地上有数と言われている。

 イヴァ=ダストは世界を覆う浄界の理そのものに干渉し、天空から巨大な質量を引き寄せる。

 時空を超えて跳躍してきた隕石がエスフェイルの真上に出現。

 舞台どころか第一区そのものを破壊する勢いで直撃する。

 エスフェイルは持ちうるあらゆる呪術を駆使してそれを迎撃。

 時空を超えて遙か彼方から叩き落とされた、高純度の呪隕石。

 その上、隕石は落下しながら賢者による微細な加工が施されつつあった。

 それは流星の呪力を宿した隕鉄の巨大鈍器に等しい。

 伝説級の武器数百個分に匹敵する凄まじい破壊力。

 黒い棘に包まれた右腕でそれを受け止めるエスフェイルだが、人狼としての模造細胞は高熱と圧倒的質量で速やかに死に絶えていく。

 その肉体が完全に滅びる直前、黒い棘が真下に離脱して自らの影の中に逃げ込もうとする。しかし。


「予定調和である」


 童女の冷ややかな声。

 震える両手で必死に支える長い杖の先に呪術が展開され、エスフェイルの影が白く変化していた。

 影への侵入を妨げるという、夜の民の理解を絶する呪術。

 魔将の本体である漆黒の棘が逃げ場を失い慌てふためくが、時既に遅し。

 巨大な隕石が会場に甚大な被害をもたらす直前、発動した【転移門】――空間歪曲の呪術によって隕石とそれがもたらした破壊力が遠い宇宙へと放逐される。

 会場には一切破壊をもたらさぬまま、エスフェイルのみに対して恐るべき破壊をもたらし、その上で空間の断層を生み出しての防御不能の斬撃で本体への止めとする――その全ての攻撃が、地上最大級のものであった。

 その幼い身体に、『死』の呪いが干渉を始める。

 かつて修道騎士カインを、そして高位言語魔術師サイリウスを道連れにした最悪の道連れ呪術。

 賢者は透明な表情のまま言い放った。


「道連れの呪術など下らぬ。容易く解呪可能である」


「で、あろうな。ゆえに解呪を打ち消す【静謐】のプログラムを仕掛けておいた」


 幼い少女の表情が初めて驚愕と苦痛に歪んだ。

 その口から大量の血液が吐き出される。


「な、に――」


 いつの間にか、賢者イヴァ=ダストの幼い肉体は模造の月の中に埋め込まれていた。この使い魔は賢者に縁のある第二衛星を参照している。ゆえに容易く掌握できた。なのに、なぜ。いつの間にこんなことになっていたのか。

 幼い顔に次々と過ぎっていく思考。

 模造の月が彼女と同化していくにつれてそんな表情も消えていった。

 上半身を月から生やした幼女が、にやりと口が裂けるような笑みを浮かべる。


「『黒』の色号は言語を司る――名前さえ掌握できれば、その本質を操る事など容易い。格上、高名であればあるほど我が【大物食いジャイアントキリング】の威力は増すのだよ。巨人を殺し得る存在は何もアルマとか言う狂信者だけではないと理解できたかな、地上の諸君?」


 上半身は赤い頭巾の少女、下半身は浮遊する模造の月となったエスフェイルが、真下の影から無数の棘を射出する。

 セリアック=ニアを救出しようとしていた集団が次々と斃れていく。

 絶対に負けるはずが無いと信じられていた賢者が敗北した事で、集団は総崩れになっていた。賢者はエスフェイルに対して迂闊なはずの宣名を行ったが、これは明白に格上である賢者が名前を掌握されて呪術をかけられることなどあり得ないという常識的判断によるもの。

 圧倒的な強者にとっては、基本的に宣名によって負うリスクよりもリターンの方が大きいのである。

 エスフェイルはそのような現代呪術の常識を覆す。

 完全な報告の不備、色号に対する知識不足による事実誤認であった。

 ――この魔将が対象の名前を容易く掌握できるのは、その力が圧倒的であり、高位の呪術師であるため。よってより上位の実力者であれば名前を知られていても問題が無い――という、明白な誤り。

 愚かな予断を嘲笑しながら、エスフェイルはまさしく異形としか言いようのない姿に変貌していく。

 少女の身体の下には模造の月。

 その前面から狼の頭部が迫り出し、右手側からは黒い触手、左手側からは霊長類めいた闇色の左手が生える。

 後部からは鋭い黒棘が連なったような 長い尾が伸びていた。

 純粋な呪力、身体能力のみを比較すれば、エスフェイルはこの会場に溢れる怪物たちの中では突出した所が無い。

 しかし、敵に回した際の厄介さ、面倒さにおいてこの魔将の右に出る者はそういない。

 少女の姿で手を開いたり閉じたりしながら、エスフェイルはぽつりと呟く。


「私を殺した忌まわしい解体術、その摸倣が私を救うか。皮肉なものよ。しかし――言理の妖精だったか。あれがただの【静謐】とは思えぬ。杖と呪文の【静謐】を合成しただけでは再現できんようだしな――まあ良い」


 エスフェイルは戦闘の間に治療されてかろうじて立ち上がれるようになっていたセリアック=ニアを見た。

 赤い頭巾の少女が杖を振ると、斃れたディムズ兄弟や夜月騎士団の精鋭たちが立ち上がり、次々と襲いかかる。

 ガルズが浄界によって出現させている有象無象の死人とは違う。

 歴戦の戦士たちによる絶え間ない攻撃に、セリアック=ニアは防戦一方となる。


「操る死人が強ければ強いほど我の力もまた増す――ふん、『死霊を視る』技術ではあの小僧が上ではあろうが、『死体を手繰る』技術はこちらが上よ」


 その死人繰りの術も、体毛を利用した鋭敏な感知能力も、賢者を倒した道連れの呪術も、黒の色号も、対抗呪文も、全ては他者の技術の摸倣である。

 しかし――夜の民にとって、摸倣とはその人生をかけて行う魂の営為。

 複製した術技を統合し、戦闘技術として昇華させるエスフェイルの呪術師としての技量は、一つの高みに届こうとしていた。


「ふははは! 無駄な足掻きだぞ! 貴様らの名はこの死人どもから頂戴したわ。もはや抗う術は無し――跪け、聖姫セリアック=ニア・ファナハード=オルトクォーレンにして猫ナーグストールである者よ!」


 黒い輝きが模造の月を取り巻き、セリアック=ニアとナーグストールに曖昧な漆黒の靄がまとわりついた。

 ――しかし、その動きが停止することはない。

 行動を阻害され、苦痛を覚えてはいるようだが、相変わらず機敏に動いて回避を続けている。


「ほう? 無効化しているわけではなく、完全に有効というわけでもない――あのシナモリ・アキラとかいう男と同じように、自己認識を分散させているのか?」


 エスフェイルは少女の頭と狼の頭を同時に傾げながら呟く。

 しばし黙考。やがて、残虐な笑みを二重に浮かべる。


「名前を呼んでも実感が湧かぬか、所詮は偽物の姫よな。猫の取り替え子――生まれたばかりのセリアック=ニアは異世界である【万猫殿】に攫われ、貴様と取り替えられた――猫が憑いた貴様とな。はてさて、貴様は一体何なのだろうな? セリアック=ニアとして育てられたナーグストールか? それともナーグストールを宿した他の何かかね?」


 セリアック=ニアは無言で死人を切り裂き無数の球体に変える。宝石化した死人が呪文を炸裂させて死人たちを薙ぎ払っていく。


「いずれにせよ滑稽なことだな。姉は紛い物で妹は偽物。そもそも貴様ら、姉妹でもなんでもなかろうが。それとも本物では無い同士で傷でも舐め合っておるのか? んん? どうしたどうした、答えてみよ」


 死人となった夜の民からの霊的干渉をマロゾロンド系神働術の知識を駆使して遮断、姉に教わった攻性防壁で相手の脳髄を焼き返す。

 しかし、セリアック=ニアが見せた一瞬の動揺にエスフェイルはつけ込む。


「見えたぞ――貴様にとって確かな拠り所、あやふやな自我の代替。それはそこで丸くなっている紛い物の姉もどきであろう?」


 セリアック=ニアを取り巻く黒い靄が、その量を増大させる。

 ナーグストールの動きが目に見えて精彩を欠いていく。


「自己の立ち位置すら定められず、他者に依存するばかりの脆弱な寄生精神、それが貴様だ。そしてその依存先すら極めて不安定な紛い物ときた。笑わせてくれるなあああ? 貴様の本質である名とは『トリシル=リールエルバの付属品』よ。そして不安定なその足場は既に崩れている」


 セリアック=ニアの動きが、決定的に停止した。


「貴様の拠り所は、存在しない」


 万色精霊たちによる波濤の如き攻撃が直撃し、かろうじて触手槍による攻撃は凌いだものの、盾による殴打を受けきれず、セリアック=ニアは吹き飛ばされた。

 いつものしなやかな受け身すらとれず、転がっていく。

 身につけた装飾品は残らず千切れ、美しいドレスはぼろ切れとなっていた。

 それでも震えながら立ち上がろうとするセリアック=ニアを、エスフェイルは意外そうな目で見た。

 澄んだ声が、小さく、しかし力強く響く。


「下らないわね。この私も、私のニアも、おまえのような下品な者の戯れ言などで心を揺らされたりはしない。私たちの在り方は私たちが定める。誰にも口を出させたりしない。姉様はそう仰っています。セリアもそう思います」


「馬鹿か貴様。それともその耳で幻聴でも聞いているのか? 『姉様』ならばとっくに心折れてそこで震えているだけであろう。そんな事は一言も口にしておらん。貴様が信じているものは、幼稚な妄想の産物に過ぎぬ」


 吐き捨てる漆黒の言葉がセリアック=ニアを打ち据え、遂に少女の肉体は限界を迎えて倒れ伏した。

 ――そして、精神の力のみで立ち上がる。

 ナーグストールの動きに連動して、ぼろぼろのセリアック=ニアの身体が繰り糸で頭上から操られる人形のように持ち上げられたのだ。

 首すら据わっていない少女の宝石の瞳だけが、爛々と輝いてエスフェイルを睨み付けていた。

 知らず、魔将が僅かに後退する。

 猫の取り替え子は最後の力を振り絞った一撃を放つ。

 その目の前に飛び込んできたのは、使い魔の技術によって遠隔操作した肉塊――護衛や使節たちの成れの果てだった。

 狙いは自らの使い魔の宝石化、そして爆破。

 球状の肉塊は、呪術抵抗の低い前衛職を個別に球化させた後、中に後衛や神官、使節などを詰め込み、その周囲を球化した前衛たちで固めて全体を繋げるという手間を掛けて作成した使い魔である。

 どのような高位呪術師であっても、数十人ぶんの呪術抵抗を一気に貫通して呪術を発動させることは至難の技だ。

 しかし、護衛たちをあえて球形にした事には呪術的な意味が存在する。

 肉の球こそ、彼女の切り札だった。

 ナーグストールの打撃はまず物体を球体に変化させ、それから宝石に変化させるという過程を辿る。

 つまり『球体にする呪術』で準備をして、『宝石にする呪術』で対象に干渉し、『宝石に内包された呪文を解放する』という三段構えの複合呪術なのだ。

 ならば、始めから球体状のものを殴ればどうなるのか。

 対象の呪術抵抗を無視して、『球体にする』というプロセスが既に完了していると見なされるのである。

 呪術というのは、その体系の中で一連の流れを正常なものとして認識しようとする。それゆえにバグも発生しやすいのだが、これはそれを利用した小技であった。

 それはつまり、最初の工程を妨害する呪術抵抗を完全に無視して、強制的に宝石化現象を引き起こせるということ。

 セリアック=ニアの、そしてナーグストールの最後の一撃は護衛である肉塊の球体を殴り、それを巨大な宝石に変化させる。

 強烈な輝きを放った宝石が、内部から呪力を解き放ちながらばらばらに砕け散って巨大な熱量を放射する。

 セリアック=ニアごと周囲の死人を、エスフェイルを灼いていく高熱の波と衝撃波、そして無数の破片。

 全身をずたずたに引き裂かれながらセリアック=ニアは倒れ、使役されていた死人たちが戦闘不能になる。

 だが、肝心の魔将本人は無傷だった。

 エスフェイルは自らの戦力が失われた事に些細な不快感を覚えたが、完全な勝利の前にはそのようなことはどうでも良かった。


「ふははははは!! 見たか! 油断さえしなければ! 我はズタークスターク殿を除いてこの中で最強! 手合わせすれば五回に三回は師兄に勝ち! 魔将拝命の直前、クエスドレム殿に打ち勝った我こそは! 至高の呪術師である!」


 哄笑しながら残党に棘を掃射していく。

 三千都市連合から来た天眼の民たちはなんとしても聖姫を救出してドラトリアに対する外交上の取引材料とすべく奮闘する。

 黒い棘を正確に回避しながらセリアック=ニアを担ぎ上げると、迅速に会場の東口から外へ運ぶ。

 希薄化したリールエルバもまたセリアック=ニアが移動するのと共に浮遊しながら追随していった。

 擂り鉢状の会場、その出口に続く通路の照明がふつりと消える。

 闇に包まれた通路で呪力が渦巻いて、それきり何も起こらなかった。

 通路に入った天眼の民、姉妹姫はいつまで経っても闇から出てくることは無い。

 エスフェイルによる独自の改変が施された影による【陥穽エンスネア】。


「さらばだ。高純度の呪波汚染に曝されて姉妹揃って影に沈むがいい」


 最悪の罠によって退路すら断ち切ったエスフェイルが、少女と狼の口で高らかに哄笑した。



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