3-79 十三階段②



 この日最大のイベントである歌姫Spearのライブは、活動の一時休止からの復活の上待望の新曲発表ということもあって注目を集めていた。

 たった今歌い終わったの定番である【エスニック・ポリフォニー】だ。

 続けて間を置かずに【冬色モジュール】の軽快なイントロが流れ出した。

 この次は【三叉路の染色分体】で、その後からは怒濤の新曲攻勢。

 【月明かりメモリー】、【心の迷宮】、【春色カレイドスコープ】、【手を取り合って】【鏡越しのマリアージュ】と続いていくことになっている。

 司会進行とか喋りとかは一切無い。何度か用意した台詞を喋ってもらったのだが、想像以上に向いていなかったのだ。それならもうひたすら歌うことだけに専心する方がいいだろうという判断である。

 私的な領域が一切不明な正体不明の歌姫、謎めいていて神秘的であるというイメージのまま押し通せば多分なんとかなる、と。

 それが終われば一度休憩となり、しばらく時間を置いてから私たちにとって最も重要な後半――真の呪術儀式が始まることになる。

 昨夜、一言だけ聞いたアキラの声を思い出す。

 二つの結末。

 悩むくらいなら辻褄なんか気にしないで、両方の要素を入れてしまえ。

 彼の言葉に示唆を受けた私にとって――そしてハルベルトにとっての、本当の意味での戦い。

 多分、順調にいけば彼の戦いの方が先に終わるんじゃないだろうか。

 約7,200秒――二時間という長丁場が待ち受けていることを思えば、一刻も早くガルズを倒さなくてはならない。

 無数の眼窩から邪視の照射を受けていることより【冬色モジュール】の華やかさの方がよほど重要だとばかりにサイリウスはステージに集中していた。

 巌のような表情で白い呪術灯に持ち替える。


「時に、リーナよ」

 

「は、はい?」


 ガルズが唸り声を上げながら呪力を放射するが、老人は眉一つ動かさずに歌姫のステージを見たまま言葉を続けていく。


「第五階層――【サイバーカラテ道場】と堕ちた英雄との戦いはどうだ。戦況は?」


 ――それは、ペリグランティア製薬がキロンの所属する病院修道会を弱体化させ、主力製品である治癒霊薬への依存度を高めて影響力を強めたいという思惑と、第五階層への進出を狙うクロウサー家、更には槍神教内部の派閥争いという複数の勢力の利害が一致したことで生まれた英雄殺しの陰謀だ。

 星見の塔の派閥抗争において、リーナが所属しているのはカタルマリーナ派。

 そしてクロウサー四血族のうち、近代以降ずっと当主を輩出し続けているゾラは呪文を得意とする一族だ。

 呪文の派閥カタルマリーナ派、それと手を組むペリグランティア派、クロウサー家という呪術の一大勢力に目を付けられた奇跡の治癒能力を持つ英雄キロン。

 その絶対的な存在は数多くの命を救い、厳しい地獄との戦いに赴く修道騎士たちの心を支え続けてきた。

 その彼が、ただ利潤を追求し、それを妨げる者は暴力によって排除するという巨大企業の冷酷非情な掟によって陥れられ、貶められ、よってたかってなぶり殺しにされようとしていた。

 ただ、巨大な規模の金銭を動かすためだけに。

 私にとってキロンは恩人だ。

 第七位に囚われて拷問にかけられた私を救い出してくれただけではない。

 彼の奇跡のような医療の術を見たからこそ、私は死にかけたハルベルトを救うことができた。

 その彼がアキラとどちらかの命が尽きるまで戦うという状況。

 そうなるかもしれないとは思っていた。

 裏切り者の討伐のために第五階層に向かったキロンがきぐるみの魔女トリシューラの使い魔となったアキラと激突するのは時間の問題だった。

 先程、第五階層から合図があった。

 状況を見ながら言語魔術師として支援するリールエルバは詳しい状況を高度な【心話】で映像と共に伝えてくれて、私は想像が当たっていた事を知る。

 設定した条件分岐に従って、用意した物語素体の呪文は想定され得る幾つかのシナリオのうち一つを採用して現実と同時に進行していくだろう。

 それは、アキラを勝利に導き、キロンを敗北に導く物語。

 どちらにも死んで欲しくない。

 そう思いながらも、私はアキラの側につかざるをえない。

 星見の塔の勢力争いや大企業の思惑だけではない。

 末妹選定において、私たちはトライデントに対抗する為に第五階層にいるトリシューラと一時的に休戦協定を結ぶことになった。

 それは、いずれ第五階層でハルベルトが第二の呪術儀式を行わなければならない事を考えれば、当然の布石でもある。

 こちらが協力する代わり、あちらからも一定の技術供与を行い、トリシューラとアキラがキロンに勝利して第五階層での足場を築く。

 その後はペリグランティア派である【公社】と共同で第五階層を統治しつつ、次に行われるハルベルトの呪術儀式に全面協力する。

 末妹選定に向けて入り乱れる勢力間の思惑の中で、私の恩義とか些細な感傷なんてちっぽけなものに過ぎない。


「えっと、今の所は互角――いえ、足場を飛び移りながらの空中戦に入ってから、ずっとシナモリ・アキラがやや優勢のままです」


 その事に少しだけ安堵してしまった自分に気付いて、罪悪感を覚えた。

 異形の悪役として貶められた英雄キロン。

 私がそうなるように演出や描写を調整したのだ。

 きっと地上や第五階層、そしてきっとこの会場内にも視聴者がいる。

 美しい歌声を聞きながら、演出されたキロンの醜さに眉根を寄せ、優勢に戦うアキラが勝つことを望む。

 そういう流れだと誰でもわかるから、観客の欲求は一つの方向に向かっていく。

 映像の視聴人数が呪力を生み出していく。

 天気予報と天気占いのどちらを選択するか。

 その判断によって影響を受ける現実のように、第五階層の戦闘も人の欲求によってその結果が決定する。

 きっと地上のあらゆる場所で、キロンに救われた人達がこんなのはおかしいと憤っているはずだ。

 けれど、そんなことを知らない数多くの人達は、深く考えずに端末を操作する。

 つまらない、暇つぶしの娯楽として。

 それでは余りにも無惨だから、せめてキロンを完全に否定しないために――悲惨な過去によって道を誤った悲劇の聖騎士という演出で、話の流れをアキラの勝利から動かさないまま、キロンの名誉を少しでも守れるような調整をした。

 私がキロンを惨たらしく殺す為の手伝いをしていることはわかっている。

 酷い欺瞞。最悪の偽善。吐き気がするような私のためだけの自己満足。

 いっそ、キロンを完全な邪悪として描いて、ただアキラに蹂躙させた方がまだ道徳的だろう。

 それでも、私は用意した物語素体の中に救いとなる呪文を用意せずにはいられなかった。

 『呪文使いは言い訳ばかり得意』と揶揄されるのはよくあることで、いつもなら私はそんなことを気に留めたりはしない。

 けれど、これは本当に言い訳だ。

 ガルズとマリーの襲撃からハルベルトを助けたような人を救うための言い訳じゃない。誰かを陥れ、自分の罪悪感を和らげる為だけの言い訳。

 安全な場所から運命に干渉する傲慢な特権者。それが私だ。

 あるいは、と思う。

 ガルズが憎む地上の歪みとは、このような心性なのかもしれなかった。

 私の思いとは関係無く、現実と時間はただ過ぎ去っていく。


「ふむ。優勢か。では子供受けはしそうか」


「はい?」


「お前の目から見て、商品化はどの程度いけそうかと聞いている。英雄でも悪役でも良い。問題は偶像崇拝の呪力がどの程度引き出せるかどうかだ。かの歌姫と比較して、どうか」


 サイリウスは冷徹な声でリーナに問いかける。

 この老人にとって、第五階層への干渉を許可したのは単純に利益が生み出せる可能性があるからだ。

 リーナの必死の懇願だけでは足りない。

 アキラがクロウサー家に利する存在であると、積極的に示さなければならない。


「だ、大丈夫ですお爺さま。まさにその歌姫の新曲が彼を後押しします。連動企画である現実参照型のアストラルネット小説素体は現在進行形で戦況を読み取りながら自動更新中ですし、更に歌姫の新曲、その作詞を担当しているのは新進気鋭の迷宮小説作家にして松明の騎士団の英雄アズーリア・ヘレゼクシュ! これだけ注目される要素が揃っててコケるなんて有り得ません! どっちかっていうと一晩で対応してくれたウチの企画とか広報とかの人がヤバい! 目と声がイってて怖かったです!」


「優秀な者たちである。後でねぎらってやるがいい。お前が今後もクロウサー家で生きていきたいと望むならば、少しでも繋がりは広く持っておくべきだ。オルトクォーレンの姫君ともな」


 一瞬だけ、老人の視線がセリアック=ニアの方を向く。

 彼女は物怖じすることなく、真っ直ぐに長身の翁を見上げて言った。


「杖系統の義肢に対する観衆の忌避感を考慮して、『主演者』の両腕に幻惑ウィルスを仕掛けておきましたわ。同様の措置をこの貴賓席にも。少々の事ではライブが中断されることなどありえないでしょう。と姉様は仰っています。セリアもそう思います」


「うむ、見事である。リーナよ、良き友こそ得難い宝。未来を見据えるならば、まず周囲を見るのだ。余計なものに気をとられて振り返ってはならぬ。わかるな」


 頭上では、ナトとガルズが激闘を繰り広げている。

 リーナは唇を噛んで、「でも」と小さく声を出そうとして、けれど続く言葉がどうしても出てこない。

 ガルズを自分の手で止める――その決意は揺るぎないものだけど、サイリウスが言った周囲の方を見ろという言葉も否定したく無かったからなのだろう。

 リーナは私を見て、セリアック=ニアを見て、リールエルバを見て、離れたステージの上にいる歌姫を見た。


「割り切れ。その心は今日この場で捨て去るのだ。葬送とは元来その為にあるもの。過去への未練はあの空にでも置いてくるがいい」


 サイリウスに答えを告げることができず、リーナは黙りこくってしまう。

 その時、それまで沈黙を保っていた鰓耳の民の一人が立ち上がり、銛を勢いよく地に打ち付けて瞳を爛々と輝かせた。


「ちまちまと戦いやがって、邪魔くせぇんだよ、スピアちゃんの美声が聞こえねえだろうがクソども!」


 鰓耳の民の目から放たれた光によって世界が凄まじい量の水で覆い尽くされる。虚空から押し寄せる波が貴賓席の周辺を消失させていく。

 代わりに、見渡す限り一面の海という世界が広がる。

 邪視者だ。それも、浄界が可能な第六階梯に到達している達人。

 敵対者にしか影響力を及ぼさない仮想の大波がガルズに襲いかかり、更には空の民たちが邪視で捉えにくい不可視の大気を操作する呪術を一斉に放つ。

 加えて、上空に回り込んでいたナトが鉤爪の付いた右腕を射出。

 第一撃目をマリーが打ち払うが、跳ね返された先で直角に方向転換した腕が再び襲いかかり、左腕までもが射出されて二方向からマリーに迫る。

 鰓耳の民の【波濤】、空の民の【螺旋】、ナトの【風蝕刃】が一斉にガルズを引き裂いていく。無数の脚でマリーを包み込んだガルズは邪視で【螺旋】を打ち消すことに成功しながらも、ナトの両腕に二本の脚と顔の一つを削り取られ、続く大波によって飲み込まれていく。


「愚か者めが」

 

 小さく、サイリウスが呟いたのを私は聞いた。

 そして私はその光景を見た。

 ガルズの周囲で流動する融血呪が大波に、そして作り出された海そのものに溶け出し、逆に飲み込みつつあるのを。

 小世界を浸食して体積を増していく融血呪は鋭い槍のようになると、そのまま術者へと突き進んでいく。

 愕然とする鰓耳の民を一瞬で食らい尽くした融血呪は、強烈な輝きを放つとそのまま世界を漆黒の闇色に塗り替えていく。


「うっそでしょ、他人の浄界って乗っ取れんの?」


「というより、禁呪で融合したんだと思う――」


 リールエルバが推測していた、呪術と呪術の融合。

 自らの浄界に対抗して発動した他者の浄界をトライデントの内側に取り込んでしまうという、恐るべき使用方法。

 あらゆる呪術に対して行使可能ならば【闇の静謐】すら超える最悪の対抗呪文になり得るが、空中に浮かぶ死人の蜘蛛は複数の頭を抑えながら苦痛の絶叫を上げている。

 浄界という大呪術を同時に発動するという負荷にガルズはかろうじて耐えきったようだが、その消耗も激しい様子だ。

 いつの間にか、広い会場は闇色の帳に包まれている。

 天の御殿ごと浄界に取り込んだのか、逆さまの宮殿は変わらぬ威容のまま地上を睥睨し続けている。

 その半透明の建造物を透過して、おぞましい月光が降り注ぐ。

 天に輝く四つの月が、全て血のように赤い。

 否――違う。実際に、血を零しているのだ。

 空から溢れ出た血液が雨となって会場に降り注ぐ。

 結界が観客席と舞台の真上で血の雨を遮るが、流れ落ちた血は大地に染み込んでいく。

 やがて真下から血液が染み出し、赤い海面を上昇させていきながら異臭を立ち上らせる。

 不気味さに悲鳴が上がり、歌姫のステージにも血の波が押し寄せていく。

 だが――そのステージが中断されることは無い。

 音響設備が異音を立てながら途切れるが、彼女は自らの歌に呪力を込め、些細な手の振りと歌とを組み合わせて呪文を発動し、会場の設備を強引に復活させる。

 異常事態にも関わらず、高位の言語魔術師は己のやるべき事を一切迷わなかった。歌声が広がっていくと同時、会場の混乱は潮が引くように収まっていった。


「この二重浄界でその防御を突破してみせるぞ、サイリウス!」


「突然の窮地にも一切動じず、見事に立て直したか。流石よな――だが」


 依然としてステージ上だけを見ていたサイリウスの瞳が、その時初めてガルズを見た。

 闇が広がる中、頭上からこちらを見下ろす異形の蜘蛛。

 その身体が、びくりと怯えたように後退る。


「完璧であったはずの舞台に傷を付けおったな。針も毒も持たぬ無害な虫と思い捨て置いたが――」


 純白の翼そのものである耳が僅かにはためき、ふわりとサイリウスが浮かび上がる。その全身から、険呑極まりない気配。

 図らずも不吉な空間にぴったりな、心を不安にさせるような不協和音が鳴り響いていく。咄嗟にリールエルバが誤情報を流した事で場の空気が和らいでいく。

 展開された浄界はただの演出に過ぎない。

 流石に疑問に思う者もいるはずだが、致命的な騒ぎになりさえしなければ大丈夫だろう。本来ならば避難させるべきなのかもしれないが、それはハルベルトの呪術儀式の失敗も意味している。


「【三叉路の染色分体】か――新曲が始まるまでに終わらせてくれよう。リーナよ、第五階層の状況をよく見ておけ。いずれお前にはあの地を任せる」


「えっ」


 サイリウスは勢いよく飛翔すると、透明な結界を展開する。

 貴賓席の上空にサイリウスとガルズ、マリーだけが隔離されたのだ。

 あれでは最初からサイリウスだけを狙っている相手の思惑通り――だけど。

 何というか、私にはどうしてもサイリウス・ゾラ・グロウサーが敗北する未来が想像できなかった。

 複雑に入り乱れる音の羅列を背景音楽としながら、両者の戦いが始まった。

 否――これから行われるのは戦闘などではなく。

 一方的な、蹂躙である。

 サイリウスは白い長衣をばさりと脱ぎ捨てると、上半身裸となった。老人とは思えぬ程の鍛え上げられた肉体。

 流石に厚みはペイルの方が上だろうが、全身に無数に刻まれた裂傷は幾度も修羅場を潜った経験によるものか。

 クロウサー家当主ともなれば、日常的に命を狙われる事も必然。

 そして、護衛に頼らず独力で刺客を返り討ちにする力を有していることも当然。

 老人は深く息を吐き出していき、握りしめた両の拳を顎の辺りまで持ってくる。

 大気を蹴って飛翔すると、目にも留まらぬ速度でその拳が放たれる。

 腰や体幹からの力を使わない、軽い速度を重視した拳打。

 腕の瞬発力のみで両の拳を次々と連打していく。

 当然のことながら速くはあるが重くは無い。ガルズにはさしたる痛手にはならないだろう。

 そう思っていたのだが、次の瞬間その戦いを見ていた誰もが目を剥いた。

 死人が集合して出来た蜘蛛の手足が、胴体が、拳の先端が触れる度に大きくへこんでいく。まるで鈍器で思い切り殴りつけたかのような衝撃。

 サイリウスは鍛え上げているとはいえ老人である。

 その上、空の民は序列第一位。つまり呪術の適性は高いが肉体的には夜の民と並んで最も脆弱である。

 肉体的には最強の霊長類が数人混じっている死人の蜘蛛をあのように一方的に力ずくで圧倒するなど、普通に考えたらありえないことだ。


「質量操作呪術だよ。極限まで軽くした腕で加速して、接触した瞬間だけ質量を増大させて威力を高めているんだ。多分、あのペイルってムキムキな人より速くて重いんじゃないかな」


 同じゾラの血族であるリーナにはサイリウスの戦闘技術が理解できているらしい。呪文を得意とするゾラは飛翔するとき、重力や慣性などの数値を書き換えているというが、それを戦闘に応用するとあのようなことが可能になるらしい。

 サイリウスはしばらくそうした『軽い』打撃を繰り出し続けていたが、ガルズの上からマリーが振り下ろした槌を軽く回避すると、今度は腰の回転を使いながら右腕を真っ直ぐに放った。

 その拳が、巨大化する。

 あまりにもその腕の振りが速く、威圧感があった為に錯覚した――始めはそう思ったが違う。

 巨大な拳がガルズとマリーをまとめて吹き飛ばし、サイリウスが維持している透明な結界の端に叩きつけられる。

 振り抜いた腕は、肩の先から段々と太くなっており、拳部分はサイリウス自身よりも遙かに巨大だった。


「呪文による質量操作に邪視を重ねて、『自分の腕がこんなに重いのにこの大きさなのは直観に反する』っていう確信で腕を重量に相応しい大きさに変化させたんだ。信じられない、あそこまで巨大化させられるゾラはきっとお爺さまだけだよ」


 リーナが驚愕する間にも、サイリウスはもう片方の腕までも巨大化させて真横に薙ぎ払う。

 結界の壁と腕に押し潰されて全身の骨を砕き肉を削りながらガルズが引きずられていく。

 かろうじて攻撃を回避し、腕の上に飛び乗って疾走するマリーを、サイリウスは翼の両耳を羽ばたかせながら一喝する。


「頭が高いわっ」


 【空圧】が発動。不可視の衝撃波がマリーの小さな身体を正面から押し返した。

 ガルズは空洞の眼窩から無数の【静謐】を発動して巨大な両腕を元の大きさに戻そうとするが、サイリウスはこれを完全に無視した。

 通用していないのではない。

 先程までの攻撃も、微動だにしていなかったが攻撃が命中した瞬間は確かに衣服や肉体が傷付いていたはずなのだ。

 だがそれは一瞬にして復元してしまう。まるで見間違いであったかのように平然と浮遊し続けるサイリウスは、治癒の術を使っているわけではない。

 その周囲を漂う大気が、勢いよくサイリウスの口に吸い込まれていく。

 勢いよく膨れあがる老人の身体は、長身を通り越して巨躯と呼ぶべきものになっていた。その身長がペイルを上回り、単眼巨人を超え、ミルーニャの石像や樹木巨人に届き、最終的にはその倍、ちょうど転移門を潜れる程度の巨体となった。

 伝承によれば、転移門の原型というのは古代文明を築き上げた巨人の王に大きさを合わせて作られたのだと言う。

 透明な大気が青白く発光する半透明の身体が腕を組みながら足下のガルズとマリーを睥睨した。

 第六階梯の邪視者は浄界を発動させ小さな世界を創造することができる。

 そして第七階梯――通常の人間には不可能と言われている高みに到達した者は、人間という段階から【魂の位階】を引き上げる事が可能になる。

 邪視を極め、世界を意のままに改変し、創造し、巨大な身体で矮小なる人間を見下ろす超越的存在。

 古い時代、人々は彼らを神と呼んだ。

 現代では巨人という最強の異獣として知られる彼らは、強すぎるがゆえに地上から排斥されたのだ。

 異獣と人を隔てているものは沢山ある。

 それはたとえば個体としての強さであり、排斥されない立場を有しているかどうかでもある。

 各国の来賓の目の前で巨人としての姿を晒すサイリウスを排斥できる者はこの地上にはいない。

 その実力が高みにある事もその理由の一つだが――私は擂り鉢状の会場のどこかに隠されているもう一つの貴賓席に思いを馳せる。

 警備上の理由で一部の者にしかその位置が明かされていないそこで、央都アルセミアから来た王族や大司教といった要人がステージを観覧しているはずだ。

 国王の妻はかつての名をユリアーナ・ゾラ・クロウサーといい、サイリウスの娘の一人である。

 更には周辺諸国、遠く離れた東方の諸国家にもクロウサーの血は広く浸透している。葉脈のように複雑に広がった血を地上に張り巡らせている第一位のクロウサーを、誰も異獣だと言って排斥することはできない。

 何故なら、彼らは異獣かどうかを決定し、誰を排斥するかどうかを判断する特権者たちだからだ。

 巨人の拳が余りにもちっぽけな反逆者を殴り、振り回し、叩きつけ、巨大な手で握りしめる。

 そのまま真下に見事な一投。

 結界を突き破って広々とした貴賓席のサイリウスがいた場所に叩きつけられた死人の蜘蛛は、もはや全ての脚をもがれて損壊したただの肉塊だった。

 続いてマリーもボロ切れのようになってその上に叩きつけられていく。

 巨体を元の大きさに戻しながら、ゆっくりと舞い降りてくるサイリウス。

 白い長衣を身に纏う彼は、息一つ乱していない。

 恐るべきは、あんな巨体で暴れておきながら会場の誰にも気付かれないように欺瞞結界を維持するその技量だ。

 サイリウスは戦闘をしながら、平行して結界内部の出来事を観客だけに見せないように情報操作呪術を発動していたのだ。

 戦いの前からサイリウスを認識していた貴賓席の人間には見えたはずだが、それ以外の者にはサイリウスもガルズもマリーも認識できなかったに違いない。

 サイリウスは冷酷な瞳で足下のガルズを見下ろしながら告げた。


「リーナよ。お前が殺せ」


「え」


 呆然とした様子のリーナ。

 彼女はきっと、それを覚悟してこの場に挑んだはず。

 けれど、それは多分お互いに死力を尽くして戦った後の事で――こんな風に、余りにもあっけなく殺せとだけ言われても困惑するしかないのだと思う。


「過去を切り捨てて見せよ。お前の意思を、ゾラの血族としての決意を一族の者らに知らしめるのだ」

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