3-70 言語魔術師の弟子(後編)①




 影の世界と無数の夢を切り裂いて、二つの影が疾走する。

 私は翼を広げ、迫り来る様々な幻獣たちの追撃を振り切ろうと加速した。

 ステージの上で歓声を浴びる誰かがいる夢の世界。

 華やかなその光景を貫通しながら私に迫り来る呪文攻撃。

 急制動。回避した光線は分裂して私を追尾してくる。


「だからっ、戦いたくないって言ってるのに!」


 後ろ肢から伸ばした無数の影で迎撃。

 感応の触手は厚みのある影となって呪術を絡め取る。

 枝角を振って追跡してきた独角兎を跳ね返して、私はしつこく攻撃を仕掛けてくるハルベルト――本人の自称によればヴァージリアを睨み付けた。


「あなたの意思なんて関係無い。勝手にやらせてもらうだけ」


「自分勝手にっ」


 振り下ろされた斧槍と枝角が激突する。

 短い衝撃の後に、私とヴァージリアの距離が開いていく。

 吹き飛ばされていった先は、穏やかに両親や妹と生活している私がいる夢。

 ぶちこわしになった幸福が砕け散って霧散していく。

 反対側にいるヴァージリアも何らかの世界を壊しているようだ。

 私たちの戦いの余波で無数の夢は次々と破壊されていくが、その数は一向に減ることが無い。

 私たち夜の民は摸倣と複製を得意とする。

 当然、その根源である創造主は現実に迫るどころか実際の質感を凌駕するほどの精巧な夢を形作る事が可能だ。

 逃げ出す事なんて決してできない。

 騙されていた事、利用されていたことはわかっているけれど。

 それでも、私はこの夢の中にいるのがお似合いだと思う。

 向かってくるヴァージリアの瞳は、いつになく必死だった。


「わからずやっ」


 その言葉も、驚くほど激しく、強い。


「どっちがっ」


 交錯する。

 幾度となくぶつかり合う。

 勝った方がハルベルトだなんて、馬鹿げている。

 私とヴァージリアが争う理由なんて何も無い。

 どっちかが死ぬだなんてそんな選択肢は選べない。

 なのに、彼女はその二択を突きつけてくる。どこまでも強引に。

 ヴァージリアは私を救い出しにここまでやってきた。

 だとしたら、そんなことを言い出す理由は一つだ。

 彼女はわざと負けて、自らの命と引き替えに私を救おうとしているのだ。

 多分、ハルベルトとしての役割を私に託して。

 ふざけるな、と思った。


「私に、貴方の遺志を継げとでも言うの!? ふざけないでっ」


「ふざけてない」


「そうやって、人の事を振り回してっ」


「言ったはず。あなたは『ハルのもの』だって。ならあなたは、ハルベルトの使命を果たすべき」


「私がなりたかったのはそんな名前だけの使い魔じゃないっ」


 枝角を前にして突進し、翼で仮想使い魔を振り払い、影の触手を伸ばして。

 何度も何度も衝突して、沢山の呪文ことばで殴り合う。


「私は貴方がハルベルトだから力になりたいと思ったんじゃない。ハルベルトの役割だけ引き継いで、末妹になったから何だって言うの。そこに貴方がいなかったら、何の意味も無いのに!」


「その呪文、そのまま返す」


 私が感情のままに解き放った呪文を、ヴァージリアは冷静に受け止め、そのまま跳ね返す。 

 属性を書き換えられて【反撃】の性質を帯びたその呪文は、その意味を反転させて私に直撃する。

 私は自らの呪文に――そしてヴァージリアの想いに打ちのめされた。

 ヴァージリアだけじゃない。

 斧槍から放たれる色とりどりの光が私に直撃するたび、懐かしい記憶が私の中に流れ込んでくる。

 どうして忘れていたんだろう。

 あんなにも大切に感じていた黒百合宮での思い出たち。

 煌めくような記憶が、偽りの夢を打ち砕きながら私を通り抜けていく。

 広大な空間を駆け巡り、激突し、光線を撃ち合いながら、私はこんなことが前にもあったと懐かしさを感じていた。

 彩石の儀。

 瞬きの間に過ぎていった競い合いの日々。

 私はあの世界を駆け抜けて、様々な色彩を見て、感じて、そして――自分自身を取り戻した。

 私――アズーリアって、誰のこと?

 どうして空は青いのだろう?

 子供じみた問いだけど、それは切実で剥き出しの生存欲求だ。

 この広大すぎる世界で、私は余りにもちっぽけで。

 だからこそ、何か確かなよすがが欲しい。

 繰り返し繰り返し、私は問い直す。

 どうして空は青いの?

 その答えに手が届きかけた時、金眼の輝きが甦る。

 ――お前は、存在しない。

 かつてエスフェイルに告げた存在否定。

 私は幻。

 人ならざる幻想に過ぎない。

 疑似細菌という知能無き機械の群れだという硬質な事実が、私の心を無数の泡に変えていく。

 けれど、色褪せたシャボン玉になって弾けて消えようとしていた私を、繋ぎ止めようとする者がいた。

 身体の中心に突き刺さった斧槍から、最後の思い出が拡散し、私の心の中に浸透しようとしていた。


「ここで終わりなんて許さない」


 力強く宣言するヴァージリアに、私は震える声で言い返す。

 

「私だって、終わりたくないよ。ビーチェに会いたい。お父さんとお母さんに会いたい。みんなの所に帰りたい」


 視界が滲んで、涙が溢れていることに気付いた。

 ここは非現実なのに、現実みたいな細部の忠実さが少しおかしかった。

 私を現実に引き戻そうと、ヴァージリアが必死に声を張り上げる。


「なら、諦めないで」


「でも、そんな感情だって嘘なんだよ。私は本物じゃない。この感情も思考も、機械的に摸倣しただけの偽物なんだ。私は、人間のシミュレータでしかない。そうだって思いながら、今まで通りに生きるのなんて無理だよ」


 それを『だからどうした』と切り捨てる事ができる人もいるんだと思う。

 けれど私は、『それは生ではなく空虚な死である』というガルズの世界観に飲み込まれてそれを確信してしまった。

 邪視者の能力は世界観を拡張すること。

 他者の世界観や認識、自己像すら改変してしまう彼の空虚に、私という幻想は決定的に敗北してしまっている。


「幻想が現実に勝てないなんて、誰が決めたの」


 黒玉の瞳が、強く輝いている。

 呪文は四つの系統で一番遅い。

 だからといって、杖や邪視、使い魔に劣るわけでは無いのだと。

 呪文の座の誇りに賭けて、彼女は言葉を紡いでいく。


「言理の妖精語りて曰く」


 はっと息を飲む。

 ヴァージリアの口から発せられたその言葉、その呪文を、私は良く知っている。


「覚えてる? これは、あなたが私たちに教えてくれた最初の呪文」


「私、が――?」


 呆然として問い返す。

 知らない記憶、まだ思い出していない最後の記憶だ。

 その時に、一体何があったのか。

 言理の妖精エル・ア・フィリスとは、一体何なんだろう。


「思い出して、あの時のことを。死んだというのならそれでもいい。思い出の中から甦らせて、もっと強くて新しい、最高の使い魔に転生させてみせるから」


 私の中で斧槍が強く熱を発して、私は視界が光に包まれるのを感じた。

 そして、景色が塗り変わる。

 朝と夜とが入り交じるそこは、懐かしい漆黒の学舎。

 黒百合の子供たちが過ごした青い時代、その最後の日々。




 俯瞰する視点で、私は過去の映像を追体験していく。

 空からゆっくりと舞い降りる幼き日の私。

 その傍らで、同じようにゆるやかに落下してきているリーナが小さく呻いて目を覚まそうとしていた。

 異変を察知して裏庭に集まってきていた黒百合の子供たちに、その教師たる姉妹が三人。


「何なの、あれ。マリーはどうしちゃったの?」


 プリエステラが呆然と見上げる先で、小さな私の左手で闇が蠢いた。

 全身を取り巻く輪郭の曖昧な『何か』は渦を巻くように流動し、圧倒的な呪力でもって周囲を威圧していた。


「呪力波形を解析、検索。超古代文明の人工妖精、【言理の妖精】であると推測するわ。予言にある最初の魔将というやつね。と姉様が仰っています。セリアもそう思います」


 セリアック=ニアが――というより背後で浮遊する半透明のリールエルバがそう分析する。

 ミルーニャ――この時にはメートリアンと呼ばれていた少女が眉根を寄せて小さく呟く。この頃には身内の中でならある程度はっきり喋ることが出来るようになっていた。


「魔将って、地獄の? なんでそんなのがここに――っていうかどうやって侵入したんですか、目的は?」


「さあ、そこまでは分かりかねるわ。けれど、伝承によれば言理の妖精は実体の存在しない語り部。地上に攻め入るための寄り代を探してここまでやって来たのだとすれば納得はできる。何しろこの黒百合宮には地上有数の霊媒が集まっているのだから。と姉様は仰っています。セリアもそう思います」


「前から思ってましたけど、セリアック=ニア、そのお追従いらないです。あっ、ていうかあの雲の落書きは何ですか! リーナですね?! ちょっとそこで寝てる馬鹿リーナ、さっさと起きて状況説明しなさい!」


 メートリアンが頭上で浮遊するリーナを睨み付けて叫ぶ。

 寝ぼけ眼のまま身を起こした彼女は、周囲の状況を把握してぽかんと口を開けた。すぐそばにいる私を見て、今までの事を思い出したのだろう、おずおずと呼びかける。


「アズーリア?」


 その名前は誰もが知らないものだったが、それがマリーの事であると即座に承認され、認識は共有された。

 それが私にとって最も相応しい名前であるのだと、誰もが最初から知っていたようにアズーリアという名前が世界に確定し――他者による宣名という変則的な手続きを経て、私はその存在を強固にしていく。


 喉に闇がわだかまり、口が開き、舌が動く。


「みんなの心を、私に聞かせて?」


 私が音声言語を発した事を、誰もが驚きながらも自然に受け入れていた。

 だからこそ、その瞳に人ならざる飢えを宿している事もまた当然なのだと全員が理解した。

 私は――幼き日のアズーリアは豹変していた。

 大人しい夜の民ではなく、内側に何か得体の知れない存在が入り込んだ脅威。

 第一魔将は、松明の騎士団の守りを突破して人知れずこの黒百合宮に潜り込み、私を寄り代として降臨したのだった。

 それを脅威と認識した瞬間、私の安全と他の生徒たちの安全を秤にかけていた姉妹たちの一人が動き出した。

 冷酷な判断を下したその姉妹――星見の塔第五位、【栄光の手】ディスペータお姉様は豊かな蜂蜜色の金髪を靡かせながら高々と跳躍した。

 守護の九姉の中で最も勇猛で優美で妖艶な、生と死を統べる女王。

 かつて神々に戦いを挑み、アエルガ=ミクニー、ペレケテンヌル、そして失われた神ハザーリャの三柱から権能の一部を簒奪した恐るべき力の持ち主である。

 黒百合の子供たちは、魔将という脅威の存在に怯えつつも、彼女がいると分かっていたからこそ恐慌をきたし、慌てふためいて逃げ惑うような事は無かった。

 絶対的な実力者に守られているという安心感。

 幼い私――否、フィリスに相対した守護の九姉の勇士は凄烈な美貌に敵意を宿し、灰色の瞳から邪視を放って対象の動きを束縛する。

 

「『おいた』は駄目ですよ――最初に約束しましたよね?」


 黒百合宮に足を踏み入れた時に、黒百合の子供たちはディスペータお姉様と約束を交わす。

 この黒百合宮の中ではお互いの命を危険に晒すような呪術の使い方はしないこと。ただし、競争の範囲内での呪術行使ならば可とする。

 秩序を維持するための誓言――それ自体では無害だが、それに背いた場合には仮死と世界からの追放という重い刑罰が強制的に下される。

 不死なる神々ですら逃れられない誓約の絶対遵守。

 期限付きとはいえ、途方もなく重い罰則は子供たちを震え上がらせた。

 「いじめっ子は宇宙漂流ツアーですよ~」とにこにこしながらメートリアンをいじめるヴァージリアの頭を優しく撫でたり、「人のものを盗んだらめってしちゃいますからね、めって」と言いながら解剖用の蛙を潰したりするディスペータお姉様に逆らおうとする者などこの世界に存在するはずがない。

 誰もがそう信じていたから、フィリスが、


「邪魔」


 と言って左手をディスペータお姉様に向けた時、揃って絶叫した。


「に、逃げてマリー! じゃなくてアズーリア?」


「どうでも良いですよ! っていうかリーナもやばい位置ですよあれ?!」


「さようなら使徒様、貴方の事は忘れないわ。と姉様が仰っています。セリアもそう思います」


 耳の聞こえないヴァージリアだけは訳が分からず、けれども異常事態であることだけははっきりとわかる光景に、目を見開いている。

 守護の九姉第五位の背中に、異界を思わせる青が広がっていく。

 悠久の流れ、大いなる冥府の大河が空間を切り裂いて流れていくと、淡い色遣いが繊細で幻惑的なあの世の光景を具現化していく。

 呪術の奥義、浄界の発動の兆しだった。

 そして、ディスペータお姉様の裁きが下ろうとしたその時。


「言理の妖精語りて曰く――ディスペータの解析と解体を実行」


 無彩色の左手が明度の無い光を放ち、その瞬間世界が切り替わった。

 ディスペータお姉様という絶対者が支配する王国から、フィリスという妖精が弄ぶおとぎ話の遊び場へと。


「解体――失敗。対象は複数の【紀】を有する再帰的な連関構造体と推察され、単純な解体は不可能。アプローチを変更し、起源に遡って存在の逆流を実行。過去に放逐します」


 フィリスを渦巻く呪力が、ディスペータお姉様を絡め取っていく。

 単純な呪力の力強さにおいてならば九姉屈指とも言われる女性は、あまりにもあっけなくその渦に飲み込まれていく。


「これは――」


 息を飲んで、さっと灰色の視線を巡らせてすぐそばにいたリーナを捉える。

 そのまま眼力のみで地上へと押して安全な場所まで逃がすと、鋭く叫ぶ。


「全員、すぐに逃げて――」


 言い終わらぬ内に、その全身に驚くべき変化が現れる。

 ディスペータお姉様は成熟した女性である。不老である女神の眷族の中にあって、美しい妙齢の肉体年齢のまま悠久の時を重ねる美貌。

 すらりと伸びた背筋と手足、ほっそりとしていながらも肉感的な体つき、霊長類にとっては母性を感じさせるという豊かな胸元――そうした全てが、見る見るうちに縮んでいくのだ。

 あっという間に子供たち以上に幼い姿となったディスペータお姉様は、そのまま歪んでいく空間の中に飲み込まれて消失してしまう。

 起源に遡る。存在の逆流。

 フィリスの言葉を信じるのならば、それが何時なのかは分からないが過去に送り込まれてしまったのだろう。

 同時に世界が改変され、ディスペータお姉様という存在そのものが始めからいなかったかのような認識が周囲の子供たちにも刷り込まれていく。

 その中でただ一人動けたのは、直接の弟子であった『妹たち』だけ。


「よくもお姉様を! と姉様が仰っています。セリアもそう思います」


 その瞬間だけはただの追従ではなく、本心からの怒りを滲ませてセリアック=ニアが言い放った。

 三角の耳がぴんと立ち、縦に裂けた瞳孔に敵意が満ちる。

 師との誓約すら忘れて、ドラトリアの姉妹姫が浮遊する。背後霊であるリールエルバが両手を広げて無数の文字列を出現させ、セリアック=ニアは自らの影から無数の球体を出現させていく。

 色とりどりの球体は空中で一抱えほどもある大きさに膨らんで少女の周囲を乱舞する。

 少女の細い手指から伸ばされた鋭利な爪が大気を引き裂いてフィリスに迫る。

 それは容易く回避され、続くリールエルバの呪文もあっさりと崩壊。

 姉妹が操作する無数の球体が連結し、奇怪な人型を作り出す。

 セリアック=ニアの瞳が宝石の如く輝いた。

 

「お願い、ナーグストール!」


 少女の耳と爪が輝き、異形の球体群がフィリスに襲いかかる。

 無数の球体が拳となってフィリスに激突した。

 するとフィリスの肉体が手先からバラバラになり、無数の球形の肉塊となる。更には順番に硬質な鉱石、美しくカットされた宝石へと変化していく。

 石化――もしくは宝石化とでも呼ぶべき術。

 猫に取り替えられた子、セリアック=ニアの奇怪な呪術によって無数の宝石となっていくはずのフィリスは、しかし全く動じた様子も無く再び呪文を唱える。


「言理の妖精語りて曰く――対象を解析、異界の幻獣【猫】による事象改変を確認。異界の言理に従って解体を実行」

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