3-71 言語魔術師の弟子(後編)②
宣言に従って、左手が紡ぐ呪文が全てを無かったことにしていく。
フィリスの宿った私の肉体は元に戻っていき、巨大な球体巨人は連結を切り離されて力を失い、そのまま縮んでセリアック=ニアの影の中に帰っていく。
巨大な呪力がフィリスから放たれ、セリアック=ニアとリールエルバが地上に叩き落とされる。
時間稼ぎにと飛び上がったミブレルお姉様がその身体を拡散し、残った最後の一人――黒百合宮に常在して私たちを見守ってくれていた『クリア先生』がお菓子の群れを生み出して障壁を張り巡らせながら私たちを集めてその場所から離脱しようとするが、既に手遅れだった。
フィリスの紡ぐ呪文によってミブレルお姉様の雲の身体は千切れ飛びながら空に浮かぶ無数の雲の一部となり、お菓子の障壁を貫通した解体の呪文がクリア先生の身体を包み、無力な白黒の小ウサギに変えてしまう。
フィリスの前ではあらゆる力が無意味と化す。
魔将が紡ぐ呪文によって、子供たちも次々と餌食になっていく。
リーナが体内から飛び出した血の色の鎖で雁字搦めに縛られて意識を失い、プリエステラが周囲から伸びてきた草木に飲み込まれて同化していき、メートリアンが膨張しながら蠢くだけの真っ白な肉塊となり、セリアック=ニアは宝石の彫像に、リールエルバはアストラルの手足が細くやせ細りそのまま壊死して気を失う。
かろうじて、メイファーラだけがわけも分からず呆然とするヴァージリアを抱えて呪文を回避し、逃走することに成功した。
第三者として過去を眺める私の視点は、二人を追いかけていく――当然だろう、これはヴァージリアの記憶を元にした回想なのだから。
十四歳のメイファーラはもうすっかり身体が出来上がっていて、身長も今と大差無い。平均的な霊長類の成人男性よりやや低い程度の、女性としてはすらりとした身長と長い手足で、現在よりは小さな十一歳のヴァージリアを抱えて走る。
メイファーラが何かをしきりに口にしているが、それはどうしてか無音だった。
先程までのやりとりは、無音の映像に後でメートリアンから教えてもらった音声を当て嵌めて再構成した記憶なのだ。
だからこの瞬間にメイファーラが何と言っているのかはわからない。
けれど――彼女は泣きそうな顔をしながらしきりに一つの事を言い続けているようだった。
余りにも同じ事ばかりを言うので、流石にヴァージリアにもその唇の動きで何を言っているのか理解できた。
メイファーラは、ずっと謝罪の言葉を口にしていた。
剥き出しの手でヴァージリアの身体を強く抱きしめて、何度も何度も。
ふと、些細な違和感に気付く。
あの頃、いつもメイファーラが着けていた手袋が、今は存在していない。
呪力を遮る布――今にして思えば、それは接触感応や過去視の力を制御するための物だったのだが、あれはどうしたのだろう。
彼女がその能力を制御できるようになったのが、この時だということなのだろうか――それとも、他に何か理由が。
そこまで考えた時、メイファーラとヴァージリアは黒百合宮の玄関に辿り着いていた。
そして絶望する。
正面に回り込んでいたフィリスは、浮遊しながらゆっくりと左手を伸ばす。
無表情なままに小さく呟く。
その声は聞こえなかったけれど、何と言っているかは明らかだ。
メイファーラはヴァージリアを突き飛ばして、自ら盾となり――そして、全身から鱗を浮かび上がらせ、蜥蜴のように変異した肉体がゆっくりと倒れていった。
最後の一人になってしまったヴァージリア。
フードが落ちて左右非対称の耳が露わになった彼女の目の前に浮遊するフィリスが、左手を伸ばして呪文を唱える。
震えながら、ヴァージリアが手を伸ばす。
ぴくりとフィリスの左手が動いて、その動きが止まった。
ヴァージリアは変貌してしまった幼い私を見る目に微かな希望を宿らせて、強く呼びかける。
そして、恐る恐るといった風に立ち上がって、そっと左手に両手を被せた。
ああ、そうか。
その光景を見ながら、私は納得が胸にすとんと落ちてくるのを感じていた。
私は、あの時も彼女に救ってもらったんだ。
その存在が何者かに脅かされて揺らぎそうになった時、彼女の存在が私を繋ぎ止めてくれた。
触れ合った手の感触、震える声、綺麗な黒玉の瞳。
そうだ、と私は思い出す。
幼い私は、フィリスに奪われかけていた身体の制御をかろうじて取り戻し、自分の存在を確かにするためにヴァージリアの呼びかけに応える。
けれど――なんてことだろう。
私の小さな声は耳の聞こえないヴァージリアには届かない。
帳面も端末もここには無い。
力の無い私の声は、こんなにも近くにいる彼女に伝わらない。
もどかしくて、何度も何度も私はここにいるとフィリスの中から叫ぶけれど、それはどうやっても伝わらない。
名前を取り戻したはずなのに、声を取り戻したはずなのに。
その声では、どうやってもヴァージリアには届かない。
そうしている内に、私は一時的に取り戻した身体の支配権をフィリスに奪われ、また心の奥底に押し込められそうになる。
そうしてフィリスは悪意に満ちた呪文を発動させる。
他の子供たちに対してそうしたように。
その存在を悪意的な解釈で書き換えて、死よりもおぞましい運命を与えようとしているのだ。
フィリスはヴァージリアの全身を蠢く膨大な呪いに言及し、それを与えた彼女の母親と師の非道さを糾弾した。
そして、それを本心では苦痛に感じているヴァージリアの内心を暴き立て、束縛や期待に押し潰されそうな幼い心をちくりちくりと刺していく。
それは言葉の棘だ。
太陰の王女として、星見の塔の魔女として、誇り高くあろうとするヴァージリアの意思を否定して、それは過酷な現実を合理化した諦めに過ぎないと宣言する。
強がってはいても、所詮は脆く幼い子供なのだと。
虐待に晒された幼子の戯れ言、呪われた忌み子の無力な叫びでしかないのだと繰り返し言い聞かされ、次第にヴァージリアの表情が絶望に染まっていく。
耳が聞こえない彼女の心に直接届く事象の再解釈。
力強い魔将の言葉によって、胸に抱いた決意は容易く書き換えられ、やがて他の子供たち同様に絶望の中に囚われていく。
やがて、呪いの言葉がヴァージリアの全身を真っ黒に覆い尽くしていった。
全てが終わろうとしていた。
嫌だ、と私は思った。
幼い私が、過去を回想する私が、それだけは絶対に嫌だとその光景を拒絶する。
声も出せずに闇の中に沈んでいく絶望。
遠ざかっていく妹に、ヴァージリアが重なる。
繰り返したくない、取り戻したい、もう一度機会があれば、私は絶対に言葉を届かせてみせる。
幼い私は、闇の中で翼を広げた。
青く透き通った羽で内的宇宙を駆け抜けて、その中枢で私の存在を掌握する曖昧な『何か』――フィリスへと戦いを挑む。
私の言葉はどうやってもヴァージリアに届かない。
なら、その現実をねじ曲げて届くように変えてやる。
あらゆる不条理を実現する力。
幼い私を乗っ取ろうとする敵であるフィリスの力を利用して。
私の声を奪い、まさにヴァージリアに向けて呪文を解き放とうとしていたフィリスに干渉する。発動そのものを阻止するのではなく、呪文の内容を書き換えて、力の方向性に抗うのではなく利用する。
「言理の妖精語りて曰く」
悪意に満ちた解釈でヴァージリアの全身を蝕む呪いを暴き、母親と師からの想いを変質させようとしていた呪文。
その全てが反転し、私の言葉として書き換えられた。
「ヴァージリア――あなたにかけられた呪いは希望。いつか末妹になるという目的の原動力となる欠落であり渇望。聴力を失っているからこそ、いつかお姉様の歌を聴きたいと願う。呪われているからこそ、末妹となって呪いから解き放たれたいと願う。それは束縛だけれど、同時に期待でもある」
母からの、そして師からの束縛と呪い。それは裏返せば期待であり、かけられた愛情の重さだ。
同じ事実であっても――それは見る角度や距離によって容易く色合いを変える。
「その身を蝕む呪いは猛毒。末妹になれなければあなたの命を砕き、呪いをかけた術者の命もまた砕かれる。責任と対価は重く、呪いの色はどこまでも黒くおぞましい。けれど、諦めないで!」
私の干渉をはね除けようと激しく抵抗するフィリスを必死に抑え付けながら、私は私の口を操って叫ぶ。
届かないはずの言葉が、左手から放たれる隠された呪文によって世界を書き換えてヴァージリアの周囲を取り巻いていく。
その喉に、その耳に、色のない闇が宿る。
「その呪いはあなたを守る愛情であり、あなたの為に用意された武器でもある。末妹になれなければ呪いは死の運命を確定させるけれど、逆に言えば末妹になることを諦めない限り、あなたは絶対に死なない。呪われた運命があなたの意思を守り続けるから」
言うなればそれは不死なる意思。
心が折れない限り、諦めない限り、ヴァージリアに敗北は無い。
それは、ちっぽけな人の身である彼女に与えられた、人外の競争相手たちに対抗する為の最強の武器だ。
ヴァージリアの全身を覆う呪いが、肌を這って身体の中に戻っていく。
「ねえ、ヴァージリアの願いはきっと叶うよ。諦めない限り、意思ある限り、あなたは絶対に幸福になる。あなただけじゃない、あなたの大切な人だってみんなみんな幸せにできる。呪いはいつか、祝福に変わるから」
左右非対称の両耳が淡い光に包まれていく。
はっと黒玉の目が見開かれ、ヴァージリアはそっと両耳に手を当てる。
そして、信じられないというように小さく呟いた。
「これが、音?」
小さな、掠れたような声。
ゆっくりと頷いて、私は彼女の両手にそっと触れた。
「強固な現実は乗り越えられる。柔らかい呪文を唱えれば、それは簡単なこと。それを教えてくれたのは、私のお師様なんだよ。私より呪文を知っているジルになら、世界にかけられた呪いを解くことだってできるよ。死の囀りという呪いを、歌姫という美しさで書き換えることだって、きっと」
多分、それが始まりだった。
歌姫という称号を綺麗なものとしてこの世に甦らせるための第一歩。
そして、私たちがお互いを確かめ合い、呼びかけ合った最初の瞬間。
私たちには、自分が口にするべき名前が理解できていた。
今まで一度もそんなふうにして相手に呼びかけたことはない。
けれど、それが正解なのだともう知っていた。
「アズーリア」
「ハルベルト」
二つの存在はお互いによって認められて、それは自らの認識と固く結びついて世界に強く刻み付けられる。
世界の構造――紀元槍にすら届く呼びかけがフィリスの支配に打ち勝って、圧倒的な力を有するはじまりの魔将は私の中に閉じ込められてしまう。
それから、私たちは頷き合うと、声を揃えて歌い始めた。
それは呪文。
絶望を塗り替えて希望へと導く、呪いへの対抗呪文。
高らかに歌われた言葉が黒百合宮に響いていくと、黒百合の子供たちが元の姿に戻っていく。
呆然として、わけもわからずに辺りを見回す少女たちの上から、雲になっていたミブレルお姉様が降ってくる。
小さな白黒兎に変えられていたクリア先生は何故かその姿が気に入ったみたいで、そのまま手を叩いてお菓子を生み出してはみんなに配っていく。
危機が去ったことで安心したみんなは、不思議そうな表情をしながらもお菓子を口に運んで、ほっと一息。
けれど、過去に送られたディスペータお姉様だけは元に戻す方法がわからなくて、その事件で唯一の被害者となってしまった。
弟子であったリールエルバはうつむき、セリアック=ニアはその時はじめて私たちの目の前で涙を見せた。
私は慰めを口にした。
「きっとあのディスペータお姉様なら、過去の世界から今の時代までずっと元気にしているよ。だから必ずまた会える」
セリアック=ニアは、これもまた彼女としてはとても珍しい憎しみの感情を目に宿して私を睨み付けたが、その身体を半透明の腕が優しく包み込む。
「使徒様の仰る通りだわ。落ち着いてお姉様の帰還を待ちましょう、私のニア。そして、私たちを救ってくれてありがとう、使徒様」
そうして、私たちに日常が戻って来た。
お姉様方は事後処理に奔走し、子供たちの心身に異常が無いかを念入りに検査し、更には空席となってしまった第五位の代理が誰にするかという事で揉めに揉めたらしい。
その後、彩石の儀で勝利して【万色】の称号を得た者を末妹候補を通り越して第五位代理にするという宣言がされ、全員が色めきだった。
特に直接の弟子であったリールエルバとセリアック=ニアは目に見えて実力を伸ばし、怒濤の勢いで一位争いをしている私やヴァージリアに食らいついて来た。
魔将が黒百合宮に侵入した原因はお姉様方によって念入りに調査されたがわからずじまいで、結局警備が強化されただけ。
厳重な警戒網の目を盗みながらリーナと一緒に空中散歩を楽しんで、その挙げ句ミブレルお姉様に捕まってお説教をされる事が増えたけれど――その他にはこれといった変化も無く、いつものように勉強に励み、その合間にお茶会を楽しむ。
私とヴァージリアが喋れるようになっても、葉っぱの手紙でやり取りする習慣は終わらなかった。
その秘密めいた伝言板は、私たちにとって儀式のようなもの。
そう言えば、一つだけ小さな変化があった。
葉っぱの伝言板――言葉の空間で、私たちは小さな妖精を飼う事にしたのだ。
私たちの交わす文字の隙間を泳いで、その言葉尻を捕まえてはひっくり返して悪戯する妖精。その名はフィリス。
私は身体の支配権を取り戻し、フィリスを完全に屈伏させた。
しかし、存在そのものが完全に私と同化していたため、引き剥がせば私の存在を揺るがしかねないという困った状態にお姉様方は頭を抱えた。
仕方無く、慎重に観察しながら私が制御を誤らないよう見守ることになったらしいのだが、私はそんなことには頓着せず、
「もう怖くないよ。言理の妖精なんて、仕組みがわかれば大した事ない!」
などと調子に乗り、その力を自在に操って呪文を使って愉快な遊びを片っ端から試していった。
フィリスを小さな妖精として矮小化させ、言葉の狭間に住まわせて使役したり、それを全員でつつき回して慌てふためく様子を観察したり。
実のところ、フィリスは言葉の解釈をひっくり返す習性があるだけの悪戯好きの妖精に過ぎない。
恐ろしく見えた魔将も、視点を変えれば大した事のない存在なのだ。
そもそもが第一魔将、その力は魔将の中でも最弱である。
使い方次第では万能だが、単体では何の力も持たない。
私たちはさんざんやり込められた恨みを晴らすべく、ひっくり返しても意味が通るような言葉を投げかけたり、全く出鱈目で解釈のしようがない言葉をぶつけたりしてフィリスを困惑させた。
ディスペータお姉様がいなくなったことで、黒百合の子供たちの残虐さには歯止めがかからなくなっていた。
フィリスをいじめる残酷な言葉遊びは際限なく進歩していき、ヴァージリアが言葉の意味や音を複合的に重ねる架空言語を考案し、リールエルバがその時制を滅茶苦茶にして、リーナが次々と新語や略語を生み出していくまでになると、フィリスはすっかり疲れ果てて言葉の狭間でしょんぼりとするようになっていた。
哀れに思ったのか、時折メイファーラが辞書や物語を片手に普通の言葉を与えようとするのだが、目ざとくそれを見つけた者がやいのやいのと別の解釈で先に言葉をひっくり返してしまうので、大好物を取り上げられたフィリスは小さくなって逃げていってしまう。
散々好き勝手をしてくれた『悪者』への制裁であり新しい遊び。
無邪気な残酷さによってフィリスはいじめられ、酷使され、振り回され続けた。
「言理の妖精語りて曰く、言理の妖精語りて曰く!」
私はフィリスを使って黒百合宮のあちこちにお菓子の彫像を作り出し、果ては柱の一つを飴細工やチョコレートに変えて食べてしまう。
がらがらと崩落する柱廊の一部を見て周りのみんなが顔色を青くするが、私は構わずに呪文を唱えて大理石の柱廊を丸ごとお菓子に改築する。
リーナと一緒にはしゃぎながら噴水を色々な果実のジュースに、扉と通路の繋がりを滅茶苦茶に、浮遊する螺旋階段を巻き貝にしていく。
「あなたの妹のせいで、アズーリアが悪影響を」
「はあ? 何ですかその因縁、私は知りませんよ」
何故かそのせいでヴァージリアとメートリアンが喧嘩を始めて、メイファーラとプリエステラが仲裁に入る所までいつも通りの流れ。
私はフィリスを濫用し、みんなのちょっとした願いを叶えていった。
些細な願い事、単純な欲望、何でもかんでも「言理の妖精語りて曰く」と唱えれば即座に解決。
彩石の儀もいよいよ終盤となり、私たちはフィリスいじめで培った呪文の実力でめきめきと成績を伸ばしていく。
頂点を争っていたのは
それに猛追する
最終的に誰が一位になってもおかしくない、抜きつ抜かれつの壮絶な競争。
誰もが負けられないと必死になっていた。
目の前の事に必死になりすぎて、些細な事を見落としていたせいかもしれない。
最終盤のことだった。
それは至極当然のしっぺ返し。
いじめられた恨みを晴らすべく、私の中でフィリスが復讐を果たす。
私たちはその空で幾度となく競い合った。
感覚的に呪文を扱っていた私は、師に恵まれてその呪文がどんな理屈で動いているのかを学んでいく。
お姉様たちの授業からも多くの事を学んだけれど、私の直接の師であるダーシェンカお姉様やクリア先生は放任主義で、自由に学ぶように、としか教えてくれなかった。
だから『お師様』の存在はなによりも大きくて――だからこそ、その戦いは負けられなかった。
もう誰もが均一で色褪せた弱者には見えない。
色づいた世界では誰もが強くて、その中の一つでしかないアズールはひどく弱々しい存在でしかない。
かつての私は、競うことすらしていなかった。
私は頂点に立っていたけれど、それは一人だけ別の競技をしていたからこそ生まれてしまった結果だ。
絶対者では無くなった私は、けれどだからこそ同じ場所で仲間たちと競い合えることを喜んだ。
空中で何度も何度も激突し、交錯し――けれどそのアバターがぐらりとふらつき、そのまま落下する。
それはフィリスの逆襲だった。
私の意識はそこで途切れた。
俯瞰で眺める私が見るのは、ヴァージリアの記憶。
私が脱落した後、動揺した
最後には傷付いた
サンズは第五位代理となり、すぐに第五位の座に正式に収まる事になる。
勢力図が塗り変わったことで、星見の塔では派閥抗争が勃発、その波は黒百合宮にまで押し寄せ、彩石の儀が終わりを迎えた事もあって、黒百合の子供たちは散り散りになっていく。
その直前、意識を失った私を取り囲む八人の姿。
クリア先生と黒百合の子供たちは、寝台に横たえられた私の左手で再び活発に動き出したフィリスを確認すると、決意と共に呪文を唱える。
それは、ダーシェンカお姉様に与えられた唯一の道。
フィリスに浸食された私を『処分』しないで済む選択肢だった。
「言理の妖精語りて曰く」
唱和する声と共に、それぞれの身体にフィリスの一部が吸い込まれていく。
全員が何度もフィリスに干渉していたからこそ可能な手段だった。
強力な魔将の力を分解して、少しずつ負担を受け持つ事によって、フィリスの浸食を食い止める。
その代わり、フィリスに浸食されている事実そのものを封印して記憶に蓋をすることで安全策とする。
ヴァージリアやメートリアンは逆にその事実を武器にして呪力を高めることを選び、またメイファーラとリールエルバも密かに記憶を取り戻す手段を用意していたが――そうしてフィリスの力は分散され、封印は完了した。
そして、私たちは一人ずつ黒百合宮を去っていく。
私はより強固な封印を施す為に星見の塔の伝手で槍神教の修道騎士団、智神の盾に預けられ、そこで金鎖というフィリスを制御する為の枷を嵌められる。
フィリスは智神の盾によって過去に捕獲されており、私はその初の適合者。
そんな事実が捏造され、そういうことになった。
目覚めた私は記憶が曖昧なまま、目の前に現れたラーゼフ・ピュクシスという『反星見の塔派』の振りをした星見の塔の協力者の言うことを信用し、妹を助けるために修道騎士となって戦う事を決意する。
実際の所、それは私がフィリスを制御しながら妹を取り戻す為の唯一の道だった。その後の私の運命は、きっとそうなるように配慮してくれた誰かのお陰。
それが、飛ぶように過ぎていった黒百合宮の日々の顛末。
幼い時間の、あっけない幕切れだった。
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