3-72 言語魔術師の弟子(後編)③
暗闇の中で、私はゆっくりと目を覚ます。
目の前には、少しだけ成長したヴァージリアの姿がある。
私は全てを理解した。
フィリスの封印は黒百合の子供たち全員で行っているもの。
私を復活させる為に過去の記憶を完全に取り戻し、封印を解きはなった今、みんなもまたフィリスによって浸食されているはずだ。
本体が眠る私がこのまま沈んでしまえば、マロゾロンドだけではなくフィリスまで私の身体を乗っ取ろうと暴れ出す。
そうすれば、呼応したフィリスの欠片はみんなの身体まで浸食し始めるだろう。
私の命は、もう私だけのものではない。
「そんな、私――私、どうすれば」
「諦めないで」
ヴァージリアは、どこかで聞いたような言葉を口にした。
当然だった――それは私が彼女に告げた言葉なのだから。
「あなたもジルも、そしてみんなも。もうフィリスに負けるほど弱くない。呪文の力を掌握して、自在に操る一人前の魔女なんだから。力を合わせればフィリスに負ける事なんてない。もちろん、マロゾロンドにだって」
神や天使や悪魔でも、恐れることなど無いのだと。
ヴァージリアの言葉はどこまでも力強く暖かい。
ゆっくりと、斧槍が引き抜かれていく。
「あなたが、最初にジルを助けてくれたの」
「違うよ、最初に私を救ってくれたのはジルだよ! あなたが呼びかけてくれなかったら、私は自分を取り戻せなかった!」
「同じ事。ジルもあなたが呼びかけてくれなかったら自分を、そしてお母様とお姉様のことを信じられなくなっていた。あなたの言葉が今日までの支えになったの。あなたの言葉を信じたから」
救いだと思った。
無思慮で無遠慮で人を傷つけてばかりの、浅はかな私の言葉。
妹を失った事も、フィリスからのしっぺ返しも、きっとその当然の報い。
けれど、それが誰かの救いにもなるんだと、彼女は言ってくれる。
その言葉こそが、私を救ってくれていた。
ヴァージリアは、悪夢の群れの一番奥で強く輝きを放っている巨大な金眼を見つけると、斧槍を突きつけて告げる。
「摸倣だから、偽物だから、その中には本物が無いとあなたは言う。けれどジルはそうは思わない。外側の観測者たちが偽物だと思えないのなら、その振る舞いはジルたちの呪術的なものの見方によって本物だと確定できる。ならそれは、本物を一から再現するエミュレータと同じ事」
それは詭弁だと金眼が輝く。
邪視の圧倒的速度を、しかし斧槍は力強く両断した。
「そう、誰もが詭弁と幻想の世界に生きている。本当じゃないフィルター越しの、目や耳や鼻や肌や舌、そして記号と意味、信号と言葉の構造の中にしか存在しない――ううん、そもそも『存在』なんてものは言葉の中にしか存在してない。なら、『ほんとう』は誰もが言葉の中にしか存在できないはずなの」
言葉は無力だ、と眼差しが私とヴァージリアを貫いていく。
しかし、ヴァージリアは不敵に笑って反論を呪文に変える。
「言葉は確かに無力。記号は意味を完全に捉えられない――だからこそ、こんなことができる」
突然、ヴァージリアは鋭く斧槍を投擲した。
私は向かってくるそれをどうにか枝角で受け止める。
凄まじい呪力を有する斧槍の呪文を完全に保持すると、途端に私のアストラル体が改変されていくのを感じた。
「これって」
「はい、これで今からあなたはハルベルト」
「え、えええええ」
こんなに簡単に私に名前を明け渡して大丈夫なのかと心配になったけれど、ヴァージリアはすかさず私に飛びかかって擦れ違いざまに斧槍を奪っていく。
「これでハルがハルベルト」
「なにそれ?!」
「ハルベルトなんて言葉に過ぎない。その意味は、その了解は、本当は別の所にある。例えば」
ヴァージリアあるいはハルベルトは私との間の距離を手の仕草で示した。
それから、斧槍で両者の距離を測るようにする。
「この間に、とか」
ハルベルトという意味は私たちの間にある。
連関と構造――言葉の狭間。
『ほんとうのこと』を切り取ろうとする試みは、いつだって不完全な言葉でしかできない絵空事。
ふと、私は思い違いをしていた事に気付く。
私のお師様は、決してハルベルトを諦めない。
私を誰よりも想うからこそ、幼い日の私の言葉を信じてハルベルトを、末妹の座を目指し続ける。
だが私の存在を取り戻す為にはハルベルトを譲り強固な個我を与えるしかない。
本来ならば葛藤してどちらかを切り捨てる所だけれど、お師様は問題をとんでもない『ずる』で切り抜けようとしていた。
それは詭弁使いと言われることもある、呪文使い特有の解決策。
「私たちで、ハルベルトを共有する――?」
「ぶつかり合う度に、ハルベルトという名前は移動する」
「そうしたら、記号だけが移り変わって、意味も少しずつ揺らいでいって――」
「中身と器を移し替えて、揺らしながらぐるぐる回す」
「私がハルで」
「アズがハルに」
「存在を二人で支え合うということ?」
「ハルたちはあの時からずっとそうだった。小さな頃にお互いを支え合って、そのお陰でここまで来ることが出来た。なら、これからもそうするだけ」
それは幼い頃の呪文であり、約束であり、希望を込めて世界へと発信した歌声であり、そうとは知らぬまま出したファンレターであり――そして今、激しくぶつかり合う私たちの在り方でもある。
私は、ようやく理解し始めていた。
この戦いの本当の意味に。
その狙いは、勝敗自体にはない。
お互いに競い合い、言葉をぶつけ合うことで存在を確かめ合う。
そうやって激突し、感触を実感し続けた私たちは、もう既に存在を確かめ合っているのだ。
実体の無いハルベルトという言葉が行き交い、現実を嘲弄するように私たちをしっかりと繋いでいく。
ハルベルトの目的は既に達成されている。
私はもう、ここにいる。
「私は、ずっと『ハルベルト』の中にいたんだね」
そっと呟くと、私の全身が光に包まれていく。
遠くで、金色の瞳がひび割れ、粉々に砕け散った。
私を呪縛していたガルズの硬質な世界観が、柔らかく解けていく。
深淵の向こうで、父にして母なるマロゾロンドが触手を氷の刃で切り裂かれ、更にはお菓子に変えられていく。
恨めしげな声も、もう私には届かない。
無数の夢が一斉に砕け散った。
全て私の望みだけど、私の居場所はもう決まっているから。
「さよなら」
それだけ告げると、世界が闇に包まれた。
見上げると、空には皓々と輝く夜の月。
深淵には、すっかり弱ってしまった古き神の姿がある。
ハルベルトは斧槍を逆手に持ち、投擲する構えをとった。
「アズ、あの時の続きをしよう」
「そういえば、ちゃんとした決着、つけてなかったね」
私もまた、枝角の先に呪文を紡いでいく。
ハルベルトを共有した今だからこそわかる。
お師様の実力はかつてとは比べものにならない。
絶対者だなんて幼いうぬぼれはもう通用しないほど、その呪文の実力は果てしない高みにまで達しているのだ。
本当は、きちんとした呪文詠唱の時間さえ稼げれば、師の亡霊すらも正面から打ち破れるほどに強く。
なら、私だって師に負けないほど強くならなければならない。
「それじゃあ、行くよ?」
「望むところ」
私たちは、声を揃えて呪文を唱える。
「言理の妖精――」
「語りて曰く!」
私の枝角から、影から無数の触手が伸びていき、ハルベルトの投擲した斧槍が真っ直ぐに影の世界を貫いていく。
激突する二つの呪文。
私の世界で有利なのは、当然ながら私の力。
加えて、存在が確かになった今、私は自由自在にマロゾロンドの力を引き出せる。掌握した呪力を影に注ぎ込んでも乗っ取られることはもはや無い。膨れあがる影は古き神の力を宿し、ペレケテンヌルを撃退した時の如き威力で斧槍を押し返していく。
ハルベルトには勝ち目が無いかと思われたその時。
彼女の右側の妖精の耳と、左側の兎の耳が光を放つ。
右側は気紛れで制御不能な荒々しい自然そのものの力。
左側は落ち着いて制御可能な管理された人工的な力。
混沌と秩序が調和していき、荒れ狂う二つの神格の加護を全くの等量分だけ引き出していたハルベルトは、そこで何を思ったか両方の力を外側に向けるのではなく内側に向けて、相殺させてしまう。
二つの力は打ち消し合い、残ったのは中庸――そして虚無。
斧槍の斧部分と反対側にある三本の鍵爪部分から呪文が消失する。
そして、先端の槍部分に収束していくのは、かつてないほどに強大な力。
「三叉槍は三相女神の象徴――第三位と第六位の加護を打ち消した後に残るのは、神の加護を否定した無神論――第九位」
それは己の力を頼みとする自己への確信が生み出す加護無き加護。
第九位の古き神、鉄願のセルラテリスは実体世界において最強の存在である。
ハルベルトの呪文はその力を反転させ、非実体世界における最強を実現する。
第二位であるマロゾロンドの加護すら超越する、反転した第九位の加護。
「天空世界の言い伝えに曰く、その槍こそは紀元槍の枝の一つ、名は『威力』。月に放てば月を滅ぼし、陽に放てば陽を滅ぼす。万象貫け――【ゲルシェネスナ】」
【
私は必死にその射線から逃れるが、余波で全身をずたずたに引き裂かれて吹き飛んでいく。
一直線に深淵へと突き進んでいく最強の槍は、闇の底で蠢く触手の塊に直撃し、私という存在を内側から引き裂かんばかりの大爆発を引き起こした。
漆黒の影が真っ白な光に包まれて、壮絶な呪力が次元を貫通して隔離された異界に潜む神格そのものに甚大な傷を負わせていく。
それがハルベルトという人間が行使した呪文だったためか、破壊は致命打とはならず――けれどけっして無視できない手傷を負い、古き神マロゾロンドは現世への侵攻を諦めざるを得なくなる。
闇の彼方へと退散していく触手の群れを見ながら、ハルベルトが快哉を上げた。
「ハルのものに手出しするようなら、またゲルシェネスナをお見舞いしてあげる。それが嫌なら、大人しく加護を引き出されるだけの無害な存在でいること。あなたはアズの生みの親で加護発生装置なんだから、これからも働いてもらう」
さらりと非道な事を口にする。
私はぼろぼろになって漂いながら、色々な意味で格付けが完了してしまった事を理解した。
私はお師様の弟子だし、ハルベルトという名前の所有権はなんだかんだであっちにあるのだ。
あの詭弁を弄する呪文だって、要するにハルベルトが言語魔術師として優れているから可能となった綱渡り。
諦めない限りハルベルトの名を取り戻し続ける――不死なるハルベルト。
自在に存在を分け与えて命を繋ぎ止めるその姿はまさしく神話にある死ざる女神そのものだった。
そして力関係を考えれば、付き従う使い魔は考えるまでもなく私の方。
異論なんてあるはずもない。
けれど、出鱈目で力業なのにも程がある。
ハルベルトは圧倒的な実力で全てを解決してしまったのだった。
薄れ行く意識の中で、私はハルベルトの言葉を聞く。
「どう、これがハルの実力。ちゃんとあなたの師として相応しい――って、アズーリア、どうしたの。はやく上に行ってみんなに無事な姿を見せに行こう」
残念ながらお師様。
私、あなたの呪文が凄すぎてちょっと無事には帰れそうにないです――。
神すら貫く最強の一撃。その余波でぼろぼろになった私は、ゆっくりと気を失っていく。
私の存在はそうして確かなものとして世界に刻み付けられた。
私、アズーリア・ヘレゼクシュ、歳は三十二歳、霊長類の数え方だと十六歳。
ちょっと不安定だったりするけれど、ごくごく平凡な夜の民――じゃなかった。
一世代に必ず一定数はいる、霊媒という特別な個体。
いるところにはいるものなので、私の周囲だとそれなりに普通だったりします。
そんな私だけど、実はちょっとだけ誇らしいことがあるんです。
どんなことかって?
それはですね。
尊敬する素敵な人の、一番近くにいられるということ。
大切な人を、支えてあげられるということ。
大切な人に、支えてもらえるということ。
いつか女神となって世界に秩序をもたらす彼女のそばで、天使としての役割を果たす存在であること。
キュトスの姉妹の末妹候補、ハルベルトの弟子にして使い魔。
それが私、アズーリア・ヘレゼクシュ。
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