3-63 無造作な死②



「僕も【静謐】が使える。それも君たちみたいな呪文によるものじゃなくて、邪視による打ち消しだ。蛇の王の世界観を同じ邪視の論理で中和すれば、肉体への負荷も最小限で済むんじゃないかな」


「馬鹿な事を」


 ガルズの言うとおり、邪視による石化は邪視によって打ち消すのが一番無理がない。だからといって彼の最大の武器を自由にさせてしまうわけにはいかない。


「この両の目で君たちを害したりはしないと誓おう。呪文で誓約してもらっても構わないよ。ついでに僕の目が届かない背後から呪術で攻撃の準備をしておけばいい。リーナ、僕の目隠しを持ち上げてくれ。解呪が終わったらすぐに下ろせばいいだけの話だ」


「貴方にそんなことをする理由が無い」

 

「君はマリーを救ってくれた。ここで借りを返しておかないと、僕はずっと惨めなままだ。何もかも君に負けて、劣った存在として死んでいくのは流石につらいんだ。英雄になることができなかった男に、最後の慰めを与えると思って、どうか機会をくれないかな」


 考えるまでもない。

 拒否すべきだ。

 だというのに、私は一瞬考えてしまった。

 マリーを助けた借りを返したい。惨めなままで終わりたくない。

 ガルズの口調はとても真剣だ。

 確信した。彼の言葉に嘘はない。

 だとしても拒否すべきだ。

 けれど同時に、私の中には彼の言葉を聞き届けてあげたいという気持ちが生まれていた。

 当然のようにハルベルトは首を横に振るが、リーナが眉尻を少しだけ下げて、


「あの、やらせてあげてくれないかな。もし何かしたら、私が間に入って壁になるからさ。それに、なるべくならエストが傷付かない方法がいいよ」


 私は迷う。

 静かな沈黙。信用が置けるはずもない。理性は既に答えを出している。

 けれど。

 ガルズの過去。私とは正反対の結末。思い知らされた私の愚かしさ。

 言葉だけで強く伝わってきた、深い苦しみと悲しみ。

 大切な仲間たちを失って、全てに復讐しようと怒りと恨みを燃やす。

 ガルズは敵だけれど、リーナの従兄弟で、大切に思う人だ。

 愚行だ。

 愚行、だけれど。


「――妙な動きをすれば背中から撃つ」


「アズ、駄目」


「ハルもすぐに攻撃できるように準備をしていてくれる? 私は、エストが苦しんだり傷付いたりするのはもう見たくないの。もちろんみんなのことも守りたい――だから、お願い」


 ハルベルトもまた、プリエステラを傷つけてしまうことを危ぶんでいた。

 一瞬だけ目を瞑って、すぐに迷いを振り切って決断する。


「隊長はあなた。何か不測の事態が起こったら師であるハルがなんとかする」


「ありがとう、ハル」


 揺るぎない信頼を感じて、胸が熱くなる。

 良かった。この気持ちがあれば、私はまだ大丈夫だ。

 私たちはガルズの目が届かない背中側に立ち、呪文を発動の起句を除いて詠唱し終えた。もちろん周囲を巻き添えにしないように、範囲を絞った高威力の呪文だ。

 待機状態で合図すると、リーナがガルズの目隠しを持ち上げる。

 邪視者の呪術行使は一瞬だ。

 ガルズの周囲に金色のアストラル光が放射されたかと思うと、次の瞬間には石像と化していたプリエステラの全身がゆっくりと正常な状態に戻っていく。ついでとばかりにペイルの首から下も解呪されていく。

 ガルズはそのまま素早く振り向いて私たちに金眼を向ける――というようなことはしなかった。

 宣言通り、邪視による【静謐】で石化を解呪しただけ。

 リーナが目隠しを戻し、ガルズは再び無力な状態に戻る。


「あれ、私、どうして――」


「エスト! よかったー! 心配したよー!」


 リーナが勢いよくプリエステラに抱きついて喜びの声を上げる。

 戸惑いの表情を浮かべているプリエステラには傷一つ無い。頭部の花は相変わらず艶やかに咲き誇っている。

 良かった、いつも通りのプリエステラだ。

 遅れて実感が湧いてくる。 

 ようやく、彼女を救えた。

 全員無事に、このパレルノ山を乗り越えられたんだ。

 正確にはまだサリアとミルーニャとメイファーラが残っているが、呪力無しでもあのサリアが負けるとは思えない。

 私はもうすっかり安心していた。

 これにて万事解決。

 あとは帰ってみんなで祝杯を上げるだけだ。

 プリエステラとの約束。

 ようやく果たせるんだと、私はほっと一息吐いて、


「目にも留まらない【小鬼殺し】の短剣は怖いけど」


 目も眩むような金色の眼光が、私とハルベルト、リーナとプリエステラ、そしてペイルを貫いた。

 もちろん、呪布製の目隠しは彼の両目を塞いだままだ。

 彼の、頭部にある両目は。


「呪文使いの遅い詠唱はまるで怖くないな。たとえ起句の一言であろうとも、僕の一睨みの方が遙かに速い」


 ガルズ・マウザ・クロウサーの延髄部で、金色の眼球が壮絶な呪力を放出して私の動きを束縛していた。

 それだけではない。彼の束縛された両手を見れば、その掌でも目蓋が開き、頭髪が一部盛り上がったかと思うと後頭部でも金色の瞳が輝き出す。

 衣服が盛り上がり、内側から溢れ出そうとしている呪力に耐えきれず弾け飛ぶ。

 露わになったのは、見た目通り線の細い裸の上半身。

 そして、そのいたる場所で瞬きする、無数の目、目、目。

 金色の眼球が、ガルズの全身に埋め込まれているのだ。


「さっき話したじゃないか。歴代当主たちの金眼を使用した、マウザの眼球コンピュータだよ。マウザの血族は僕の代で断絶するから、当然あれも廃棄するわけだけど――折角だから部品を有効活用しようと思ってね。ほら、骨花の使い魔たちが金眼を持っていただろう?」


 隠していた呪力を迸らせ、ガルズは容易く拘束を引き千切ると、目隠しをはぎ取る。全方位への邪視。その場にいる全員を釘付けにしながら、ゆっくりとガルズが振り返る。

 もちろん、彼には本来そんな動作は必要ないのだ。

 ガルズにとって、頭部の眼球は無数にある内の二つに過ぎない。


「そして僕の身体にも埋め込んでいたというわけだ。邪視者の弱点は死角――なら死角を無くせば弱点は消えるという理屈だよ」


「目隠しは、意味が無かったってこと――?」


「まあそういうことだ。実を言えばいつでも抜け出せたんだけどね。流石に【小鬼殺し】には勝てないから機会を窺ってたんだ」


 束縛バインド系の呪術――【静謐】に続いて、またしても私の得意呪術。

 金色の拘束帯が全員を雁字搦めに縛り上げていく。

 苦痛に呻く声が上がる。

 リーナがガルズに何かを言おうとするが、その口元にも光の帯が巻き付いて言葉を封じ込めてしまう。

 ガルズはマリーの束縛を解き、余裕に満ちあふれた態度で私に向き直った。

 金眼を無数に埋め込まれた腕が、浮遊する黒い魔導書に伸びる。


「ようやく本来の目的が達成できる。十三階段の贄を殺し、【制御盤】をこの手に――ああ、これで僕は真の鍵、真のグロソラリアになれるんだ!!」


 ガルズの左手が、【死人の森の断章】を掴んだ。

 膨大な呪力で、強引に防壁を突破する。

 邪視者特有の強引な世界観の改変が空間を歪曲させ、光をねじ曲げていく。

 ガルズは急速に魔導書を掌握しつつあった。

 かつて私はあの魔導書を掌握するために長い時間を有したけれど――それよりも圧倒的に速い。

 それはお互いの相性がいいのか、それとも呪術師としての力量の差なのか。

 おそらくは、両方だった。


「ようやくだ――ようやくだよ、マリー」


「わーい珍しくダメダメじゃないですー喜ばしいので死にましょう」


 ガルズは穏やかな口調で傍らの少女に語りかける。

 金眼を埋め込んだ掌が、そっと小さな頭を撫でた。 


「さて。【小鬼殺し】が戻ってくる前に、儀式の生贄を捧げるとしよう。まずは君からだ、アズーリア・ヘレゼクシュ」


「くっ、遡って――」


 フィリスを活性化させようとするが、次の瞬間には眩暈が襲い、意識が一瞬断絶する。

 今のはガルズの妨害――?

 違う。

 左手が泡立ってきている。足が崩れ、霊長類どころか鹿の足さえ摸倣できなくなってしまっている。

 フィリスの使用には代償が伴う。

 それは、ラーゼフに言い聞かされていたはずだ。それなのに、私は。

 金色の視線が、倒れ込んだ私を冷ややかに見下ろしていた。


「さすがに夜の民の固有種――それも覚醒済みの個体とあっては完全に殺しきるのは骨が折れる。だから少し工夫をしてみたんだ。例えば、僕と君との間に関係性を構築して、類似に基づいて呪力の経路を作る、とかね」


「それって、私の前で事情を聞かせたのは――」


「君に共感して、同情してもらう為だよ。上手く行ったみたいだね。君たち夜の民は摸倣が得意なゆえに共感能力に優れる――これで僕の世界観を受け入れる準備ができたというわけだ。おめでとう。君は君自身の優しさゆえに死ぬ」


 ぞくり、と私の背筋が粟立つ――泡立つのを感じた。

 背筋――背筋とは、何だっただろう。

 背中とは何か。私にそんなものがあっただろうか。


「それでは、君の起源を解き明かそう。これよりアズーリア・ヘレゼクシュの解体作業を開始する」


 金眼が妖しく輝いて、馴染み深い呪力の波動が私の全身に浸透していく。

 私そのものに使われるのは初めてだ。

 けれど考えてもみればこの上なく効果的な攻撃手段。

 大神院が定めた眷族種序列は、呪的性質が強いほど位階が高くなる。

 第二位の夜の民はほとんど呪術生命体だ。

 そう――エスフェイルと同じように。

 かつて私は第五階層で、あの魔将に【静謐】を使う事で存在ごと解体した。

 ならば、同じ理屈で私そのものに【静謐】を使ったなら。


「ガルズ・マウザ・クロウサーが語りて曰く」


 当然の結果として、私は死ぬ。

 そして、ガルズは解体する。

 私という存在の構成要素を解明し、自らに都合のいいように再解釈していく。その邪視――世界観を拡張することで自分の認識で私を否定しようとしている。


「アズーリア・ヘレゼクシュの本質は『人類』ではない。『人類』とは知能を有することが条件である。だが、アズーリアにまっとうな知能というものは存在しない。その有り様、その生態、その構成要素――そもそも、夜の民というのは『人類』ではないのだから」


 それは、大神院の恣意的な分類方法を真っ向から否定する言葉だった。

 地上の秩序など迷妄である。

 合理的ではない。狂信者の間違った思考であると蒙を啓いていく。

 ハルベルトの悲鳴が、拘束呪術によって途切れて消えた。


「全眷族種は生物分類学においては哺乳類――霊長類から分岐したものだ。しかし夜の民は違う。見ただけでわかるだろう、そのおぞましき異形の身体!」


 無数の金眼から光が放たれた。

 呪力によって黒衣が引き裂かれて、私の全身が白日の下に晒された。

 周囲の仲間たちが、思わず息を飲んだ。


「蠕動する黒い触手、異形の翼、奇形の足、硬化した複雑な形状の角。そして泡立つ体表は繊維質でありながら粘性を帯びている。これは果たして『人類』か? いいや違う。そしてその頭部は三つある。霊長類を模した崩れかけの頭部。溶けかけた牡鹿と牝鹿の頭部もある。この中のどれにアズーリアという人格を司る脳が収められているのか――答えは『どれでもない』だ」


 暴かれる。晒される。解かれる。

 そして、私は私ですらなくなっていく。


「呪力によって変質する万能細胞――夜の民を構成するそれは自在に形状を変化させ、影の触手や複数の形態を成立させる。夜の民に脳は無い。思考を偽装してはいるがそれは知能ではない。霊長類を始めとした他の生物の摸倣――その性質ゆえに似たような振る舞いができるだけであって、けっして同じではありえない」


 違う、そんなことない。

 私はみんなと同じように考えてる。

 私にもちゃんと感情があるし、思考だってしている。

 私は――――。


「『あと、3600秒。それまで逃げ切れば、私の、私たちの勝利となる。その時の『私たち』というのが何人になっているかはわからないけれど。私、アズーリア・ヘレゼクシュは夜の森を疾走していた』――なるほど、それらしい個人的視座いちにんしょうだ。まるで本物の人類が書いたようだね」


 ガルズが、黒い魔導書を開いて何かを言っている。

 それは、どこかで聞いたことのある文章。

 魔導書の記憶領域に保存されていた、私の主観視点の、


「君の『物語』だ。魔導書に焼き付けられた君の記憶――『ただでさえ兜のおかげで視界が狭いから、森の暗闇は私の走る速度を制限してしまっている。転ばないように慎重に走ると、一定時間逃げ回るということが絶望的に思えてくる』――なるほどそれらしい描写だ。これを読んでしまえば誰もが思うだろうね。これを書いているのは知能を持った人間に違いないと。けれど本当にそうだろうか。動物が適当に筆を滑らせたり、端末を叩いたりしてそれらしい物語ができることだってあるのではないかな。高性能な機械なら人を欺くことだって可能なのでは?」


「やめて――お願いだから、もうやめて」


 自分の口から、こんなに弱々しい声が出るなんて信じられなかった。

 鹿の頭は疾うに溶けて無くなっていて、私は霊長類の頭部だけでどろどろの黒い肉体に沈んでいく。解体されていく私の存在は、もう既に滅びていく寸前だった。


「人は目に見えるもので世界を把握する。観測されたものだけが確定して世界に固定される。君たち夜の民は巧妙に自らを偽装し、摸倣することでその本質を隠蔽してきた。黒衣で自らを覆い、言葉を弄することでね。君たちは普段隠れているがゆえに、かろうじて存在強度を維持できているに過ぎない」


 記述。

 そうだ。記述をしないと。

 参照先を探して摸倣して既存の情報と関連付けて組み合わせを考えてひたすらに記述をして情報を絶えず上書きして更新しないと存在の強度が保てなくなる。


「生物分類学における領域ドメインを四分する古典的な種。すなわち真核生物、真性細菌、古細菌、そして疑似細菌。摸倣子の働きによって細胞の構造を成り立たせているこの呪術生命は、極微な呪力の運動によって機能するいわゆる天然の呪術微細機械マイクロマシン――君たち夜の民はその集合体だ」


 わかっている。

 ガルズの目論見は正確に理解できている。私だって【静謐】使いだ。相手が私の存在をどう破壊しようとしているかぐらい見当がつく。

 私の『個我』を解体して否定することで、マリーのように――哲学的ゾンビにするつもりなのだ。

 そうすれば私は魂を失い、アストラル体で維持されている実体細胞群は形状崩壊して死んでしまうだろう。

 けれど、私は動けない。フィリスを使おうとすると、身体の奥底から何か致命的なものが剥がれ落ちていく気がする。

 誰かが、私の存在しない足を引いて影の底に連れて行こうとしているかのような恐怖が私の身体を束縛している。

 動けない。動かないと死ぬのに、動いても死ぬ確信がある。

 何もできないまま、私は解体され続ける。

 私を私たらしめる神秘。

 魂というものの不可侵性。

 それが破壊され、陵辱されていく。


「そんな、そんな検索すれば出てくるような知識で」


「だが――それが事実だ。誰もが下らない迷信を、意味のない狂信者の秩序を無意味と、無価値と知りながら信じる振りをしているだけ。地上とは虚ろな楽園だ。内実のない空虚。『そういうことにしておこう』といって都合のいいことだけを見続ける。ほんものの事実から目を背ける、弱いものたち」


 ガルズは己の世界観を拡張し続ける。

 無数の瞳から放たれているのは彼にとっての事実。

 彼が認識している世界そのものだ。

 ガルズにとっての『正しさ』が、私に貼り付けられていた『人類』のラベルを引き剥がしている。

 私は、地上の秩序によって『人類』であると認められていた。

 その秩序に、ガルズは叛逆する。


「それが事実だ。それだけが事実。アズーリア・ヘレゼクシュの事実。知能無き疑似細菌に心は宿らない。魂などない。外側から見ればそれらしく見えるだけの、仮構された人格だ。一人称の記述? 人間味のある言動? それは『人類』の証明にはならない」


 人の心は神聖不可侵などではない。

 脳という臓器の活動、それを解体して精査すればいかようにでも説明が可能。

 ガルズは死霊使い――邪視によって実体の無い霊魂を知覚し、杖によって物質的な死体を操作する複合呪術師だ。

 そんな彼が内面化しているのは、無機質で杖的な思考。

 ガルズ・マウザ・クロウサーは空虚なる杖の世界観であらゆる呪文を否定する。

 心などない。魂など無い。

 あるとすればそれは脳という複雑な系の内側に生起されるだけのもの。

 それを摸倣しただけの代物には心は宿らない。

 ゆえにそれは『人類』ではないのだと断定する。

 ――だが、奇妙だ。

 そのような杖の世界観を有するにも関わらず、ガルズは霊魂という架空の存在を認識できている。

 矛盾している。これは一体、どのような理屈なのだろう。


「簡単なことだ。僕が見る霊魂とはまやかしなんだ。死を恐れるがゆえに人は死後を仮構し、宗教を作り出す。恐怖というのは生物学的な感覚だ。ゆえに杖の世界観でも説明が可能なんだよ」


 死に対する恐怖もまた人間の自然なふるまい。

 死後を仮構してしまう人の弱さ。

 脆弱さをあるがままに受け止め、己の妄想と逃避を形にする。

 ガルズの見る霊魂とは、その恐怖が具現したもの。

 そして恐怖とは、生物が持つ最も根源的で強い感情だ。


「僕は弱い。ひどく恐がりで、仲間よりも自分の命が大切な卑劣漢だ。ゆえに僕は死霊使いなんだ。僕は弱いから、自らの弱さや愚かさを肯定してでも力が欲しい」


 杖的な――合理的な世界観を有しながらも、自らの弱さゆえにそれを棚上げして霊魂を知覚するという非合理的な世界観と使い分けることができる。

 矛盾を内包した、弱者の狡猾さ。

 でも――と私は思う。

 私は言葉を紡いで死者を今に呼び起こす。

 それは卑劣な行為だけど――だからこそ、ガルズの世界観を肯定できない。

 感情の赴くまま、強く叫ぶ。


「違う! それは、弱さなんかじゃ――弱さだけじゃない!」 


「死とはおぞましい恐怖に満ちた残酷な空虚だ。これが事実だよ、アズーリア」


「そんなことない――貴方は、仲間を、マリーのことを」


「黙れ」


 金眼が閃光を放つ。

 衝撃。

 私は低く呻いて地に這いつくばる。もう全身が崩れている。

 今の衝撃で首が曲がり頭も半ばまで融解して、声を出すこともできなくなってしまった。駄目だ、もう何もできない。

 伝えたいことも、伝えられない。

 私には、私は、言葉を紡ぐことでしか自分の存在を証明できないのに。

 ああ、もう喉も舌も口も無い。

 それがどんなものだったのかも思い出せない。

 私は、私は――。


「これが事実だ――『お前は、存在しない』」


 遠ざかる。

 感覚していた光、音、空気、土の硬さ、その全てが消えていく。

 私――それは何だったのだろう。

 黒いのか白いのかあるいはそれは色ですらないのか。

 空虚。

 ただそれだけが無限に広がっていく。

 その彼方から、途方もなく巨大な何かが迫ってくるのを感じながら。

 どこか遠くで、泣きながら誰かの名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。

 その声が、あんまり悲しそうだったから。

 なんだか、悲しいということを摸倣して再現できるような気さえしてくる。

 お願いだから、そんなに泣かないで。

 ああ、それにしても。

 そんなふうに死を悲しんでもらえる誰かは、幸せだ。

 アズーリア。

 意味の分からない、摸倣のしようがない音の羅列。

 その記号が何なのか、まるでわからないけれど。

 理由も無く、泣いている誰かの涙が止まればいいと、そう感じた。










 時に、眷族種は植物に喩えられる。

 元々はティリビナの民たちが他種族と融和するべく始めた習慣で、黒い肌の民を『黒檀』、白い肌の民を『白樺』といった具合に名付けることで、余りに異質な互いの溝をわずかでも埋めようという命名の呪術であった。

 結果としてその歩み寄りは失敗したものの――その習慣と名前は今でも地上に根付いている。

 ゆえに夜の民たちはその原形態の有り様から、影の海の黒花翁草アネモネという異名を持っている。黒いアネモネが影の世界スキリシアにしか咲かないということもその理由の一つだった。

 そして、眷族種を植物に喩える以上、ごく自然な発想で眷族種と花言葉とを結びつけるという文化が生まれていく。

 花と言葉を関連付け象徴的な意味を担わせる慣習は古くから言語魔術師たちの間で流行してきた。

 それらは時代や地域によって異なる色合いを見せるが、単一の地域にしか存在しない珍しい植物ならばその意味のゆらぎは余り起こらない。

 黒いアネモネの花言葉も、そうした意味が固定されたものの一つである。

 異世界学者であるリーデ・ヘルサルが著した『影世界の植物大全』によれば。

 残酷な真実。

 あるいは、絶望。






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