3-41 言理の妖精語りて曰く⑫
松明の騎士たちの視界映像は呪動装甲もしくは寄生異獣を制御する金鎖によって記録されている。それは金鎖システム上で共有され、エルネトモランの本部へと送信されることになっていた。この辺りは呪波汚染帯ゆえに即時に届くことはないが、それでもアズーリア、メイファーラ、ペイル、ナト、イルスの五名がこの夜に体験した事はこの一帯から出た瞬間に松明の騎士団と大神院の知るところになるだろう。
言語魔術師ハルベルトがそれを妨げなければの話だが。
死闘の後。その夜に起きた記録の欺瞞を激戦と平行して行っていた彼女は、五重の改竄処理を一括して管理実行している。ゆえに作業が繁雑になることなく、戦闘に集中することができたのだが、それでも『重い』ことは確かだ。呪文詠唱の閃きが今ひとつだったことは否定できない。普段なら霊感によって詩情が降りてきて、適当な即興詩の一つでも組み込んで『遊ぶ』のだが、それすらできなかった。
年上の古馴染みの挑戦に対して、全力でぶつかってあげられなかったことを少しだけ申し訳無く思う。決して馴れ合うだけの関係ではなく、敵とも呼べる関係だが――それだけというわけでもなかったからだ。すぐにハルベルトは思考を切り替えた。それはそれ。アズーリアとメイファーラは問題ないとして、三人組をどう言いくるめようか。
さしあたって、メートリアンの処遇をどうしようか。
元々松明の騎士団とは無関係に起きた出来事である。勝負もまた勝手な私闘に過ぎず、勝手に探索をして勝手に探索者と揉めた、で片がつく話ではある。
問題はティリビナの民の処遇と、イルスの治療で一命を取り留めたものの重傷を負った二人の修道騎士に関してである。
ハルベルトはあまり事を深刻に考えていなかった。どうにでもできる。
ティリビナの民とは松明の騎士団に所属する以上何らかの対処をしなければならない。しかし、自分は智神の盾の一員でもある。その上、星見の塔から招聘された部外者だ。槍神教に邪神と見なされているハルベルトがその内側にいることを許されている時点で、そのおぞましき聖絶の理は絶対では無いのだ。
自分にしか出来ない解決方法がある。
いずれにせよプリエステラと出会ってしまった以上、もう知らぬふりは出来ないのである。メートリアン共々、どうにかしてやろうとハルベルトは決定した。
そして三人の男たち。あれは中々に面白い。このまま放り出すのもつまらない。資質もあるようだし、使えるようなら自らの勢力に取り込んでしまうのもいい。この訓練で彼らはアズーリアを良く刺激してくれた。ペイルには近接戦闘の訓練相手をさせてもいい。ナトは物質的な四肢と三本足を失ったが、それゆえにあれは化けるだろう。
茶番の訓練――メートリアンに当初絡ませる予定だった茶番用の競争相手はメイファーラであった。脳天気な素を丸出しにした絡み方で、そのあまりの大根役者ぶりに大丈夫なのかとメートリアン共々打ち合わせをしながら不安に感じていた為、予定外に現れて本当に絡んできたペイルは中々の掘り出し物だった。その後に現れたナトとイルスについても、偶然とは思えぬ程に面白い人材。
そう、イルスだ。
彼とプリエステラがここに居合わせたのは、果たしてどのような運命の導きによるものなのだろうか。
ハルベルトは振り返った。連れてこられたイルスは、覚悟を決めた表情で唇を引き結んでいる。
「言い訳をするつもりはない。覚悟は既に決めている。露見していると思ったがゆえに、あのような身の上話をしたのだ。後悔無く逝けるようにな」
死を覚悟した表情で黒檀の民の男は言った。
目の前に立つ黒衣の異端審問官。その役割は身内専門の処刑人である。
「異教徒の異端審問官――松明の騎士団の内側に巣くう病根を駆逐する最も容赦なき掃除屋。我々のような異質な外敵を理解できるがゆえに、誰よりも効率的に異端を狩ることができる恐怖の体現者」
畏れと共に吐き出された言葉に対して、ハルベルトは静かに息を吐いて否定を返す。
「あなたは異端というより異教徒。ハルの本来の役割からは外れる」
「何――?」
自らが異教徒であることを認めたイルスは、僅かに目を見開いた。
ハルベルトは静かに言葉を続けた。
「亜大陸独立戦線、精霊再生協会、緑の同胞団――槍神教内部に深く浸透しているテロリストや企業の密偵、下方勢力の工作員や諜報員の存在は星見の塔や大神院も把握している。知っていて放置しているの」
「まさか、そんな」
「取るに足らない――ううん。そもそも、そういう秩序を維持するための判断力は大神院からは失われている」
体制批判じみた危険な発言――しかし、ハルベルトの牙は内側にこそ向けられるべきものだ。監査の魔女。その黒玉の瞳は何を見据えているのか。
「異教徒の異端審問官――その役割は、槍神教の内部を監査して組織の歪みを修整すること。異端と見定めたものを解体し、再構築すること」
「俺は明らかに槍神教の内側に巣くう病巣だ。その俺を見逃すと貴方は言う。では一体何を異端と見定めているのだ」
問いに、魔女の異端審問官はあるかなきかの微笑を浮かべた。認識を妨害する呪術によってフードの内側はイルスには見えなかったが――しかし凄艶な美しさの直観だけが認識を超えて彼を陶然とさせた。
月の下で、黒い麗人は目に映らずともただ美しい。闇の中に美を湛えて、ハルベルトは歌うように言葉を紡ぐ。
「ハルは異端を見つけた――歪み、曲がり、手段が自己目的化を繰り返し、信仰という呪術基盤が果たすべき本来の機能を見失った、暴走する空虚な中枢部」
「それは――」
まさか。イルスは息を飲んだ。
それは、天に刃を向けるかの如き意思だった。
大神院。槍神教、いや地上世界そのものとも言える最高の権威を、彼女は異端だと言ったのか。彼女が裁くべき異端が正統そのものであるならば、それは異端そのものの肯定ということになる。
否――異教徒の異端審問官。その在り方としては、この上なく正しいのかも知れない。しかし、槍神教に認められその敵を裁く身でありながら、その存在そのものを問い直す――あるいは破壊するような意思を持つ彼女は、余りにも異質に過ぎた。無論、内部に潜入した抵抗運動者であるイルスが言えた事でもないが。
「貴方は一体――」
「ハルは、この不毛な争いを――人にかけられた呪いを解きたいの」
「呪い――?」
「兎は【神々の図書館】のデータベースを管理し、世界の言語秩序を維持する種族。その王族であるハルが果たさなければならない使命は一つ」
月を見上げながらハルベルトは呟いた。第四衛星、
月下には争いが絶えず、異質なものを排除し、峻別し、序列化し、否定し、そして誤解と偏見が積み重なって埋めようのない隔絶が深く深く横たわる。
それは地上と地獄のように。
その架け橋たる世界槍の内部で、血みどろの闘争が繰り返されているように。
言語支配者たちが打ち立てた絶対言語という理性は失われた。旧世界の崩壊で科学文明を唯一絶対とする杖の秩序は失われた。繰り返す愚かさの歴史の中で進歩史観は失われた。奪え、殺せ、勝ち取れ。野蛮へと絶え間なく後退し、停滞し続けることを人類は選択した。そうして、停滞の中で利益を貪り延命を続ける。革新や前進の意思は巨大な構造に圧殺される。終わりのない
「【絶対言語】の再生。引き裂かれた言葉と意思を、再び繋いで語り直す」
高位の呪文使いである言語魔術師にはその先がある。
言語支配者。神話の時代に存在した言語魔術の王。
彼らが築き上げた【心話】の原型たる【絶対言語】は完全な言語であるという。伝承のみにその存在が示唆されているそれは、呪文の究極の形である。
失われた神秘。それを再びこの世界に取り戻すのだと、ハルベルトは宣言したのだ。
「そんなことが本当に――? いや、そもそもそんなことをしてまで、貴方は一体何がしたいのだ? 何が目的で」
「世界平和」
イルスは唖然とした。目を見開いて、口を開く。彼がこのような間の抜けた表情をするのは極めて珍しいことであった。しかし無理もない。ハルベルトの発言はあまりにも。
「ハルは、世界を救いたいの」
月明かりの下で、漆黒の闇がわだかまる。
だがそれはおぞましい醜悪さではない。恐怖と畏怖を秘め隠しながらも、未知の驚異と神秘を内包した、幻想という名の美しさである。
夜明けはまだ遠い。あとどれだけの言葉を重ねたとて、朝の光は世界槍には届かないだろう。そして朝が来てもなお、悪夢のような争いの渦は終わらないのだ。
だがそれには留保がつく。
今はまだ、という。
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