3-61 黒いアネモネの花言葉




「黒いアネモネの花言葉?」


 驚きの余り、思わず聞き返してしまった。

 その話題を振ってきたのが、意外な人物だったからということもある。


「そうだよ。知っているかな、アズーリア・ヘレゼクシュ」


 ガルズ・マウザ・クロウサーは目隠しをされ、両手を後ろでに縛られながらも平然と歩いている。真後ろにいるサリアが短剣で背中を軽く触れさせてもまるで動揺したところがない。


「一応、そのくらいは知ってる。儚い夢とか、薄れゆく希望とか、そういうのだったかな」


 やや自信が無い。こういうのはプリエステラの専門だ。

 地域や時代によって多少は異なるが、花言葉というのは古代に言語魔術師達が象徴性を固定してしまった呪文の一種である。概念原型が人類の深層意識そのものに浸透しているから、本質はどこへ行っても変わらない。

 呪文にもよく用いられるからとハルベルトに暗記するように言われている。

 昨夜も小試験があり、わからないところをこっそりプリエステラに教えて貰って一緒に怒られたものだ。


「それがどうかしたの?」


「いいや。ただそれはアネモネ全般の花言葉だよ。色ごとに違った花言葉があるんだ――スキリシアにしか咲かない黒いアネモネにもね」


 私は思わず呻きそうになって咄嗟に堪えた。

 自分の故郷に関する知識で負けるというのはまずい。

 それは確かに、夜の民じゃなくてもスキリシアを専門に研究している人には適わないかもしれないけど。


「だから何なの。知識をひけらかしたいの?」


「君がきちんと理解しているかどうか、確認しようと思ったんだ。その様子だと、半々といった所かな」


「理解って、何を?」


 ガルズの言うことは迂遠で思わせぶりなだけでよく分からない。

 怪訝に思って訊ねてみるが、薄い笑みを浮かべるばかりで反応が返ってこない。


「やめときなさい。どうせ言葉で撹乱して隙を作りたいだけなんだから。あんまり深入りすると誓約系の呪文に引っかかるよ」


 サリアの忠告はもっともだ。私はそれきりガルズの言葉には耳を貸さず、魔導書が生み出す照明光で前方を照らす作業に集中する。

 悪魔の九姉との死闘を終えて、私たちはガルズとマリーを連行しつつ坑道を進んでいた。

 浮遊する絨毯が戦いの中で失われてしまったので、足は拘束せず、目と腕を呪具で封じてサリアが背後から短剣を突きつけている。

 少しでも妙な真似をすれば確実に命は無い。

 そんな状況にも関わらず、何故かガルズとマリーは特に緊張した様子も無く、鼻歌交じりに二人でとりとめのない会話を続けていた。会話内容は、絵のモチーフがどうとか、人が死に逝く瞬間の美しさや儚さだとか、そういう物騒なんだか高尚なんだかよく分からない芸術のお話だった。

 私も小さな頃はビーチェと一緒になって家にある小物なんかを使ってコラージュ作品を作ったりしていたけれど、もうすっかりやらなくなってしまった。

 どちらかというと私は文芸寄りだ。

 今でも基礎物語類型を参照して自動生成された詩や物語を加工しては、文体模写と世界観のコラージュで私なりに編纂したお話を公開しているけれど、ああやって世界の一次的参照から作品を作れる人は凄いと思う。

 ――いや、だから敵を尊敬してどうするんだ私は。

 あとは引き渡して終わりとはいえ、妙な感情移入は良くない。

 気を取り直して現実的なことだけを考える。

 先行しているメイファーラたちは今どのあたりにいるだろうか。

 こちらは少人数とはいえ先程の戦闘で消耗している。ハルベルトの体力も限界に近いし、このあたりで休憩しないとまずいかもしれない。


「ハル、大丈夫?」


「――問題、ない」


 あ、駄目だこれ。

 生憎と疲労回復用の生命の水は手持ちにない。ミルーニャと合流できればいいのだが、今は休憩しかないだろう。【安らぎ】で誤魔化すのにも限界がある。

 幸い、サリアは休憩の提案を受け入れてくれた。

 手頃な岩に腰掛けて、水分と糖分を補給する。

 使い魔に命じてお菓子を出現させる。皆に振る舞うと大層好評だった。これしか能が無い使い魔だけれど、この点においてはこの上なく有能である。


「ひどいですー拷問ですー私もお菓子欲しいですー捕虜虐待ですー」


「マリー、耐えるんだ。生理的欲求など所詮は死の前ではまやかしでしかない」


 二人が何やら騒がしい。どうしたものかと悩んでいると、リーナがやってきておずおずと頼み込んできた。


「あのさ、ちょっとだけ分けてあげるのはだめ?」


「――別に悪いってこともないし、いいよね。どうぞ」


 私は飴玉をリーナに渡した。

 彼女は「ありがとう!」と笑顔を浮かべてガルズとマリーに近付き、「はい、あーんしてあーん」などと言いつつ飴玉を与える。


「はぁ、甘くておいひい。満足したのでこの最高の瞬間に死にたいですー」


「不思議な気分だよ。小さい頃は僕が飴玉をあげていたのに、今では逆だ」


 目隠しでガルズの金眼は隠されていたけれど、その口元には笑みが浮かんでいた。リーナは、それを見ながらそっと目を伏せた。


「ねえ、何であんな事をしたの?」


 おずおずと問いかける。

 仲の良い親戚が突如として豹変して――否、見た目上は全く変化が見られないにも関わらず、家族を惨殺して犯罪者になってしまった。

 そんな状況に置かれたリーナの気持ちは想像すらできないけれど――きっと訊ねずにはいられなかったのだろう。

 ガルズはしばしの間黙りこくっていた。ひょっとしたら、目隠しの中で目を瞑っていたかも知れない。

 やがて、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。


「そうだね。君には――君になら話してもいいかもしれない」


 ガルズはゆっくりと、しかしひどく熱を込めた口調で語り始める。

 おぞましい凶行を重ねて来たその理由を。

 けれどそれは、狂気ではなく理性と意思に基づいたものであるのだと、私たちは知ることになる。


「僕の目的は宣言した通り、クロウサー家とそれに関連した巨大企業や槍神教の要人たちを殺害することだ」


「どうしてそんなこと!」


「腐りきった地上の秩序を破壊する為だ」


 ガルズの主張は簡潔だった。

 そして、ひどくありきたりなものでもある。

 今まで存在した、そして恐らくこれからも存在するであろうテロリストの主張や目的と基本的にほとんど同じ。少し違うのは、その実行力が松明の騎士団の堅牢な警備をかいくぐるほどのものであること。

 そしてもう一つ。


「どうして、クロウサー家を狙うの?」


 リーナが悲しそうに問いかける。

 彼女もまたクロウサー家の人間だ。自分の家族や親族やその関係者を名指しで殺すと言われて気持ちが穏やかでいられるはずもない。

 ガルズは嘲りの色を含ませながら続ける。


「あれが腐敗の象徴だからだよ。抑圧と序列化と階層の固定。富を独占し末端の労働者から搾取を続け、労働の場を提供するインフラだと言って憚らない巨大企業群メガコーポの巨悪ども。政略結婚を繰り返すことで聖と俗の区別を問わずあらゆる場所に浸透し、政財界に深く食い込んだクロウサー家の毒は地上を汚染している。クロウサー家の闇を暴き、あの忌まわしい血族を浄化することが僕の使命だ」


 血統呪術というものがある。

 血にこそ力が宿ると信じるその呪術は、近親婚を繰り返して血の純化を図る【秩序派】と様々な血を取り込む事で呪的性質の多様性を確保できると考える【混沌派】に分かれるが、クロウサー家の血統呪術は【混沌派】である。

 そしてその考え方は政略結婚という戦略に合致していた。

 古代から血族を増やして影響力を増し続けてきたクロウサー家。

 確かに、地上の在り方に怒りを覚えたならばクロウサー家を敵視したとしてもおかしくはない。

 ガルズは四大血族の一つ、マウザの血族の長子だ。

 外側にいる誰よりもクロウサー家というものを知る機会に恵まれていた彼は、その内側に蠢く闇を直視してしまったのかもしれない。

 だとすれば、彼はクロウサー家の人間としてはあまりにも潔癖すぎたのだ。

 そう考えた私は、彼の独白を聞いて耳を疑った。


「これは復讐でもあるんだよ、リーナ。【骨組みの花】が壊滅したのはクロウサー家のせいだ。仲間たちを奴らに殺された僕は、正当な報復を行う」


 【骨組みの花】――ガルズが率いていた探索者集団。

 第六階層で大魔将イェレイドに挑み、ガルズを残して全滅したと言われている。

 死んだはずのマリーがどうして生存しているのかは不明だが――ガルズの動機は、そこにあるというのだろうか。


「いいかいリーナ。君も理解しているはずだよ。クロウサー家というのは呪いなんだ。血族という巨大な機械。自動的に動き続けるだけの怪物だ。感情はもちろん、知性や理性なども無いから、たとえ身内だろうと平気で圧殺しようとする。僕のようにね」


「待って! 待ってよ、ちゃんと話して。何言ってるのか全然わかんないよ」


「君も学生時代モラトリアムが終われば直面することになるだろう。血に飢えた血族同士の派閥争い。文字通り血で血を争う暗闘にね」


「暗闘、って」


 急に物騒な言葉を使われて、今ひとつ実感が湧かないという風にオウム返しにつぶやくリーナ。

 巨大な家ならばそういうこともあるのは納得できるが、リーナは今までそうした暗い部分から遠ざけられてきたのだろうか。


「リーナの場合は母胎としての性能を期待されているだろうから、君自身に災厄が降りかかることはそうそう無いだろうけど。何しろ覇王メクセトの血を取り込んだゾラの長子だ。水面下では君を手に入れるべく争いが始まっているはずだ」


「私、まだ結婚なんて」


「わかっているだろう。クロウサー家に身を置く限り、自由に結婚相手を選ぶ事なんてできないよ。君の母親とて優れた血を取り入れる為だけにアルタネイフの家に入った。そして用が済んだら別の血を宛がわれる。君の新しい父親はエジーメの血族の分家から選ばれたんだったね。いずれにせよ、無邪気に僕のお嫁さんになるなんて言っていられた時期は疾うに過ぎている」


「ちょっ、止めてよ馬鹿、言ってないっつーの!」


「ダメダメなガルズは死ねばいいですーそして私も後を追います」


 リーナとマリーに揃って蹴飛ばされたガルズが低く呻いた。

 割と痛かったらしい。


「――派閥争いは単純な親族同士だけのものじゃない。様々な世界に入り込んだクロウサー家の勢力争いは、その他の世界の勢力争いと等号で結ばれている。つまり、槍神教の、巨大企業群の、政界の――それぞれの思惑が絡み合った結果として発生するものだ」


「ガルズお兄――ガ、ガルズはそれに巻き込まれたってこと? 一体何があったっていうの?」


 ガルズはその問いに、笑みを深めた。

 目隠しごしでも、その金眼に呪力が漲ったのがわかる。

 ぞっとするような、それは激怒を内包した笑顔なのだと直観的に理解した。


「簡単だよ。死ねと命じられたのさ」


 何故だろう。

 嫌な感じがする。

 ガルズの言葉に、ひどく既知感を覚えそうになっている。


「槍神教と巨大企業群、そして各国を束ねる【連帯】は談合によって攻略速度を決定している。利益を最大化し、三者の間で分配する為にね。だが同時に相手を出し抜きたいと考えているのも確かだ。今までは槍神教には守護の九槍、巨大企業群には四英雄の一人グレンデルヒが、【連帯】には同じく四英雄の一人ユガーシャがいたためにある程度の均衡がとれていた。尤も、どこぞの三人組が好き勝手に振る舞うせいで大分頭を痛くしていたみたいだけれどね」


「悪い?」


「いいや、痛快だったとも。クロウサー家の暗殺部隊や闇の請負人たちを全て返り討ちにしてくれたことに関してはお礼を言いたいくらいだ」


 サリアに命を握られていながらもガルズの口調が明るいのは、好感を抱いているからかもしれない。

 そんなことを、少しだけ考えた。

 そして、その次のガルズの言葉で、私の嫌な予感は頂点に達する。


「まあ、幸い冬の魔女ご一行は無所属だ。将来的には槍神教のものになることが確定していても、『そういうもの』として無視してしまえば勢力感の均衡は崩れない。けれどある時、その均衡が僅かに崩れてしまった。槍神教側に、新しい英雄が増えてしまったんだよ」


 待って。

 お願い、ちょっと待って。


「槍神教内部でも混乱があったようだけれど、外部でも当然混乱が起きた。第五階層の順序正しい攻略。地図の作成、異獣の駆逐、精鋭種や固有種、第十五魔将エスフェイルの討伐権利。そういった予定が全て台無しだ。焦った諸勢力は功績を欲した。目に見えるだけの成果。新しい英雄が現れたのならこちらにも英雄を、というわけだ」


 話の流れはもう見えていた。

 でも、だとしたら、その原因は。


「そこで白羽の矢が立ったのが僕たち【骨組みの花】というわけだ。クロウサー家四大血族が一つ、マウザの長子が率いる四英雄に準ずる探索者集団。なるほど、順当ではあるだろうね。だが余りに無謀だ」


 第六階層は過去最悪の階層だと言われている。

 難攻不落とまで言われた第一階層の大迷宮や、掌握者たる魔将が二人いた第四階層の二重迷宮も悪質だったと聞いているけれど、第六階層の本当の危険性は攻略の最適化ができない所にある。

 複合種コンプレックス――そしてその上位種である狂怖種ホラーには、決まった性質が無い。全ての個体がばらばらで、効果的な対策方法などをその場その場で探り出していくしかできないのだ。

 その上、深部では迷宮そのものも常に変動していくので、不測の事態が発生しやすい。

 更には掌握者は大魔将である。その戦闘力は魔将とは一線を画する。

 かつて大魔将ズタークスタークが現れたときは、槍神教の精鋭と高位の探索者集団、そして【連帯】が送り込んだ各国合同の討伐部隊が壊滅したと聞いている。修道騎士の序列上位者が半数以上死亡し、九英雄は四英雄となってしまった。

 イェレイドはそんな怪物と同格なのである。

 まともに考えれば、勝てるはずがない。

 

「そう、無謀。だがそんなことは関係が無かった。他勢力が成果を上げた事による脊髄反射。巨大すぎる機構が自動的に、そして利己的に振る舞った結果としてその回答が導き出されてしまう。リーナ、君だってマウザ家の邪視の精髄である神託機械は知っているだろう」


「それって、歴代の当主の眼球を集積させて演算するっていう、あの呪術コンピュータだよね?」


 恐らくクロウサー家の機密なのだろう。

 何というか、不気味だと思った。眼球でできた機械が、ではない。それを延々と続けているマウザという血族がだ。


「マウザの血族はあの機械の奴隷だ。たかが眼球の集合体。下らない愚物どもの視座を寄せ集めただけの、無意味な死体の一部! その計算結果は『マウザの当主を英雄にする』というものだった。馬鹿馬鹿しいだろう? そんなのは歴代の当主たちの劣等感、ただの妄執に過ぎない。『我々はゾラに劣っている』というね」


「そんなの――!」


「そうだ、下らない。けどねリーナ。僕は君と仲良く遊んでいた頃から言い聞かされ続けてきたよ。ゾラには負けてはならない、とね。親の期待に応えるべく必死に努力したけれど、何をやってもまだだと言われた。サイリウス翁――君の曾祖父を超える傑物にならなければ意味がないのだと」


「で、でもサイリウスお爺さまは高位言語魔術師だよ? それにガルズはまだ若いのに、そんなすぐ結果を出すなんて」


「僕も同じ事を言ったよ。父は聞く耳を持ってくれなかったけれどね。親族たちも同じだった。内心では、僕が死ねば次期当主の座が空くと考えていたんだろう。マウザを衰退させたい者もいたはずだ。マウザの勢力を拡大したい者と衰退させたい者の利害が一致したんだ。笑えるじゃないか」


 ガルズは、実際に笑っていた。

 心からおかしくてしょうがない。あまりに愚かで笑うしかないのだと。


「愚かさの結果として僕たちは無謀な攻略に挑むことになった。全てを捨てて逃げられないように人質までとられていた。けれど僕たちは諦めなかったよ。確かに無謀だが、要するに勝てばいいんだろうと土壇場で奮い立った。魔将の首を獲ってしまえば僕たちも英雄になれる」


 派閥抗争の結果としての愚かな命令。

 無謀な任務。死の宣告に等しい命の浪費。

 どこかで聞いたような話だと、どうしても思ってしまう。

 極限の状況で、最も困難な道に光明を見出したところまで同じだ。


「その後は知っての通り。僕たちは負けた。あの恐ろしい大魔将に――ああ、思い出すのも忌まわしい。僕たちだって魔将と対峙した経験が無い訳じゃない。けれど、あれは違う。根本的に違うんだ。所詮は形態が違うだけで、異獣というラベルが張られただけの人類種である魔将なんかとは存在そのものが――」


 ガルズは恐慌をきたしたようにぶつぶつと呟きだしていた。

 がりっいう音がして、口の中の飴玉を噛み砕いたのだとわかった。

 呟きが途絶えて、彼は大きく息を吐く。


「僕は無様に生き残ってしまった。仲間たちとの未来よりも、マリーの命を優先したんだ。彼女は戦いで深く傷付き、錯乱していた。イェレイドの『本体』を直視して発狂してしまったリオンを、『端末』に掴まって狂怖ホラーに改造されてしまったギザンをマリーは楽にしてあげた。けれど誰よりも優しかったマリーは、仲間を手にかけた事を深く気に病んでしまったんだ」


 何かに取り憑かれたように言葉を連ねていく。独白はどんどん熱を増していく。

 その時の事を思い出しているのか、ガルズの呼吸が荒くなっていく。

 知らず、私の呼吸も同じように乱れていた。

 だって。

 だって、それは。


「僕はせめてもの慰めに、死霊を幻視して実体化させた。僕の『死』を見つめる忌まわしい邪視がマリーの心を慰める役に立てばと思ったんだ。浅はかな行動だったと思い知ったよ。僕は傲慢にも死者の言葉を代弁しようとして――かえってマリーの心を傷つけてしまった。僕の空虚な欺瞞はマリーを余計に追い詰めて、そして彼女は罪の意識に耐えきれず、自ら命を絶った」


 ――まるで、私の時の裏返しじゃないか。

 ガルズにはもう何もできない。束縛され、ただ絶望を吐露するだけだ。

 けれど、その言葉はまるで私の愚かさや浅はかさを糾弾する断罪の刃のようだった。彼の苦境の遠因を作ったのは私。そして、その結末はまるで私の正反対。

 英雄になれなかった男――その呼び名の、なんと残酷なことだろう。

 そして私の振る舞いの、なんと傲慢なことだろう。


「自殺しちゃったらしいのですーわーいわーい死こそ救済ですー」


 同じように束縛されながらも、マリーは終始朗らかだ。

 けれど、ガルズの言葉が正しければ彼女は死んでいる。見た目上は生きているようにしか見えないが、その事が示しているのはつまり。


「マリーの自殺方法はアストラル体の自傷――マリーは自らを苦しめている心だけを砕いたんだ。今のマリーはアストラル体や感覚質の存在しない哲学的ゾンビだ。杖的には生者と変わらないが、邪視や呪文の観点から見れば死者だよ。法的にも異獣と分類されている。大神院に捕まれば火葬処理されてしまうだろう」


「そんな――」


 リーナが口に手を当てて、無邪気に暗鬱な事を呟くマリーを見た。

 そうした感情も、きっとマリーには届かないのだろう。


「こんな風になってしまっても、マリーはマリーだよ。彼女が生きることが許されない地上なんて滅茶苦茶になってしまえばいい。そう思ったとして、それの何がいけないんだい? 誰も僕を責めることはできない。何故ならそう仕向けたのは地上だからだ――なんて、思っていたんだけれどね」


 熱っぽく語るガルズの口調が、次第に弱まっていった。

 力無く項垂れて、口元の笑みも消えて無くなる。


「笑ってくれよ。僕は弱い。復讐をする、地上を浄化すると息巻いておきながら、結局惨めに敗北するだけだ。何もできない。英雄になんてなれやしない」


 誰も、何も言わなかった。

 リーナでさえ、静かに嗚咽するガルズを見つめるだけ。

 ガルズの小さな嗚咽とマリーの鼻歌だけが暗い坑道に響き渡る。

 二人の姿を見て、私は。

 哀れみや同情よりも先に、ひどく浅ましい感情を抱いてしまった。

 それは安堵。

 私は勝利することができた。英雄と認められたのだという、安心。

 そのことに気がついて、私は自分がひどく汚い人間になってしまったような感覚に囚われた――いいや、元々私はそうだったのだ。

 それを、ガルズを見てしまったことで直視せざるをえなくなってしまった。

 不意に、怖くなった。

 シナモリ・アキラは生きている。聖女クナータの託宣――未来回想によってその生存は知らされている。

 けれど――彼は今、どんな感情を抱いているのだろうか。

 私はそれを知らない。

 カインを手にかけたことで錯乱したアキラに、私がフィリスを使ったあの時。

 彼が一時的に、どうにか戦えるだけの精神状態に戻れたのは確認した。けれど、本当のところはどうだったのか。そして、今はどうなのか。

 せめて彼の感じている負担が和らげられればと思ってささやかな注釈をつけたりもした。欺瞞を口にして慰めようと試みた。怒りや憎しみといった感情の矛先をエスフェイルに向けて悲しみを忘れるように誘導した。

 それは、本当に正しいことだったのだろうか?

 わからない。

 正解がわからない闇の中で、私は何度も自問し続ける。

 彼と話がしたいと強く思い、同時にそれを恐れている自分に気付く。

 問いかけたい。

 けれど、答えは聞きたくない。

 ――ねえ、貴方は今、何を思っているの?




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