3-48 松明の騎士団③



 騒然となった昼食会はひとまずお開きとなった。

 気絶した聖女様は丁重に運ばれていき、その他の神官達もそれぞれ今後の対応を話し合うべく慌ただしくその場を立ち去っていく。

 私は小さな三人の群青様を元に戻し、一礼してその場を立ち去ろうとした。

 ふと違和感を覚えるが、振り返った時には夜の民の司教はその場から姿を消していた。

 私とハルベルト、そしてラーゼフの三人は並んで第一階層の中、【時の尖塔】の上層部を歩いていく。

 ここは世界槍の地上に露出した部分。世界最高峰の高層建築にして一つの小世界。松明の騎士団の要塞であり、聖女クナータが掌握する迷宮の塔。

 上層は長い円形の回廊になっており、ここから上は『穂』に該当する。鋭い刃の内部は一部の者しか立ち入りを許されていない世界槍の核心であると言われている。

 守護の九槍になれば、私は世界槍の最上層への立ち入りを許される。

 そこには秘密があるとされているけれど、誰もその秘密がどんなものか知らない。

 半年で私を守護の九槍にするとハルベルトは言った。

 ならば、私は半年後、あの天の高みに辿り着いていなければならない。

 決意は重く、生への執着が再び溢れ出てくる。

 白い廊下は清浄な美しさでどこまでも続いている。外側は硝子張りになっており、眼下には雲が広がっている。勿論空調が効いているので寒いということもない。

 雲海を泳ぐひときわ巨大な長方形は、のっぺりしたティドロソフと呼ばれる物体だ。

 白くシンプルな長方形。曖昧な雲を押しのけてゆっくりと浮遊する極めて巨大な構造物。それは、先程食卓に並んでいたトントロポロロンズが成長した姿である。

 あそこまで巨大に成長した個体は食用ではなく別の利用法が存在する。

 小型の巡槍艦が次々と降り立ち、白い平面上に設置された補給拠点から別の巡槍艦が飛び立っていく。また各所に並ぶ塔からは強力な邪視感知の視線が放射されており、あらゆる敵意を見逃さないようになっている。

 時の尖塔の防備は堅牢だ。同様に、大神院の要職にある神官達が容易に暗殺されることもほぼあり得ないと言っていい。

 だが、『ほぼ』である以上警戒を怠るわけにもいかない。それに、聖女の未来回想を無視することは誰にもできない。

 唐突に突きつけられた死の宣告。私は、死なないためにどうすればいいだろう。

 死ぬのは嫌だ。けれど、そのために周囲の人々を犠牲にするのも嫌だった。きっと私はいざとなれば躊躇わないだろうけど――それでも出来る限り犠牲は減らしたい。

 私はいつだって誰かに助けられてる。なら、私だって誰かを助けたいと思うのは自然な事だと思う。

 両隣を歩く二人――先程も私の味方になってくれていたハルベルトとラーゼフの好意に報いたい。私は期待される英雄でありたい。

 そんな考えを胸に抱いていた私は、二人の様子が妙な事に気付く。

 先程まではごく普通に歩いていた筈なのに。

 あの。どうして私を両端から引っ張るんでしょうか。


「離して。アズはこれからハルと用事があるの。教導の邪魔。さっさと帰って」


「いいから君は星見の塔への報告書でも書いていたまえ。アズーリアはこれから研究室に行ってフィリスの調整と実験を行う。なにより壊れた呪動装甲の再調整をしなければならない。そうだ、間に合わせだが新型が完成するまで予備を貸そう」


「そんなのいつでもできる。アズの成長は今じゃなきゃできない。こうしている間にも脳細胞の老化が進行して学習効率は加速度的に低下していく。皺だらけの老婆を相手にしている暇なんて無いの」


「君こそ、毛も生えそろっていない子供の分際で師匠気取りとは笑わせる。人生の先達を尊重する気はないのか?」


「年齢しか誇れるものが無い――哀れ」


「年齢などつまらぬことに拘っている君こそ哀れだな。歳を重ねることを否定するのは知識と経験を積み重ねる事を否定するのにも等しいぞ」


 右から左からぐいぐいと引っ張られるせいで私の黒衣はべろべろになりそうだった。

 どうしてこの二人はこんなに仲が悪いんだろう。私の味方をしてくれている時はこの上なく頼りになるのに。

 困惑する私を助けたのは、正面から早足で歩み寄ってくる人物だった。

 標準的な呪動装甲に身を包んだ修道騎士。

 特徴的なのは、その腰の後ろから長い尻尾が生えていること。今は腰に帯のようにして巻き付けていた。その姿には見覚えがある。

 ラーゼフがその姿に気付いて反応した。


「おや、トリギスじゃないか」


「お久しぶりです、ピュクシス殿。それからヘレゼクシュ殿に――」


「ハルベルト。先日着任したきぐるみの魔女の後任だよ」


「何と」


 ラーゼフが紹介すると、ハルベルトは軽く目礼したが、相手の方は目を剥いた。

 当然のことだった。何しろ彼が現在着いている任務が任務である。

 修道騎士トリギス。序列二十八位。

 異獣憑きであり、その長い尻尾は武器にもなるが、その真の能力は広域の呪力感知である。彼はその能力を活かして、現在行方不明のきぐるみの魔女を捜索しているのだった。

 きぐるみの魔女の後任と聞いて、警戒をしてしまうのも無理は無い。


「この場所にいるということは、金鎖の補充をするための一時帰還といったところか」


「はい、これからまた部下達と世界槍に潜る予定です」


「そうか。どうだね、その後の様子は」


 ラーゼフはちらとハルベルトを見ながら言った。ハルベルトがきぐるみの魔女をどう思っているのかは知らないけれど、疑いの目で見られるのはきっと不本意な筈だ。彼女が心から槍神教に忠誠を誓っているとは思えないけれど――私は二人の視線を遮るように、ハルベルトの前に出た。私の方が小さいから、彼女の身体を隠すことはできなかったけれど、それでもそうせずにはいられなかった。

 トリギスは極力私たちを見ないようにしながら、ラーゼフに向かって報告をしていく。


「実は先日、第六階層できぐるみの魔女の目撃証言がありまして」


「本当か」


「はい。何でもあの大魔将イェレイドと交戦していたらしいのです。証言によると、何かよく分からないがとにかくおぞましいものと狼型の呪動装甲が第五階層の転移門付近で争っていたと」


「また、曖昧な証言だな」


「ですが、第六階層にいる『よくわからないがおぞましい何か』など大魔将イェレイド以外には考えられません。階層の浅い場所ということは、恐らく末端部分だけを分離させていたのだと思われます。両者は激しく争ったが最後には鋼の狼の方が敗れたらしいとのこと。しかしその直後、すさまじい爆発が起こり大魔将もろとも吹き飛んだとか」


「自爆か。それではきぐるみの魔女は」


「いや、奴は必ず生きている筈です。あれは不死なる邪神の末裔。私たちはこれから第五階層を中心にきぐるみの魔女を捜索するつもりです」


 それでは、部下達を待たせていますので。そう言って、トリギスは足早にその場を去っていった。私たちと反対側に向かっているのは、多分上層から直通の転移門で一気に第五階層あたりまで飛ぶつもりだからだろう。

 ラーゼフが思い出したように私の左手に視線を向けた。


「そういえば君は金鎖の補充を済ませていなかったな。丁度いいから行ってきたまえ。後でいいから私の所に予備の呪動装甲を受け取りに来るように」


「はい、わかりました」


「それと、指導を受けるのは構わないが変な思想に染まらないようにな。それはどこまでいっても部外者だ。真の意味で我々の仲間となることはない」


 言うだけ言って、ラーゼフはその場から立ち去っていった。

 ハルベルトは険呑な気配を放射しつつ目つきを普段の倍は悪くしてその後ろ姿を睨み付けていたが、やがてこちらを向いた。


「ああいう反応は予想できていた。仕方無い」


 それだけ言って、ラーゼフが去っていったのとは別方向に進む。私たち二人は廊下を曲がっていった先、塔の中央部へと進む。

 

「本当に、それでいいの?」


「私たち星見の塔の魔女は元々槍神教とは敵対していた。だというのに、今まできぐるみの魔女――トリシューラに頼らざるを得なかった。彼女の心情は察するに余りある。なまじあれが優秀であったせいで、歯痒さは増したと思う」


「ハルはきぐるみの魔女と面識があるんだ?」


 同じ星見の塔の出身ならおかしなことではない。実は私は直接きぐるみの魔女と会ったことは無いのだけれど、どんな人だったのだろう。ラーゼフからは罵倒しか出てこないので偏った情報しか入ってこないのだ。

  

「面識があるも何も、きぐるみの魔女トリシューラは杖の座を占める末妹の第四候補。ハルの競争相手の一人」


「あー、そういうことだったんだ」


 全く予想していなかった答えにも関わらず、何故かすとんと胸に落ちてくる答えだった。

 だとすると、ハルベルトと出会う前に変に縁を作っておかなくてかえって良かったかもしれない。これからハルベルトに協力していくのなら、中途半端な面識があれば戦いづらくなるだけだろうから。

 ――そう、私はハルベルトとは敵対しない。

 彼女は私のお師様。だから、ミルーニャが――メートリアンが言うようにハルベルトを倒して自分が末妹候補に、なんて考えない。考える必要も理由も無い。

 胸からじわりと湧き上がる不安を押し殺すようにして、私は言葉を繋いだ。


「他の候補者ってどんな相手なの? ええと、杖の座がきぐるみの魔女で、使い魔の座がこの前言ってたトライデントってひとなんだよね? それで呪文の座がハル。邪視の座はどんな人?」


 邪視者ファシネイターは最速で呪術を発動させる。詠唱が必要であるため最も呪術の発動が遅い呪文使いの天敵とも言われる。実際に相まみえるのかどうかはともかく、戦うとしたら相性が一番悪いのは間違い無く邪視使いだろう。

 ハルベルトは何故か不快そうにぼそりと呟く。


「アズも良く知ってる相手。冬の魔女」


「え、嘘?」


「本当。嘘を吐いてもしょうがない」


 四英雄、冬の魔女コルセスカ。

 つい一昨日、あの激戦の直前に出会ったばかりの彼女もまたハルベルトの競争相手だったのか。

 だとすれば、相性が悪いどころではない。相手は最強の呼び声も高い探索者で、本物の英雄だ。


「私、ハルと出会う前にその人と会って話したよ」


「知ってる。全く、最悪な奴」


「へ?」


「今頃、第五階層で山積みになった自動生成式の連鎖依頼地獄に苦しんでいるはず。丸三日はややこしく入り組んだクエストの処理に追われる。いい気味。人のものを横取りしようとするからああなる」


 ぶつぶつと呟くハルベルト。並んで歩く黒衣の中から怨念じみたものが溢れ出しているのを見て、私は少し仰け反った。


「ええと――もしかして、嫌いなの?」


「怠惰な癖に何の努力もせずに結果だけを掴み取る――あれが嫌いじゃないという奴がいたら見てみたい」


 それはもしかして天才に対する僻みというものでは――と一瞬だけ考えたが流石に口には出さない。

 それにしても、やっぱり呪文使いと邪視者は相性が悪いのかもしれない。邪視者というのは個人主義者が多く、刹那的な価値観を有している傾向があるらしい。独特で個性的でマイペース。そういえばメイファーラも割とそんな感じだ。

 私はどうだろう。メイファーラとは仲良くやれていると思うし、本職は杖使いとはいえ邪視の適性も有するミルーニャとも和解できた。邪視者だから、なんて偏見は持つ必要がないように思えるけど。

 ふと、記憶が甦る。あの金色の瞳。骨の花。

 トライデントの使い魔、とハルベルトとミルーニャは言っていた。

 結局、あの敵との決着はついていない。きっと骨花を操っている本体がどこかにいるはずなのに、その影すら掴めていないのだ。

 またあれと相対する事になったら、私はどう戦えばいいのだろう。

 そんなことを考えていたら、いつしか目的地に着いていた。

 そこは第一階層の上層部。

 そして修道騎士たちにとっての『要』であり異獣憑きたちにとって無くてはならない生命線。

 扉を開くと、そこは庭園だった。

 高い天井の採光窓から降り注ぐ陽光が、きらきらと金色の柱を生み出している。

 目の前には木材で組まれた隙間のある隧道トンネルが続く。等間隔に立ち並ぶ柱が湾曲して、頂点で結びついている。

 そして木々につるを這わせながらしな垂れかかる金色。

 黄花藤ゴールデンチェーンが満開になった藤棚の道を、私とハルベルトはゆっくりと歩いていく。天から垂れ下がる黄色い藤が最も美しく見えるように調整された光。道の両端にある花壇には黄色以外の鮮やかな色彩が並ぶ。多種多様な花々はどれも小さく、決して自己主張をしない。その場所の主役が、天に架かる黄金だと知っているかのように。

 やがて私たちは、庭園の中心部に辿り着いた。

 二人の人物が、敷布を広げて仲睦まじく寄り添っていた――というか。

 円形の広場の中央で、この場に満ちる黄金色をそのまま引き写したような美しい長髪の幼い侍女が座り込んでいる。もう一人の少年は、その膝に頭をのせて仰向けに寝転んでいるのだった。

 私は即座に端末を取り出して金鎖システムに通報。少年が幼女に侍女の格好をさせて膝枕をさせている事案が発生。


「はい、承りました。金鎖システムから自動返信しますが、そんな駄目主人は即刻逮捕して牢屋にブチ込むべきですね。さあどうぞ」


「待て、フー。このやり取り前にもあったぞ」


 松明の騎士団団長、ソルダ・アーニスタとその従者フラベウファは、穏やかに私たちを出迎えた。

 私は少々呆れながら少年を見た。


「あの、団長殿? 一体何を」


「いや、さっきまでイェレイドと戦ってたんだけど、攻撃を避け損なって頭にクリティカル貰っちゃったんだよ。で、ヒットポイントがまだゼロになってなかったからそのまましばらく頭部無しで戦ってたんだ。瀕死状態だから積極的にオーバードライブ狙えるしね。けど、これだとデータが残らないなーって気付いてさ。自殺転移しようと思ってわざと殺されたんだ。ところが、僕としたことがうっかりクイックセーブを忘れていたんだよ。それでこうして初期セーブポイントに帰還してしまったという訳さ」


「いえ、そういうことを訊いているのではなく」


 常軌を逸した言動は彼が守護の九槍序列第一位である由縁だが、私が訊ねたかったのはどうしてそれで膝枕をされているのか、そしてそれが当たり前のことであるかのように振る舞っているのか、ということなのだが――。

 なんだか、二人があまりにも自然に傍にいるので、それ以上の追求は憚られた。


「もう疲れたから、今日はこのくらいにしておくよ。しばらくはみんなのプレイ動画――共有記憶でも見ながら研究かな。多分、もう少し効率的なパターンを構築できると思うんだ。あとは繰り返し反復練習するしか無いけど」


「あの、いつも思うんですけど本当に出鱈目ですよね、団長殿の常在型神働術」


 松明の騎士、ソルダ・アーニスタが最弱の聖騎士と呼ばれているにも関わらず修道騎士たちの頂点に立っているのは、この能力に由来する。

 彼は一定時間だけ英雄に変身する能力だけではなく、死亡しても任意に設定した地点で復活できるという特殊能力を持つ。

 復活する地点は二つまで設定できる。『初期セーブポイント』であるこの【金鎖の庭園】と、設定される度に新たに場所が上書きされていく『クイックセーブポイント』の二つ。ただし、クイックセーブポイントは一定時間が経過すると消滅してしまうらしい。

 その他にも瀕死であればあるほど発動の確率が上昇する『オーバードライブ』や自らの総合的な生命力を仮想の数値として設定し、たとえ脳や心臓が破壊されてもその数値『ヒットポイント』がゼロになるまでは戦闘を続行可能という恐るべき能力を有している。

 ソルダ・アーニスタは単純な実力で見れば守護の九槍で最弱だ。しかし、彼に勝てる者は誰一人としていない。

 彼はたとえ負けても勝つまで戦い続ける。

 彼には常人にとっての負けが負けではなく、勝つために積み重ねる修練や予行練習でしかないのだ。

 ゆえに最弱常勝。

 修道騎士たちの記憶は金鎖システムで集積されているが、その多くは彼が積み上げたものだ。

 その膨大なデータを参照することで最適な戦い方を研究し、実践し、フィードバックしていく。情報が集まれば集まるほど彼の戦いは精錬されていく。

 そして、その戦闘データがネットワークにアップロードされることで、松明の騎士団全体の練度も上昇していくのだ。

 彼が『プレイ動画』と呼ぶ共有記憶は修道騎士の戦力を確実に底上げしており、この手法を導入してからと言うもの修道騎士の死亡率は飛躍的に低下したと言う。


迷宮攻略ゲーム試行錯誤トライアンドエラーの積み重ねだよ、アズーリア。何度も失敗して、プレイヤースキルを高めていくことで勝利条件を達成する。それが正しい迷宮攻略のやり方なんだ」


「それができるのは、団長殿だけだと思いますが」


「そうだね。だから僕は可能な限り色んな死にパターンを君たちに提供する。そうやって失敗例を幾つも見ていけば、僕たちの被害は多少なりとも少なくなる」


 そう口にするソルダの声はどこまでも穏やかで優しかった。

 彼は最弱の身でありながら、修道騎士たち全員を守ろうとしている。決して屈強とは呼べない少年の身体でだ。

 その在り方はどこか痛々しくもあったけれど、同時に尊いとも思う。

 金色の光に包まれた主従が、どこか神聖なもののように感じられて、私は早く用事を済ませてしまおうとフラベウファの方を向く。


「あの、金鎖の補充をお願いしても宜しいですか」


「承りました」


 やりとりは簡素なものだった。フラベウファは座ったまま掌をこちらに向ける。横向きの亀裂が走り、ぎざぎざの牙を生やした獰猛そうな口が開く。

 じゃらじゃらと音を立てながら、フラベウファの掌から金色の鎖が現れて私の左手首に巻き付いていった。先端が手首の内側に接続され、鋭い牙が金鎖を噛み千切る。


「あれ? 七環になってる?」


「そのようですね。恐らく呪術適性と寄生異獣との同調率がまた上昇したのでしょう。おめでとうございますアズーリア様」


「はい、ありがとうございます――」


 わずかな喜び、そして不安が私の胸に去来した。

 一昨日の激闘を経て、私の戦力は向上していたのだ。それは喜ぶべきことだけれど、何かよく分からないものに自分が浸食されていくという懸念は消えない。

 このままフィリスが活性化し続けた時、一体何が起きるのか。

 それはラーゼフでもわからない事なのだという。

 そういえば、ミルーニャは何かを知っているようだった。

 今度訊ねてみようと決意する。

 用事も終わったところで、礼をしてその場を立ち去ろうとした私だったが、そこで奇妙な空気が漂っていることに気付く。

 そういえば、ハルベルトはさっきから口を開いていない。

 どうしたのだろう。

 横目にフードの中を覗くと、黒玉が奇妙な色に揺れていた。


「どうしたのかな。殿下?」


「――今は星見の塔の魔女として、そして智神の盾の異端審問官としてここにいる。その敬称は不要」


「おっと、そうだったか。これは申し訳無い。けれど、現在の君はどちらかと言うとそこにいるアズーリアの教導官という立場なんじゃないのかな。これも智神の盾の役目といえばそうだけれど」


 ソルダはハルベルトの奇妙な雰囲気には気付いていない――あるいはその振りをしているのか。

 何だろう、敵意でもないし、怒りや憎しみといった感じの激しい感情でもない。

 それなのに、ハルベルトは目の前の二人に不穏な意思を抱いている。そんな気がした。

 ぼそりと、ハルベルトが呟いた。


「あなたたちは、余りに不自然。ありえない在り方をしている」


「ほう?」

 

「初代松明の騎士、大フォグラントの直系の子孫にして転生者、ソルダ・アーニスタ。そしてその使役型寄生異獣モルゾワーネス――万能細胞である呪術マイクロマシンによって再現された槍神の従者フラベウファ」


「そうだね。それが僕たちの肩書きであり名前でありラベルだ。誰もがそう認識している。異獣憑きと寄生異獣。ごく普通の在り方だろう?」


 そうだろうか。私は、フラベウファほど高度な意思を持ち、自律して動く使役型の寄生異獣を他に知らない。それが第二魔将の特性なのだとしても、フラベウファは精巧に過ぎる生体人形だと思う。


「でもそれはありえない。ありえないことなの」


「言語魔術師の君が『ありえない』と言うのか」


「だってキュトスの姉妹のフラベウファには番号が存在しない。nullポインタだから参照できない。アリュージョンしてもエラーが出るだけ。それは、たとえあの【ウィッチオーダー】であっても同じ。それなのに、どうしてあなたは存在しているの?」


 そもそも、とハルベルトは言葉を繋ぐ。間の沈黙を恐れるように。

 そうだ――ハルベルトの感情に、その時はじめて気付いた。

 彼女は、恐怖している。

 目の前にいる主従を、恐ろしい怪物や不気味な亡霊を見たかのように恐れおののいているのだった。


「それを可能とする貴方は、一体誰」


「君が言ったじゃないか。僕はソルダ・アーニスタ。松明の騎士――」


「違う」


 ハルベルトの断定は、確信に満ちていた。

 恐怖を振り払うように、黒玉に戦意を漲らせて叫ぶ。


「お前は、何」


「ソルダ=ルセス・アルスタ=アーニスタ。それだけだよ。何度訊ねられても答えは変わらない」


「お前が」


 ハルベルトはそこで一瞬言葉に詰まって、それから身体の奥底からなけなしの勇気を振り絞るようにして、寝転んで目を閉じている少年に立ち向かった。


「お前が、この世界の歪みか」


「歪んでいるとすれば、それは僕が降り立たなければならないこの世界の方だよ。君こそ、きちんと世界の歪みを見据えているのかい? 魔女の異端審問官。世界の裁定者よ」


 二人のやり取りはまるで意味が掴めなかった。

 それでも、その緊迫した空気は伝わってきて、私はいい知れない不安に襲われた。

 このまま、戦いが始まってしまうのではないか。

 取り返しのつかない何かが、自分の与り知らぬ所で進行しようとしている。

 そんな気がして。


「あのっ、よく分からないけど――」


「戯れはそこまでにして下さいませ、あるじ様」


 私が口を挟むより先に、フラベウファの声が主人を掣肘した。掌が少年の口を覆う。

 フラベウファは静かな目でハルベルトを見た。


「お引き取り下さい、ハルベルト様。紛い物とは言え、わたくしは貴方の姉と言えなくもありません。姉のお願いと思って、どうかここは引き下がっていただけないでしょうか」


 ハルベルトは少しだけ逡巡してから、無言で背を向けた。

 私はわけもわからずに追いかける。

 その後ろから、少年の声がかけられた。


「僕たちは僕たちなりに、人の味方をしているつもりだよ。そう、僕はいつだって人の味方だった。これまでも、そしてこれからも。その在り方は変わらない」


 それは、英雄であるソルダ・アーニスタ像に見合った言葉。

 それなのに、どうしてか私にはそれよりもずっと――何と言えばいいのだろう。

 『離れた』言葉に聞こえた。

 まるで、彼がこの世ならざる高みから私たち矮小な人を眺めている超越者であるかのような――そんな感覚。

 途方もなく巨大なものを前にして、その全体像すら掴めなくなってしまうような。

 ハルベルトの理由のわからない恐怖。その一端がなんとなく共有できた気がする。

 彼は、あの少年は、余りにも超越しすぎている。この世の理から外れ過ぎている。

 まるで、人ではないかのように。

 金色の隧道を足早に歩くハルベルトは、どこか焦るように足を進めていく。なんとなく、逃げるようだと思ってしまった。

 庭園を出る直前、彼女は聞こえるか聞こえないかという声で、ぽつりと呟いた。


「もしあれが、ハルの見定めた異端なら――火竜退治の方がずっとまし。替わって欲しいくらい」


 それがどんな意味だったのか。

 何度訊ねてもハルベルトは頑なに口を閉ざすばかりで、私はやがて追求を諦めたけれど。

 しばらくの間、ハルベルトはぎゅっと私の手を握りしめて離さなかった。

 心底からの恐怖に震える手を、怯える幼子を安心させるように包み込む。

 いつか、彼女の恐怖を理解してあげられる日がくるだろうか。

 彼女の震えを、止めてあげることができるだろうか。

 疑問が渦巻く中、私はただ無言でハルベルトの手を握り続けた。



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