3-37 言理の妖精語りて曰く⑧
ミルーニャは指先を虚空に踊らせて、複雑な呪文の構成を描き出した。その式の全容は理解できなかったけれど、私にはそれが杖に関わる――生体系の呪術に見えた。
「メクセトの神滅具、命脈の呪石。宿主に擬似的な不死性を与える呪具ですが、私がフィリスを併用して改良すれば、これは私の不死を再現可能になる。そして私は、これを量産します」
それは――悪いこと、なのだろうか。
話が大きすぎて即座に判断できないが、それによって人が死ぬ事が無くなれば――どうなるんだろう? 途方もない混乱が起きるような気もするし、それすら些細な事に思える世界そのものの激変が起きるような気もする。
ふと、ミルーニャが言っていた事を思い出した。
――ミルーニャは駆け出しですけど、気持ち的にはいっぱしの
――『呪具というのは、それを必要としている人の手に渡ってはじめて意味を持つものだ』って父が口癖みたいに言ってまして。小さい頃からそれを聞かされたからでしょうか。ミルーニャもそんなふうに――
――そもそも全部巨大企業が悪いんですよ! 前線では毎日人が怪我したり死んだりしてるのに自社の利益ばっかり追求して流通量絞ってるんですから。本当は幾らでも増産できるくせに、プロテクト料とかを無駄に間に挟むからどんどん高額化して必要な人の手に渡らないわけです。
気を抜くと、意識が闇の中に持って行かれそうになる。爪から注ぎ込まれる呪力は既に私の全身を完全に麻痺させていた。もう口を開くことすらままならない。
そんな私を優越感に満ちた目で見下ろしながら、ミルーニャは言った。
「不死という神秘の零落。星見の塔の連中が後生大事に抱え込んでいる不死資源を世界中にばらまいて、その価値を紙きれと同じになるまで貶めてやるんです――そして実現する、全生命の不死! 溢れる生命力によってあらゆる既存の価値を崩壊させ、有史以来最大最悪の災厄をこの世にもたらすのです。その後で私はこの世全てを呪う邪神、死ざる女神キュトスとして君臨してやるんですよ。世界中の人間が生の苦しみに喘ぐ様を眺めながらね」
露悪的な口調。スケールの大きさ。幼気な外見にはどこかつり合うような気もする、荒唐無稽な野望。
けれど、私にはそれがミルーニャの本当だとは思えなかった。
「ま、それはあくまでも最終目的です。その前段階で邪魔な方には消えていただきます。貴方の自我とかこの場にいる全員とかですね」
私にはミルーニャの目的の善し悪しは判断できなかった。けれど、その手段は否定する。そんなことはさせない。そう言おうとして、口がもう動かないことに気付いた。
最後の意思力を振り絞って、地に落ちていた魔導書を再起動させる。ぱらぱらとめくられる項から文字列が浮かび上がり、せめてもの抵抗を使用とするが、瞬時に呪文喰らいが魔導書そのものを捕獲し、呪文を無効化してしまう。
ミルーニャは力を失った魔導書を手に取って、どこか愛おしげに胸にかき抱いた。
けれど、そんな表情も一瞬の事。
赤い視線が悪意となって私を貫いた。
「ずっと、こうしたかったんですよ」
憎悪。爪をねじるように動かして、呪力を苦痛に変換して私の身体を蝕んでいく。悲鳴。視界が白くなる。息が出来なくなって、涙と涎が溢れ出して止まらない。
今まで向けられたことの無い、暗い感情が強烈に放射されて、私は胸が締め付けられるような気がしていた。それは、ずっと秘め隠されてきた、彼女から私に対しての本心だった。明け透けにぶつけられる好意。それらは全て、この途方もなく巨大な憎しみを隠すための仮面だったのだ。
「ああ忌々しい、汚らわしい、吐き気がする。演技とはいえ貴方みたいな人にべたべたしなきゃならないなんて、最悪の気分でした」
息も出来ない。
私は、ミルーニャに憎まれていた。嫌われていた。
そのことが、こんなにも苦しい。
「もうすっかり書き換えられてますね。当たり前か。どれくらい復元できるかな――」
「聞いてメートリアン。アズはメイファーラから事情を知って、それをあなたに渡すつもりでいた」
ハルベルトが声を張り上げるのが聞こえた。ミルーニャは冷淡な表情で言葉を返す。
「知りませんよ。だからなんだって言うんですか」
「あなたのお父様のことは――」
「黙れ」
かつてなく低い声でミルーニャの恫喝が響いた。刃の如き眼光が荒れ狂う殺意を宿してハルベルトを刺していた。
「下らない。下らないですよ。私がこの【死人の森の断章】にそんなに執着しているように見えましたか? だとすればそれは、命脈の呪石を完成させる為に必要だからです。これは失われた眷族種、【
一息に言い切って、それから自分の中の感情を振り切るように、強く言葉を発していく。まるで何かに急き立てられるかのように。
「そもそも私には恨むような気持ちは皆無なのです。そんなのは筋違いでしょう? ええ、私は感謝していますよ、勿論です。今は敵対していますが、利害関係とは別に、お礼を言わなくてはなりませんよね」
ミルーニャは、少しだけ爪から注がれる呪力を弱めた。喉元から麻痺が引いていく。曖昧になりつつあった視界が鮮明になっていき、白い少女の見下ろす顔が見えた。
「遅くなってしまいましたが、仇を討ってくれてありがとうございます。あんなのでも父親ではありますし、とりあえず形だけでも。ああそうだ、あれはどんな風に死んだんでしょうか? 私、松明の騎士団に問い合わせてみたんですけど詳しい事は機密だからって追い返されちゃって。ねえ、どうせ無様にやられて、みっともなく犬死にしたんでしょう? 自分の力量も弁えずに上位魔将に挑む、あの救いようのない三流呪術師は――」
「立派だったよ」
私がどうにか絞り出した言葉を聞いて、ミルーニャの嘲笑が止まる。
その幼い表情が、石のように硬くこわばっていた。
私は構わずに、あの時の事を思い出す。
第五階層。魔将エスフェイルとの戦いを。
「重傷なのに、エスフェイルに立ち向かって時間を稼いでくれた。目を斬りつけて、一番最初に戦果を上げたのもあの人。あそこで魔導書を私に託す決断をしてくれなかったら、エスフェイルを食い止めてくれなかったら。きっと私はあそこで死んでた」
だから、と繋げて、ミルーニャを見る。
無表情のまま、泣き出しそうな瞳をした白い少女に。
「お礼、直接言えなかったから、代わりに言うね。貴方のお父さんのお陰で、私は魔将を倒せた。本当にありがとう――」
「違います」
ミルーニャは、私が提示した過去を否定し、拒絶した。
「違いますよ。話を作らないで下さい。呪文使いが過去を捏造して嘘を並べ立てるのが仕事ってことはわかりますけどね。でも余りに現実感が無い虚構は時に人を不快にさせますよ。だって、そんなあり得ない話は信じられません。あの男は最低のクズです。無能だし度胸も無い。命を捨てて誰かに後を託すなんて真似、するわけないでしょう? どうせ最後の瞬間まで使いこなせもしない魔導書を浅ましく抱えこんで、惨めったらしく死んだに決まってます。ああ、もしかして私が責めると思ったんですか? 死人が落としたものを拾うのは探索者にとっては恥ずべき事ではありません。ねえ、責めたりしませんから、本当の事を――」
「全部、本当の事。とても立派な最期だった」
「やめて! あいつを肯定しないで! ちゃんと最後までクズだったって言って下さいよ! 家族に暴力を振るう父親なんてクズです。死んで正解でした。私はあの父親から解放されて自由になりました。幸せになったんです。だから、最後まで軽蔑していたいんです、わかるでしょう?!」
「それは、本当にミルーニャが望んでいることなの?」
「私の名前はメートリアンだと言っているっ!」
爪ではなく、足が振り下ろされた。腹部に鳥の足が食い込み、私は唾液と息を吐き出した。そのまま何度も何度も足が振り下ろされる。
その執拗な動きから、何かを連想する。
イキューを何度も打ち据えるプリエステラ。
舌の残骸を砕いた私。
それは恨みだ。
憎しみ、悲しみ、怒り、鬱屈、怨念、そうしたあらゆる負の念を身体の中に貯め込んで、どうにかして吐き出さなければどうにかなってしまいそうな苦しみ。
失われた者への嘆き。
そうだ。
あの暗い夜の森で、シナモリ・アキラはカインを手にかけたことを嘆いていた。
それはきっと、こんな黒々とした恨みの色をしていたのだろう。
「もういいですっ、貴方と話すことは何もありません! ヴァージリアを殺して、貴方を連れて帰る。それで全部終わりです」
「そう。これで全部終わり」
ハルベルトが、ミルーニャと私が会話している間に詠唱を完了させていた。音声によるものではない。彼女の背に隠れるようにして、黒革の魔導書が浮いている。
今まで必要性が無かったためにずっと未使用だったが、ハルベルトは初対面時からずっと魔導書を所持していた。思念によって項を手繰り、目的の呪文を構成したハルベルトが状況を打ち破る一手を打つ。
「今更何をしたって、呪文使いである貴方に勝ち目なんてっ」
「レトロウイルス」
「は?」
「【
「そんな
「摸倣子を逆転写して音韻学的解釈に従って書き換えた。ハルの【
ハルベルトの手に収まった漆黒の魔導書が妖しく呪力光を放射した。大判の本はひとりでに動いてぱらぱらと項をめくっていく。
「そして、司令塔から命令が届かなければ対抗呪文として攻撃を破壊することも止めることも記憶することもできなくなる――【
項から飛び出した半透明の兎が勢いよく呪文喰らいに飛びかかり、一気呵成に螺旋の角でその全身を引き裂き、刺し貫き、その奇怪な全身を破壊していく。
「ちっ、それでもまだ私には【
「呪力を奪って別の空間に排出するというその構造には致命的な欠陥がある」
「え?」
「熱量や呪力は奪えても、同じ『奪う』系統の呪術は防げないということ」
いつの間にか、ミルーニャの周囲から呪力が消えていた。大気に満ち、大地を流れる、自然に満ちる呪力が。月光から供給される呪力すら遮断されて、私の身体から力が抜けていく。
周囲の極めて広範囲を覆い尽くす球形の結界。ナトが作り出した【窒息】にも似た術だが、違うのはその規模と高度さ、そして内部から失わせるのが大気ではなく呪力だけであるということ。
呪力を遮断することで、呪文だけでなくありとあらゆる呪術を無効化するこれは、紛れもなく【静謐】の呪文だ。未熟な私や杖使いであるミルーニャが使える対抗呪文を、専門の呪文使いであるハルベルトが使えないはずも無かったのだ。
独角兎は地面に角を突き刺すと、土をその螺旋の内部に充填して引き抜いた。高速回転する質量が、弾体となって射出される。正確無比に撃ち出された螺旋の角は【静謐】の効果範囲に入ると消え去るが、内部の質量体は慣性に従って矢の勢いでミルーニャの左手を正確に撃ち抜いた。
氷の手袋に亀裂が入り、そのまま音を立てて砕け散る。
「しまっ――」
その瞬間、【静謐】の結界が解除された。
私は渾身の力で左手に動けと念じた。金鎖が震え、その最後の一環が音を立てて砕け散る。
無彩色の左手が純白と漆黒の輝きを同時に放ち、底無しの暗闇、世界の深層へと落下していく。暗闇から私はアストラル体の手を――触手を伸ばしてミルーニャの無防備なアストラル体を拘束する。
「嫌っ、なんですかこれ、気持ち悪いっ」
こちらの意識に引き摺り込まれて、私とミルーニャの二人は常闇の中に落ちていく。
向かう先は影の中。
第一衛星である
「遡って、フィリス」
過去の記憶へと没入し、語られるべき死者の記憶を語り直す。
入り組んだ想いの集積を、今と関連付けて結びつける。
「そうか、
アストラルの触手を振り解こうとするミルーニャの行動は無駄だ。あれらは実体無き影でしかない。その束縛を抜け出すには、個々に割り当てられた意味を捉えて正確に解体していかなければならないのだ。
これから私は夜闇に沈み、そしてミルーニャを暴き立てる。
それは傲慢で非情で、とてもとても卑劣な行為だ。
けれど私はそれをしなければならない。
メイファーラに託された記憶を想起する。彼女は、ミルーニャに呪具を渡された瞬間にその狙いに気付いた。けれど、裏切られると分かっていてあの黒槍を使い続けた。短い間でも仲間として共に戦った少女のことを信じたかったからだ。
私は、メイファーラの想いを肯定したかった。
メイファーラが接触感応によって知った、ミルーニャという少女の過去。
それは【道具屋】ミルーニャの物語。
死んだ父親――家族という神話語り。
苦痛。祈り。非業。
恐怖、権威、そして憐憫。
負の記憶を語り直す。
そして、深淵に落ちていった。
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