3-75 シナモリ・アキラより②
天気予報によれば今日は曇りのち雨。
天気占いによれば曇りのち晴れ。
しかし今日は『雨の日』なので天気占いを支持することはできない。
大神院の気象管理システム――すなわち天意を信徒に代弁する神託機械は、本日の天気は雨が望ましいと判断していた。
朝からどんよりと広がった暗雲は、昼頃になってぱらぱらと小雨を落とし始めていた。
早朝に神官の一人が骨の三叉槍で貫かれ、日付が変わった時から身辺警護をしていたリーナは心底から参ってしまった様子だった。
私の部屋の寝台で毛布にくるまってじっとしている。何度も身動ぎをしているので、恐らく起きてはいるのだろうけれど。
名簿に記されている名前も残り二人のみ。
クロウサー家への復讐という襲撃の性質上、最終日に殺害されるのはサイリウス・ゾラ・クロウサーだろう。
つまり明日、ハルベルトが襲撃される。
明後日には呪術儀式なので、きっとハルベルトが狙われるのは最後の通し稽古の時ではないかと予想されていた。
私たちもそのつもりで準備を整えてきたのだが。
「はぁ」
図らずも、リーナと溜息が重なってしまった。
しばらくして、出し抜けに毛布がばさりと舞い上がった。
「うがー!」
「うるさい」
明るい黄色の長髪をぼさぼさにしながら、リーナが叫ぶ。束ねるとかすればいいのに。いい加減見るに見かねて、私はのそのそと歩いていき、寝台に腰掛ける。
「ちょっといい?」
「うん」
私はリーナの髪を左右で三つ編みにし始めた。
こんなのでも貴族であるリーナはお世話をされ慣れているのだろう、大人しくされるがままになっている。
「晴れたら、また空中散歩しようか?」
「ん、晴れたらね」
リーナは虚ろな目で端末をいじり始めた。
大丈夫かな。
自分自身の事でさえままならないのに、他人の心配なんて、と思うけれど。
そんなことを思いながら綺麗な長髪を編み込んでいると、リーナが変な事を言い始めた。いつものことだが。
「え、炎上しとる」
「【
「うん、アストラルネットの話だけど」
どうやら、例の【サイバーカラテ道場】とかの話らしい。
何でも、師範代であるアキラが魔将エスフェイルを討伐したという功績を大きく喧伝しているせいで方々から非難されているらしい。
公式には私が討伐した事になっているから、松明の騎士団は当然アキラを非難するだろう。
あちらは私やキール隊と共に倒したという事実を言っているだけなのに。
片側の髪を編んでいた私の手が止まる。
リーナは片方だけの三つ編みをいじりながら、じっと黙りこくっていた。
そして、重苦しい沈黙が辺りに立ちこめて、
「よし、飛ぶか」
「え?」
突然立ち上がり、私の手を引いて部屋の外に連れ出そうとする。
もう片方の手には新品の箒。昨日ミルーニャと試したという新型の呪具というのはこれのことだろう。
「ど、どうしたの。外、雨降ってるよ」
「いいの。雨の空を飛ぶの」
「風邪ひくよ?」
「空の民と夜の民が濡れたくらいで風邪を引くかー!」
普通に引くと思うけど、と口に出す暇も無く、ぐいぐいと引っ張られる。
空の民である彼女は、日中の夜の民に負けず劣らず非力だ。
抵抗しようと思えばできたはずだけれど、不思議と私はふわふわと浮遊しながら移動する彼女にのそのそとついて行ってしまった。
「前に乗ってくれる? 横座りで」
「うん」
リーナの箒はとても長い。明るい黄色の呪石製の軸に、頭は金色の花弁に彩られた枝でできている。
かつての幼馴染みたちと再会したあのパレルノ山で採集した金箒花を素材にした、高い呪力を宿した箒だ。
私は黒衣の後ろをおさえながらちょこんと箒に腰掛ける。
並んでリーナも横座りすると、ふわりと浮き上がる感覚。
視点が上昇し、景色が一変する。
整然と立ち並ぶ色鮮やかな街並み。
街路は幾何学的な模様となって街全体を呪術的な円陣として機能させている。
空中を走る誘導光は雨の日であっても空中に道路を仮構し、空中を移動する絨毯や箒の交通管理をしている。
リーナは大型箒の邪魔にならないように安全運転で自由飛行域に向かうと、待ちかねていた用に思い切り速度を出して飛び上がった。
「なんだ、普通に雨風避けの結界が張ってあるんだ」
凄まじい速度を出しているけれど、私たちが振り落とされたりはしないし雨で濡れたりもしない。
周囲には同じように雨の空での空中散歩を楽しむ空の民や空中遊泳をしている鰓耳の民なんかがいる。
少しずつ高度が上がっている。こうしてリーナと空を飛んでいると、黒百合宮にいたころを思い出す。
なんだか、少しだけ心が晴れた。
「もっと高く飛べると思うんだよね」
「え?」
思わず聞きかえすと、リーナは思いの外真剣な顔つきで、すうと息を吸い込んでからはっきりと言葉を紡いだ。
「私がさ、この空を晴れにしたら言うことひとつ聞いてくれる?」
「いいよ」
どうして躊躇いなく頷いたのか、自分でもよくわからなかった。
今は夜じゃないし、昼夜の区別が無い黒百合宮でもないから、私は空を飛べない。全てをリーナに委ねることにした。
箒が傾いて、ぐんと加速する。
向かうのは、雨が降り注ぐ天上だ。
地上がどんどん遠ざかって、自由飛行域すら抜けて、違法行為への厳重注意を全て無視して、飛行型の自動鎧(リビングアーマー)から見事に逃げおおせる。
慣れた箒さばきで追撃を全て振り切ってみせると、リーナは私に一切負荷をかけることなくついに世界槍から枝上に伸びる第一階層の高度まで到達する。
そう――雲海を抜けたのだ。
雲を突き抜け、どこまでもどこまでも高く飛翔していく。
あの幼い頃よりも、さらに高みへと。
天を衝く世界槍の穂先、不思議な輝きを放つ刃が陽光を照り返して煌めくのを横目に見ながら、私たちは際限なく飛んでいく。
「これ、どこまで飛ぶの?」
「んー、重力の軛から解き放たれる予定」
「それ戻れないよね?!」
重力制御と慣性制御――リーナは邪視と呪文を複合させた飛翔術と杖の一種である箒で飛んでいるわけだが、地上の重力から解放された場合どうなってしまうのだろうか。
重力――大地の呪力を感知するラフディの棘の民やエルネ=クローザンドの空の民は宇宙空間では呪術を使えないという説を聞いたことがある。
いつしか私たちは、気の遠くなるほど遠い場所に辿り着いていた。
世界を取り巻く大気そのものである第一の創世竜、界竜ファーゾナーを突き抜けていく。ついでにとばかりにリーナはその巨体から鱗の一枚を拝借していく。呼吸に必要な大気をありったけ結界内部に取り込むと、ぐんぐんと竜王の庇護から離れて飛んでいく。
それを可能にするリーナの飛翔術の腕もとんでもないけれど、眼下の光景はもっととんでもなかった。
そこは、あらゆる色彩に満ちあふれていた。
世界槍で繋がれた二つの大地。
上から見下ろした地上と、それより遙かに広大な地獄。
青い海や白い海、赤い海。
黄色や褐色の砂漠。
この世の色を全て雑多に詰め込んだような大森林。
極度の呪力異常によって闇に包まれた大地。
全てが双方の大地に存在する要素だ。
無数の世界槍は地獄から地上へと突き抜けているものがあれば、地上から地獄へと突き刺さっているものもある。
ここから見える地上には、穂先と石突きの双方が見えている。
地上に隠された場所は見えないが、地獄には端の端まで自然が広がり、わけても四方に存在する一際巨大な地上太陽は遙かな高みからでもその輝きと呪力が感じられた。
地上太陽――第八の創世竜メルトバーズが吐き出した炎。
地獄を完全に幸福な福祉社会として成立させている呪力の供給源であり、遠くない未来に枯渇することが確定している有限の資源。
地上に攻め入り、聖女を生贄にして火竜を復活させる。
地獄の目的は単純で、切実で、それゆえに余りにも悲しい。
重力から逃れても、私の心はやはりあそこに囚われたままだ。
共生と平和を謳いながら、犠牲の上にしかそれを成立させることができないという矛盾も、彼らを単純な邪悪と断じて殺戮する槍神教の正義を信じ切れない私たちの愚かさも、何もかもが。
「アズーリア。上を見て」
リーナの声に従って見上げれば、そこには無限に思えるほど広漠とした闇。
多層構造を成す暗黒の列を、四つの衛星が巡っている。
夜光天、幽冥天、精霊天、太陰天。
地上の闇に空間を超越して繋がっている故郷を懐かしみ、浮遊する生きた大地の威容に驚き、下界のしがらみを嫌って天に昇った上古の妖精たちの王国の宝石のごとき美しさにうっとりとして、そして丸く輝く師の故郷を見つめた。
太陽天で燃えさかる巨大な呪力構造体からアストラルの炎を纏った下位の天使(フェーリム)たちが次々と誕生し、土塊天、火力天、水晶天を通過して天堂天の外側へと旅立っていく。
炎天使たちは無限の闇の中に身を投じ、彼方の星々に輝きを灯していくのだ。
二度と戻る事のない旅路。
儚く、そして煌めくような在り方だと思った。
「ここでなら、多分アズーリアは飛べると思うんだよね」
言われて初めて気付いた。
私の身体には今、力が満ちあふれている。
青い翼を広げて、枝角を伸ばした。
箒から離れ過ぎないように、重力を感じない闇の中をゆっくりと泳ぐ。
「そっか。ここは、ずっと夜なんだね」
「もしかすると黒百合宮がずっと両方の時間だったのって、世界の理から外れていたからじゃないのかも」
「どういうこと」
リーナの言葉に首を傾げる。
彼女は自分の考えに自信が無いのか、囁くように言った。
「なんていうか、あそこには世界の『ほんとう』があったんだって、そう思うの。あるがままっていうかさ。朝とか昼とか夜とか、そういう区別とか境界とか、全部人が定めたもので――空の向こうって、きっと私が想像してる以上に、怖いくらいに自由で」
幼い頃、私たちは青空について語り合った。
少しだけ大きくなった今、青を通り越して私たちは暗黒の中を漂っている。
「いつか、呪文は言葉だってクリア先生が言ってた。ディスペータお姉様は約束事って言ってたし、ミブレルお姉様は雲の形を自在に想像することだって」
「それって不自由なのか自由なのかわかんないね」
「うん。多分、どっちでもあるし、どっちでもないんだ。この世界みたいに」
私たちはしばしの間そうやって闇の中を漂っていた。
青と暗黒がグラデーションを描き、様々な色彩が巡る世界の様相を見つめていると、不意にリーナが悪戯っぽく微笑んだ。片方だけの三つ編みが揺れる。
「ね、晴れたから私の言うこと聞いてくれるよね」
「それは、ずるって言わない?」
「今、雨降ってないじゃん。だから晴れ」
「確かに今ここにいる私たちにとってはそうかもしれないけど」
邪視者にして呪文使いらしい詭弁といえば詭弁なのかもしれない。
しぶしぶと頷くと、リーナの表情がぱっと華やいだ。
「いよっし。じゃあアズーリアはこれからアキラとやらに連絡すること!」
「はあ?!」
「約束破ったら駄目なんだよー。ディスペータお姉様に言いつけちゃうぞー」
「それだけはやめて」
フィリスのせいで遙かな過去に送られてしまった旧第五位のお姉様は行方不明でも私を恐れさせた。たとえいないと分かっていても、黒百合宮で一番恐ろしいのはディスペータお姉様である。
「きっとアズーリアは恨まれてるだろうからね。約束破りしたことと合わせてきっとすっごい罰が待っているよー。こえー」
「ちょっと待って」
「嫌なら言うことを聞くがよい!」
「だから待ってってば」
「ここは夜だから飛べるって、さっき言ったよ」
リーナはそっと私に近付くと、私の枝角に触れ、それから頭を優しく撫でた。
「お願い」
短い言葉。
その中に、どれほどの想いが込められていたのか、私にはわからない。
ただ、頷きたいと、そう思った。
私は、本当はアキラに言葉を届けたい。
届かせたい言葉があるなら、私は口を閉ざすべきじゃない。
それがたとえ、間違いであっても。
「――うん。ありがとう、リーナ」
「よっし。じゃあ、そろそろ戻ろうか。帰りは任せるよ」
「了解」
私は翼を広げて無限に広がる闇から、そして星々と月から呪力を集め、青い翼でリーナを包み込むと、そのまま真っ直ぐに地表に向けて降下していった。
影の触手を障壁にして外界のあらゆる理を遮断し、来るとき以上に凄まじい勢いで地上に墜ちていく。
誰かが見たら、流星と間違うだろうか。
リーナの持った箒から金色の呪力が零れて、煌めくような軌跡を残した。
長く尾を引く箒星。
光を散らして、黒から青へ。
蒼穹の中に舞い降りると、大いなる竜王に優しく包み込まれて、私の身体は再び黒衣の霊長類に戻っていく。
そこからはまたリーナの出番。
身を寄せながら箒に乗って、一直線にエルネトモランに飛んでいく。
長いのか短いのかもよく分からない空中散歩は、そうして終わっていく。
そのことを少しばかり名残惜しく感じていた私は、最後の最後でとびきり驚くことになった。
「嘘、晴れてる?!」
「流石私! 晴れ女のリーナさんにかかればこんなもんよ!」
地上へと戻った私たちを出迎えたのは、すっかり晴れ渡った空。
誰かが願ったわけではない。
ただ、気紛れな空と自由な雲がたまたま機嫌を良くしただけだ。
いつか、ガルズが広げた夜空をリーナが晴れた青空に変えてくれたことを思い出した。確かに、リーナは晴れ女だ。
澄み渡る空に、綺麗な虹が架かっている。
ふと私は訊ねてみた。
「ね、あれって何色だと思う?」
「そんなの決まってるじゃん」
槍神教の理に従えば、あれはきっと聖なる数である九色なのだろう。
けれど今の私には――そしてリーナにはこう見えているはずだ。
そこに境界は無く、色を定める言葉があるとすれば、その数は無限。
私たちは、声を揃えてこう言った。
「万色!」
無理な頼みを、ハルベルトとミルーニャは真剣に聞いてくれた。
そして少しばかり呆れつつも、彼女たちらしい優しさで許してくれた二人に、私たちは甘えていたのかもしれないけれど。
ふと思った。
私とリーナは、小さい頃からこうして甘える相手を持っていた。
些細な共通点だけれど、性格が全く違う私たちが仲良くなれたのはこういうずるい所が一緒だからかもしれない。
ハルベルトは私が直接アキラに連絡することは許さなかった。
けれど、ならば代理の誰かが連絡すればいいと言う。
「星見の塔関係者である私たちの誰が連絡しても問題あり――けれど、ただ一人一切トリシューラや公社に警戒されない人物がいる」
「それは?」
「クロウサー家始まって以来のお天気頭、ゾラの血族最大の軽量型脳みその持ち主。そのうつけぶりは三界に広く知れ渡りお間抜けな顔と名前はアストラルネットに晒されて――もとい轟いて久しい」
「あー、やんちゃしてた頃『違法霊薬キメてアストラル投射の限界速度突破したった』ってアストラルネットに投稿したら逮捕されかけて家が揉み消したらバレて炎上したやつかー。懐かしい。あの頃は私も若かった」
「末妹候補だった過去は知られているはずですが、流石のトリシューラもこのお気楽お馬鹿を警戒するほど暇じゃないと思います。炎上の争点である父の関係者でもあるわけですし、適任でしょう」
ミルーニャが頭痛を堪えるような表情をしていることからすると、事実らしい。
私は軽く引いた。いや、確かに霊薬で変性意識(トランス)状態になるという呪術は存在するけれど、基本的に薬局に並んでいる合法のものを使う。
大丈夫かなあ。将来、取り返しのつかない犯罪とかしそうで怖い。
しっかりと見張ってないと危なっかしくてしょうがない。
「よっし名前貸しは任せろー! 空気を読まずに流れを作ってみせるよん! あ、文面はアズーリアが考えてね」
「うん、ありがとう」
私はリーナと協力して炎上を食い止めるべく行動を開始した。
そして、アキラに対してそれと分からないように、無関係なリーナを装って連絡する。
そして、思惑通りあちらとメールのやりとりをすることに成功した、のだが。
「意外。けっこう丁寧な文面だ。それに、憎んでないって。お父さんの冥福を祈ります、だって。そっかそっか」
リーナは端末を見ながらしきりに頷いて、安心したように息を吐き出した。
それからどこか優しい口調で呟く。
「『一部だけを見て全体を判断できないということを、他ならぬ地上の探索者である貴方が証明してくれました』か。そうだね。悪者でも、いいところだってある。そして、この地上にだって、守るべきものがあるんだ」
リーナは立ち上がった。
私に自分の端末を預けて、ここからのやり取りは全て任せると言って立ち去ろうとする。
「どうするの?」
「決戦の準備」
揺るぎない決意を声に宿して、リーナは宣言した。
昨日、忘れていった三角帽子を手に取って頭にしっかりと被り直す。
「ガルズを、マリーを止める。それが、私が今やりたいことだから」
私はその決意に至るまでの彼女の心を想像して、それから確かに私たちに届いた遠く離れた人の言葉をもう一度読んでいく。
言葉は、予定していたよりもずっと不用意に溢れ出した。
そうだと理解していれば、リーナではなく私の言葉だということは明らかで――それでも、アキラへの言葉は止まらなくて。
「どうして」
口をついて出たのは、自分でも信じられない弱々しく震えた声。
どんなに考えてもわからない。
なんで、私。
「どうして、私に都合のいいことばかり言うの」
どうして、優しい言葉ばかり送ってくるの。
ここがまだあの夢の世界で、私はまだ自分に都合のいい非現実に浸っているんじゃないか。
そう思ってしまうほど、アキラの言葉は私にとって都合のいいことばかりだ。
呪文を使えない者は、呪文使いに言葉で嘘はつけない。
『筆致』に込められた感情で、それが本心かどうかすぐにわかってしまうから。
だから、彼がこんなにも私に優しいのも。
憎しみを抱いているどころか、深く案じ、感謝し、救いを感じていることも。
『ほんとう』なのだと強く確かに理解できる。
それこそが私の救いであることを、彼はきっと知らないだろう。
端末から投影された立体映像を突き抜けて、小さな雫が画面を叩いた。
馬鹿みたいだ。
せっかくどこかの晴れ女が青空を見せてくれたのに。
部屋の中で雨を降らせていたのでは、彼女に合わせる顔が無い。
私はそれからしばらく、端末を見ることができなかった。
呪文を紡ぐ。
どうしてか、かつて無いほど順調に作業が進んだ。
気がつけば既に夜が更けている。
皆は体調を第一に考えて休息をとっている所だが、私はこれからが一番活発に活動できる時間帯だ。
第六位の眷族種、イルディアンサの耳長の民は月光を浴びて呪力を蓄える。とはいっても、流石にここまで深夜になると休息が必要だ。ハルベルトもまた明日に備えて寝入っていた。
日付はとうに十二日目。
『殺される準備』は万全であり、いつ襲撃されても問題ないようになっている。
正念場だ、と私は気合いを入れ直した。
それでも少しだけ休憩しようと立ち上がり、ロクゼン茶を入れようとした時、寝台の上に目が向かってしまう。
リーナの置いていった端末。
何気なく手をとって、ほとんど無意識にメールを打ち込んでしまう。
何をやっているんだ、この時間帯に連絡しても失礼に当たらないのは同じ夜の民だけだ、と理性が囁く。
多分相手は寝ているだろう。
それでも伝えたい言葉を止める事はできなかった。
身勝手に、不用意に、考え無しに。
幼い頃、ビーチェを傷つけたあの時からずっと成長もできないまま、私は言葉を紡がずにはいられない。
馬鹿みたいな私の謝罪を、彼はそのまま受け取ってくれた。
きっと起こしてしまった。
二重に申し訳無くて仕方が無いのに、彼はその上私のことまで気遣って、ただただ私に優しくて。
身体の奥から湧き上がってくるこの感情を、何と名付けるべきだろう。
それは余りにも大きすぎて、複雑すぎて、言葉で切り分けようとしても私の手にはどうしても収まりきらない。
いつか。
いつか、この想いを彼に伝える事ができるだろうか。
彼がこうして無事でいてくれていること、彼が救われたと感じていてくれたことが私の救いであること、みんなが死んでしまって、けれど彼だけは生き残ってくれて嬉しいこと、そして、今もまだあの第五階層で戦い続けている彼を、私は。
「いつか、必ず」
ふわりと、心が浮き上がった。
左手よりも先に、声よりも速く、ただ言葉の中に妖精が飛び込んでいく。
ここは一体どこだっただろうか。
部屋の中?
それとも言葉の中?
この世界は、私に切り分けられたがっている無限の世界。
万色の夢幻。
曖昧な世界の中に放たれた言理の妖精。
私が唱えた呪文は、始めから左手や声なんて形よりもずっとそれらしく悪戯好きに飛び回る。
いつか、黒百合宮で妖精をいじめて遊んだことがある。
今はもう、完全に私の掌握下に置かれた呪文。
言葉の間隙に潜り込む妖精が、時間と空間を飛び越えてあらゆる飛躍を重ねて私の心とアキラの心を繋げていく。
淡い光が辺りに満ちていった。
実感は無い。
けれど、私はその一瞬、確かにアキラと再会した。
「私は必ず貴方を迎えにいくから」
ハルベルトは言った。
第六階層の攻略の為、第五階層を拠点とするのだと。
私は英雄として序列を駆け上がり、今よりもっと強くならなくてはならない。
光が弾けて、私は現実に帰還する。
だから、決して負けられない。
夜が明けて、遂に前日となる。
私は朝方から始められる呪術儀式の通し稽古を見ながら、リーナの端末を操作してアキラに連絡する。
彼の気がかりを取り除ければいいと願いながら、私が彼の無事を知っていることをリーナの口を借りて伝える。
それで終わり。
あとは目の前の事に向き合うだけ。
そのはずだったから、その後に私が送った言葉は、きっと魔が差したゆえに出てきた気の迷いとかそういうものに違いない。
『もしよろしければ、これからもこうしてお話していただけませんか』
ああもう。
なんで断らないかな、この人は。
――そして、その瞬間は訪れた。
舞台上に立つ黒衣が揺らめき、フードを突き破って現れたのは体内の骨を押し固めて生成した三叉槍。
体内から体外へと肉の身体を引き裂く凶器は、またしても誰にも妨げられることなく目的を実行した。
十二日目。
衆人環視の中、ハルベルトは磔にされた罪人の如く処刑される。
何もかもが予定調和。
闇の中で、マリーと呼ばれた少女がほくそ笑んだ。
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