3-84 奈落に飲まれ、闇に包まれる①
知覚を拡散させて、戦場を俯瞰する。
今の私に必要なのはそうすることだと、『先生』が教えてくれている。
最後の切り札、秘されているゆえに有効に機能しうる伏兵である『先生』はまだ動けない――そもそも、純粋に正面から敵とぶつかり合うことは苦手な人だから、今はフィリスを有効に活用する為に情報収集に専念して貰うしかない。
幸い、今は夜だ。
影を介して浸透した私の『目』と修道騎士の共通記憶で、どうにかフィリスを完全に発動できるだけの情報を集めないと。九回の内、一回だって無駄撃ちはできないのだから。
金鎖のフラベウファが不在とはいえ、修道騎士たちが有する連絡機能が失われたわけではない。
まず復活した魔将たちの編集済み『攻略用資料』が全修道騎士に配布され、続けて探索者たちにも閲覧可能なようにアストラルネット上にもアップロードされる。
これは普通に考えれば重要な機密を漏洩したとして処分の対象になりかねなかったが、第一位ソルダ・アーニスタから指揮権を移譲された第十位バル・ア・ムントはその全責任を自分一人が負う事を宣言してそれを実行。
エルネトモランを浸食、拡大し続ける夜の浄界と復活した魔将たち。
これらの脅威を維持し続けているガルズを排除しない限り、地上に未来は無い。
全修道騎士は死霊使いガルズ・マウザ・クロウサーの討伐という最優先目標を再確認し、その為にそれぞれが行動を開始する。
すなわち、主力部隊がガルズを仕留めるまでの魔将たちの足止めである。
加えて、アストラルネット上でガルズの首に莫大な懸賞金をかけることで探索者や賞金稼ぎといった者たちの助力を当て込んだ。
今までは松明の騎士団が捕らえるという体面が重要視されていたのだが、事ここに至ってはなりふりなど構っていられない。
第十位バルは松明の騎士団の地上戦力、高位序列者を含む修道騎士約五千名(うち純粋な戦闘要員は三千七百名余)からなる変則二個連隊に命令を下していった。部下や同格の部隊長たちに指示を飛ばし、自らは一番大隊に所属する約六百人の修道騎士を直接率いる。負傷した修道騎士を後方に下げつつ死霊使いに向かって突撃を開始。
神働術師部隊による火力支援、身体能力補助術の光が中空を乱舞していく。
聖騎士バルは兜を脱いで先陣を切った。
強面にもみ上げと繋がった濃い髭が、赤い色そのままに燃え上がる。高い呪力を有する燐血の民の証。敵を威圧し味方を鼓舞しながら、赤熱する槍を振り上げて雄叫びを上げて突撃する。
修道騎士バルと魔将アインノーラが一騎打ちを開始し、ガルズが操る死人たちを精鋭たる修道騎士たちが蹴散らして突き進む。
魔将ベフォニスが集団を蹴散らしながら暴れ狂う中、修道騎士たちの後方で動きがあった。実のところ、本命はこちらである。
後方で待機していた序列十五位の修道騎士、【養蜂師】ディセクターが背負った巨大な金属貨物箱が解放され、開かれた扉から一斉に使い魔が飛び出す。
無数の穴蔵から解放されたのは蜂だ。
膝を着いて呪文を唱え続けるディセクターの周囲には九つの蜜蝋が並び、灯された炎が舞い上がると無数の蜂に燃え移る。
火炎を纏った大量の蜂――火蜂と呼ばれる扱いの難しい使い魔を使役したディセクターは、囮部隊に気をとられている魔将たちの上空を通過して真っ直ぐにガルズの方へと向かう。
即座に金眼が邪視によって迎撃するが、炎が発生させる熱によって光を屈折させてその所在を欺瞞し続ける火蜂たちはこれを全て無力化。
アインノーラが蜂の大群を宝石のような浄界を展開して捕らえようとするが失敗する。蜂という矮小な存在一つ一つと『決闘する』というイメージを、アインノーラは強固に想起することができなかったのである。
恐るべき量の蜂がガルズのもとに到達し、鋭い針で次々とその身体を突き刺していく。
赤熱する針がガルズの体内に猛毒を流し込んでいく。
マリーが蜂の群れを追い払おうと槌を振り回すが、炎を纏った蜂たちはマリーにまで群がってくる。
一瞬の間を置いて、二人の肉体が内側から爆発した。
火蜂が注入したのは燐血の民の血液から精製した爆裂毒の一種である。体内に入り込むと血中の成分と反応して起爆、標的を体内から爆砕する。
威力としては初級の【炸撃】に満たないが、体内に浸透した毒が一斉に起爆して生きていられる者はいない。
索敵と暗殺において修道騎士随一と謳われたディセクターは攻撃が完璧に成功した手応えを確信し、自らの『三本足』たちに帰還命令を出そうとした。
だが。
「やあやあディー、酷い目にあったね」
「いやいやまったくだよダム、まさかまたしてもアルマとはね」
がらがら、とおもちゃが鳴る音がした。
霊長類の平均よりやや大きいと言う程度の体格。
そして二足歩行する犬としか言いようのない肉体を包む、極彩色の道化服。
ある一点――すなわち、首が三つあるという点である。
左右の犬型頭部はどこを向いているのか分からない目をあちこちに彷徨わせながら長い舌を出しっぱなしにして話している。涎が飛び散って舞台を濡らした。
「こんなに騒がしいとサイザクタートが起きちゃうよ」
「それは困った、困ったぞ。上手く寝かしつけないと大変だ」
中央の頭部は、何故かすやすやと眠っている。
首には涎掛け、口にはおしゃぶり。さらにその両手にはがらがら鳴るおもちゃが握られていた。柄の先に木製の子豚が取り付けられており、その内部で何かが音を立てているらしい。
「だって僕らはサイザクタートの夢だからね」
「だってこの世はサイザクタートの夢だからね」
「目が醒めちゃったらこの世は全部おしまいだ」
「目が醒めなくたってこの世はみんなあやふやだ」
滑稽な動きで左右の足を交互に飛び上がらせる魔将は、何度も何度もがらがらを降り続ける。
ダムとディーというらしい左右の犬頭、その瞳が朱色に染まる。
彼らの背後に円環の虹が発生し不可解な呪術が発動していくのをその場にいる誰もが感じた。
否、それは既に発動していたのだ。
「ありがとうサイザクタート。助かったよ」
火蜂に襲われて確実に絶命していたはずのガルズとマリーは復活していた。
愕然とするディセクターは、しかし即座に冷静さを取り戻し火蜂たちに魔将サイザクタートへの攻撃を命令する。
燃えさかる蜂の大群。
変幻自在に分かれて進む火蜂。
恐るべき怪物の情報はこの場にいる全員が把握していた。
魔将の多くは『色号』と呼ばれる方法で呪術を系統立てている。
時間を司る灰、知識を司る白、夢を司る朱、記憶を司る藍、言語を司る黒。
地上ではよほどの辺境か専門的な研究機関などでなければまずお目にかかれない呪術体系だが、『朱』の色号使いであるサイザクタートは現実を『夢』であるということにして起きた出来事を一瞬のみ無かったことにできるという。
三首の第十魔将サイザクタートはこの能力で第三階層の門番として長く攻略を妨げてきた強敵である。
まずはこの魔将を仕留めなければガルズを倒す事はできないのだ。
ディセクターはそれが出来るのが己だけであることを確信していたに違いない。
もはや彼より上位の修道騎士で残っている者は片手の指に足りない。
その下は軒並み第四階層に向かってしまっており、自分の次の高位序列者は二十五位のペイルである。
自分がやらねば。
そんな思考が、焦りを生んだのかもしれない。
サイザクタートの背中で、円形の虹が強く発光する。
そして無数の矢が放射状に番えられたかと思うと、一瞬だけ引き絞られたように内側に動き、そのまま弾性エネルギーを解放してあらゆる方向に矢が発射された。
多彩な色に輝く呪術の矢は、それぞれ発火、凍結、雷撃、猛毒、石化、旋風、分解など様々な効果を発揮しながら修道騎士たちに命中して致命傷、良くて重傷を負わせていく。
次々と放たれていく呪術の矢は全てが意思を持っているかのように縦横無尽に動き回り、機敏に動く火蜂の群れさえも貫き、蹂躙し、消滅させていく。
ディセクターの周囲に灯っていた蜜蝋の火が一斉に消え、同時に彼は自らの『三本足』が引き裂かれた苦痛に絶叫する。
身動きがとれなくなるほどの激痛。
倒れ込んだ彼に、無数の矢が降り注いでいく。
周囲にいた護衛の修道騎士たちが自らの命を投げ出して松明の騎士団の要を守ろうとしたその時。
天から無数の羽型攻撃端末が飛来して、呪術の矢を正確に叩き落とした。
「申し訳ありません、再装填に手間取りました」
白銀のカラス型神働装甲にその身を包んだ修道騎士序列二十六位、ナトが空から舞い降りてくる。
彼は呪具が詰め込まれた腕に命令した。指示に従った腕は即座に持ち上がって魔将を指差す。
「ここから先は俺が相手だよ、子犬ちゃん。悪いけど手加減はしない。個人的に許せない事情が今できた」
ナトは一瞬だけ担架で後方に運ばれていくディセクターを見て、鋭く呟く。
「手足をもがれる痛みってやつはね、あれで中々きついんだ。痛みを無かったことにする力、大変結構な事だけどさ――」
かぎ爪の付いた両腕が分離し、無数の攻撃端末と共に魔将に襲いかかっていく。
それを迎え撃つ、虹の弓と呪術の矢。
眠る頭と涎を垂らしながら叫ぶ二つの頭が揺れて、朱色の眼光が魔将の周囲の空間を歪めていく。
「やあやあ我こそは弓の名手ダム、我らが神レメスが伝えし虹弓術の達人にございます? あれ? ディーだっけ?」
「さようならさようなら、ディーの【線の嵐】にまきこまれた者はみな死ぬ、死ぬ、死ぬよおおおおお? あれ、ダムだっけ?」
激突する矢と羽、そして分離する手足と空間を歪曲させる境界線。
後方にいる神働術師部隊から支援を受けながら、ナトとサイザクタートは死闘を開始する。
「痛みってものを教えてやるよ! その三本頭を斬り飛ばしてね!」
「さて、サジェリミーナ、クエスドレム、ダエモデク。ここは他の魔将に任せて、僕たちは時の尖塔に向かうとしよう。じきに追いついてくるだろうしね」
ガルズはそう言うと、浮遊しながら会場を去っていく。目指すは時の尖塔、その一番奥で守られている聖女クナータである。
地上側の勝利条件がガルズの殺害なら、ガルズたちの勝利条件は聖女の殺害。
いつまでもこんな場所で手をこまねいている理由は無いのだろう。
「魔将たちの情報を松明の騎士団が共有しているということは、こちらにとってさしたる不利にはならない。最初から歴然とした力の差がある上に、現在の松明の騎士団は長きに渡る戦いで損耗し、上位序列者の大半は年若く経験も浅い。過去の魔将たちとの戦いを実際には経験していないんだ。知識として知っている事と実感している事は違う」
「どうでも良いわ。知られている事を利用して罠にかければよかろう。いや、そもそも我が秘術は知っていた所で対処などできぬ」
クエスドレムが指を弾くと、その場に十人の修道騎士が出現する。
魔将が「斬首刑に処す」と口にする前に、臨戦体勢であった修道騎士たちは超至近距離であっても戦える短剣を抜きはなって一斉にクエスドレムに突き刺す。
滅多刺しであった。腹を、胸を、背中を、首を、後頭部を。
はね飛ばされたクエスドレムの頭部がごろごろと転がっていく。
「対処など出来ぬと言うたろうが」
朱色の影から飛び出した巨大な心臓たちが牙を剥き、修道騎士を鎧ごと噛み砕いていく。
飛び散る鮮血をゲタゲタと笑いながら啜る影と心臓の群れ。
いつの間にか傷ひとつ無い状態に戻っていたクエスドレムが、そのまま心臓たちを使役して周囲を徘徊する死人たちに取り付かせる。
無数の触手を伸ばした心臓が死人と同化していき、腐敗した肉体を変異させていった。肉体の各部位がそれぞれ異常発達したり、硬化したり、燃え上がったり、果ては人外の獣じみた姿になったりと、死人の軍勢は強化されていく。
「これらを我が親衛隊とする。異論無いな、死霊使い?」
「ご随意に」
腰を低くするガルズの頬を汗が伝う。クエスドレムの放つ威圧感は大魔将ズタークスタークを除けば魔将たちの中で最も大きかった。
機嫌を損ねればガルズの首とて飛びかねない。
「全軍、時の尖塔に向けて進撃。蹂躙せよ」
クエスドレムの号令で強化死人の群れが動き出し、ガルズたちは悠々と会場の外へ進んでいく。
彼らを止められる者は無く、散発的な攻撃も全て無力化されていく。
そこに立ちはだかったのは、背中が曲がり巨大な瘤が隆起している祭服の老人だ。彼の名は第十二位グラル・アーニスタ。
アーニスタというのはボロブ系燐血の民に最もよく見られる姓だが、グラルは同じ姓であることを共同体への所属と見なし、結束の呪力によって集団を強化する神働術の使い手である。
アーニスタ姓の者だけが集められた高い耐久力の二番隊、通称を火の玉隊が文字通り火の玉となって死人たちを蹴散らして突撃する。
しかし強化された死人たちは手強く、その上クエスドレムが指を鳴らす度に兵力を着実に削ぎ取られてしまう。
着実に消耗する二番隊、そしてじわじわと進軍を続ける死人の軍勢。
ガルズたちは円形の舞台から降り、擂り鉢状の会場に四つ設置された出口へと到達しようとしていた。
あとは外に出て、市街地を突っ切って時の尖塔に向かうだけ。
ガルズたちの気が緩むであろう一瞬を狙って、伏せられていた二部隊による同時攻撃が行われた。
空中から空の民を主体とした空戦修道騎士たちが一斉攻撃を行い、更には側面から自らの視界を遮る透明化を解除しながら重槍修道騎士が音速で突撃する。
共に幻術による隠蔽を行っていたのだ。
二番隊の奮闘によって前方に引き付けられていた死人の軍勢はこの攻撃に対処出来ず、壊滅的な被害を受けた。
空中からの猛烈な邪視や呪文が死人を焼き払い、続いて巨大な突撃槍を構えて足から呪術噴射による突進が死人を引き裂きながらガルズへと向かう。
クエスドレムが指を弾こうとするのさえ間に合わない。
完璧な奇襲は成功した。
咄嗟にマリーを突き飛ばしたガルズの肉体は粉々に粉砕され、地面に叩きつけられた胸から上が痙攣する。傷口は無数の泡で塞がれつつあるが、何らかの加護による再生も追いついていないようだ。浮遊する【死人の森の断章】が自動で【修復】をかけはじめたが、突撃の第二波が迫ろうとしていた。
「大丈夫かい。良かったら僕の身体をお食べ」
ガルズに声をかけたのは、途轍もない巨体を誇る黒蜥蜴人だった。
第十四魔将、痩せた黒蜥蜴ダエモデク。蜥蜴そのものの頭部と、鱗に包まれた身体は地上の霊長類を基準とすれば異形そのものだが、霊長類に近い肉体を持った天眼の民と起源を同じくする種族である。
その異名と裏腹にでっぷりと突きだした腹は肥満体としか言いようがない。
漆黒の鱗に次々と邪視が照射され、突撃槍の先端が突き刺さるが、分厚い鱗と脂肪を貫通することは叶わない。
「さあ、僕の身体を好きなだけ食べるがいい。構うことはない、ほら、肉はたっぷりあるのだから」
ガルズの口元に涎が溢れる。
腕だけで地を這うと、猛烈な勢いでダエモデクに齧り付いた。見れば、その他にも先程の突撃で蹴散らされた死人の残骸たちが黒蜥蜴の腹にとりついて一心不乱に噛み付いている。
何故かダエモデクが許した者にとってだけ、その肉体はこの上なく柔らかくなるようだった。
黒い肉を咀嚼し、体内に取り込んだ途端、ガルズの失われた肉体が瞬時に再生し、その上溢れんばかりの呪力によって衣服までもが復元されていく。
「助かったよ、ダエモデク」
「いいんだよ。僕の身体が一人でも多くの仲間の力になれば、それで僕は満足だからね。さあ、みんなも遠慮せずに」
音速で突撃してくる修道騎士の一人を超人的な空間把握能力――天眼によって補足し、素手で掴んで握りつぶしながらダエモデクは言った。
穏和な口調、鈍重そうな見た目だが、その重量級の脂肪と鱗の内側には恐るべき筋肉質の身体が秘められている。
それに加えて三次元的な知覚能力は短時間ではあるが未来予測すら可能とし、音速で突撃する修道騎士の位置を正確に捉えて反撃を行う。
上空から降り注ぐ空の民たちの邪視を受け流し、目にも留まらぬ速度で閃いた両腕が修道騎士たちを引き裂いていく。
更に、彼の肉を分け与えられた死人たちの姿が変異を開始する。
膨張し、膨れあがり、骨格が変形し、最終的な姿は霊長類を大きく逸脱したものとなった。
巨大な蜥蜴の骨格のみが腐肉をまとわりつかせて足音を響かせ、腐った大蜥蜴や大蛇が漆黒の吐息を吐き出していく。
巨大な腐敗亜竜が体内で生成した瘴気は、あらゆる者を腐らせる。
甲冑の隙間から入り込んだ瘴気が修道騎士たちをおぞましい苦しみと共に殺害していく。
「凄いな、これが天眼というものか。見てご覧マリー、僕の邪視はここにきて更に強化されたようだ」
ガルズはダエモデクに分け与えられた力によって邪視の射程を伸ばし、空の民部隊が放つ呪文を次々と無効化。
更には空を暗雲が覆うと、そこから腐敗した肉体を持つ異獣たちが出現する。
這いだしたのはガルズが新しい死の形としてイメージする飛行蜥蜴たちだ。
腐った内臓の中から瘴気を撒き散らす亜竜の軍団が空の民たちを蹂躙し、制空権を得ていく。
更に、空を飛び回る第五魔将サジェリミーナが馬鹿笑いしながら湾曲した短い鎌のような刃を水銀で生成して空の民を切り裂いていく。
趨勢は決していた。
それでも魔将たちを会場の外に出すわけにはいかないとばかりに決意を固め、序列第十四位マリキアン・リト率いる天眼の民部隊が立ち塞がる。
巨大な丸盾と短槍を構えた軽鎧姿。視界を確保するために頭部には何もつけていない。
「ああ、君かマリキアン。まだ悲しいことを続けているのだね」
「知り合いかな、ダエモデク?」
「ああ。できれば殺したくないなあ。同族と戦うのは悲しいよ。同族じゃなくても悲しいけれどね。彼は妻子を人質に取られているから仕方無いんだ」
風のように疾走し、正確に腐った亜竜たちの攻撃を回避していく天眼の民たち。
その先頭を走る【蜥蜴人殺し】マリキアンはその巨大な盾で瘴気の息を防御しながらダエモデクの間合いに入る。
肉を分け与えたことによって身軽になったダエモデクが、恐るべき速度で放たれた短槍の穂先を二本の指で受け止める。
すっかりやせ細った身体が、一瞬でかき消えたかと思うと、次の瞬間にはマリキアンは宙を舞っていた。
地面に叩きつけられた彼が生きているのは、その盾や鎧が無数の鱗を貼り合わせた特別製で、全身に蜥蜴人の怨霊たちが取り付いているからだ。
自分こそがマリキアンを呪い殺すのだと息巻く半透明の死者の群れ。
その全てが、彼に殺された蜥蜴人たちである。
皮肉にも、彼らの怨念がマリキアンにとっては強力な呪術の障壁となっているのだった。
「妻と娘なら死んだ」
虚ろな声でマリキアンが呟く。
意外そうに目を瞬かせるダエモデクは、首を傾げて彼に問いかける。
「そうだったのか。僕が死んでいる間に、きっと辛いことがあったんだろうね」
「――変身者であることが露見し、騎士団の勢力争いに利用された。二人とも、最後まで俺が助けてくれると信じていたよ。ああ、そんなことができるはずもないのにな。今、二人は俺の盾と鎧の中にいる」
心底から疲れ切った声。
ダエモデクは目を伏せて、深々と溜息を吐く。
「悲しいな。悲しいね。長く生き続けていると子供たちの死を見ることも多くなるけれど、やはり子孫たちがこうして若くして死んでいくのは耐え難い痛みだ――ねえマリキアン。もう止めにしないかな? 君は僕たちと来るべきだよ。もう君には、地上に味方する理由がないはずだ」
マリキアンは起き上がると、そのまま短槍をダエモデクに突きだした。正確に眼球を狙った一撃を容易く回避して、ダエモデクが呟く。
「それでも戦う、その理由は何かな?」
「わからない。何もわからない。俺は何も考えたくない。もう、疲れたんだ」
二人の戦いを見るガルズの金眼が、淡く揺らめく。
ガルズは袖を引くマリーの頭を撫でながら、決然とした表情で軍勢の指揮をとるクエスドレムを見た。
「先を急ぎましょう。もはやこの地上の歪みをこのままにしてはおけない。一刻も早く、僕は世界を覆したい」
「当然である。ふん、見るに堪えぬわ狂信者どもめ。打ち首にして晒してくれる」
ガルズとクエスドレム、宙を舞うサジェリミーナたちが進んでいく。
修道騎士たちの抵抗も虚しく、彼らは擂り鉢状の会場の西側出口に到達してしまう。内部の通路に潜んでいた伏兵たちをクエスドレムが引き寄せて全て始末し、軍勢の陣容を整えて進もうとしたその時。
「ちょっと待ったぁぁぁぁ!!」
猛烈な勢いで会場上空を飛行してくる者がいた。
三角帽子に長い箒。金色の光を噴射しながら進むのは、
「リーナか」
「ガルズ! このくそやろーいい加減にしろ!」
リーナの箒は立ち塞がる亜竜たちを一瞬で振り切っていく。苦戦する空の民たちに空中から投げつけられたのは拡散治癒呪符や霊薬。
リーナの前に乗っているのはミルーニャだ。
空を駆ける姉妹の前に立ちはだかる銀色の影。
帽子から流出する水銀の身体を持った魔将。
第五魔将サジェリミーナと二人の魔女が激突する。
時間は少し遡り、ミルーニャとリーナがガルズのもとへ飛翔する前。
歌姫の呪文が有翼人魚と闇妖精の精神干渉を同時に打ち消し続け、エスフェイルとセリアック=ニアが激突し、それをリーナが援護し、私とユネクティアが無言で睨み合う中。
第九魔将、古代兵器であるピッチャールーとメイファーラの戦いは熾烈を極めていた。
天眼によって正確に攻撃を予測できるメイファーラだからこそまだ息があると言って良い。
まともに直撃すれば容易く人体を破壊するであろう凄まじい威力の一撃が頭上から振り下ろされ、薙ぎ払われ、突き出されていく。
九本もある腕を躱し、短槍で軌道を逸らし、小さな丸盾で受け流していくメイファーラは、しかし凄まじい衝撃を完全に殺す事まではできず、着実に消耗しつつあった。
九本も腕があればその軌道は自ずと制限され、下手に動かせば絡まり合ってしまう可能性もある。そこを突くことがこの魔将の攻略においては肝要であると、資料にはそうあったのだが。
「えっと、これってどういうことかな?」
メイファーラはあり得ないものに直面していた。
九本の腕は確かに絡まり合うのだが、捻れたまま肉腫を蠢かせて腕の付け根が円筒状の胴体を滑っていく。
腕と腕が溶け合うように透過して、次の瞬間には再生して別の場所に。
ピッチャール―には、自分の肉体が障害物になっていないのだ。
「聞いてた話と違う――」
眼球は四方八方にあり、腕の射程、速度共に隙が無い。更に頭上に回り込めば射程はあまり無いが威力は絶大な拡散呪術砲によって反撃される。
全方位に死角が存在しないという点ではメイファーラと似ているといえば似ている。しかし破壊力に関しては完全に相手が勝っているのだった。
その巨体に、遠くから赤い呪石弾が直撃、【爆撃】の呪術が炸裂する。
猛烈な熱波と爆圧によって一瞬だけ動きを止めたピッチャールー。その隙を狙って短槍を繰り出すが、魔将は弾かれたように飛び上がって回避する。
「気をつけて下さい。その古代兵器、恐らく生前とは攻撃のパターンを変えてきています。古代文明の遺産は複数の機能を有している事がよくあるんです。未知の能力がまだあると考えておくべきです」
ミルーニャが
後方からプリエステラが駆け寄ってきて、消耗したメイファーラに治癒呪術をかける。更に身体強化や防御障壁などを重ね掛けして、自分もまた木の杖を構えて前に出て行く。
「私もやる。大丈夫、みんなでやればイキューみたいにやっつけられるよ」
プリエステラは杖に蔦を這わせながら呪力を集中させていくが、それに反応してピッチャールーは奇妙な動きを見せる。
無数の目の下がぱかりと口のように開き、そこから浮遊する金属球が吐き出されたのである。
「あれは、攻撃端末――?」
ミルーニャが警戒の呟きを漏らす。
が、既にプリエステラは呪術の光を杖の先端に灯して突撃していた。
浮遊する球体がプリエステラに殺到していく。
「呪術に反応するタイプの受動端末――くっ」
ミルーニャは咄嗟にプリエステラの使用している呪術の規模を計算し、瞬時に呪石弾の種類を選択して発射、自らに近い位置で炸裂させた。
無数の球体がより大きい呪力に反応してミルーニャに殺到していく。
使い捨ての防御護符で【霧の防壁】を展開しながら、舞台を大地に見立てながらブーツで踏みしめて【報復】を発動。ミアスカ流脚撃術の流麗にして苛烈な動きで球体を蹴り飛ばしていく。
幾つかは離れた位置に飛ばされてそのまま爆発したが、大半はミルーニャの至近距離で爆発してしまう。
「嘘、ミルーニャちゃんっ」
プリエステラが愕然として振り返り、そこに襲いかかるピッチャールーの前にメイファーラが立ち塞がる。
幸いミルーニャの負傷はそう大きくはない。咄嗟の防御が間に合ったのと、身につけている作業用のエプロンドレスにも防護呪術加工の糸が編み込まれているためである。
祝福者としての不死性は失われたものの、常人を上回る再生能力を持つミルーニャの肉体はゆっくりとではあるが回復しはじめていた。
しかし、膝を突いた彼女はとても動ける状態ではない。
周囲から、死人たちが群がろうとしていた。
メイファーラは瞬時に判断して叫ぶ。
「こいつの相手はあたし一人でやる! 引き離すから、その隙にミルーニャさんを回復してあげてっ」
無謀な決断に反論しようとして、プリエステラは口を噤んだ。
細かい条件はわからないが、呪術を使用すれば今のように手痛い反撃をもらってしまうのだ。ピッチャールーと戦うには純粋な前衛職の力が必要だ。
「ごめん、私じゃ足手まといだよね――でもお願いメイ、無茶はしないで!」
プリエステラはそう言ってミルーニャの下に向かい、迫り来る死人たちを薙ぎ払っていく。
メイファーラはそれを見届けると、一人で巨大な魔将に立ち向かっていった。
乱舞する腕を回避しながら、出来る限り仲間たちから引き離そうと敵を誘導していく。
流麗な槍捌きは、彼女が加護を受ける第七位の守護天使、透徹せしシャルマキヒュの流闘神という異名を思い起こさせる。
あらゆる者を見通すその天眼は、完璧に九本の腕による連撃を凌ぎ続ける。
しかし、その集中が行き過ぎたのだろうか。
全方位に隙無しと言われる天眼の民であっても、盲点というものを完全に無にはできないのか。
移動しながら戦うメイファーラ。
その足場がぐらりと崩れる。
一瞬の浮遊感。重力が全身を鷲掴みにして真下に引き摺り込もうとする。
メイファーラは咄嗟に槍を横に突き刺そうとするが、迫り来る九本の腕を防御するために両腕を使ってしまう。
結果として、メイファーラは迫り来るピッチャールーと共に転落していく。
床が下に抜けたのである。
舞台下の空間のことを、『奈落』と呼ぶ。
歌姫Spearが舞台下から迫り上がってくる演出は、これによって行われたものだが、度重なる舞台上の激闘によって昇降床が壊れてしまったらしい。
奈落に待機していた人員の避難は終了しているはずだが、巨大な舞台の下に広がるその空間は高く、広く――そして暗い。
使い魔による監視の範囲外となる暗闇の底に、メイファーラと魔将が消えていった。叫び出したい気持ちを抱えながらも、私は動けないままだった。
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