3-62 無造作な死①
「さて」
出し抜けに、サリアは短剣を鞘から引き抜いてガルズの首に押し当てた。
「話も終わったところで、今度は私からも訊ねたいことがある。アンタ個人の事情はよくわかった。けど、アンタは同時にトライデントの細胞なんだったな? 使い魔の魔女に関して知っている事を吐け」
「――そう言われて、僕が答えるとでも?」
「悪いけど脳髄洗いだの読心術だのは得意じゃないの。ご自慢の眼球をくり抜いて口の中で咀嚼させるのと、はぎ取った爪を歯の隙間にねじ込むの、どっちを先にやりたい?」
寒気のするような拷問をさらりと口にしながら、サリアは刃先をそっと首筋に押し込んでいく。
ぷつりと赤い雫が溢れ、一筋の赤色が流れ落ちた。
「怖い怖い――だが、それでも」
「そこのマリーって子を切り刻む」
「やめろ」
ガルズの穏やかな口調が一転して鋭くなる。
先程の話で、彼女がガルズにとって大切な相手であることが明らかになったばかりだった。
彼は迂闊にも自ら弱点を露呈させてしまったのだ――卑劣な行為ではあっても、敵の情報を得る機会を逃すわけにはいかないサリアの事情はよく分かる。
それに、トライデントの情報が欲しいのは私とハルベルトも同じだ。
「わかった。わかったよ。話す。けど、僕らは一番の新参者なんだ。細胞を全員知っているわけじゃないし、トライデントの全容も知らない。君たちが望む情報を提供できるかどうかは知らない」
「それでもいい」
「了解だ――第六階層で命からがらイェレイドから逃げ出して、マリーが自害したことは話したね。僕が奴と出会ったのはその直後だ。といっても初対面じゃない。以前にも会ったことがあるし、多分君たちも知っている相手だ」
「それは、どういう意味?」
「探索者にはお馴染みのあいつだよ――【翼猫ヲルヲーラ】、迷宮の審判気取りの外世界人。奴はトライデントの【神経】と名乗った」
意外な情報だった。
翼猫はあくまでも中立を謳う存在だ。にもかかわらず、トライデントの使い魔でもあるというのか。
確かにあれもまた外世界の存在だから、使い魔としての資格はあるのだろうけれど、それにしても。
「実を言えば僕たちが出会ったことのある細胞はヲルヲーラだけだ。その他の細胞が何人いるのかとか、どんな人物なのかとか、詳しい事は知らないんだ。だが、復讐の為の力を得られれば僕はなんだって良かった。あの翼猫に誘われるがまま、僕たちはあの青い血をその身に受け入れた。そして、次の瞬間にはトライデントの細胞だという自覚が生まれていた。なんというか、急にそう確信するんだ。自分はトライデントの一部として生まれ変わったんだ、ってね。こうして僕はトライデントに所属することになったんだ」
んん?
私は首を傾げた。
さっきから、なんだか言い回しがおかしい気がする。
私の疑問には構わず、サリアが言葉を繋いでいく。
「【融血呪】ってやつか――詳しい事は知らないって、まさか目的まで知らないってわけ? 少なくとも、アンタたちにこんなことをやらせるメリットが『組織』にはあるはず」
あ、やっぱりなんか変だ。
「あの、確認しておきたいことがあるんですけど」
「何かな?」
「トライデントって、個人名、ですよね?」
「いや、僕は組織名のつもりで使っている」
え、どういうこと?
トライデントっていう魔女がいて、それが全ての黒幕なんじゃないの?
私の疑問にサリアが答える。
「トライデントなんて魔女を、誰も見たことが無いのよ。ずっと星見の塔に引きこもってたコルセスカですら、その存在を知らないっていうんだから相当なもの。キュトスの姉妹には異空間に隠れ潜んだり存在そのものを希薄化させたりする魔女もいるらしいけれど、それだって言い伝えくらいは残っている。それこそ【未知なる末妹】並に情報が皆無な魔女、それがトライデントってわけ」
「僕はトライデントというのは複数の使い魔たちで構成されるネットワークのようなものだと勝手に解釈している。実際、ヲルヲーラもその認識だった。あの翼猫はトライデントの連絡係のような役割を担っているらしい。地獄と地上に浸透しているトライデントの細胞たちに情報を伝えるのに、審判という役目はうってつけだからね」
ガルズが引き継いだ説明に、私は呆然としてしまう。
というか、それはおかしくないだろうか。
じゃあトライデントが勝利したら、誰が末妹になるのだろう。
使い魔全員が末妹ということ?
組織や集団をひとくくりにした総体がトライデントという魔女?
確かにそれは使い魔の魔女というのに相応しい在り方かもしれないけれど――。
そもそも、それだと腑に落ちないことが一つある。
「なら、はじまりは? 末妹候補は選定にあたって使い魔を選ぶんでしょう? 誰が最初の一人を選んだの? というか、最初に活動を開始した細胞こそが、トライデント本人なんじゃないの?」
「僕も良くは知らない。ただ、ヲルヲーラは司令塔のような存在がいることを仄めかしていた。確か、器官名は【脳】だったかな。名前までは知らない」
「じゃあ、それがトライデント本人ってことも」
「だが、一番重要なのは【脳】よりも【心臓】と【子宮】だと言っていた。【脳】は未だ不在の【心臓】――中枢細胞の代理に過ぎないと」
ええと、ちょっと整理しよう。
使い魔の座を占める末妹候補トライデントは細胞達を含め誰も姿を見たことが無いらしい(ということは、いないとも断定できないわけだ)。
ゆえに細胞と呼ばれる使い魔たちで構成される組織名なのではないかと推測されている。
現在指揮を執っているのは【脳】で、連絡係が【神経】のヲルヲーラ。新参者のガルズとマリーが【右目】と【左目】らしい。
「他に知ってる細胞はいないの?」
「【両足】なら知ってる。迷宮の主セレクティフィレクティがそうだ」
「ち、私もそれは知ってるよ――ていうか、あいつが最上位の細胞だとばっかり思ってた。足ってことはそれなりに主要な器官ではあるんだろうけど、この調子だと左右の【腕】とかもいそうだな」
サリアとガルズの会話に、聞き逃せない箇所があった。
以前、ハルベルトに教えて貰った事実だったけれど。
魂だけの存在となって古代から生き続ける憑依転生者――セレクティフィレクティ。私から妹の身体を奪った仇。
地獄の魔将を率いる元帥。
奴もまた、トライデントの細胞なのだ。
「で、話を戻すけど、アンタは地上で十三人も生贄に捧げて何をやらかすつもりなの? その結果がトライデントの目的に利するってことよね? そもそもトライデントの勝利条件って正確にはなんなの? 他の魔女全員を取り込むってことぐらいしか知らないけど、それでどうやって女神に至るわけ?」
「質問が多いな。最初の質問はひたすら巨大な大量殺戮呪術による地上の浄化。つまり僕の目的だ。それ以外はわからないとしか言えないな。そもそも理解している細胞がどれだけいるかも怪しいと僕は睨んでる」
「どういう意味?」
「トライデントの細胞は【神経】たるヲルヲーラを介して【脳】からの命令を受け取り、実行する。けれど、組織だった動きというのはほとんど無い。個人としての立場や自由意思の方が尊重されるくらいだ。それでいて自分の目的に見合った命令を下されるから、誰かに使われているという感覚は実際の所ほとんど無い。一度細胞になってしまえば、どこかから湧き上がってくる青い血のような呪力を思うがままに使うだけでいい。それはトライデントの意に適うことなのだという実感があるんだよ。これには根拠が無いが確信できる。僕たちが自然に振る舞うことがトライデントにとっての最善なんだ。どう最善なのかはわからないけれど」
まるでガルズは、自分がトライデントという魔女の身体の一部になってしまったかのように語る。
もしかしたら、それが細胞になるということなのかもしれない。
「結局ほとんど何もわからないってこと――じゃあ最後に一つ。細胞の誰か有する【制御盤】に心当たりは無い? ていうか、アンタは【制御盤】を持ってる?」
【制御盤】――確かそれは、紀元槍にアクセスするための端末、だったっけ。
ハルベルトはフィリスのことをそう呼んでいたけれど、他にもあるようなことを言っていた。
サリアの問いに対して、ガルズは首を振った。
「残念ながら。ヲルヲーラから概要は説明されたけれどね。四魔女の目的は紀元槍に到達する事――そして僕たちのような使い魔は言わばその場所に至る為に存在する【鍵の基本原型】だ。実際に紀元槍にアクセスするためには幾通りかのプロセスが必要になる。まず四魔女と契約し、調整を受け、【制御盤】と適合することではじめて【真の鍵】として完成する。少なくとも僕は【真の鍵】ではないことは確かだね。【制御盤】など持っていないから」
つまり、使い魔と【制御盤】の二つを揃えないと意味が無いということだ。
ミルーニャが私とフィリスを欲していたのもそれが理由だった。
私の左手はあらゆる呪術を解析、解体し、更には摸倣まで可能とする。
そしてサリアの【氷弓】は時間すら遡れる。
繰り返す時間の中で、私はサリアに説明を受けていた。
冬の魔女コルセスカは自らが持つ【制御盤】、【雪華掌】の能力を欠片として使い魔に分け与えることができると。
欠片は全部で九つ。
【氷弓】【氷刃】【氷筍】の三つがサリアの欠片。
【氷盾】【氷燭】の二つがアルマの欠片。
【氷槍】だけは何故か使用できず、【氷球】は主にコルセスカ本人が使っている能力らしい。
残る【氷鏡】と【氷腕】の使い手は不在で、適性のある人物を捜しているのだとか。
使えそうな奴の心当たりがあったら教えて欲しいと頼まれたが、鏡とか腕なんてどうやって使うんだろう――腕?
あれ、今なにか頭に引っかかるものがあったような。何だっけ。
考え込んでいたので、いきなり話しかけられてびくりとしてしまう。
「そしてアズーリア・ヘレゼクシュ。君はフィリスの他にも【制御盤】を持っているね」
どこかじっとりとした口調――粘り気のある言葉に、嫌な感じを覚えた。
ガルズの目隠しの下で、金眼が爛々と輝いているような気がする。
「【死人の森の断章】――失われた眷族種【
私は思わず、隣で浮遊しながら照明の呪術を作動させている黒い魔導書を見た。
ミルーニャの父親から預かった大切な遺品。
第五階層で手に入れたという秘宝らしいが、そんなに重要なものだったとは今の今まで思いもしなかった。
確かに優れた魔導書だとは思っていたけれど、てっきり違法改造された禁制品とかちょっとした年代物だとばかり。
「断言するが、それは生と死、そして魂というものを深く理解したものでなければ扱う事はできない。君が持っていても宝の持ち腐れだよ」
「だからって、貴方に渡したりしない。そもそもこれはミルーニャのものだ。お父さんの形見だから、リーナにとっても大事なもの。使いこなせるかどうかだけで持ち主に相応しいかどうかが決まるわけじゃないでしょう」
「感傷だな。死者の内面を勝手に忖度する――それは愚かで傲慢な思考だよ。聞こえの良い言葉を弄して死者を都合のいいように扱うのが君のやり方かい、アズーリア・ヘレゼクシュ」
私は言い返そうとして、言葉に詰まった。
ガルズの言葉は、私の卑劣さを――死者の想いを身勝手な生者の都合で操作するやり口を痛烈に批判するものだったからだ。
そしてそれは、過去のガルズ自身をも打ち据える言葉なのだ。
彼と私の差とはなんだろう。
それはたまたま上手く行ったかどうか。
アキラの時はなんとかなった。
ミルーニャの時もどうにかなった。
傲慢にも死者の言葉を代弁することで、私は苦境を乗り越えてきた。
けれど、その立場から失敗したガルズを見下ろして『違う』というのは、なんだかひどく卑劣な気がする。
ガルズの言葉を肯定したくはない。
けれど、一面の真実を突いていることは認めざるを得ないのだった。
ガルズから引き出せる情報も無くなり、ハルベルトの体調も良くなったため、私たちは再び坑道を進んでいった。
途中怪物に襲われたりもしたものの、サリアが素早く察知してくれた為に私とハルベルトとリーナだけで切り抜けることができた。
サリアはガルズたちに目を光らせてくれていて、戦闘に参加できないことを申し訳ないと謝っていたが、多分彼女が戦っていたら逆に私たちの出番が一切無くなっていたと思う。
そうしてしばらく歩いて、私たちはどうにか暗い坑道を抜けた。
眩い陽光。
ここからしばらく歩けばもう転移門はすぐそこだ。
パレルノ山に滅びをもたらした悪魔の九姉を撃破したことで、この世界が終端に向かう速度はゆっくりしたものになっている。
ただ、火元が消えても世界に燃え移ってしまった白焔は消えないままだ。
緩やかに燃えさかりつつ世界を着実に滅ぼしている。
とはいえ、この勢いだと完全にパレルノ山が更新されるのは真夜中だろう。脱出は充分可能だと思われた。
私たちは足取りも軽く(ガルズとマリーはそうでもなかったが)転移門への道を進んでいった。
やがて、探索者協会が設置している使い捨ての誘導灯が並ぶ道の先に転移門が見えてくる。
大きな呪石製の柱と、その間で穏やかに発光する空間の揺らめき――泡と喩える人もいれば、レンズと形容する人もいる。
そこでは【扉】の上位呪術である【門】が常時起動している。
転移門の周囲だけは元の世界から持ってきた『異界』であるため、この世界が一度終わりを迎えても消滅することなく残り続ける。
その安全地帯の手前にあるものを見て、私の思考が凍り付く。
周りにいるハルベルトたちもそれに気がついてそれぞれ息を飲んでいた。
目隠しをされたガルズたちは事情がわからず、周囲の緊迫した雰囲気を不審に思っているようだが――今の私にはそんなことに構っているだけの余裕が無い。
早足で近付いていき、我慢しきれなくて走り出す。
嘘だ。
あり得ない。
だってちゃんと、ちゃんとカタルマリーナを倒した。ビークレットも。
それなのに、それなのに。
「嘘、嘘でしょ、エスト――?」
転移門の手前、後一歩で脱出できるというその場所で。
プリエステラは、冷たい石像と化していた。
そう、石化だ。
パレルノ山に存在する最大の脅威である悪魔の九姉の亡霊と、その次に危険なイキューは倒した。
だが、三番目に危険な存在がまだ残っていることを、私は忘れていた。
迂闊だった。イキューは更新まで現れないし、悪魔の九姉がいない今、このパレルノ山には脅威は無いものだとばかり思って油断していた。
でも、それでもプリエステラの傍には邪視耐性のあるメイファーラに優れた錬金術師であるミルーニャ、私より序列が上のペイルに医療修道士のイルスがいたはずだ。プリエステラ本人だって強力な呪術師のはず。
だというのに、一体どうして。
それに、他の皆は一体どこにいったのだろう。
「す――すまねえ」
涸れてしまった喉から無理矢理絞り出したような、ひどい声だった。
それがペイルの声だとわかったのは、プリエステラの近くにあった巨大な岩が微かに動いている事に気がついたからだ。
よく見ればそれは全身のほとんどを石化させてしまったペイル。
無事なのは頭部だけで、喉の半ばまでが石に浸食されている。彼に取り憑いている憑依型の寄生異獣が必死に石化現象を食い止めているのが見えた。
「何があったの? みんなはどうしたの?!」
「ティリビナの民は、イルスが全員無事に連れてったよ――あと一歩ってとこで、あのデカヘビ野郎に襲われてな。多分更新のせいで巣を追われてこんな浅い所まで出てきやがったんだ、畜生め。俺ら四人が残って食い止めようとしたが、力及ばずこのザマだ」
「四人――メイとミルーニャは?」
「どっかでまだ戦ってるはずだ。無事かどうかはわからねえが、そう遠くには行ってないだろうよ」
私は素早く周囲の気配を探った。
そうしているとハルベルトたちが追いついてくる。
ハルベルトは既に梟の仮想使い魔を飛ばしていた。上空から周囲の様子を捉え、端末上に鳥瞰映像を立体表示する。
「いた! 良かった、二人ともまだ無事だ」
仮想使い魔から送られてくる映像の中で、メイファーラとミルーニャが激しい戦いを繰り広げている。
だが明らかに劣勢だった。私は目を見開く。
「何、あれ」
蛇の王の巨大で恐ろしい姿はつい最近見たばかりだ。
けれど、映像の中の怪物はそれと比べて明らかに異常だ。
全長は標準的なものを遙かに超えており、鎌首をもたげただけなのに頭の位置がメイファーラの遙か上にある。
その太さも常軌を逸しており、一呑みでメイファーラとミルーニャを丸ごと口の中に放り込んでしまえる――どころか、ここにいる私たちを全員同時に放り込めるくらいに大きい。さっき通過してきた坑道並の巨大さでは無いかと思わされる。
そして、通常は毒々しい緑であるはずの鱗は真っ白で、爛々と輝く両の眼も同じく白い。まるで周囲で燃えさかる白焔に染め上げられてしまったかのようだ。
ハルベルトが冷静な分析を口にする。
「恐らく、白焔による異常成長。本来なら白焔に触れれば老化か崩壊は免れないけれど、私たちがビークレットお姉様の亡霊を倒したことで火勢が弱まって、僅かに触れた火の粉が蛇の王を急激に成長させてしまったんだと思う。運の悪いことに、その蛇の王はとりわけ可能性のある個体だった」
運の悪いことに。
私は影の底で出会った守護天使の言葉を思い出す。
プリエステラを消す為に働いた世界の修正力。
大抵の不運というものは、運命の帳尻合わせが露骨過ぎて可視化されてしまった結果だと言っていた。
でも、どうにかなるって。
このやり方なら抜け出せるって、そう言っていたはずなのに、どうして。
駄目だ、そんなことを考えている場合じゃない。今とるべき行動は――。
「サリアッ」
「こっちは呪力がほとんど空よ。呪力供給が無いと【氷弓】は使えない」
「わかった。なら私が。遡って、フィリ――」
私は黒衣の袖を捲り、左手のフィリスを発動させようとして――
「あ、レ――?」
ぐらり、と視界が揺れるのを感じた。
おかしいな。まだ金鎖は残ってる。昼間とはいえ、呪力だって底を突いたわけでもない。だというのに、なんで私、こんなふうに倒れそうになってるの?
「ちょっとアズーリア、アンタ本当に大丈夫なの?!」
「エ?」
私はぼんやりとした思考のまま問い返す。
何だろう。サリアはどうしてこんなに怒っているんだろう。
「アズ、その、あの――」
ハルベルトがなにか言いづらそうにして、言葉を舌先で押し止めてしまう。
リーナが口を押さえて後ずさりし、サリアが小さく嘆息する。
「下。漏れてる。あと背中と頭。出てる」
あ、ほんとうだ。
フィリスに送り込む呪力を、勢い余って別の場所に使ってしまったらしい。勝手に変身してしまい、黒衣のフードを突き破って角が生え、背中からは翼、足下からはにょろにょろと触手が沢山はみ出している。
いけないいけない。
さっきサリアに窘められたばっかりなのに。
動揺していたからだろうか。しっかりしないと。
「アンタ、やっぱしばらくここで大人しくしてなさい。石化されて間も無いならまだ助かる方法だってある。私はあの二人に加勢に行ってくるから、残りはここでガルズとマリーを見張ってて」
「デも、サリあダって呪力ほトんど残っテなイって」
んん、なんだか声の感じもおかしいぞ。
気を抜くと鳴き声とか出そうになる。
それに、なんだか舌をちゅるちゅると伸ばしたい気分だ。
ちゅるちゅる。にゅるにゅる。うねうね。
ええっと。
舌ってどんなのだっけ。霊長類とかに付いてる触手の一種だよね、確か。
「無くても余裕。要するに視界に入らないように仕留めればいいだけ。いいから私に任せて休んでなさい。それ以上無理すると、本当に戻れなくなるよ?」
戻る?
言い回しに違和感があった。
私が『戻る』って言った時、それはどんな形態のことなんだろう。
むずかしいことはよくわからない。
あたまがぐるぐるしてきた。
ふあんでしかたがないから、ビーチェのことをかんがえよう。
ビーチェ。やさしいビーチェ。
そう、あのきれいな妹だけをずっと想ってきた。
だから、私が戻るべき姿、帰るべき場所はいつだって一つだけ。
そうだ。
戻れなくなったら駄目。
それは誰よりも大切な妹、ビーチェのことを忘れるということだ。
深く息を吐く。
「ごめん。ちょっと、休むね。後を任せていい?」
「任された。落ち着いたら石化治療のできる呪術医探すか【静謐】で石化を解呪できないかどうか試してみて。まずはそっち試すのが先」
「あ、そっか。だよね」
そうだ、冷静に考えればその通りだ。
いつの間にか、何かあるとすぐに過去遡行をしてやり直そうとする癖が付いてしまっていた。
これがサリアの言った『過去遡行に溺れる』ということなのかもしれない。
この万能にも思える力の罠。
その力無しで切り抜けられる事態であっても遡行してしまい、貴重な『正しい道』を見逃してしまう。無駄に過去に遡行する事は避けなければならない。
大きな力には相応の反動がつきものだ。
『戻れなくなる』――膨大な呪力を守護天使から引き出す夜の民の神働術、世界を浸食するフィリス、依存を促す時間遡行系呪術。
『私』という在り方を変質させかねない危険な切り札。
使うべき時に躊躇うことは命取りだが、慎重な扱いが求められることも確かだ。
風のように疾走するサリアを見送って、私は肉体を安定させながら魔導書をガルズたちに向けた。
僅かに呪力を放射して、いつでも呪術が発動できることを示す。
「ハル、解呪できそう? 私がやった方がいいかな?」
「いいからアズは待ってて。今解析してるけど、多分大丈夫。ハルの【静謐】で石化現象は解呪できる。ただ――」
ハルベルトはプリエステラの傍でしばし言い淀んだ。
それから少し声を小さくして、
「ハルの【静謐】は呪力を遮断して呪術による現象を強制的に終了させる力業。だから、石化が解除される際に対象の心身が損壊する可能性がある」
「そんな――それって治癒呪術で治せる?」
「体内から呪力が失われているから、下手をすると壊死したり、最悪アストラル体が石化したことによって手遅れになってるかも。そうしたら」
ハルベルトがちらりとマリーの方を見た。
アストラル体の損壊。単純な治癒呪術では実体の無いそれを修復することは難しい。下手に干渉して、哲学的ゾンビになってしまったら――。
「やっぱり、私が――」
「僕がやろうか?」
思いも寄らない申し出。
ガルズは私に魔導書を突きつけられたまま、感情が見えない声でそう提案した。
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