3-65 言震《ワードクェイク》②




 おやめなさい、と兎は言った。

 おそらくは四魔女とその使い魔にしか見えない白黒の兎。

 意味の間隙に潜む超越者。

 キュトスの姉妹が三十四番――あの懐かしい黒百合宮で、ハルベルトたちは彼女を先生と呼んでいた。

 親しみを込めて――その理由はほとんどが『お菓子をくれるから』という即物的なものだったにしても、彼女は黒百合の子供たちにとって素敵な先生だった。

 普段は道化じみた戯れ言と砂糖菓子を振りまくだけの無力な言語魔術師が、ただ警告だけを口にするのは極めて珍しいことだ。

 それはきっと、『先生』としての責任と優しさによるもので。

 だからハルベルトは、心の中だけでごめんなさいと呟いた。

 言葉にすれば、決意が揺らぐような気がしたから。

 ハルベルトは、静かに禁戒を破る。


創造の光よブリアー


 【心話】による言葉が響く。

 異界の神秘を参照した、知らぬ者には意味が通らぬ幻想のアリュージョン。

 禁じられた最古の呪い――四つに分かたれた奇跡の一つが、呪わしい全身を駆け巡り、外界に溢れ出す。

 それは禁忌。

 それは大罪。

 それは愚行。

 ハルベルトの全身から流れ出した漆黒の血が彼女の周囲を取り巻き、複雑に絡み合って立体的な幾何学模様を作り出す。

 あらゆる輝きを飲み込む闇。

 その内側を暴き立てんとする無遠慮な光を拒絶する隠匿の力がハルベルトの周囲を覆い尽くし、不定形の泥と化したアズーリア、更には倒れたサリア、槍を手にしたミルーニャと全てを諦めて瞑目する白黒兎までもを飲み込んでいく。

 ハルベルトは落涙する。

 黒い血を黒玉の瞳から滝のように零していく。

 命そのものを削り取って、世界を構成する緻密な秩序――その背後に存在する硬質な基本法則を見つけ出す。

 それはまるで扉だった。

 開けてはならない、封じられた大扉。

 ハルベルトは迷うことなく錠を破壊して、更なる禁忌へと踏み込んでいく。

 そして改変する。

 書き換える。

 運命を――そして事実を。

 過去に遡り歴史を塗り替えて事象を語り直す。

 堅固ハードで無機質な杖の理を、柔らかソフトで流動的な呪文の理で再解釈し、再構築し、再帰的な連関の中で一つの幻想として紡ぎ出す。

 交換可能な現実を、交換不可能な神秘へと。

 あらゆる価値から隔絶した、唯一無二の『ほんとう』を――けっして確かには存在できない、有り得ざる幻想を創造する。

 ハルベルトの表情が、苦痛に歪む。

 運命に抗った反動。その結果だった。

 この世界には、『その現象』に抗う為の修正力が存在する。

 その現象の切っ掛けとなりかねない大量死の引き金である銃を抑制する力。

 悪運を積み重ね、その現象を呼び起こす可能性のある人物を抹消する力。

 そして、代償としてその現象を呼び起こすような禁呪を失敗させようとする力。

 運命の修正力。

 世界の免疫系。

 今まさにその禁じられた呪文を使おうとしているハルベルトの全身には、かつてミルーニャ=メートリアンが銃を用いた時のような苦痛が、あるいは可能性の彼方に消えたプリエステラの無数の死のような災厄の波が降りかかっている。

 それだけは絶対に起こしてはならないと、世界がそれを阻止しようと動き出す。

 それは免疫だった。

 世界に記憶された致命的な痛み――天と地を二つに分かつほどの極大の痛みを繰り返してはならないと、呪波汚染が黒い少女を灼いて苛む。

 それでも――。


「アズーリアを、マリーを、取り戻す――絶対にっ」


 己を奮い立たせるように、ハルベルトはその意思を言葉にした。

 自分たちには言葉しかない。

 そうすることでしか届かない瞬間がある。

 あの避けがたい別離の時――失われた尊い日々の終わりに、奇跡はハルベルトに舞い降りた。その結果としてマリーという少女は永遠に失われた。

 今のハルベルトにはもどかしいやりとりよりも速い音声としての言葉がある。

 あの時、自分は届かなかった。

 その後悔、その喪失。

 もう二度と、言うべき言葉を間違えたりしたくない。

 もう二度と、発すべき言葉が紡げないなんて苦しみは味わいたくない。

 だから、彼女に貰ったこの奇跡で、ハルベルトは呪文を唱える。


「言理の妖精――語りて、曰くっ」


 瞬間、ハルベルトの左右非対称の耳に宿っていたフィリスが無彩色の光を放ち、なによりも速く、音や光すら置き去りにして意味だけを世界に届けていく。

 世界が塗り変わっていく絶望的な音を聴きながら、ハルベルトの脳裏に幾つかの言葉がよぎる。刹那の中に流れていく過去の光景。


『これは取引です』


 目の前に三角の耳をした猫の取り替え子が立っている。

 呪文の座、その正規候補を巡る最後の戦い。

 黒百合の子供たちの中で、『ハルベルト』の名を巡って最後まで残ったのは黒と黄、そして緑だけ。

 対峙するセリアック=ニアは、希薄になった姉を背後に庇いながら掌をヴァージリアに向けている。

 その首筋に独角兎が鋭い先端を突きつけていた。

 両者はお互いの命を握ったまま、静かに睨み合う。


『ドラトリアの運命を背負う私たちは、ここで死ぬ危険を踏み越えてまで勝利を目指すことはできない。姉様はそう仰っています。セリアもそう思います』


 だから、と荒く息を吐きながら少女は言った。全てを賭けてある一つの目的のために戦う異形の姉妹たち。

 極限の中で提示した取引材料、それは途方もなく重い。命よりも。

 命すら、より重い価値の為に必要な道具でしかないのだと、迷いのない瞳が告げていた。


『こちらも命を超える対価を差し出します。もし、それを使わざるを得ない時が来たならば――』


 忌まわしい契約――その果てに、ヴァージリアはハルベルトとなった。

 利害の一致からとある小国の王族たちと手を組み――そしてお互いの目的の為に共闘し合う関係を築き上げてきた。

 禁呪を発動したハルベルトは、約束通りに遠く離れた場所にいる二人に連絡を行った。即時に空間を渡っていく呪術信号。

 受け取った彼女たちは、何を思うだろう。

 憎悪か。

 それとも、歓喜か。

 なにもかもわからぬまま、それは引き起こされた。

 世界が揺れる。

 引き裂かれ、断裂し、秩序が失われ――ありふれた、つまらない現象が引き起こされる。

 それはあり得ざる奇跡の代償としてはあまりにも軽い、言葉にしてしまえばどうということのない日常茶飯事。

 幾らでも交換可能で、僅かに気を回せば解決するような、そんな些末な事。

 その日、第四衛星太陰イルディアンサのグラマー界に位置する『神々の図書館』で、珍しくエラーが検出された。

 絶対の秩序によって全世界の言語を正しく管理し、混乱を引き起こさないように、平穏を維持し続けられるように絶えず機能し続けているその働きが、一瞬だけ停滞したのである。

 それは自動的に検知され、即座に修正されたが――その一瞬の間に、全てが終わり、そして始まってしまっていた。

 迷宮都市エルネトモランを擁するアルセミット国。

 その東方、ヘレゼクシュ地方の大国アロイ=ワリバーヤ。

 その更に隣にある東方の小国家群の一つドラトリア。

 『図書館』によって使用言語が管理されている地上にあって、ドラトリアもまた古くから連綿と受け継がれ、緩やかな変化を続けてきたドラトリア語と、大陸共通語の二言語の併用制を敷いていた。

 端末による言語機能の切り替え、微調整、それによって変動する摸倣子量――そうした諸問題を一手に管理していた『図書館』の機能停止。それが、ドラトリアに小さな波紋を発生させる。

 ドラトリア北部では長年にわたる北の隣国との占領合戦、高山と河川に囲まれた特有の地形などの要因によって、隣国語、北部方言、ドラトリア語、大陸共通語の四つの言語が入り交じる状態となっていた。

 『図書館』が正常に機能している限り、その地の秩序は正常に保たれる。

 住人は状況に応じて適切に言語を使い分け、意思疎通の齟齬や遅延が発生することもほとんど無い。

 教育においても生徒たちに過度な負担がのし掛かることは無い。

 言語文化の摸倣子量を保持するために民族別に母語を規定する言語血統制が敷かれており、言語と民族は等号で結ばれていたが、『図書館』の秩序が差別や排除の上に重なり、不和を低減させていた。

 そこは表面上平和に見えた。だからそれは――とてつもない不運が重なった結果として起こってしまった出来事だ。

 槍神教によって覆い尽くされたその地域にあっても、土着の宗教というのは根強く存在している。

 東部諸国の例に漏れず、北ドラトリアではマロゾロンド信仰が盛んだった。

 神を天使とすることで形ばかりの『移行』が行われたが、実質的にドラトリアは黒衣の神に祈るマロゾロンド教の国である。

 その日、北ドラトリアのとある小都市を練り歩いていた集団は、槍神教の支配ではなくマロゾロンドの正しい教えに回帰すべきである、という毒にも薬にもならない平凡な主張を唱えながら行進していた。

 向こう側の通りでは北の隣国から流れてきた移民たちが差別撤廃だったか賃上げだったかのデモ行進をやっているはずだ――と、その通りの警備を担当している警官は呪術杖を手にぼんやりと考えた。

 槍神教のお膝元、アルセミット辺りならばこのようなことをしただけで拘束され、脳髄洗いの上で順正化処理だろうが、この片田舎では罪のない定例行事に過ぎない。きちんと申請されたデモ行進であるから、こうして警官が適切に配備されて異常が無いか見ているだけで問題は何も起こらない。

 そう考えていた彼は、隣にいる同僚の様子が妙な事に気がついた。

 何か気がかりがあるように、手元の呪術杖をいじり回しているのだ。

 どうしたと声をかけると、少し違和感があるとのこと。誤作動して暴発したら洒落にならない。後で点検しておけと声をかけようとしたその時。

 世界が揺れた。

 奇妙な錯覚。次の瞬間には何事も無く世界は動き出している。

 だが――その時、突如として街路に男が飛び出した。

 興奮しているのか何事かを早口で捲し立て、整然と行進している集団に今にも飛びかかりそうな勢いだ。

 制止すべく声を上げようとして、気付く。

 男が何を喋っているのか理解できない。

 端末機の異常かなと思い、太陰との接続状態を確認しようとして、隣の同僚が先んじて動いてしまう。

 何を言っているのかわからなかった。

 いや、言葉の抑揚、幾つか聞き覚えのある単語から、それが北ドラトリアの方言と共通語が混淆した奇妙な言語であることは理解できる。できるのだが、それで何を伝えたいのか理解できない。

 異常に気付き始めたのだろう、周囲でもざわめきが広がっていく。

 興奮して街路の中心に躍り出た男は停車していた呪動貨物車の上に立って何かを必死に世間に訴えようとしているのだが、それは全く意味を為さずただ音の羅列として吐き出されるだけ。

 同僚は杖を握りしめて男を呼び戻そうとする。威嚇のためだろう、カン、と道路を叩いた杖が異音を立てる。

 杖の不具合を忘れているであろう同僚に注意を促そうとするが、言葉が意味を為さない状況ではどうにもならず、仕方無く強引に肩を掴んで制止しようとして――全てが狂った。

 体勢を崩した同僚、角度のずれた杖、まさにその瞬間に暴発した内蔵呪石、そして何事かと様子を窺っていたデモ集団に呪術が炸裂する。

 無防備な一般市民たちを襲ったのは暴徒鎮圧用の【投石】であり殺傷能力は低いが、集団には老人や子連れなども混じっていた。

 鋭く発射された石の弾丸は腰の曲がった老人の首、子供の手を引いていた親の腕と小さな子供の頭蓋に命中し、一名の死者とその他二十人余りに及ぶ重軽傷者を生み出した。

 騒然となった道路を誰かが念写し、ネットワーク上に拡散する。

 ドラトリア上のアストラル・ネットでもその頃すでに言語翻訳の異常が確認されており、文字化けのようになった情報の中で視覚的な映像だけは確かなものとして受け止められた。

 実際には念写という当人の印象と記憶に依存したその光景は過度に凄惨なものになっており――さらに『やはりこうだった気がする』という記憶の事後改変や『念写によって事実が歪んでいることを加味すれば事実はこうだろう』という予断と偏見に基づいた他者からの改変が付け加えられた結果、警官がデモ行進している集団に呪術攻撃を加え二十人余りを殺害したという風説が流布していくことになる。

 時を同じくして、自らの権利を求めて集まった移民と呼ばれる人々は混乱する状況を受け止め、不安を抱いていた。

 実のところ彼らはほとんどが第二世代以降のドラトリア生まれである。

 限定的な出生地主義をとるドラトリアにおいては、納税義務を果たし成人時の国籍選択を済ませた彼らは紛れもないドラトリア国民だ。しかし、長年の遺恨や衝突の歴史、居住空間から排除されたことにより選択の余地も無く集住せざるをえなかったことから『ドラトリア人ども』に対して抑圧された隔意を抱いていた。

 また固有の言語文化を保存して呪力資源を確保したいドラトリア政府の意向によって母語として隣国の言語を選択させられていたことも、彼らのアイデンティティを独特なものにしてしまっていた。

 普段ならば、その固有のアイデンティティこそが呪力を生み出し、空間や地脈に流れ出す事により国家の基盤を安定させる。

 端末の使用によって基礎言語以外の習得コストは極めて低いため、それが問題になることは無かった。少なくとも表面上は。

 拡散し、変動し続ける情報は容易く人を間違わせる。

 この呪術的な世界においては、誤情報は余りにも急速に伝播し、浸透し、事実として現実を浸食する。

 それは、この世界において情報というものがあまりにも容易に実世界を書き換えてしまうがゆえに不可避的に発生する天災である。

 言語が揺れ、情報が歪曲し、空間に満ちる呪力が蠢き、地脈が悲鳴を上げる。

 そして『ドラトリア』が――国家という使い魔の呪術に命名という古き呪文で蓋をしたその巨大な構造体が――割れる。

 『ドラトリア』という一つの呪術構造が、『本国』と『北部』の間に亀裂を生み出し、大地を走る境界線を挟んで無数の文字列が嵐となって荒れ狂う。

 整然と行き交っていた言語と意味――それらが雑然とした大渦に叩き込まれる。

 秩序が崩壊し、混沌が到来する。

 形の無い誤情報――広がっていくそれは既に世界にとって『正しい』情報なのだが――に踊らされ、北ドラトリアに混乱が満ちあふれていく。

 それは今まで顕在化してこなかった火種だ。

 武装した警官から自らの身を守るため、『移民』と呼ばれたドラトリア人たちが暴動を起こす――まるで理路が通らないが、数十人が白昼堂々と呪殺されたという映像は彼らを凶行に駆り立てた。

 暴徒と化した集団が警備に当たっていた警官と激突し、双方に死傷者を出して情報は更に拡散していく。

 事態を受け、ドラトリア議会において第一党であった中道左派政党に変わって移民排斥を主張する極右政党が急速に支持を伸ばしていく。

 このような事態を引き起こした遠因は槍神教への隷属と押しつけられた太陰の秩序に依存し、国内の問題を放置していた事にある。

 言語秩序が復旧した後、とある王族議員がそう発言した事により事態は更に混迷を極めていく。

 これを事実上の槍神教への叛逆と受け取った大神院は第七修道騎士団を北ドラトリアの治安回復と混乱の解決の為に派兵。

 それを受けてマロゾロンド教の回帰主義者、国粋主義者、更には現主流派貴族たちに追い落とされた貴族たちが結託し、独自に私兵団・義勇軍を結成し迎撃に向かう。民間警備会社や非正規探索者らを加えた混成軍は北ドラトリアの国境付近で衝突した。

 血が流れ。

 憎悪が吹き上がり。

 怨恨が積み重なり。

 断絶は埋まらず。

 ――そして。

 その後、ドラトリアは槍神教圏から脱退を宣言。

 『図書館』の秩序ではなく自ら築き上げた国家としての秩序のみによって国内の言語を管理することを宣言。

 言語文化保存法に基づき、移民とされたドラトリア国民には母語として他言語の習得を義務としながら、就労、居住、その他各種の面においてドラトリア語の習得を要求し、独自に定めた統一規格試験の受験が義務づけられた。

 事実上、明確に移民に対する言語コストの負担を強制する法律であり――集住地域に固まって住む高齢の外国人労働者たちは言語管理機能を失った端末を破壊し、自ら非国民であると主張して抗議の意を示す。

 かくして火種は燻り続け、北ドラトリアは独立州として本国から半ば切り離されつつ宗教的、文化的、言語的な混乱を抱えることになる。

 街路の上、死者や怪我人を見下ろしながら、訳のわからないことを叫びながら男が狂乱している。

 男の主張は誰にも理解できなかった。

 彼はこんなことを言っていた。

 押しつけられた秩序に叛逆せよ。

 誇りある北ドラトリアは本国から独立すべきである。

 槍神教、太陰、下らない異国文化を排斥し均質な民族だけの純粋な国家を確立し、劣等民族たる移民どもを強制隔離し、二等国民として管理すべし。

 言葉は混沌の中に消えていく。

 それが半ば以上事実になってしまったことなど、誰も気にしない。

 だってそれは、ほんとうはひどくありふれたことだから。

 この地上が大神院の定めた強固な秩序によって支配される前。

 地上はこのように、混沌に満ちていた。

 なんということのない、他愛ない日常だ。

 世界そのものの終焉、唯一絶対たる個の喪失、交換不可能なものを生贄に――それらの恐ろしい対価と比較して、なんと安上がりなことだろうか。

 それが、他愛ない祈りの価値。

 四つの中で一番ささやかな、禁じるほどの価値も無い、ちっぽけな反動のおまじないの正体だった。

 言震ワードクェイク

 北ドラトリアで『引き起こされた』取り返しのつかない災厄。

 大量の死、無数の嘆き、夥しい数の怨嗟。

 確定した歴史に黒い血の記述が書き加えられていく。

 それ以降、北ドラトリアに残された災禍は燻り続け、長く国内の不安要素となってかの国を苦しめ続ける。更には諸外国までもを巻き込んだ緊張状態が外交、軍事、交易、さらには文化コストまでもを引き上げ、長期的に見た場合極めて巨大な損失が世界中に波及していくことになる。

 子供が死に、大人が死に、老人が死に。

 男が苦しみ、女が食い物にされ、あらゆる種族、民族が憎しみを向け合う。

 その事実が、確定する。

 遠く離れた、世界すらも隔てた古代の鉱山に寒々とした風が吹き、白い炎が終焉を告げている。

 ごめんなさい、と掠れた声が響いた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――許される事など無いと知っていても、口に出さずにはいられないというように。

 何度も何度も、終わりのない謝罪が繰り返される。

 黒い血の涙を流しながら、虚ろな黒玉を見開いて、ただひたすらに。


「私が強制した事です――逆らえば、貴方は死んでいた」


 黒い槍の穂先が、ゆっくりと降ろされる。


「貴方に責任はありません。咎があるとすれば、それを無理強いした方」


 そう言ったミルーニャの言葉にも、どこか力がない。

 荒れ狂う黒き泥は静謐にその形を安定させていった。

 黒衣に収まった霊長類の身体――未だ目覚めぬアズーリアの声を聞きたいと、罪科を背負った二人は強く願う。

 取り返しのつかないことなど、何も無かったかのように。

 迫り来る白い炎の終焉を感じながら、無限にも思える謝罪の声が延々と続く。


 ――世界が平和になって、みんながこうして手を取り合えればいい。


 祈る言葉は余りに遠く。

 裏返った価値は、脆く零落して、塵となって消えた。





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