3-42 言理の妖精語りて曰く⑬



 ミルーニャとお呼び下さい、と白い少女は呟いた。


「メートリアンであることを捨てる気はありません。けれど、ミルーニャであることを否定する気もなくなりました。だから、今までのようにミルーニャとお呼び下さい。それに魔女としての名は『宣名』するときの為に秘め隠しておきたいですし」


 私を掌の上に載せながら、ミルーニャは静かに告げた。その表情からは憑きものが落ちたように陰が消えている。幼げな表情が、少しだけ大人びている様な気がした。

 影の世界スキリシアから帰還してすぐに、私とミルーニャは身を隠した。気を失ったままのティリビナの民たちや負傷した二人の救護はハルベルトとイルスに任せ、少し離れた森の中に移動したのである。理由は無論、


「綺麗さっぱり負けちゃいましたし、潔くアズーリア様に従います。煮るなり焼くなり好きにして下さい」


「じゃあ、とりあえずこっちに来てこれからのことを話し合おう」


 ミルーニャのしでかしたことは、探索者とティリビナの民が本来敵対しているとはいえ大事だし、その上修道騎士にまで敵対してしまっている。捕縛されてその場で処刑されることもあり得た。そして、私はそれを望んでいない。

 だがどうすれば事を上手く収められるだろうか。ミルーニャは多くの人を傷つけた。私がそれを許しても、他の皆が許さなければ万事解決とはいかないのだ。


「ミルーニャは最低な裏切りをしましたからね。まあ殺されても文句は言えないと思っています」


「嫌。そんなことはさせない」


「はい、ミルーニャも嫌です。ミルーニャは、私は死にたくありません」


 祝福が失われても、その髪色は白く、虹彩は赤いままだ。それは彼女の消えない傷痕なのかもしれなかった。瞳が揺れて、そっと呟く。


「貴方が教えてくれたから。だから、生きていたいです。普通に生きて死んで――それで、一杯長生きして、普通に歳を重ねて、できれば幸せに死にたい。そんな幸福を与えてくれたアズーリア様に、精一杯の恩返しがしたい」


 私は何と言って良いものか迷って、そのまま無言で俯いた。何を言っても間違うような気がしたからだ。ミルーニャはそんな私を見て、そっと掌を顔に近づけた。縮んでしまった身体で見上げると幼い少女の外見もとても大きく見える。


「ありがとう。貴方は本当に英雄でした。小さくて素敵な、ミルーニャの勇者様」


 そっと、その柔らかな頬に近づいた。寄り添うように、頬ずりするように、ミルーニャは小さくなった私の傍で目を閉じていた。

 妙案は浮かばない。

 メイファーラから伝わってきた感情は、自らが最悪の裏切りを受けたにも関わらず優しい心配と同情だった。瀕死の状態でなお、彼女はミルーニャの過去を悲しんでいた。彼女の接触感応能力は、その共感能力の高さゆえなのかもしれない。どこまでも優しい彼女は、きっとミルーニャを笑って許すだろう。確信があった。

 プリエステラはミルーニャとわかり合おうとしていた。彼女が許せばきっとティリビナの民も強くは非難してこないだろう――そんな醜い打算もある。それでミルーニャを守れるなら醜くても卑しくても構わないと思えた。

 問題は三人の修道騎士たちだ。イルスの治療によって一命は取り留めたようだったが、あれほどの大怪我をさせてしまったミルーニャと彼らがわかり合うのは絶対に不可能に思える。ほとんど敵対していたとはいえ、謝罪や償い、罪滅ぼしをしなければとも思う。ミルーニャを会わせて何かあってもいけないし、私にできることがあればいいのだが。といっても私と彼らはあまり仲が良くない、というか険悪である。

 そういえば、勝負の結果はどうなるんだろう。今更と言えば今更である。勝負どころでは無くなってしまったわけだし、中断が妥当だろうか。

 私はしばらく悩んだ挙げ句、決断を放棄した。

 ハルベルトに相談しよう。

 頼りになる私の師匠。彼女と話せば、きっといい考えも思い浮かぶだろう。何と言っても、彼女はいつだって私の危機に駆けつけてきてくれる。

 ミルーニャは私の事を英雄だと言ってくれた。少しこそばゆい呼ばれ方。ならば、私にとっての英雄はきっとハルベルトだ。私の前を歩む人。美しく言葉を紡ぐ、綺麗な声の言語魔術師。それはひょっとしたら甘え、だったのかもしれないけれど。

 私とミルーニャはそうして暫くの間身を寄せ合って、それぞれ思考の中に沈んでいた。そんな時間もやがて終わる。ミルーニャは掌から顔を離して、まじまじと私を見つめた。


「でも良かったですぅ。帰ってきた途端、黒衣ごと縮み出した時は心臓が潰れるかと思うほど心配しましたけど――」


「限界を超えて呪力を使ってしまったから。今は夜だし、しばらくこのまま月光を浴びていればそのうち元に戻るよ」


 天使を撃退する――改めて思い返しても恐るべき難事だったが、その為に私は自らの実力を超えて呪術を行使し、文字通り身を削って呪力を放出してしまった。

 私は物質的な属性が強い霊長類や他の眷族種たちと比べてずっと呪術寄りの存在だ。大神院が定めた眷族種の序列は高いほど呪的霊的な性質が強くなる。序列第二位の私達はほとんど非実体みたいなものだ。実は二位というのも昼間は弱体化するという性質の為であって、一位の空の民よりも純粋な呪術生命体に限りなく近い。

 そんな訳で、現実の肉体を維持できなくなった私の実体は見る間に縮小してしまったのである。ミルーニャの掌の上に乗るくらいに。


「はー、前もちっちゃくて可愛らしかったですけど、今もやっぱり可愛い♪ その上、汚い男とかうんざりする女とか、しがらみばっかり作る性別などに囚われない――うん、ミルーニャやっぱり決めました」


 ミルーニャは決然とした瞳でこちらを見た。

 そして、厳かに告げた。


「おかとーさまとお呼びしても」


「やめて」


「えーっ」


「意味が分からない」


「えへへっ、だってアズーリア様は父の遺志と探索者証を受け継がれたんでしょう? なら、ミルーニャの家族同然です! ミルーニャのお家は、アズーリア様のお家ですぅ!」


「それは――保護者的な意味でってこと?」


「え? 生涯の伴侶的な意味ですけど」


 これは、代償行為なのだろうか。彼女の家庭は既に失われてしまっている。その欠落を塞ぐ役割を、私に期待しているのかも知れない。

 彼女はティリビナの民が結束するのを見て、それは弱さだと否定した。その言葉はきっと間違いではない。けれど、否定されるだけのものでもない。彼女がそう思ってくれたのだとしたら、それはとても幸せなことだと思えた。


「とまあ冗談はここまでにして」


「冗談だったんだ」


「こほん。ここまでにして、ミルーニャを――この白のメートリアンを打ち破った以上、アズーリア様にも権利が生まれたことになります」


「権利?」


 唐突に何を言い出すのだろうか。文脈が読めず、首を傾げる。

 ミルーニャ――メートリアンとしてこちらを見据える彼女の瞳はとても真剣で、私は思わず居住まいを正した。


「現在アズーリア様は黒のヴァージリア――呪文の座の末妹候補ハルベルトから使い魔として勧誘をされていると思います。このへんの事情は把握しておられますよね?」


「うん、大まかな所はハルから聞いてる。ミルーニャも候補だったんだよね。で、予備の候補としてハルを陰ながら支えつつ控えとして待機もしていると」


「はい。そして虎視眈々と取って代わることを目論んでもいました。今はもうそんな気はありませんけどね。ちょっとしか」


「ちょっと?」


「ほとんどでした。間違えました。ほんとですよ」


 あ、目を逸らした。これは多分、隙あらばハルベルトを倒すことを考えているな。

 まあいいか、と私は思った。それはそれで、彼女らしい。そして、その時はきっとハルベルトも真正面から受けて立つだろう。


「それでですね。予備候補というのにも序列というか、成績で順位が付けられてるんですよ。私は杖の座の候補としては二位、呪文の座の候補としては四位でした」


「それって、結構凄いんじゃないの?」


 杖の座の正規候補者とは最後まで競り合ったということだ。それに、複数の分野で上位に食い込むなんて中々できることではない。


「それなりに策も練りましたからね。結局及ばなかったわけですが――話が逸れました。とにかく私の『優先順位』は予備候補の中でもかなり上位だったのです。そして、予備候補が予備候補を倒せばその順位は入れ替わります」


 何が言いたいのか、未だによくわからない。

 この話は、一体何処に繋がるのだろう――?


「つまり、アズーリア様には三通りの道があるのです。一つはこのまま星見の塔とは関わりなくご自身の目的に向かって進むという道。もう一つはハルベルトの使い魔となって、呪文のグロソラリアとして共に進むという道。そして最後の一つが――」


 メートリアンは、そこで一度言葉を区切った。

 その僅かなひととき――それは世界が変わる直前の静謐。

 破壊の前の平穏だった。


「呪文の座の予備候補、澄明ちょうめいのアズーリアとして、ハルベルトの襲名をかけて黒のヴァージリアと対決するという道です」


「は――?」


 この日最大級の驚愕が、私の小さくなった身体を駆け抜けていった。

 メートリアンは真剣そのものの表情で言葉を続けていく。


「別に他の候補者に挑んでもいいですけどね。とはいえアズーリア様の適性からして呪文の座しかないでしょう。混乱させてしまったかもしれませんが、これも公平さを期するためです。貴方にはその権利があり、行使する自由がある。すべてアズーリア様の意思次第です」


「一体何を言って」


「ま、コキューネーお姉様の脳髄洗いで綺麗さっぱり記憶操作されたんですから、覚えていないのも無理はないですよね。黒百合の子供たちの中であの頃の記憶があるのは私とヴァージリア、それにもしかしたらあの三つ目も――」


「だからっ、何を言っているっ?!」


 耐えられなくて、私は強く叫んだ。

 何か、信じていた確かな足場が崩壊していくような感覚。

 自分の事がわからなくなっていく。これは一体、どんな刑罰なのだろう。

 積み上げられた不安定な卵の上。落ちて壊れて中身を零す――。


「フォービットデーモン。キュトスの姉妹第二位【燦然たる珠】ダーシェンカお姉様の解けない呪いによって生み出された大呪石【彩石】が照らし出す影。彩度の十六体と明度の二体から成る情報構造体。資質のある子供たちがそれらをアストラル空間で使役し、競い合いました。そして最も優れた一人を十九番目の完成体【万色】と定める――最も優れていたのは彩度第十六番、澄明のヘレゼクシュ。姉妹第二位の後ろ盾と文句なしの傑出した才覚。呪文の座の正規候補者、その最右翼。綺羅、星の如く居並んだ候補者たちの中でも黒のヴァージリアや朱のサンズ、紫のティエポロスや明暗の妄想姉妹と並んで将来を有望視されていた天才」


「何の――何の話なの」


「私、散々ぼっこぼこにされて結構へこんだんですよ? 勿論、最後まで競い合って負け越してたあの黒いのもそれは同じだったでしょうけどね」


「知らない。そんなことは、知らない」


「貴方はグロソラリアでありながら末妹の予備候補でもあるということですよ。あの冬の魔女がゼノグラシアでありながらも同時に末妹の正規候補筆頭であるようにね。二つの資格――きっと、そうやって運命が幾つも折り重なるからこそ貴方たちは英雄足り得るんでしょう」


 英雄――その言葉は、どこまでも私について回るようだった。

 私には目的がある。迷宮を攻略し、地獄にいる妹を取り戻す。

 それは揺るがない。けれど、その過程は――道は一つではない。

 世界はこんなにも多様で雑多で不確かだ。 


「貴方とヴァージリアは最も優れた呪文使いとして、幻想者イリュージョニストと呼ばれていました。あの妄想姉妹が妄想者デリュージョニストと呼ばれていたのに引っかけてね。全ては懐かしき黒百合宮――そしてあの無窮の世界、アストラルの蒼穹に置き去りにした、儚い思い出です」


 失われた記憶。

 色がわからない。顔がわからない。声が出せない。言葉が紡げない。実体が確定しない。私はひどく不安定だ。曖昧であやふやで、輪郭すら定まらない夜の迷い子。

 自分が何者であるのか。

 それは、当たり前のようで答えることがひどく難しい問題だ。 

 無性に気になった。

 私はどんな顔をしているんだろう。

 霊長類の顔――それを異質な生命である私が正確に捉えるのはひどく難しいけれど。今だけは、その自己認識がどうしようもなく欲しかった。

 アズーリア。その名の意味を、私はまだ知らない。

 知りたい。私は、どんな形をしている?

 私は何色なんだろう。

 美しい黒。可憐な白。人には様々な色彩がある。翼を広げた時のように、それは正しく青なのだろうか。ならば、その青にはどんな意味があるんだろう。

 四つの月が皓々と照らす森の中。

 子供のような疑問が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。




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