3-39 言理の妖精語りて曰く⑩




 闇の中に、嗚咽する声が響いた。

 私、アズーリア・ヘレゼクシュはミルーニャの過去を追体験しながらその語りを続けていく。メイファーラが黒槍から読み取ったミルーニャの過去。その情報から私は再構成した。内面を忖度した一人称。想いを想像した騙り。物語を捏造して突きつける。


「やめて、やめて下さい――見ないで、それ以上私を暴かないでっ。お願いだから、もうやめてよぅ」


 ぽろぽろと、赤い瞳から雫がこぼれ落ちていく。

 無防備な裸の手足を闇色の触手に拘束され、貼り付けにされた白い少女は涙を流して懇願し続ける。私は黒衣から伸ばした無数の触手をきつく締め上げて、まだ足りないとばかりに過去への参照を繰り返す。ミルーニャという現在とその過去を関連付けて語る。バインドする。


 肉体への攻撃が意味を為さないミルーニャに対して有効な攻撃は一つだけ。

 その精神を傷つけること。

 その心を暴き立て、徹底的に打ちのめすこと。

 ばらばらに解体して変質させる。


 切り分けて分解して零落させて貶める。それがあらゆる呪術の反対呪文【静謐】の、その名とは裏腹に雄弁な悪意の解釈。本来、ただあるがままの過去という事象。それを一人称という一面的な個人の世界観で歪曲させる、語りによる邪視の再現。呪文使いは物語るという行為によって邪視者の事象改変と同等の効果を引き起こす。


 けれど、私がするべきことはエスフェイルの時のような相手の否定ではない。

 その次の段階。破壊の後には再生がある。事象の再構成。再解釈。

 ミルーニャは宣名によってまことの名を明かした。魔女としての名、メートリアンという名前を。私が彼女を打倒するのなら、彼女が己の本質と定めたこの名前を解体する必要がある。


 けれど私はそれはしない。私が掌握し、束縛するのはミルーニャという名前。ミルーニャ・アルタネイフ。たとえ僅かな時間でも仲間だった、あの毒舌で優しい年上の少女。その言葉と優しさを、私は信じているから。


 必要な言葉を口にすることを、もう私は惜しんだりしない。躊躇ったりしない。恐れたりはしない。私には言葉がある。私はもう喋ることができる。闇色に輝いて失われた声を張り上げる、心の装具が。


「言理の妖精語りて曰く」


 発動の起句と共に、超常の神秘が舞い降りた。色のない光が暗闇を照らしていく。

 それは死人の森の断章に記録された、一人の探索者の遺言だった。

 影の世界、その外側で魔導書がひとりでに開く。そして音声が流れ出していく。


「――後の事は君に任せた。そして、できたらでいい。生き延びて地上にいる私の娘と出会うことがあったら伝えて欲しい」


 すまなかった、許して欲しい、と。

 ミルーニャは涙に溢れた目をかっと見開いて、痛みに耐えるようだった表情を怒りで一杯にした。それは決壊した堤防から溢れ出す怨恨の奔流だった。


「ふざけるな、ふざけるなっ、ふざけるなあっ!! 何ですかそれっ、私はそんな答えは求めてないっ。帰ってきたら勝手に落ちぶれてて、勝手に見捨てられて、その挙げ句身勝手に縋り付いてきて、勝手に死んで、その上最後の言葉がそれですかっ! 私が、私がこんなになったのは、元はと言えばっ」


 それ以上を口にすることは、彼女の矜持が許せなかったのか。ミルーニャは唇を強く噛んで言葉を抑え付けた。それでも溢れる激情が血となって顎を伝う。


 ペレケテンヌルの祝福者にも関わらず、彼女が信じるのはセルラテリスだ。己のみを信じる求道者めいた精神。運命を誰かのせいにするということが、メートリアンとなったミルーニャにはできないでいた。それは彼女にとって抵抗し、切り開くものだから。得体の知れない何かに縋ってもどうにもならない。それどころかより最悪な結果を生むだけだと身をもって知ってしまったから。

 

「『もし可能であれば、この魔導書を形見として娘に渡して欲しい』――そう彼は言っていた。肝心の娘の名前を、私は聞きそびれてしまっていたけれど」


 ――嘘だ。そんなこと、あの男は言っていなかった。

 私が聞いた言葉はこうだ。


『呪具というのは、それを必要としている人の手に渡ってはじめて意味を持つものだ。この魔導書は、私よりも貴方に使われたがっている』


 ミルーニャの父親が同じような言葉を口にしたと聞いて、もしやと思った。珍しい考え方というわけではない。たまたま同じ事を言っていただけかも知れない。けれど、理屈ではなく直感で、私はそうだと確信していた。

 第五階層の戦い。魔将エスフェイルと私達よりも先に対決し、敗れ去った三人の探索者たち。その中にいた杖使い。杖と弩、魔導書という呪具構成。第六階梯以上の高位杖使い。


「ひどい人だったのかもしれない。憎まれて、恨まれて当然の人だったのかもしれない。それでも、それだけが全てというわけでもなかった――」


「だから何だって言うんですかっ! それで、私のこの今が、あの過去が、今も眠り続けている母が、変わるとでも言うんですか? いいところもあるから許せって? 冗談はやめて下さいよ、私は過去をいちいち振り返ったりはしないんだ! 私はただ今を肯定したいだけ、前を向いて進みたいだけです! だから私は不死であることを肯定するんだ、私は私自身を肯定することでしか前に進めないんですっ!」


「ミルーニャが世界中を不死にしたいのは、それだけが理由なの?」


「ええそうですよ。私は、私にはもう自分しかないんですからっ」


 そう言って、自嘲するように――そして諦めるようにして続けた。


「もう気付いているんでしょう? 私の不死性の秘密に。祝福者というだけでは説明が付かない、この超常の再生能力の由来――」


 そう、私は理解している。彼女には二つの血が混じっている。第九位の霊長類である母親と、第五位の三本足の民である父親の。どちらの性質が強く発現するのかは様々な要因に左右される。遺伝、環境、そして守護天使の選択――。


 恐らく、幼少期の彼女には三本足は無かった。特定の何かに執着するようなことは無かったため、母親の性質が強く遺伝したのだと誰もが思っただろう。そしてそれは正しかった。


 けれども、守護天使がペレケテンヌルになってしまったことにより、彼女には三本足が生まれてしまう。その時、その環境下で執着していたもの。そうせざるを得なかったもの。境遇がそれを決定付けた。


「私の三本足は、『私』です。あはは、『家族』とか『関係』とか『幸福』とかだったらまだ救いがあって綺麗な話だったかもしれないですけどね。けど違った。結局私が大切に思っていたのは、そのままであって欲しいと願ったのは、誰かの為とかそういう立派なものじゃなかった。私は私だけしか大事じゃなかった! それを、あの天使は突きつけて証明してくれたんですよ、この身体を弄くり回してね! 天罰って、こういうことなんでしょうか。ねえ、アズーリア様? 利己的で保身しか考えていなかったから、だからこんなことになったのかな――?」


 肉体の部位やごく身近な他者が三本足になることは良くあるという。

 けれど自己そのもの――それも強固に自分の総体に執着し、更に祝福者であるという例はとても稀有なものだった。そして、三本足の民は誰もがその執着によって三本目の足に呪力を宿す。


 祝福者の強烈な呪力と、自分自身への強迫観念オブセッション。かくあらねばならないという自己規定。それはこのようにも言い換えられる。

 それはどうしようもない悪意の解釈だ。


「私は自己愛の怪物なんです。自分が好き。自分が大切。自分さえよければそれでいい。他人への関心は自分を保つ為の手段でしかない。私の行動に何か優しさや利他的なものを感じたのなら、それは全て私が私を保つ為です。私は他者への共感が全く出来ない人でなしなんですよ。それをこの身体が証明している」


 ミルーニャは赤い虹彩を暗い絶望に染めて震える声を吐き出し続けた。それが、その絶望が彼女を突き動かすものなのだと私は理解した。


「それが貴方の不死の呪いなんだね、ミルーニャ・アルタネイフ。けど――それだけじゃないって、私はそう信じてる」


 見据えるのは不死の呪いじゃない。

 それを願った、最初の祈り。

 アキラに対してそうしたように、ミルーニャの心を暴き立てて異なる視野で塗りつぶす。それは呪いの上書き。それは過去の再解釈。


 人の心を規定する呪術的思考――神話という枷を揺るがし、否定し、新たな物語で書き換える特権者の傲慢だ。

 ラーゼフは、それをこう形容していた。

 神話揺動者ミュトスフリッカーと。


「その不死を成り立たせている要因はもう一つある! 三本足の民は環境の変化で執着の対象を変えていく。道具の破損、ペットの死。そして新たな家族の誕生。娘が出来た父親が一番に執着するのは、一体何だと思う?!」


 あるいは、その執着は悪しきものだったかもしれない。

 三本足――すなわち自分の一部だと捉えて思い通りにならないことに苛立ったり。

 『他者』ではなく『もの』として扱うからその内側の悲鳴が届かなかったり。

 激務や家族とのすれ違い。そうした積み重ねが、彼を陰惨な行為に走らせた。


 だとしても、その行為は邪悪だ。褒められた人物ではない。ミルーニャの恨みは正しい。

 それでも、怨恨や憎悪とは切り離された所で『善きこと』は存在する。


 対立する宗教、思想、民族が助け合うこともあり得る。同胞同士での殺し合いもまた同様に。極悪人の殺人鬼が命がけで人を救うかも知れない。誰からも賞賛される聖人が虐殺を行うかもしれない。その人格とは関係無く救いはもたらされる。


 ミルーニャの父親がどんな人物であれ、彼は私の命を救ってくれた。その事実は揺るがないのだ。

 ミルーニャはふるふると首を振って、子供のように嫌がった。


「嘘です、嘘、そんなの嘘っ」


「自己愛だけじゃない。お父さんの思いが、その不死の根源なんだ」


「だから何だって言うんですか、そんなのっ」


「ミルーニャは一人じゃないっ」


 左手が輝く。闇色に、更に色濃く影に沈んでいく。

 ミルーニャは捕らわれて私と話しながらも打開策を練っていた。密かに蓄積させた呪力で翼から大量の羽を射出し、私を遠ざける。翼が変形した刃で拘束ではなく自分の肉体を切り裂いて脱出する。闇の中で純白の少女が羽ばたいた。


「私は一人ですっ! 誰も頼らない、誰もいらない!」


 白い羽の弾丸を、私は闇と同化して回避していく。広大無辺な影の世界、その中で二つのアストラル体が激突する。

 弾き飛ばされたのは白い少女。この世界では、杖使いの彼女は呪文使いの私に及ばない。ましてや今は夜でここは影だ。

 ミルーニャは衝撃に呻きながらも体勢を立て直して再び向かってくる。きっとこちらを睨み付けた。私も真正面から向かい合う。


「全ての人をあなたと同じにしなくても、違うままでも、ちゃんとわかりあえる。私はそう思うから」


「下らない、貴方は結局それだ! 要するに私を無力化したいだけでしょう?」


 交錯する。三本足のような尻尾が鋭利な爪を閃かせ、私の触手を切り裂いていく。だが即座に再生、その数を増してミルーニャに襲いかかる。影の如き感応力。触手の数は無尽蔵。参照先はエスフェイル。あの影の棘を雨のように降り注がせる絶技を再現する。ほとんど同じ種族である私には、それが可能なのだ。

 

「そうだよ! ミルーニャとどちらかが死ぬまで戦うのなんて嫌だからそうしてるの! それにミルーニャが優しいのを私は知ってる! 嫌いなはずのハルを気遣っていたことも、迷宮で人が傷つく事を悲しいって思ってたことも! だから、もう誰も傷付いて死ぬ事がないように、全ての人を不死にしようとしてるんだ!」


「違う、違います、勝手に私を代弁するなっ! 貴方は何様ですかっ、偽物の英雄のくせにっ! 私はいつだって自分の為だけに生きてる! そういう生き物で、そういう存在だって、もう決まってるんです! そうやって私は自分の運命を切り開く!」


 両翼が白い弾丸を撃ち放つ。それはさながら土砂降りの雨のよう。

 黒衣が黒い触手を解き放つ。それはさながら繁茂する樹木のよう。

 白と黒が激突して、影の世界が悲鳴を上げた。


「自分は自分の為にしか生きられない、自己愛の怪物だって――? その運命を受け入れるの?! 性格の悪い天使なんかに与えられた、下らない運命に屈していいの?! 違うでしょう、貴方はそんなに弱くないはずだ! 運命に抵抗してみせるんでしょう! メートリアン!!」


 私はメートリアンという名前を、そこでようやく口にした。私はその名前を否定しない。ミルーニャ・アルタネイフという名前も否定しない。それは多分、両方とも彼女だと思うから。


 メートリアンは幼い顔をくしゃりと歪ませて、激怒と共に突撃した。その肉体が異形のものに変貌していく。膨張し、肉腫を蠢かせ、無数の足と翼、嘴を身体の至る所から生やして暴虐の化身となる。全て私を排除するために。


 衝撃。そして破壊。

 斬撃、打撃、刺突。引き裂き、抉り出し、啄んで喰らう。

 黒衣が引き裂かれて、影の中を布の残骸が舞った。


 しかしメートリアンは愕然と目を見開いた。手応えが無いことに気付いたのだろう。何かの直感に導かれるようにして、頭上に視線を巡らせる。

 影の世界に浮かぶ月はひとつだけだ。現実世界の足下に広がる影。その出口のように天上で輝く、第一衛星。その名は夜月スキリシア


 空に輝く月は、この虚無の世界に最後に残った天蓋なのか。それともただ一つだけの出入り口なのか。

 皓々と輝く満月は、この世界ゼオーティアと重なり合うもう一つの世界の存在を誰の目にもはっきりと知らしめている。


 月光を背に、黒衣を脱ぎ捨てた私は飛翔する。

 『翼』を広げて。


「正体を見せましたね、【スキリシア=エフェクの夜の民】!! 世界内部の異世界人――異形の諸部族グロソラリアッ!!」


 世界は一つじゃない。

 この世界ゼオーティアと平行して存在する様々な同一レベル、同一レイヤーの平行世界に、下位の世界。そして上位にも世界は存在する。


 当然のことながら、外部に世界が存在するのなら内部にも世界は存在する。

 世界内部の異世界。それは長大な構造体の内部に無数の世界を内包する【世界槍】がそうであるように。また邪視者たちがその奥義【浄界】によって独自の世界を具現化するように。この世界でありながら異世界でもある、重なり合う異界。それはこの世界の理に従いながらもずれた摂理を有する、近くに寄り添い続ける異境である。


 夜月スキリシアはそうした内世界のひとつで、私たち夜の民は二つの世界を行き来する異世界人にして現世界人。余所から来た先住民だ。

 世界の外側にある異世界からの来訪者達を外世界人と呼ぶなら、さしずめ私達は『内世界人』とでも言ったところか。この世界の住人でありながら、僅かにずれた世界観を有するものたち。


 様々な歴史や政治的な思惑、宗教的戒律や慣習に従って――そして神秘や呪術の常として隠匿することを重んじる私達はその姿を黒衣に包んでいる。私が黒衣の内側を認識妨害呪術で窺わせないのも、修道騎士として戦う時に全身甲冑で姿を隠すのはこのためだ。


 その性質を確定させず、隠し続けることで呪力を増大させる。隠されたものオカルト――それゆえの呪術生命体。影の世界に生きる影の生命。その物理的な実体は、本体であるアストラル体の影のようなものだ。私にとって物質的な肉体は影のように輪郭が曖昧で、それゆえに変幻自在である。


 メートリアンの目にさらけ出したその姿を、より自由に、影の世界を飛翔するのに適したものに変えていく。霊長類の姿も私。けれど、この私だって私には違いない。

 私の姿は一つだけじゃない。誰かから見られる姿。私自身が確信する自分。両方とも私だ。それはきっと、メートリアンだって、ミルーニャだって同じ。


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