3-54 チョコレートリリー④
二重スリット実験。
それは呪術の基礎的な実験であると同時に、その実験を行った者の呪術適性、資質の傾向を測る為の検査でもある。
それは、この実験で得られる結果が、行った者の適性によって変動するという特異なものであることに由来する。
設置された台座が小規模な【窒息】の呪術を発動させ、その内部を真空状態にする。あらゆる電磁波が遮断され、闇が台座を覆った。これは厳密さを重んじる杖の呪術師にとっては必要な措置なのだという。
被験者は電子銃と呼ばれる杖を手にして、電子線を収束させて照射する。
それが世界に与える影響はごく小規模であるため、銃士でなくとも使用することが可能である。
まず、継続して放出された電子は仕切りとなる二つのスリットを通り、その向こう側に置かれた写真乾板に到達する。かつては写真術による呪殺に使用されていた感光材料だが、当然人を写せないように安全対策が施されたものだ。
実験が終わり、闇が晴れる。
果たして、二本のスリットを通過した電子は、写真乾板を感光させて濃淡の縞模様を作っていた。
「はいはい、あたし知ってます。電子って波の性質を持ってるんだよね。だから二つのスリットを通った波が干渉し合って当たる場所にむらができるんだ」
感光材料に生まれた干渉縞は、二つの入り口から出てきた電子が波となってぶつかり合った結果だとメイファーラは言った。私は映像でしか海を見たことが無いけれど、砂浜や岩壁に寄せては返す波は文字通りの『波形』を描く。緩やかな弧が重なり合い、岩壁はでこぼこに削れていく。波が均一に押し寄せる事は無い。それが互いに干渉し合えばなおさらだ。
「メイファーラさんはそう思うんですね。では、今度は電子を一個ずつ発射したらどうなると思いますか?」
「え? それは、一個ずつ発射するのを繰り返すってことだよね? そしたら干渉し合わないから、縞模様はできないんじゃないの?」
「では、実際に試して見て下さい」
ミルーニャに促されるまま、新たな写真乾板に電子銃を向けるメイファーラ。
結果は、
「ほら、やっぱり」
――メイファーラの言った通りだった。
直感的に私も同意していた。波の性質を持っているから干渉し合って縞模様を作る。なら、電子を一個ずつ、片方のスリットを通して干渉しないように放射すれば、干渉縞はできない理屈となる。
「でしょうね。直感的な世界観が現実に作用する――貴方は典型的な邪視者です。メイファーラさん」
「ほえ?」
「杖使いのミルーニャが同じ事をすると、こうなるのです」
ミルーニャはゆっくりと時間をかけて、単発の電子を感光板に発射していった。
メイファーラは首を傾げた。
今度はメイファーラの時とは異なる実験結果が得られたのである。
すなわち、干渉縞が生じているのだった。
「これってどういうこと? 一個ずつしか電子を発射してないんだよね? なのに縞模様が出来るの? じゃあこの電子は何と干渉して波みたいに動いたの?」
「あ、ちなみに私がやるとメイファーラちゃんみたいになりました」
というのはリーナの発言。邪視や呪文の能力に秀でた空の民らしい結果だ。
ちなみに、プリエステラが行うと電子が写真乾板に到達しているにも関わらず感光しないという奇妙な結果が生まれた。
素朴な自然崇拝の信仰心がこのような結果を引き起こすらしい。珍しい結果だとミルーニャも感心していた。
「まあ、リーナの方は直感だけで生きてる馬鹿大学生らしい結果ですね」
「なんだとー!」
憤慨するリーナの頭を押さえつつ、ミルーニャは静かに言葉を続ける。
「この実験結果から、私たち杖使いは『広がった空間の確率分布を支配する何か』の存在を仮定しました。波動関数を仮定し、外部環境からの未知の熱ゆらぎなどを疑い、多世界――これは一般的な意味での異世界ではなく、この世界が無数の可能性に分岐していくという『仮定』です――との干渉を想定しました。ですが、現代呪術で一番有力な説はひとつ。それが――」
「
私が思わず呟くと、ミルーニャはこくりと頷いた。
「はい、その通りですアズーリア様。邪視者の中にはそれを世界のゆらぎ、空間の歪みや流れであると説明している人もいます。杖使いの中には、杖的な手法では間接的にしか干渉できないこの『何か』を
当たり前の事を言うようだが――この世界には呪術が存在する。
情報を媒介する摸倣子と、その運動である呪力によって発生する神秘現象。
けれど、その扱い方は個人によって様々に異なる。
邪視、呪文、使い魔、杖。あらゆる人は、おおまかに四大系統のどれかもしくは複数に適性を持つ。
「えっと、導波理論みたいな古典呪術観は局所的理論の否定で成立しなくなったって講義では言ってたけど」
「なに馬鹿なこと言ってるんですかリーナ。
ミルーニャは何故かうんざりした表情だった。ハルベルトもまた小さく溜息を吐いている。どうしたんだろう。
「ただし、高位呪術――たとえば【静謐】ですね――によって離れた場所にある物体間の因果関係が光速を超えて伝わる時、それはあたかも時間を『遡って』世界に干渉しているように見えます。対抗呪文が事象を打ち消す時に遡及改変されるエネルギーの量とその閾値についてはめんどくさくなるのでまた今度説明しますけど――とにかく、確率的なふるまいの裏には確固とした存在がある。これが現代呪術の基本です。ま、私個人としては正直賛同しかねますけど」
私は思わず自分の左手を見た。
――遡って、フィリス。
対抗呪文【静謐】。その発動の起句を思い出したのだ。
寄生異獣を活性化させる文言は心の中から自然に湧き上がってくる。
それはその寄生異獣にとって最もふさわしい文言なのだと聞いているけれど――これは、何を意味しているのだろうか。
ハルベルトがミルーニャの言葉を補足するようにして口を開く。
「世界のゆらぎ。構造への共時的な
確かに、聞き覚えがある。
あれは確か、ラーゼフが説明してくれたフィリスの特性。
私だけではなく、世界そのものを浸食する原初の魔将。
ラーゼフはそれをメタテクストの改変と表現していた。
今この時、この場所で語られている出来事とは離れた時間と場所を参照する、事象の
ええっと、確か――間テクスト性、だったっけ。
そこで気付いた。
今、ミルーニャは世界の在り方を
そして、ラーゼフはきっと同じ事を
おそらくは、同様に
この世界には色々な視座、視野、視点が存在する。
邪視者は己の意思を世界に押しつけて事象を改変するし、呪文使いは過去の事象を解体して異なる解釈を汲み上げ、新たな物語として再構成する。使い魔を支配する者は己と他者の関係性から世界を規定し、杖使いはあるがままの世界で生きようとする。そうした様々な『世界観』が相互に影響を及ぼし合ってゆらぎ続ける。
「ゆらぎの神話――ハルたちはこのゆらぎを持った世界観をそう呼んでいる」
その言葉は、どこか深い響きを伴って私の中に浸透していった。
ミルーニャが厳かに言葉を継いだ。
「そして、全く同時に世界の構造そのものを改変するフィリスは、世界が常に参照し続けているアカシックレコード――この宇宙の全存在を貫く紀元槍の
「フィリスが、制御盤?」
「ええ、その一つ――例えば、世界の死を引き延ばし続けているコールドスリープ装置や、無数の神話や伝承から核心を抽出して射出成形する機械のような」
ミルーニャの言うことはよく分からなかったが、彼女が私の左手に宿る正体不明の存在について説明しようとしてくれているのはわかった。
これは特別なものだとラーゼフは言った。
けれどミルーニャの口ぶりだと、これと似たようなものが他にも存在するように聞こえる。
「紀元槍って何?」
メイファーラやプリエステラが不思議そうに問いかける。
ミルーニャは何故か私に向かってする時とは違ってわかりやすく説明していた。
「要するに、この世界そのものが一つの巨大な世界槍内部に構築された世界なのではないか、ということです」
「この世界が、私やみんなが住んでるパレルノ山みたいなものだってこと?」
「ええ。別にそう突飛な発想ではないでしょう?」
確かに――内側に改変可能な世界を内包する、より大きな世界が世界槍だ。ならばその外側にあるここが更に巨大な世界槍だとしてもおかしくない。あるいは、更にその外側、また更に外側と無限に拡張していくことも可能だ。
外世界――平行世界や上位世界、その更に外。それらを包括する更なる外部。
それは無限に仮定できる。あまりにスケールが大きすぎて、眩暈がしそうなほどに。
考えても仕方無いのはわかっているけれど――なんだか少しだけ怖かった。
ハルベルトは静かに私に囁いた。
「杖的な量子力学を破壊し、否定するもの。古典物理の延長である現代呪術理論では、二重スリット実験の結果を
私という夜の民を形作っているのも、呪力であり摸倣子である。
いまここで、『私』という情報を記述している誰かがいるとすれば、そうして生成された情報によって私は構築されているのだろう。
槍神教はそれを神や天使であるとしており、呪術師達はそれはありとあらゆる人々の視座であると説明する。
ありとあらゆる人々――つまりは内外の異世界、上下の異次元。
自分は誰かに創造された架空の存在かも知れない。
この世界は上位の世界によって生み出された箱庭かもしれない。
果てのない問い。
終わりのない恐怖。
だからこそ、地上の人々は絶対的な上位者を上限と定めて安心するのだ。
槍神が全ての始まり。
かの神から全てが流出し創造され形成されて活動を始めたのだと。
邪視者を始めとした我の強い人達は、自分を決定するのは自分だと言うに違いない。だからこそ、自分の意思で世界を改変できるのだ。
古い多神教の時代、高位の邪視者達が神族と呼ばれていたのはそれ故である。
「記述された情報は世界槍あるいは紀元槍の内側で事象を改変し、場合によっては人間ひとりを丸ごと情報的に再現して『転生』や『転移』といった現象すら引き起こせてしまう」
お師様は、私をまっすぐに見ながら言った。
瞳の強さで、奥の奥まで貫かれる。
最初に助けて貰った時の、綺麗な佇まいを思い出した。
「この時に外世界から特有の摸倣子が持ち込まれることがあり、こうした特有の因子を持つものたちを
「あっ、はいはい! それ私も持ってるよ!」
意外な事に、リーナが反応した。
けれど、考えてみればおかしな事ではない。ガルズ・マウザ・クロウサーはトライデントの使い魔だ。つまりはグロソラリアである。
ならば、同じクロウサー家の血を引くリーナもまたグロソラリアであるということになる。
「なんかねー、始祖が転生者だったらしーよ。代を経るたびに色んな血を取り入れまくったから、色んな内世界の因子も入ってて――ごちゃ混ぜなグロソラリアなんだって聞いたことある」
ふと、考えてしまった。
なら、リーナもまた末妹候補の使い魔となる資格を持っていることになる。
得意げな表情をする彼女の頬を、ぎゅううっとミルーニャがつねり上げた。
「リーナは異質性を持ってるんじゃなくて馬鹿過ぎて浮いてるだけです」
「いひゃい! 何するの!」
途端に始まる枕での叩き合い。ミルーニャの枕とリーナの枕が激突する。
メイファーラとプリエステラが囃し立て、私もちょっとうずうずとし始めるが、そこでハルベルトの咳払い。
私は居住まいを正した。
「話を続けるけど。四魔女――ハルたち末妹候補は、全員が紀元槍に関わる目的を持っている。傍らに異質な使い魔を置くのは、独特な世界観によって常にその在り方を問われ続け、否定的な世界の視線に晒されながら己の呪術を鍛えていくため。そうやって、呪術師の悲願である紀元槍への到達を為し遂げようとしているの。この際だから、四魔女の目的を説明しておく」
ハルベルトは布団の上で足を崩し、何故か枕を抱きしめながら言葉を続けた。それにしても仕草が可愛い。
「ハルの故郷である第四衛星、
紀元槍への到達。それこそが紀神キュトス、その引き裂かれた断片たる七十一番目――未知なる末妹になる方法だとハルベルトは語る。
「紀元槍に到達した者は世界を更新する権利を得る――ううん、世界を更新することができた者が紀元槍に到達する権利を得るというのが正しいかも。二つは同じ事だから」
ハルベルトが言うには、紀元槍に到達すれば、フィリスのような小さな制御盤で行うような限定的な世界改変とは比較にならない規模で世界を『更新』できるのだという。
パレルノ山に起きようとしている世界の更新。
紀元槍に到達するとは、それをこの世界全てに発生させるということだ。
「邪視の座は伝承をなぞり、迷宮攻略と竜退治によって神話を再生する。世界法則の表象である竜を打ち倒すことで世界そのものを破壊し、改変する。遊びと演劇という呪術的ふるまいになぞらえた、
それが邪視の座――つまり冬の魔女コルセスカの目的らしい。
かの英雄が火竜退治を目的としていることは周知の事実だ。まさかそれが世界の更新に繋がるなんて思っても見なかったけれど。
「杖の座は人類という枠組みそのものを変容させ、世界と対峙する人の在り方それ自体を更新する。
ミルーニャは、それを全人類の不死という方法で為し遂げようとしていた。
彼女は杖の座としては二番手だったらしいけれど、正規の候補であるというきぐるみの魔女は一体どんな方法で人間という枠組みを変容させるつもりなんだろう。
そこで私は、宿主を浸食する寄生異獣という技術が、人間を変容させるという目的に適っていることに気がつく。
もしかすると、杖の座の候補者はミルーニャよりもずっと恐ろしいたくらみを持っているのではないか――漠然とした不安が胸の内に広がった。
そんな私には構わず、ハルベルトの説明が続く。
「使い魔の座は――残念ながら、ハルの権限ではその情報にアクセスできなかった。星見の塔における最高機密。九姉評議会だけしか閲覧できない情報だと推測される」
使い魔の座――トライデント。そしてガルズ・マウザ・クロウサーとマリー。
あの二人と対峙すれば、その目的も明らかになるのだろうか。
「そして呪文の座――ハルの目的は、絶対言語の再生。引き裂かれた世界の言葉、混沌の坩堝に叩き落とされた人類に秩序を取り戻し、大いなる調和をもたらす」
「絶対言語?」
またしても私は首を傾げる。
なんだっけそれ。
習ったことがあるような、ないような。
なんとなく、ハルベルトと同じように枕を抱えてみる。彼女と同じ立場に立てば記憶の底から習ったはずの事柄が浮かび上がってくるのではないだろうか――。
駄目だ。思い出せない。未知の言葉かもしれない。
「絶対言語とは非線形的な言語。【心話】や【静謐】はそれを限定的に実現しているけれど、完全ではない。言葉――そして呪文は四大系統で最も遅い呪術と言われているのはなぜか。答えられる、アズ」
「えっと、呪文詠唱をしなければならないからですよね。見ただけで発動する邪視なんかに比べると圧倒的に発動が遅れてしまうから――」
「五十点。正解だけどそれだけだと不十分。より厳密には、言語が言語であるがゆえに宿命的に有してしまう『差延』が原因」
「さえん?」
訊いてしまったのが間違いの元だった。
私の耳に情報が雪崩を打って襲いかかる。
何故か異界言語である英語を交えて開陳された情報の群れを、私はほとんど認識できなかった。
というか長大な呪文詠唱かと思った。
よりにもよって端末に文字情報として送られてきたので、私はそれをほとんど流し読みというか読み飛ばした。
繰り返すが読み飛ばした。
読み飛ばしたんだってば。
「言語というのは差異の構造であり時間的な属性を持つ。あまねく言語は線形の時間的秩序によって解釈される――というより、そのように構築されている。言語に於いてある語が何かを意味する時、その語は意味されているものの代理として現前する。リプレゼント、代理し代表し表象するということは、直接にはプレゼント、現前しないものを現前させるということだから。たとえばre-という接頭辞が参照しているもの。参照は過去への指向性を持つ。AはAであるという時、これらは同じであると同時に概念的には別のもの。二重化され、自分自身において非同一性を有する。言語構造の中で記号は他との関係を必要とし、差異化の運動の中では必ず『ずれ』と『遅れ』が発生する。言語/意味とは連関の中の差異であり、関係性との差異化の側面で『ずれ』として、時間との差異化の側面で『遅れ』として、それぞれ不可避の表出を見る。デリダによれば、『意識に直接与えられた純粋な現在』などは無く、不在の過去と現在とを引き裂きつつ関連付ける差異、記号参照において孕まれる遅れとずれとしての痕跡の働きこそが我々が行う運動の正体であり、それを差延と呼ぶのだという。ハイデガーの存在論的差異も参照。存在論的差異や存在は現存在からある意味で派生するものであり、現存在に先立たれている。それに対して差延は存在や現存在に先立ち、時間を蓄積させている。差延は何らかの存在や存在者や主体の作用ではない。そのような主体などの、主語になりうるようなものを成立させ、そのようなものに先立つ。遅れという差異が過去遡及的に過去に先立って過去を成立させる。構造的な遅さそのものが全体の構造として組み込まれた、それは遡及的な早さであるとも言える。観念的な『透明でずれも遅れもない関係=直接性』こそが『紀』であり『絶対言語』であり『非線形言語』。ハルの目的は言語が宿命的に有する不可能性を超越し、言語を超えた言語を完成させること。つまりそれが【絶対言語】」
メイファーラは「きゅう」と可愛らしく鳴きながら目を回し、リーナは途中から話を聞くのをやめて端末を弄り出し、エストはミルーニャにこっそりと「ねえ、ハルは頭がおかしくなっちゃったの?」と耳打ちをしていた。多分話について行けていたのはミルーニャだけだと思われる。
ええっと、私はその。
ミルーニャが眉をひくつかせながら深く溜息を吐いて一言。
「――まあ、そのデリダとかハイデガーとかは良く知りませんけど。呪術っていうのは摸倣子が伝播する意味を呪力として扱う技術です。それを言語によって為そうとすれば、言語が持つ性質のために知覚とか関係性とか身体性みたいな直接的に意味を扱う系統よりも遅くなってしまう、というお話ですね」
「あ、かろうじてついて行ける」
「それなら良かったです。現代では兎さんたちが
言震――それは、現代でもまれに起こりうる大規模な災厄である。
人が用いる言葉が衝突し、意思が混沌に飲み込まれ、あらゆる物質とアストラル体が呪波汚染に曝される。
相互理解は失敗し、決定的な断絶によって不毛な戦争が引き起こされる。
記録に残っている中で最大の言震は、天地を引き裂き、地上と地獄を分かつ大戦争の切っ掛けとなったのだと言われている。
兎たち――耳長の民たちが【図書館】の機能を停止させてしまえば、地上や地獄でも言震が引き起こされ、更なる混乱が生まれかねない。
そうなれば、原始時代――散らばった大地の時代の再来となってしまうだろう。
「そうした混沌、相互不和、不理解、不寛容といった悲劇を一掃して、絶対言語によって秩序を取り戻し、誰もが手と手を取り合えるような、悲惨な言震や不毛な戦争に怯えなくて済むような――そんな平和な世界を作りたい。ヴァージリアのお花畑な頭の中はこんな所でしょうね。ミルーニャ的には、世界はもっと滅茶苦茶になった方が愉快だと思いますけど」
私はほっと息を吐いた。わかりやすく教えてくれるミルーニャが天使に見える。大神院は序列五位の天使をあの性悪機械からミルーニャに変更するべきだ。
そしてハルベルトはとても夢想的で――けれどとても可愛らしくて、とても素敵な考えを持っているようだった。
きっとそれはすごく難しいことなのだろう。
ハルベルトが自分の目的をこの上なくわかりづらい言葉を用いて説明したのは、もしかしたら彼女なりの照れ隠しなのかもしれなかった。
だって、要約すればそれは「世界が平和でありますように」という子供のように純粋な願いなのだから。
「呪文というのが『言語の拡張』なので既存の言語を超越した言語を完成させようっていう、実の所かなり乱暴な理屈です。既存の線形言語の枠組みで試行錯誤するって方法もあるとミルーニャは思いますけど。要するに最後の部分だけ聞いていればいいってことです」
「ええと、つまり」
「言語を超えた言語を完成させる――具体的にどうやるのかは知りませんけどね。察するに、自己言及の摸倣子を循環させて動く伝詞回路の仕組み――つまり
「夢じゃないし実現は目の前。ハルが開発した
「頑張って下さい。所詮は最初から無謀な試みですが、夢を見る権利は誰にだってありますよ」
薄笑いを浮かべながら形ばかりの応援を口にするミルーニャ。
ハルベルトが掴み掛かり、メイファーラと私が制止する。
しかし、一人だけ目的不明とはいえ、『竜退治』に『人類の超越』に『言語を超えた言語』とは、どれもこれも不可能としか思えない試練である。
あるいは、それくらいの偉業を達成できなければ『女神になる』という奇跡は起こせないということだろうか。
「それを可能にする方法が、一つある。それこそがハルの目的。世界に【絶対言語】を普遍させる神話のメソッド」
「それは?」
私が問いかけると、ハルベルトは得意げな顔で宣言した。フードの片側がぴくりと動いたのを見るに、多分耳が少しだけ持ち上がっているのだろう。
「それは歌。ことばを呪文にのせて、世界に伝える
全員、ぽかんとした表情でハルベルトを見つめる。
それくらい、彼女の言うことは突拍子も無いことだったのだ。
私は訊ねずにはいられなかった。
「でも、そんなことどうやって――そもそも、聴いて貰えるのかな?」
「誰もが耳を傾ける――何故ならば」
突然、ハルベルトは勢いよく立ち上がった。
枕を放り捨てて、座っている私たちを睥睨するようにして言い放った。
「今まで隠してきたけれど――今こそ教える。ハルの正体。その本質」
何故かもの凄くもったいぶっている。
と、私は不意に気付いた。ハルベルトが今まで枕の後ろに隠していたものに。
端末だ。それも音楽の再生に適した機種。
そこから流れ出す、歌姫Spearの楽曲。『エスニック・ポリフォニー』の不可思議な響きが室内に流れていく。
「ある時は星見の塔の
「はいはい、どうせ未知なる末妹とか言うんでしょう。まだ決まってないのに気が早いですよヴァージリア」
ミルーニャの呆れ声を無視して、ハルベルトは高らかに声を張り上げる。
かつてないほどに元気いっぱいだった。美味しいものを食べている時以外では、滅多に見せない明朗快活さ。
「歌姫Spear――地上において知らぬ者無き天上の美声、楽神の囀り。世紀の歌姫とは、このハルベルトのもう一つの姿。ハルのライブは全世界に同時中継され、広がった摸倣子は世界を変える」
盛り上がっていく楽曲の進行に合わせるようにして、ハルベルトが腕を振り上げ人差し指で天を示した。まるで以前から何度も練習していたかのような見事な動きだった。
そういえば、店内で歌姫Spearの歌が流れていた時、ハルベルトはやけにそわそわとしていた様な気がする。何か言いたそうにこちらを見ては、その度にぐっと我慢するように言葉を飲み込んでいたような。
ハルベルトは驚きの秘密を明かしたわけだが、それを知った周囲の反応はこのようなものだった。
「わーすごーい」
「へーびっくりですぅ、はい解散」
「ってか誰なのそれ? 私、俗世間には疎くて」
「あのね、私はクロウサー家の娘だよ? なんでそんなすぐばれる嘘吐くかなあ。スピアってアヴロノ系だしもっと物静かだしあと声が違うじゃない」
思ったよりも盛り上がらなかった。
ハルベルトの手がふにゃりと落ちる。
「え――あれ。嘘ー! とか、信じられないー! とかサイン下さいー! とかそういう反応をするはず。おかしい。何故」
「ってか嘘でしょ」
「信じられません」
リーナとミルーニャが揃って冷淡なまなざしを向ける。
プリエステラに至っては「だから誰なの?」と首を傾げていて、メイファーラが端末を手にして説明していた。
ハルベルトは周囲からの冷たい視線にびくりと震えて、へにゃへにゃとしゃがみ込んでしまう。
彼女はそのまま枕を引き寄せた。
指先でぐるぐると円を描きながら「ほんとだもんうそじゃないもん」などと若干の幼児退行を起こしているハルベルトの横を通り過ぎて、私は部屋を出て行く。
「アズ、どこいくの?」
「すぐ戻る」
メイファーラと会話をしている時間すら惜しい。どうして私の足はこんなにも遅いのだろう。私はどうしてこんなに愚かだったのだろう。こんな――こんなことがあるなんて。
私は自室に戻り、ベストアルバムと色紙とサインペンを引っ掴んでハルベルトが待つ場所へ急ぐ。
リーナは言った。声が違うと。
けれど呪文を唱えている時、ハルベルトの声の調子はいつもの落ち着いた声とはまるで別人のようになる。
初めて出会ったアストラルの世界。仮想の斧槍を実体化させた時に聞こえた歌のような詠唱。そして天使との決戦の舞台だった影の世界で、オルゴーの滅びの呪文を唱えていたその響きはまるで歌。
極限の状況で、記憶が結びつかなかった――なんて言い訳にもならない。
あの歌声は確かに、歌姫そのものだった。
項垂れたハルベルトに駆け寄り、色紙を差し出しながら勢い込んで言う。
「あのっ、サイン下さいっ」
私、アズーリア・ヘレゼクシュは、歌姫Spearのデビュー直後からのファンである。
ハルベルトの表情が、ぱああっと輝いた。
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