3-60 死の囀り③
金鎖を砕き、左手を解放する。
意識を闇の中に沈み込ませる。敵の『歌』は何度も聞かされた。その度に絶望を味わったが、それだけ学習する時間があったということでもある。
相手の呪文に対する理解は充分。問題は、それをやらせてくれるかだが――。
カタルマリーナの口が開き、高らかに清澄な声が響いた。
何度聴いても思ってしまう。
これは人の歌声ではないと。
それは木々が風に揺れて葉が擦れ合う音だった。
それは寄せては返す波の音だった。
それは谷間を通り抜けていく冷たい風の音だった。
それは静かに降りしきる雨の音だった。
それは稲妻が走り、弾けるように燃え立つ炎の音だった。
川のせせらぎ。虫の鳴き声。鳥たちの歌。獣の咆哮。
それらが混ざり合い、調和し、一体となって一つの大きな流れを作り出す。
人が『歌』というものを体系化する以前の、原初の旋律。
それは自然界が生み出した、最も古い形の神々への頌歌。
古来、人は自然に神を見出し、神話を構築してきた。
その根源とも言える最古の『意味』が全くの無加工で投げ出されていく。これは無限の可能性を有する呪文の種なのだと私は知っている。
混沌とした自然界の環境音が、瞬時に秩序を与えられ、束ね上げられ、無数の順列組み合わせによって夥しい数の呪文となって侵攻を開始する。
全てが本命で、全てが偽装。
迫り来る呪文の嵐に、私は魔導書と影から呪術を吐き出して迎撃する。
無数の触手が呪文と激突しては消滅していく。
リーナが悲鳴を上げ、ガルズたちが衝撃によって弾き飛ばされた。
私の背後ではハルベルトが呪文を解放しそうになるが、私の制止でかろうじて踏みとどまって機会を待つ。
左手から伸ばした解体の触手は呪文の嵐の中を疾走し、『核』となる部分を探して彷徨う。そこに【静謐】をぶつければ相手には確実な隙ができる。ハルベルトの出番はその時だ。
カタルマリーナが歌い続ける呪文の幾つかが【静謐】としての形をとり、私のフィリスによる【静謐】を打ち消す為に活動を開始する。
私は影から引き出した触手を囮にしながら、魔導書で障壁を張りつつ前進。
撃ち漏らした【静謐】が私に襲いかかるが、その【静謐】を金色の輝きが貫く。
ガルズが邪視を発動させて【静謐】を打ち消したのだ。
邪視による打ち消し。系統こそ異なるが、あれもまた別種の【静謐】に違いない。それはガルズが紛れもない高位呪術師であることを意味していた。
打ち消しの呪術が吹き荒れる嵐の中を、私は必死に進んでいく。
鎧に包まれた足が重い。
未来から襲いかかる歌と今現在響いている歌、更には過去からの歌声が重なり合い、三重になって増幅された呪力の波が私の全身を絶え間なく責め立てる。常時【空圧】を浴びているような息苦しさだった。
それでも私は前進する。
ここで折れれば全てが終わってしまう。
杖から拘束帯を放出し、カタルマリーナに伸ばす。喉を狙ったそれは弾かれてしまうが、狙いはその後ろ。
ガルズが回り込ませていた暗雲と墓石に巻き付けた光の帯を、一気に引っ張る。
背後から襲いかかった衝撃にカタルマリーナがよろめき、一瞬だけ呪文の嵐が弱まった。
好機。
私は左手に強く念じた。【静謐】が呪文嵐の中心らしきものを見つけ出し、非実体の触手を伸ばすと一気に解体する。
これで呪文嵐を全て打ち消せば、ハルベルトの極大呪文で一気に勝負を決められる。そう思ったその瞬間だった。
「嘘、なにこれ」
左手で解体したと思った呪文嵐の『核』が、爆発して私の全身に拘束帯を巻き付ける。意趣返しのつもりか、私が杖から放っていた光る拘束帯と全く同じ呪術だった。しかしその強度は段違いだ。
「【
リーナが呆然と呟いた。
彼女の言うとおり、私はまんまとカタルマリーナの策に嵌っていた。
話によるとこのカタルマリーナは記憶とか残響みたいなものでまともな知性は無いらしいが、無意識のまま戦っているとは信じがたい狡猾さだった。
だが、必ずしも手詰まりというわけではない。
こういう状況もあり得るだろう、と予想していた私はあらかじめ保険をかけておいたのだ。影を介して、私はもう一人の私に呼びかける。
「【静謐】に【静謐】をぶつけてくるなら、こっちは【陥穽】に【陥穽】!!」
カタルマリーナの背後から黒衣を纏った私の分身が姿を現し、無数の触手で彼女を絡め取った。
天眼の民の錬金術師メイエルの箴言にこんなものがある。『落とし穴なんて、大抵は掘った奴が労力の分だけ損をする』――対抗策の対抗策を編みだして、更にその対抗策を――という不毛な浪費を避ける為に、対抗呪文使いは相手の力量を正確に見切って必要十分な対策を考えておくことが必要になる。
私はあらかじめ自分の影の一部を切り離して待機させていた。その分だけ減少した私の呪力総量を見たカタルマリーナは、私の実力を見誤ったのだ。
本来、分裂は自らを弱体化させるだけの行為だ。
昼間なら自殺行為だし、夜だったとしても『私』という個我を危うくしかねない危険な試み。精神が未熟な幼少期や衰えた老年期ならまだしも、年若い私がするべきことではない。
けれど、今の私は無数の戦闘経験があり――なにより、その度に接触していた私の守護天使によって呪力の総量が無尽蔵なまでに膨れあがっている。
頼りすぎればサリアの忠告した通り飲み込まれかねない力だが――今はこの力に頼るしかない。
ぞくりと全身を貫く震え。
影から呪力を汲み上げるたび、肉体が変質していくのを感じる。
切り離した私の一部が無数の触手を使ってカタルマリーナを拘束するのを見ながら、私は思い出していく。
ああ、そうだ。
私は縛る者であっても、縛られる者ではない。
いかに彼女が最高位の言語魔術師であったとしても、こと
この程度の【陥穽】では、私を縛ることはできない。
私は窮屈な甲冑の隙間から這いだしていく。
無数の黒い繊維質がざわざわと関節部や兜の隙間から出て行くと、細い繊維が依り合わさって幾本もの触手へと束ねられていく。『私たち』は逆に【陥穽】を束縛するとそのまま内側に取り込んだ。
呪力を取り込み、喰らい尽くす。
青い翼を広げ、触手の一部を硬質化させて角にする。
蠢く触手たちの中心から無彩色の左手を突き出して、私は影から咲き誇る異形の花となって呪文嵐の中を進む。
襲いかかる呪文を触手で引き裂き、逆に触手を引き裂かれながらも私は本物の【核】を見つけた。
蠢き続ける触手の中から牡鹿と牝鹿、そして霊長類体の私の頭部が三つせり出して、フィリスを中心として鳴き声を上げる。甲高い詠唱。
「サカノボッテ、フィリス」
無数の影が屹立し、夜闇の中で輪を描くように大小様々な触手が動き続ける。
私は踊る。
蠢き、脈動し、蠕動し、這いずって、あらゆるものを拘束する。
あらゆる呪文が繋ぎ止められ、関連づけされていく。
私は中心である【核】から連鎖的に結びつけられた呪文嵐の総体を捉え、一気に解体を行う。
「ゲンリノヨウセイカタリテイワク」
わたしたちは口々に輪唱していく。牡鹿の私が、牝鹿の私が、霊長類の私が、その総数を私すら把握できない数の触手である私たちが。
呪文を唱える。教えられたとおりに。学習したとおりに。
摸倣こそが私の生態だから。
お師様とそのお師様の呪文を正確に複製して、理解して、解体する。
影の触手は嵐となって空間を蹂躙し、広がった青い翼が巨大化して月光の呪力を効率よく吸収する。
月と影から無尽蔵に供給される呪力でもって、【死の囀り】の『歌』を解体していく。ばらばらにしていく。ぐるぐると触手で引き千切る。
身体の中心にある左腕が盛り上がり、膨らんだ闇の塊が沸騰するかのように泡立っていく。色のない左腕の輪郭が曖昧になり、無数の泡となって散らばる。
ぱちぱちと弾ける度に、中から小さな私が出現する。
極小の触手を束ねて作ったそれは、影の海に咲いたアネモネ。
色の無い、黒花翁草。
夜風に運ばれていく夢幻泡影の種子。
泡が弾けて生まれていく、儚くゆらぎ続ける仮想の命。
黒いそよ風が吹いて泡が弾けるたび、小さな触手が飛び上がって増え続ける。
私たちは解体する。
目の前にある全ての呪文を解体する。
過去の私が命じた通りに実行する。
難しいことは考えられないけど、そのようにプログラムされたから後は言うとおりにして母体に回帰していくだけ。
ひとつになればすぐに元通り。頭が良くなってどうすればいいのかちゃんとわかる。やることはひとつ。解体すること。
ばらばらにして、ばらばらにして、解き明かして解き明かして構造を理解して把握して全容を解明してこの単純な肉体構造でも摸倣できるくらいに緻密に再解釈して再現を実行していく。
『一番最初の幹』に触れるまで、ずっと忘れていた。
私たちは霊長類の『代理親』を参照して変身形態を記録するから――私の場合はずっとビーチェの『家族』としての個我を自らに与えていたから、自分の本当の機能を制限してしまっていたのだ。
私たちは、本当はこんなにも自由なのに。
指とか足とか、不器用で杖に向かないとか、考えてみれば当たり前だ。
あんなにも不自由な肉の身体で、一体どうやって器用さを発揮しろと言うのか。
私たちにとってはそちらの方がよほど不思議。
呪文嵐を綺麗に飲み込むと、影から触手を一本だけ伸ばしてハルベルトに合図を送る。
何故かびくりと身体を震わせた彼女は、どうにか詠唱を完了させて私に拘束されたカタルマリーナの亡霊に狙いを定めた。
私を見て、一瞬だけ躊躇う。
それでもハルベルトは千載一遇の機会を見逃すことはしなかった。
「【
詠唱時間に応じてその規模が膨れあがっていく極大呪文が、ついにその枷を解き放たれた。
ハルベルトが構築した呪文竜は絶えずその姿を変幻させながら長くのたうち、しつこく過去から響いてくる呪文嵐をものともせずに夜闇を引き裂いて高く舞い上がった。
月光を背にしながらその大きな顎を開くと、カタルマリーナを噛み砕かんと呪文で構成された牙を突き立てる。
私の一部が膨大な呪文によって殲滅されていく。凄まじい痛みに耐えかねて、私を切り離した。経験した記憶が消失してしまったが仕方が無い。
防御障壁が容易く破砕され、対抗呪文を唱える余裕すら無いままに、カタルマリーナは極大呪文の直撃を受けて全身を崩壊させていった。
役目を終えた呪文竜が姿を消していくが、その時だった。
消えゆくカタルマリーナの口が微かに動き、末期の呪文が発動する。
【断末魔】の呪文。死に際に発動し、敵を道連れにしていくその即死呪術がガルズに襲いかかる。
咄嗟に彼の前に出たのはマリーだった。
仲間を庇おうとした彼女を見た私は――
「フィリス」
自分でも理由がわからないままに、【断末魔】の呪文を打ち消していた。
信じられないものを見るような視線が複数向けられて、私は思わず触手を小さく引っ込めてしまう。しょんぼりとしてしまって、翼が畳まれていく。
わかってる。私は馬鹿だ。
ガルズの浄界が解除されていき、夜が終わっていく。呼び出された死人たちも暗雲の墓石に帰って行く。
ガルズには負傷した様子が無い。マリーも失われた片腕をいつの間にか復元していた。私は用心深く二人を監視しながら、サリアの様子を窺う。
サリアの戦いもまた終了しているようだった。
影の鎧を装備した彼女は、私と同じ様に月夜に力を増す。
それでも激しい死闘を演じたようだったが、【白焔】ビークレットは全身を無数の槍で貫かれた挙げ句、二振りの短剣で喉と心臓を抉られて絶命していた。
その輪郭が曖昧になり、白い炎が吹き上がって自爆しようとしたが、
「凍れ」
という一言で全身が凍り付き、次の瞬間には粉々に砕け散った。
きらきらと氷の粒が輝き、やがてそれも霧散していく。
戦いは完全に終わった。
私たちの勝利だ。
ガルズたちは隙を窺っていた様だが――カタルマリーナとの戦闘中、既に私は二人の影に触手を巻き付かせていた。
アストラル体の動きが妨げられている上に、サリアまでほぼ無傷で戦闘を終えている。この状況での抵抗を無駄と悟ったか、ガルズは溜息を吐いて両手を挙げた。
「お手上げだ。まさか英雄様がここまで【始祖】に近い怪物とは思わなかったよ。これは正攻法ではどうやっても勝てないな」
「ダメダメでしたー。以前みんなでロードヴァンパイアとかリュカオンとかレイスとかに遭遇した時も全部逃げてましたしー。そもそも人間が勝てる相手じゃないんですよー」
今は異獣に堕ちてしまった夜の民の他の氏族たち――その中でも強力な個体は確かにそのように呼ばれていて、他の種族と比べても非常に恐れられている。
私が『そう』であるかどうかについて――正直あまり実感が無いけれど、『本体』の話では私はプリエステラやクナータと同じらしい。
ということはやっぱり私は上位種――それも精鋭種を超えた固有種というやつらしい。驚きの新事実である。
なるほど。
先程からやたらと視線を集めているのはそのせいかもしれない。
と、リーナが倒れたまま動けないでいるのに気付いた。
私はうにょうにょとうねる触手を差し伸べて尻餅を着いたリーナを引っ張ろうとした。この状態でも腰と足が地面から僅かに浮いているのがちょっと面白かった。
「嫌っ」
――おや?
リーナが、紛れもない恐怖の感情を顔に浮かべている。
どうしたんだろう。
もうここには脅威が存在しないというのに、一体何がそんなに怖いというのか。
「あ、その、違うの、えっと」
リーナは慌てたように取り繕おうとするのを、ガルズがおかしそうに嗤う。
ハルベルトが私に近付こうとするが、一歩だけ足を踏み出して、それきりその場から動けなくなってしまった。
ふと、記憶に甦る声があった。
幼い頃の教え。妹と長老様が何度も言い聞かせてくれた『躾け』だ。
『いいですか、小さなアズーリア。外に出たら、私のように霊長類の真似をしなければいけませんよ。変身に疲れたら、全身を黒衣で覆い隠すのです』
『このように、地上では基本的に霊長類の摸倣をして無用な軋轢を生まぬようにするという取り決めがなされたのですな。これにより我々夜の民は地上で生きることができているわけです。こらこら、年寄りの退屈な話とはいえ、これはきちんと覚えないと駄目ですよ。変身が村で一番上手だからといって、気を抜いてはいけませんよ。感覚ではなく知識として覚えるのです』
「あ」
やっちゃった。
ここがあんまりにも夜のようだから――極限の状態、始祖に触れた恍惚、その他色々な要因があるけれど、一番大きいのは私の油断。
まるで自宅でするように、もの凄く自由に振る舞ってしまった。
周囲はみんな引いている。
どうしよう、とうねうねしていると、かつかつと足早にサリアが近付いてくる。
彼女は私の触手をぎりぎりと抓ると、
「アストラル体拡散させすぎ太らせすぎ。だらしないからさっさと黒衣に仕舞いなさい。ほら触手は影に引っ込める。イソギンチャク料理にして喰ってやろうか」
「やー! 痛い痛い、私おいしくないよ!」
「でしょうね。私もこんな下手物食いはちょっと勘弁だわ」
「ひーどーいー!」
彼女に言われたとおり、私は黒衣を心の抽斗から取り出して身に纏う。
途端、黒衣に合わせて縮んでいく私の体躯。
鎧は【陥穽】ごと食い尽くしてしまったので存在しない。
しまった、借りてるだけだから賠償しないといけない。
「うう、サリアの買い物に付き合った上に鎧の賠償まで。私のお財布が」
「はいそこグダグダ文句言わないの。いいから行くよ」
サリアは私を引き摺りつつガルズとマリーを拘束していく。
彼女は先程の激闘が嘘だったかのように振る舞いながら、遠巻きにこちらの様子を窺っていたハルベルトとリーナに声をかけた。
「ほら、しっかり引き取ってよ。【チョコレートリリー】なんでしょう」
サリアの声が、少しだけ鋭さを帯びた。
それを聞いて弾かれたようにハルベルトが走り出した。
私の黒衣にしがみつき、ぎゅっと左手を握る。その感触を確かめるように。
私は無言で握り返す。ハルベルトはほっと息を吐いて私に縋り付いてきた。
リーナはまだ遠巻きに見ているだけだったが、小さく「ごめんね」とだけ言って私たちの歩みに加わった。
私はガルズに目隠しをしているサリアを見た。
「何?」
「ありがとね」
それは、色々な意味が込められた感謝の言葉だった。
サリアはずっと私を助けてくれた。
特に最後のは、ちょっとしたことだけれど、この上なく私の気持ちを救ってくれた。実のところ、今回一番嬉しかったのはこの事かも知れない。
「そうねー、ちょっと働きすぎたし、これは追加報酬が欲しい所ね」
「う、私のお財布が空にならない程度で許して下さい」
「さーて、どうしようかな」
気安く言葉を交わし合う私たちに向けられるハルベルトたちの不審な視線。しまった、急に仲良くなりすぎた。いやでも、窮地を共に乗り切った仲ということでここは一つ納得していただきたい。
そんな私に向けられる視線が、もう一つ。
目隠しをされる直前。
金色の視線が、じっと私を観察していた事も、それが私の命取りになることも、その時の私はまだ気付いていなかった。
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