0-5 祈りの価値②


 全てが順調だったかと言うと、必ずしもそうでもなかった。

 みんなの話す大陸共通語は方言混じりで聞いていて面白かったけれど意思を伝え合うのがちょっと難しい。

 音は違う癖に、文字で書くとたまに知らない単語が出てくる他はほとんど同じで二重に新鮮。

 古き神エーラマーンの加護によって変移していく文字はみんながわかるように大陸共通語のかたちをとるけれど、音はそうはいかない。

 『外』だと混ざり合ったりするらしいけれど、先生たちはそれはあんまり良くないことだと考えているらしい。

 私の『お師様』は頬を膨らませて、『誤解と混乱の元だから統一した方がいいのに』と抗議していたが、何度も却下されたせいでしょぼくれてしまった。私は事情がわからないながらも彼女を慰めた。

 四つめの月の王女様であるブラック――ヴァージリアは、世界中の言葉を整理する『図書館』の力がこの黒百合宮に届かないのが不満なんだとか。

 よくわからないけれど、家族に会えなくて寂しいのかなと思った。

 【心話】に頼ると教育上良くないから、という先生がたの言葉はよくわからなかったけど、私たちはたまに相手の言っている事がわからなくなりつつもなんだかんだで仲良く過ごしていた。

 ――実を言えば、たまに喧嘩はしたけれど。

 ――もっと正直に言えば、心がブラックなヴァージリアが(これは毒舌なイエローがにこやかに言った)ちっちゃなホワイトを虐めたり、悪い魔女から可哀想な少女を救うべく仲間想いのティールやシアンが立ち上がったり、間に入った私が何故か両方から追い回されたり、どっちの味方なのと両方から引っ張られたせいで分裂してしまったりと色々あったのだけれど。

 衝突してしまうのも仕方が無いのかも知れない。

 『黒百合の子供たち』の中には、一人として似た人がいなかった。

 みんなの言葉はちょっとずつ癖があって、文字の筆致もそれぞればらばら。

 私は人の顔の区別があんまりつかないけど、きっと顔立ちも全然違う。

 顔の全体像が把握できなかったから、私は服装と声で他の皆を区別していた。

 そんな私だったから、時折どこかから聞こえてくる綺麗な歌声のことはずっと気になっていた。

 あれは誰の歌声なのだろう。伸びやかなその歌声は、よく声を聴く周囲の子供たちの誰にも似ていなかった。

 ふと気付く。

 黒百合の子供たちの中に、声を出さない子供は二人いる。

 声が出せない私と、耳が聞こえないヴァージリア――ジルだ。

 私は杖の適性が低い為、端末が使えない。いわゆる『機械音痴』というやつだった。だから帳面を使って会話をする。ジルは私と同じく筆談で人と会話する。

 会話の方法が同じというのは、とても気安いことだ。

 けれど、私はいつでも彼女と一緒にいたのに、その声を聞いたことがなかった。

 愕然とした。

 とてとて走り出して、何度か転びながらも歌声が聞こえる方へと急ぐ。

 大理石の廊下を突っ切り、浮遊する螺旋階段を駆け上がり、光の滝を通り抜け、影の扉を開いて屋上へ。

 そこは小さな『星見の塔』だった。

 天文台と呼ぶのだと、後でジルに教えてもらった。

 途方もなく大きな望遠鏡、瓶の中にある帆船模型と六分儀、柱から伸びる影が私の故郷スキリシアと繋がって動く日時計、取り付けられた大鎌が不気味な『生死と収獲の暦』の石版。

 透明な呪文の結界の下は、不思議な呪具で溢れていた。

 太陽と星の下で、とても綺麗な少女が綺麗なことばを歌い上げる。

 陳腐かもしれないけれど、私は本当に綺麗だとしか思わなかった。

 その姿も、その歌声も。

 同じように綺麗だと思った人はいる。

 私にとってそれは妹ビーチェだった。あの子だけが私の一番綺麗で素敵なもの。

 けれど――その日はじめて私はそうではない誰かを『一番素敵だ』と思った。

 歌が終わるまで、私はずっとその場所に佇んでいた。

 やがて全てが終わり、静謐があたりに満ちる。

 振り向いたジルはそこでようやく私に気がついて、さっと頬を赤らめた。

 それから、傷付いたように息を飲んで、無言のまま涙を流した。

 その涙がいつか見たような嬉し涙ではなく悲しい涙だとわかったから、私は、


『どうして泣くの』


 と帳面を取り出して問いかけた。すると彼女は、


『変だと思ったでしょう』


 と不思議な事を端末に表示した。

 そして調子の外れた下手で耳障りな歌を聴かせてごめんなさい、もうしないから誰にも言わないでと素早く打ち込んで、そのままその場を立ち去ろうとする。

 私は取りすがって、そんなことないと否定した。


『素敵な歌声だったよ。私は喋れないけど耳は聞こえるからわかるよ。とっても上手だった』


『嘘。そんなの信じない』


 ヴァージリアは耳が聞こえない。だから、自分の歌声がどんなに素敵なのか知らないんだと私は思った。

 それを正確に伝える術が無いことを歯痒く思ったけれど、どうにかして今の自分の気持ちを伝えたいと私は思って、精一杯の言葉を文字にしていった。

 それはとても遅くて、ひどくもどかしい作業だった。

 みんながあたりまえのようにできる喋るという素早い行為が自分にはできない。

 それでも私には言葉しかない。

 書くことでしか、想いを伝えられない。

 私が彼女の歌を聴いて感動したという気持ちは『ほんとう』のはずなのに。

 それは、このちっぽけな紙の上だけにしか表現できないのだ。

 なんて歯痒くて不自由なんだろう。

 

『語彙が貧弱。もっと比喩の勉強をしないと、立派な呪文使いになれない』


 しばらくして、ヴァージリアは涙を拭いながら片手でそう打ち込んだ。


『けれど、勢いは伝わった。さすが、感性だけで勝ち続けてるアズールの言葉には力がある――ような気がするけど錯覚かも』


 錯覚でもいいと私は思った。

 それが一時の幻でも、すぐに消えてしまうような泡沫の言葉でも。

 その言葉を受け取って、私の想いが感覚されている瞬間だけは『ほんとう』だと思ったから。そんな想いも、やがて私の中で消えていくのだろうか。


『ありがとう。嘘でも嬉しい』


『嘘じゃないよ。きっとみんな素敵だって言ってくれる』


 そうだ、と私は思いつく。


『もっと色んな人にジルの歌を聴いて貰えばいいんだよ。黒百合宮だけじゃない。外の世界の色々な人に。きっとみんな認めてくれるよ』


 この上ない妙案だと私は思った。

 黒百合宮のみんなは身内みたいなものだから、素敵だと褒めても疑い深いヴァージリアは信じないだろう。

 ならば、世界中の人に聞いて貰えば、ヴァージリアは自分を信じられるのではないか。自分の歌声が綺麗じゃないなんて悲しい思い込みを、粉々に砕くことができるのではないか。

 ヴァージリアは絶対に嫌といって譲らなかったけれど、私はその思いつきがいつか実現できたらいいなと思った。

 私たちは、しばらく二人並んで空を見上げた。

 太陽が燦々と輝いて、星空がきらきらと煌めいている。


『故郷の月が見えないのが残念』


 とヴァージリアは端末に打ち込んだけれど、私は月ならあるとその思い違いを訂正する。

 太陽の圧倒的な存在感のせいで目立たないけれど、空の端に下弦の月が見えている。そこから放たれる微弱な呪力を、私は敏感に感じ取っていた。

 四番目の月、太陰は規則正しくこの大地の周りを巡っている。

 だからこそ昼間でも空に昇るのだ。


『ね、昼間でも月は昇るんだよ』


 私は年下のお師様に何かを教えられるということが嬉しくて、得意になった。

 ヴァージリアはフードを深々とかぶりなおして表情を隠した。

 端末の上で指が止まる。何かを言おうとして、何も言えなくて。

 しばらく迷った後、彼女は端末で私の頭を軽くはたいた。ひどいと思った。

 取り留めなく話を続ける。

 ここは星が綺麗に見えて素敵だと文章にしたためて手渡しすると、ヴァージリアは星見の塔ではもっと綺麗で鮮やかだった、と伝えてくる。

 私はここよりも綺麗に星が見える場所があるなんて信じられなくて、ヴァージリアを嘘つき呼ばわりしたけれど、あんまりにも強く彼女が『本当だ』と主張するので『ならそこまで連れて行って』と要求した。

 ヴァージリアは嘆息して言った。


『いつか末妹候補の最終選考が始まったら、嫌でも行く事になる』


『そっか。そしたら、きっと私たちのどっちかが呪文の座だね』


『大した自信。だけど、勝つのは私』


 黒百合宮にいる誰もが、いずれは勝利のためにぶつかり合うことになる相手だ。

 どれだけ仲良くしていても――仲良くしているからこそ、お互いに手は抜けない。ヴァージリアは呪文のお師様だけれど、知識はともかく実践なら私の方が上手だから実際に競い合ったらどうなるかわからない。

 黒百合宮以外の拠点、星見の塔や虹のホルケナウにもとても凄い強敵が沢山いる。紫のティエポロスや緋のサンズ、明のコルセスカや暗のトリシューラといった天才たちは分野が違うけれど、最終的には四魔女として競い合うことになるかもしれない。

 それは少し寂しくて悲しくて――けれど、決して避けられない未来。

 私は後ろめたくなった。

 だって私には、切実な末妹になりたいという動機が無かったから。

 元々私は、この場所に声を――妹を取り戻す為の術を探しにやってきたのだ。

 呪術を学ぶことで力をつけ、いつか彼女がいるはずのもう一つの大地へ。

 それは、末妹になるという目的からずれているのではないだろうか。

 妹の事をヴァージリアの前で口にするのはなぜだかわからないけれど後ろめたかった。だから私は誤魔化すように訊ねる。


『ジルは、末妹になったらどうするの?』


 質問から長い時間が経ったけれど、私たちは時間を置いたやり取りには慣れっこだったから気長に返事を待つことができた。

 やがて、ヴァージリアは端末を私に示す。


『沢山、たくさんある。最初にお母様にお知らせするの。そしたらいっぱい褒めて欲しい。お姉様にも、本当に妹になれましたって胸を張って言いたい。故郷のみんなにどうだって威張ってやりたい。『図書館』のシステムを改革して、もっと効率化したい。それに』


『それに?』


『女神の眷族になれば、耳が聞こえるようになっても大丈夫かもしれない』


 不思議な言い回しだなと思っていると、ヴァージリアはゆっくりと自らの事情を端末に打ち込んでいった。彼女が自分の耳のことについて喋るのはそれが初めてだった。


『ジルは生まれる前からお姉様とお母様に呪詛をかけられて、末妹になるための調整を受けてきた。星見の塔にこの人ありと謳われた碩学の三女カタルマリーナお姉様と、その弟子にして呪いにおいて並ぶ者無しとまで言われたお母様の呪詛はジルの肉体を変異させ、高い呪術適性と引き替えに異形の耳を与え、代わりに聴力を喪失させたの』


 それを恨みに思うことも、悲観することも無く、ただ呪われた運命を尊ぶようにヴァージリアは言葉を紡いだ。

 最愛の庇護者たちからの呪い。

 かくあれと望まれた期待。

 それは重く、おぞましく、けれども彼女にとってなにより尊く聖なるもの。

 ヴァージリアはそれをただ誇らしく思っているようだった。

 家族という運命――その愛、その呪い。

 それは果たして、虐待であるのか、それとも可能な限りの力を与えるという優しさであるのか。

 彼女はあらかじめ失われた者なのか。それとも与えられた者なのか。

 私は何もわからず、ただヴァージリアの誇りをそのまま受け止めることにした。

 正しいものがあるとすれば、それは彼女の意思だけだ。そう思ったから。


『けれど、聴力の喪失は意図されたものだった。ジルの異形の耳は大気の震えではなくアストラルの波動を捉える。イエローの、セリアックの耳を見たでしょう。あの人ならざる三角の耳同様に、この世のものではない耳はこの世のものではない音を聴く。この耳があるからこそ、ジルは呪文の才を伸ばす事ができた』


 そして、と更に続けていく。

 ヴァージリアの欠落は、欠落以上の意味があると彼女は言う。


『音声言語を聞いてしまうがゆえに陥穽に捕らわれる事もある。話し言葉とはとても便利。速くて強力。けれど同じくらい危うく慎重さにかけることがある。呪文使いは言葉の繰り手。だから、言葉を誰よりも丁寧に扱わないとならない。その戒めを込めて、あえて私の耳を閉ざしたのだとお姉様は教えてくれた』


 私は、その文字の群れをぼんやりと眺めた。

 音声。大気を震わせて伝える速い言葉。

 私はそれが紡げなくて、届かなくてかけがえのないものを失った。

 言葉を発しても意味は無かったかも知れない。

 けれど、何もできなかったという後悔は傷になって私の言葉をこの心の中から消し去ってしまった。

 同時に、妹の内心を考えない不用意な言葉が致命的な事態を生んだという傷も同じ場所に刻まれていて、私は正しさというものを見失った。

 ヴァージリアの言葉は正しくも思えたし、同時にそれでも言葉を発するしかない場面だってあるようにも思えた。

 『遅さ』よりも『速さ』が必要なこともあるのではないか。

 反発にも似た気持ち。

 私たちのやり取りは遅く、言葉はどこまでももどかしい。

 言葉は時に速すぎて、思いもよらず誰かを傷つける。

 言葉は時に遅すぎて、大切な瞬間に届かない。


『カタルマリーナお姉様はかつては歌姫とまで言われた強い呪文の歌い手だった。その力は際限なく増大し続け、いつしか極大の呪いとなって聴いた者の心を震わせ、砕いてしまうまでになった。だからお姉様は口に封印を施し、筆談や人形による腹話術で間接的な会話を行う。けれど、ジルの前でだけはそれを気にする必要が無かった。お姉様はときどき防音の結界を張った部屋で、ジルひとりを聴衆にして歌うことがある。ジルにはそれを聴くことが叶わないけれど、それでいいの。歌いたいけれど歌えないお姉様の、せめてもの慰めになれる。そのことがジルは嬉しいから』


 もしかしたら、と私は思った。

 ヴァージリアの師が耳の聞こえない弟子を手元に置いているのは、寂しかったからなのかもしれない。

 歌を聴いてくれる身近な誰かが欲しかったから、一番大切なその相手から音を奪い去った。歌声を聞いてしまえば、その心を砕いてしまうから。

 だとすればそれは、とても身勝手で、とても悲しいこと。


『素敵な声の歌姫と誰からも賞賛されたお姉様。大断絶の前、歌姫カタルマリーナの名は尊敬を込めて語られた。けれど、その歌声の呪力が高まれば高まるほど魂を打ち砕くほどの力は増していき、遂にはある出来事をきっかけにその名は忌み名となってしまった。それ以降、キュトスの姉妹の名もまた邪悪な色合いを帯びて巷間に流布していった』


『それが、パレルノ山六千人殺しなんだね』


 私もその話は知っていた。有名な話。キュトスの姉妹の恐ろしさを語るときに、最初に出てくる虐殺の逸話だ。


『あれは槍神教に都合のいいようにねじ曲げられた歴史。最初に手を出したのはあちら。四十八番のミュリエンティお姉様と七十番のカスミストお姉様たちを拉致監禁し、非道な人体実験を行っていたリクシャマー帝国と槍神教の神官たちが全ての元凶なの。カタルマリーナお姉様とビークレットお姉様は二人を救出に向かったの。そして、もう二度と星見の塔に手出しをしようと思わなくなるように、見せしめとして虐殺を行った。そうして恐怖を世界に刻み付けたの』


 星見の塔の九姉は、俗に悪魔の九姉と呼ばれ恐れられている。

 けれど、内部では彼女たちは守護の九姉と呼ばれて敬われているのだ。それは、強大な魔女たちが世界にかけた呪いなのだろう。

 歌姫ではなく、死の囀りと異名を変えたカタルマリーナお姉様のことを、私は悲しい人だと感じた。

 そしてそうせざるをえなかった世界の残酷さもまた、とても悲しい。

 

『いつか、女神になって強い魂を手に入れたら、お姉様の歌を聴けるかもしれない。そうしたら、歌姫という名がおぞましいものじゃなく、素敵な称号だって世界に示せるかもしれない。ううん、そもそも、この世界がこんなに悪意や争いに満ちていて、誰かを守るために暴力を示して抑止力としなければならないような状況をどうにかできれば、ジルは』


 その続きは、言葉にならなかった。

 ヴァージリアはなんだか恥ずかしそうにして、今度はそっちの番、と私をつついた。末妹になる理由を話せと言うことらしい。

 どうしようか。

 なんだか、妹の事を話さないとずるい気がした。

 けれど、それを話したらヴァージリアに失礼な気もしていた。

 それはひどく彼女を傷つけるような――だから、私はもう一つの『理由』を選んだ。それもまた嘘ではないから。

 私の欠落。

 それは沢山ある。

 話し言葉――声が無い。

 色がよくわからないし、顔もよくわからない。

 かたちも質感も細かさも、正直に言えばちゃんと同じように理解できているかは怪しいのだ。

 全て正確に学んでいる自信はある。

 故郷で長老やビーチェに教わった様々な知識や、黒百合宮に来てから得た知識。

 それらは私の中に蓄積されて――けれど実感として像を結ばない。

 私の理解している色は、本当にその色でいいの?

 この言葉の意味は、あなたが使う言葉と全く同じなの?

 全部全部、正しいのか同じなのか。

 正確に真似たつもりでもどこか違うのではないか。

 けれど、私の内側なんて私だってわかりはしない。他の人と同じかどうかなんてわからない。

 だから、私が見ている世界の色とヴァージリアが見ている世界の色が同じかは全くわからないのだ。

 それがどうしようもなく怖くて、私はただその実感が欲しいと伝えた。

 ヴァージリアは、もはやただ悩みを打ち明けただけの私の言葉を聞くと少しだけ考え込んで、やがて教えてくれた。


『あなたがわからないのは、多分たったひとつのこと』


『ひとつ? 沢山あるよ?』


『本質的には同じものが欠落しているの。それは構造。あるいは繋がり。もしくは、そう――連関』


 私は首を傾げた。

 声、色、顔、かたち――それらがどう繋がるのかよくわからなかった。


『あなたはとても難しいことで悩んでいる。同時に、それは簡単でもある。あるいは、難易度を定められない、答えの出ないどうしようもないことかもしれない。それをあなたは、ずっと探し続けることになるのかも』


『そうなの? なんだか怖いよ』


『それが夜の民の宿命なのかも。あなたたちは特殊な――そしてとても原始的で根源的で、素晴らしく可能性に満ちた身体構造をしているから』


 原始的と言われてしまった。

 それは昔、人里に降りた時に霊長類の子供たちが私に向かって発した言葉だ。

 原始人、野蛮人、未開の部族――意味がよく分からなくても、石を投げつけられれば悪意には気付く。

 けれど、ヴァージリアは決してそういった悪意に基づいて原始的という言葉を使ったわけではないようだった。

 そこからの言葉は、とても難しくてついていくのがやっと――というよりもほとんどついて行けなかった。


『疑似細菌の群体によって創造される創発的生命。夜の民は天然の呪術式汎用計算機である性質上、知能の在り方が呪術的になる。だからこそ全眷族種で最大の呪術適性を持っているの。呪術的思考――すなわち寄せ集めの仕事ブリコラージュ。理論に基づいて設計するエンジニアリングの対極』


『どういうこと?』


『既知のものを寄せ集めて、それらを部品として何が作れるかを試行錯誤する。その果てに、何か新しいものが生まれるかもしれない』


『かも?』


『生まれないかもしれない』


『えー』


『でもそれは他の方法でも一緒。杖的思考は硬質で正確だけれど、この世界では飛躍だって必要』


 ヴァージリアは夜の民を褒めてくれているのだろうか。

 世界中の大多数は私たちほど純粋に呪文の世界に生きていない。

 誰もが、確かな杖の世界に依って立っている。


『杖の世界観――科学的思考の枠組みというのは、少なくともこの世界では絶対じゃない。再現性のある事象や対象への分析といった事が正確に行えない――あるいは間接的にしかできないこの世界においては、不確かな物理法則を前提とした反科学的思考こそが実践的な科学的思考になり得てしまう。科学は、その科学的思考を放棄することによってようやく科学的な知見の獲得が可能になるの』


『ジルが言ってること、よくわかんない』


『噛み砕いて説明する。たとえば、事象と事象との関係性に着目するとき、似た部分や違う部分があれば、連想や類推ができる。呪文でも同じ。前に基礎を教えたはず。論理和と論理積と否定』


 噛み砕いても難しい。

 ヴァージリアはこういうところが意地悪だと思う。


『ええっと、何々また何々、何々かつ何々、何々でないならば、だっけ』


『そう。科学的思考だろうと呪術的思考だろうと、そういう思考の根本的な部分は同じ。呪術的な思考とは既知の記号を操作し、再構成していく総当たりの探求。体系化された学術や概念よりも、記号や象徴を重点的に参照する野生の思考のこと』


『やせいのしこう?』


 原始的、というのと同じ意味だとなんとなくわかった。


『それも、実際には言葉遊びでしかないけど――ねえマリー。真似だけで創造ができるかどうかを答えてみて』


『真似しただけじゃ偽物だから、本物は作れないんじゃないかな』


『なら、その本物はどうやって作ればいいんだと思う』


『それは、えっと、閃きとか。勉強して、知識とか技術とか色々身につけて』


『どうやって閃くの。何も見ず、何も聞かず、一切の感覚を入力されること無しに閃きが得られると思うの。勉強するというのは知識を真似することじゃないの』


 私は返答に窮した。

 そういえばそうだ。けれど、真似を続けるだけではやっぱりそれは偽物のような気がする。直感と理屈が噛み合わない。

 けれど、なんとなくヴァージリアは私を、そして夜の民を祝福してくれているような気がする。

 私は色々な子に馬鹿にされてきたけれど――馬鹿にされるばかりじゃないのだと。優しいお師様は、そんなふうにして私に自信を与えてくれていた。

 相変わらず、意味は全くわからないけれど。

 お話もひたすら長かった。

 将来、私まで長い話好きになったらどう責任をとってくれるんだろう。


『どんな考え方をしても、純粋な無からなにかを作り出す事はできない。思考というのは原理的に既知という有り合わせで行うしかない。未知は知覚できないがゆえに未知なの。人は未知に対抗する為に、概念や体系で戦う杖や、記号や象徴で戦う呪文を編み出した。更に、人は既知ではないもの、という定義で間接的に未知を掌握することを試みたけど、結局の所それは既知が増えただけだった。本質的な未知とは、未知の定義ゆえに存在できないし確かめられないの。星見の塔がやっている試み――未知なる末妹の選定も同じ。実のところこの選定は本質的な誤謬と矛盾を抱えている』


 そろそろぼんやりとし始めた頭で、とうとうこの人は星見の塔の批判まで始めたぞ、とやや引きつつ考える。

 色々と難しいことを考えているヴァージリアの見ている世界はどうなっているんだろう。

 複雑すぎて、ごちゃごちゃして躓きそうになったりしないのかな。


『でも、その過程で起こる運動には意味がある。ジルはそう思ってる。だから目指すの。未知なる末妹を』


 過程こそが大事。

 手垢についた表現だったけれど、なんだかそれがヴァージリアの口から出たと言うことが素敵な気がして、私はその言葉を胸に刻み付けた。

 真似でも、偽物でも、言葉が届かなくても、不正確でも。

 瞬間だけは、嘘じゃない。

 そんな気がする。


『最初は、お母様とお姉様の期待に応えたいだけだった。ジルには、きっと自分が無いの。期待されてるから。そう生まれついたから。舗装された道を歩いていくだけで良かった。けど、それだけじゃつまらないってずっと思ってた』


 そんなこと無いよと否定しようかと思ったけれど、彼女の瞳には私に歌を聞かれた時のような自分への疑念が無かった。

 もし、私の言葉が届いたのだとすれば。

 それは、私にとっての救いでもある。


『ジルが――お母様やお姉様じゃなくて、ジル自身が何かをしてみたい。それが、綺麗で、素敵なことであればいい。イルディアンサの王族であるジルに何ができるのか。何をすべきなのか。何がしたいのか。ずっと考えてた』


 ヴァージリアの細い指先が端末の上を踊る。

 透き通った瞳が端末と私とを交互に見て、言葉と意思を伝えていく。

 言葉だけが、私たちのつながりだった。


『色んな人が、誰かと違うことで苦しんでる。異なっていることを押しつけられて悲しんでる。地上は恐怖で支配されて、引き裂かれたもう一つの大地と終わりのない争いを続けている』


 黒百合宮で学んだ世界のこと。

 複雑な社会。宗教。国家。民族。その他にも多くの問題と争いが世界を複雑に引き裂いている。

 黒百合の子供たち――八人はそれぞれ異なる生い立ちと背景を持っている。

 そのことを少しずつ知っていく中で、ヴァージリアは静かに想いを育てていったのだろう。それは、私との関わりとはまた別の所でだ。


『ここにいるみんなは、この世界に苦しめられてる――ジルはそんな風に思った。だとすれば、その原因をどうにかするしかない』


 ヴァージリアは、みんなと言葉にした。

 彼女の視界には家族がいて、周囲のみんながいて、そしてそれを取り巻く漠然とした世界があるのだろうか。

 

『普遍なる言語。それによって創造される世界秩序。ジルは、それが見たい』


 世界と対峙するように。

 ヴァージリアは言葉を紡ぐ。


『ここにいるみんなはそれぞれ生まれたところも育ったところもばらばら。性格は全然噛み合わないし、考え方だって違う。けれど、こうやって仲良くできるんだって、ジルははじめて知ったの』


『私も。私も、最初はジルと仲良くなれるなんて思いもしなかった。けど、ジルと仲良くなって、そうしたらみんなとも仲良くなれたよ』


 私たちは一瞬だけ手を合わせた。文字を記すためにすぐ離すことになる手だけれど、その行為に何か意味がある気がして。


『世界が平和になって、みんながこうして手を取り合えればいい』


 手を取り合う。

 向かい合って掌をあわせて、指を絡めて。

 私たちは、静謐なひとときの中で見つめ合った。


『ジルは、末妹に――女神になったら、世界に秩序をもたらすの』


『そうしたら――地獄とも、争わずに済むの?』


『うん』


 素敵だと思った。そうなったら、私は奪われた妹の身体を、魂を、争うこと無く取り戻せるのだろうか。


『私もそれがいい。私も、末妹になって世界を平和にしたい』


 そう伝えると、ヴァージリアは持ち前の意地悪さを発揮してこう返す。


『それはだめ。末妹になるのはジルだから』


 それからはもう、じゃれ合うようなやり取りが続くだけ。


『えー。私もなりたいよ』


『駄目。先着一名様だから』


『じゃあ私、ジルに負けない』


『弟子の分際で生意気』


『弟子なら、妹ってことだもん。ジルの妹ってことはジルより末妹に近いもん』


『――屁理屈』


『呪文の上手は屁理屈の上手だってタマちゃん先生が言ってたもん』


『生意気』


『ジルはそればっか!』


 難しいお話じゃなくなっても、私たちの軽やかなやりとりはちょっとだけ遅くてもどかしくて――けれど二人の間では完璧に呼吸が合っていた。

 それは、遠い遠い日々のこと。

 世界が平和でありますようにと未来に祈った幸せなひとときのこと。

 たとえいつか相対する時が来るのだとしても。

 たとえいつか道が分かたれる時が来るのだとしても。

 交わした言葉の確かさを、繋いだ手の感触を、決して忘れないでいたいと。

 私は願い、ただ祈った。





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