3-49 青の空、黒の空白①



 槍の形をした尖塔から出ると、そこは雲がかかった枝の上。

 雲海に突き刺さった巨大な樹状区画は透明な強化硝子と幾重にも張り巡らされた呪術障壁によって外部の過酷な環境から守られている。

 呼吸すらままならぬ上空、身も凍り付く超高度。空から降り注ぐ陽光は細胞をわずかながらも破壊していくほど強い。けれど、そうした自然の猛威を呪術は乗り越えた。

 むしろ、この第一区は富裕層の住む区画としてエルネトモランで最も安全で快適な空間である。

 道行く人々の雰囲気もどこか地上のものとは違って余裕がある。

 私とハルベルトが石畳の道を歩く度、小さな足音が響く。その音が、ここでは不作法な異音にも聞こえる。

 この第一区に住む人々は、ほとんどが第一位の眷族種【エルネ=クローザンドの空の民】である。常時わずかに浮遊している彼ら彼女らは足音を立てるということがない。その他の住人も、足音を立てないような靴を使用していた。

 なんだか悪目立ちしているような気がして、私は気恥ずかしくなる。


「えっと、ハル。メイとの待ち合わせ場所ってこっちでいいんだよね?」


「そう」


 もう手は繋いでいない。理由のわからない恐慌状態からは抜け出せたみたいで安心したけれど、それでも私は不安なままだった。


「でも、後遺症も無いみたいで安心したよ。一晩寝たらすっかり元気になったってメールが来たけど、強がりじゃないといいな」


「メイファーラはそう簡単には死なない。心配するだけ無駄」


 口調は淡泊だが、それは冷たさというよりは温かな信頼を感じさせるものだった。興味が湧いて、訊ねてみる。


「メイはハルと前から知り合いだったんだよね? いつからの付き合いなの?」


「だいたい四年前」


 あれっと思った。それは確か、ミルーニャがメートリアンとして星見の塔に向かった時期と同じくらいではなかっただろうか。

 多分、無関係ではない。直感は当たっていた。


「メイファーラ・リトも予備候補だった。途中で脱落して末妹の選定に関わる詳細な記憶は消去されたはずだけど、星見の塔との関わりそのものは消えていなくて、たまにああして協力してもらってる。だから大まかな事情は把握済み」


「それ、記憶を消去する意味ってあったの?」


「規則だから――ただ、彼女の場合能力が能力だから、記憶消去が上手く行っていない可能性があるけど」


 過去視というのは記憶に深く関係している能力だ。そもそも、消去した直後に過去視が発動したら即座に記憶が甦ってしまうのでは?

 もしかするとメイファーラには洗脳や催眠といった、脳や心に対する働きかけが通用しないのかもしれない。

 彼女の過去視能力がどの程度なのかにもよるが、それが大神院の順正化処理まで無効化してしまうようなものだった場合、事態は少しばかり深刻になる。

 あくまでも仮定。ありえないことだけれど――彼女は、大神院に叛意を抱いてそれを察知されたとしても、洗脳を無効化してその意思を持ち続ける事ができてしまう。

 地上の秩序に反することが出来るかもしれない存在。

 そして、そんな彼女を身の内に飼っている智神の盾と松明の騎士団。

 何か恐ろしげな予感が浮かび上がってきたその時、朗らかな声が私の思考を消し飛ばした。それはもう、とても暢気で可愛らしい呼びかけである。


「おーい。アズー、ハルさんやーい。こっちだよー」


 見ると、雲霞を吹き出す噴雲広場で脳天気そうな少女が手を振っていた。長い髪が頭部の側面で揺れる。瑪瑙の髪留めが特徴的なメイファーラ。

 私は気が抜けて、こちらからも手を振り返した。

 合流した私たちは、そのまま第一区の街並みを歩いていく。

 ラーゼフに対しては教導だのと言っていたハルベルトだが、今日これから行うことは私の修行とは言い難い。

 

「それにしても意外。ミルーニャの呪具店って第一区にあるんだね。呪具のお店っていうと六区って感じがあるけど」


「メートリアンの所は主に通信販売だから、直接お客が来る必要が無いの。ペリグランティア製薬の支社があるのも一区だし、こちらの方が何かと動きやすいはず」


 そのかわり、探索者協会が遠くて面倒だとも言ってたけど。

 ハルベルトはつまらなそうに言って、私たちを先導する。私たちが目指しているのはミルーニャの家。住居であると同時に職場であり、錬金術師としての工房でもあるらしい。巨大企業に所属する錬金術師という身分上、定期的に出社する必要があるらしいが、基本的には工房での在宅勤務とのこと。兼業は大変ではないかと思ったのだが、呪具店の方は人を雇っているらしい。

 綺麗で上品な街並みを三人で歩きながら、他愛のない言葉を交わしていく。こうしていると、先日の激しい戦いが嘘のようだと思えてくる。

 ――本当に、誰一人欠けずにあの夜を乗り切ることができたんだ。

 実感が胸に広がっていく。第五階層では私とアキラしか生き残ることができなかった。けれど、今回は違った。なら、これからも私は。

 誰も死ななければいい。

 人が死ぬことは、とても悲しくてつらいことだから。

 考え事をしていたら、誰かにぶつかった。

 小さな衝撃。私よりも少しだけ背の低い、とても幼い少女。

 私は、その顔を見て驚いた。

 どんよりとした虚ろな目。慢性的な不眠にでも悩まされているかのような隈が出来ている眼窩。そして顔色は蒼白。荒れ放題の長い髪はとても不健康。

 小さな子供に対して抱く感想じゃないけれど――まるで、死体が歩いているようだと思った。

 少女は私をぼんやりとした眼差しで見ると、億劫そうに口を開いた。


「なんか、すみません。ぶつかってしまってすみません。生まれてきてすみません。私が存在したのがそもそもの間違いでした」


「ええっと」


 何故この子はこんなにも卑屈なのか。

 前にいるハルベルトとメイファーラも目を丸くしている。


「はあ。もっと終末に生まれたかったー」


「終末て」


「なんかもうダメダメですー」


 放射される負の感情。幼くしてここまで鬱屈を貯め込むとは、この少女の人生に何が起きたのだろう。


「ええと、あなた、一人? お父さんかお母さんは?」


「お空にいます」


「あっ、それは、ごめんなさ――」


「第一区は超高々度にある空の居住区、なーんて」


 なんだこの子。もしかしたら構って欲しいのだろうか。


「すみません。下らない事言って貴重なお時間を浪費させてしまいました。私のせいで貴方の人生が空費されて死の瞬間が近付いてしまった」


 大げさな子だ。私は首を傾げながらも、メイファーラを手招きする。

 察しよく少女の手を軽くとったメイファーラはそっと目を瞑った。

 そして次の瞬間には、


「探してるお兄さんなら多分こっち」


 と言って少女の手をひいていく。メイファーラの天眼は多機能だ。過去視と千里眼の組み合わせで、捜し物や捜し人などが簡単にこなせてしまう。エルネトモランの一区画ぶんは彼女が充分に把握できる範囲なのである。

 つくづく、圧倒的に優れた能力だと思い知らされる。

 予定外の寄り道に渋面を作るハルベルトをなだめつつ、しばらく歩くと目当ての人物が見つかった。迷子の手助けが修道騎士の役目かどうかは怪しいところだが、やっていけないということもないだろう。

 その男は、道端に丸椅子を置いて、静かに絵を描いていた。

 画架イーゼルに立てかけた大きなスケッチブックに鉛筆を走らせている。その表情は真剣で、道行く人々を金色の瞳がしっかりと捉えている。

 どきりとした。金色の瞳。その色彩に、ふとあの邪視を使う骨の花を思い出してしまったから。

 不吉な印象はそれだけに留まらない。

 最初、男が描いているのは一区の街並みに思えた。

 けれど、後ろから覗き込んでみると描かれた風景は異様であった。

 描き出されていたのは、写実的なものではなく、非現実の風景画。

 死んだ街だ。

 道行く人々は服を着た白骨か、至る所から中身をこぼしていく腐乱死体。その歩みには力が無く、葬列の如き暗色に充ち満ちている。

 それが鉛筆による白黒のみの絵であることも多分に影響していると思うけれど――清潔な街並みは見る影もなく色褪せて、そこに感じられる人の営みは全て裏返っている。空に浮かぶのも現在浮かんでいる太陽ではなく四つの月。空は暗く、時間は夜になっているようだ。

 現実を見ながら、現実とは裏返った虚構を描く。

 それはある意味ではとても効果的で適切な創作手法なのだと思う。絵ではないけれど、私も言葉を紡いで詩や小説を書いたりするから。散歩をしながら自然の息づかいを感じて、情景を膨らませたり飛躍させたりするのはとても理に適った行為だと実感として知っている。

 けれど、そうとわかっていても彼の描き出す死の風景は恐ろしかった。

 死というイメージを見る者に喚起させているという点で、彼の絵は素晴らしいということなのかもしれなかったけれど。

 見れば、彼の周囲には幾つもの絵が並べられていた。周りによく見えるように小さな画架に固定された絵の数々。鉛筆画だけでなく油彩画、水彩画、果ては印刷されたものまである。男の座る丸椅子の下に、接触感応式の描画用端末ペンタブレットが見えた。

 GUI系統のデバイス――つまり杖による機械的な邪視の再現。手書きと使い分けているのは、呪術的な『実感』の有無によって作品の『手触り』を変化させるためだろうか。

 絵は手というより目や脳で描くものなので、手で直接描くのも専用端末で描くのも慣れの問題以外は基本的に変わらないと聞くが、絵画に宿る呪力の性質は多少変化するらしい。それゆえ、絵画の呪的価値にまで気を配る絵描きは両方の手法で描ける環境を整えておくのだと、ものの本で読んだことがある。


「ヴァニタス――」


 ハルベルトがつぶやく。

 聞き慣れない言葉の響き。私もメイファーラも首を傾げた。少女はぱたぱたと男の元へ駆け寄っていくが、集中しているのか気付く様子が無い。

 私は聞き返した。


「それは?」


「人生の虚しさの寓意アレゴリーを表す静物画のこと。人が死すべきさだめであるという隠喩を込めた静物を描くのが普通だけど――このひとは、動く事物でそれを表現したいように見える」


 そう言われて納得する。並べられた絵画に描かれているのは、頭蓋骨、パイプ、砂時計、泡、散りゆく花。楽器なども存在するのは、時間芸術として刹那を表現しているのだろうか。血のような果肉をさらす柘榴と、果実酒をなみなみと注がれたグラスの横に置かれた葡萄は共に腐っている。

 だがそれらには全て人が描かれていた。

 動く死体。腐乱した身体で乾杯し、頭蓋骨の隙間から果実酒をこぼしていく。

 パイプを咥えた白骨死体の眼窩から煙が立ち上っている。

 腐った子供たちが庭でシャボン玉遊びを楽しみ、音楽家は枯れ木を背に世の儚さを切実に歌う。視覚のみに訴えるはずの絵画だというのに、聞こえないはずの息づかいがここまで届いてくるかのようだった。

 それは死の躍動。

 死にながらにして生きていて、生きながらにして死んでいる、幻想の風景がそこにあった。

 その中に混じって、唯一生者を描いた人物画があった。

 頭蓋骨を持った少女。柔らかに微笑む幼い美貌。

 その可憐さがあまりにも生の感触に満ちていたから、私はあまりに明白なその事実に気付くのが遅れた。

 それはここまで連れてきた迷子の少女だ。

 ふと、二人の関係性がどんなものなのか気になった。親子というには男は若いような気がする。兄と妹だろうか。


「はあ、ダメダメですー。完全に自分の世界に入っちゃってますー。こうなると書き終わるまで戻ってこないのです」


 少女は、諦めたように項垂れた。

 それからこちらを振り返って、おずおずと口を開く。


「あのう、ここにある絵、少しでも気に入ったものがあったら買っていただけないでしょうか。そんなに高いものではないのです」


「絵を売っているの?」


「はい。この人、ご覧の通り社会不適合者でして。物乞いの認可も法律がどうとかで降りなくて。放っておくと餓死しかねませんので、どうかお恵みと思って何か買っていただけませんか。あ、一応似顔絵とかも描けます」


 少女は男の服を引っ張って「おーい戻ってこーい」と呼びかけるが、反応は得られなかった。

 かわりに、動かす手は止めぬままに口が開かれた。

 何もかもにくたびれきったような、掠れた声だった。


「僕は静かに絵を描きながら飢えて朽ちていく。それが自然でありあるがままの人の在り方だ」


「またそんなこと言って。はあ、ダメダメです。こんなダメ人間のお尻を叩くのももう疲れてしまいました。もう私は限界かもしれないですー」


「君には苦労をかけて申し訳無いと思っているよ、マリー。だから一緒に死のう」


 男の言葉に私はぎょっとしたが、マリーと呼ばれた少女は適当に流していた。いつもの言動なのだろうか。

 ふと、ハルベルトとメイファーラが奇妙な視線を私と少女に向けていることに気付く。何か思うところでもあるのだろうか。

 不思議に思っていると、男は絵を描き終わったのか、ゆっくりと手を下ろしてこちらに向き直った。

 金色の瞳が、私を捉えた。

 ぞくりとした。なぜだかわからないけれど、不安が膨れあがっていく。

 金眼。死。骨の花。不吉と恐怖。嫌な連想ばかりが溢れて止まらない。偶然というだけで片付けていいのだろうか。根拠は無いけれど、何か、これは。

 私を殺す、まなざしであるような。



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