3-22 言語魔術師の弟子(前編)②
月が皓々と私達を照らしていた。岩壁に背を預けて、私達は並んでお菓子を口にする。あまり褒められたことではないと知っていても、甘くて美味しいということはそれ以外の事をどうでも良くしてしまうものだ。
右側に座るハルベルトの垂れ耳が、機嫌良く斜め上に持ち上がっている。先程までの雰囲気が嘘のように、穏やかな口調でハルベルトがぽつりぽつりと言葉を紡いでいく。
「本当は、争い事は好きじゃない。競い合う事はいいと思うけど、その為に誰かを排除したり、傷つけたり――そんなのは、悲しいだけ」
「ハルベルトが勝負を提案してくれたのは、私のため?」
「それもある――けど、ハルの為でもあった」
どういう事だろう。彼女の利益になるような事が、この勝負にあるのだろうか。私が強くなる事で、彼女の助けになるとか?
「アズが馬鹿にされてたから、腹が立った。だから見返してやろうと思った。あの男に勝って、見返して欲しかった」
想定外の答えに、どう返事をして良いかわからなくなって目を白黒させてしまう。ハルベルトはこちらに視線を向けないままクッキーを飲み込んでお代わりを要求してくる。その顔が、少し上を向いた。
「折角、順調だったのに。アズに格好悪いところ、見られたくなかった」
しょげかえったような兎耳。慌てて口を開くが、どう言葉をかけたものか。まとまらないまま勢いに任せてしまう。
「でも、ハルベルトは凄い言語魔術師だし、気にしなくてもいいと思う! 鴉を倒した時のハルベルトは凄く格好良かった! そもそも、ちゃんと守れなかった私が一番悪いわけで――これからはずっと、私がハルベルトを守るからっ、誰にも触れさせないって約束する!」
言えた。ちゃんと、間違いのない、適切な言葉を選択できたはずだ。妙な事は口にしていない。多分。
ハルベルトはこちらを向いて、まじまじと私の顔を見つめた。それから無表情のまま「ふーん」と呟く。兎の耳がぴくりと動いた。顔を前に向けて、こちらを見ないまま「生意気」と言った。
「その、偉そうにして、ごめんなさい」
「いい。ハルが弱いのが悪いの。どうせ、どこかの亜光速移動しながら邪視と杖を同時に操る英雄とか、
そんな超人がそうそういるとは思えないが、ハルベルトの口ぶりからすると心当たりは知り合いのようだった。【星見の塔】が魔境だということくらい知っているけど、改めてその片鱗を聞かされるとおののいてしまう――ではなくて。
「弱くていい――ちゃんと、私が守ればハルベルトが前で戦える必要なんてないから。だから、その、さっきはごめんなさい」
「許してあげる。ハルも大人げなかった。それと――助けてくれてありがとう」
両手で膝を抱えて、その上に頭を乗せるようにしてハルベルトはいつになく柔らかい表情を形作った。月光に映える白い面差しは地上に輝くもう一つの月のよう。
夜の方が綺麗な人だな、と何となく思った。彼女には、太陽の輝きよりも月明かりの方が似合う気がする。彼女の中に流れる兎の――
「それにしても、やっぱりミルーニャに対するあの態度はもうちょっと何とかした方がいいと思う。相性が悪いのはわかるけど――私からも、ミルーニャにもう失礼な事を言わないようにお願いしてみるから、もう少し仲良くできない?」
ハルベルトは途端に不機嫌そうになって、意外にも子供じみた表情を作った。頬を膨らませて「だって」などと言い訳をする子供のように振る舞う。
「あれは、アズが悪い」
「ええ?」
そこで、何で私に矛先が?
「ハルが折角迎えに来たのに、ちゃんと話は聞いてくれないし、他の女とばっかり楽しそうに話すし――」
「え、えええ」
まさかとは思うのだが。
ハルベルトは――嫉妬、している?
いやちょっと待って欲しい、その言葉の選択は何か違う。不穏当な方向に思考が向かっているのを自覚して、私は頭を冷やすべく【安らぎ】の呪術を発動させた。いきなり呪文を唱えだした私を白い目でみながら、「何やってるの」と引き気味のハルベルト。本当に何やってるんだろう。
「ハルだって、自分が人と接するのが苦手だってわかってる。子供っぽくて、普通ならしないような事をしてるってことも。でも、どういうのが正しいのかよくわからない」
「今までは、どうしてたの?」
「ずっと【塔】やお姉様たちの領地を回ったりしてたから、あんまり同じくらいの人と話さないの。月の実家に帰ってもそのまま日帰りとかで、同郷の友達とかも、全然いないし」
「そう、なんだ」
私はそこに踏み込んで良いものかどうか、少し迷った。彼女の耳が斜め上を向いているのを見て、よしと決意する。
「良かったら、ハルベルトの事を、教えて欲しい」
彼女は、しばらくの間だけ目を瞑って、何かを思案するように耳を柔らかく座らせた。眠ったのかと思うほど時間が経って、やがて耳が水平になる。「いいよ」という簡素な返事。その後に「ただし」と続いた。
「ハルでいい。ハルって呼んだら、教える」
そう言って、彼女は私に自らの身の上を語ってくれた。少し長い話で、【塔】の機密にも関わるから全ては話せないけれど、と前置きをしてはいたけれど、彼女は可能な限り私に色々なことを教えようとしてくれていた。
ハルベルトは、【星見の塔】に所属する言語魔術師で、世界中に知らぬものがいない半神たち、【キュトスの姉妹】の七十一女だと言う。けれど、それはとても奇妙な事だった。恐るべき大魔女たちの伝承は古来より各地に伝わっていて、様々な形で伝説や神話となって残されているけれど、最後の一人、七十一人目の伝承だけは存在しないからだ。理由は簡単、まだ見つかっていないから。
【未知なる末妹】――キュトスの姉妹の七十一番目は、ずっと空席だとされていた。未知であることを性質とする姉妹だとか、その姉妹が現れた時が邪神キュトスの復活の時で世界の滅びを意味しているとか、いや末世に到来して世界を救済する者だとか諸説が入り乱れているけれど、要するに何もかもが不明。
キュトスの姉妹たちにとっても、それは最大の謎であるらしい。
ある時、誰かが考えた。いないなら、作ってしまえばいいじゃない。
反対意見も当然あったらしいが、どのような力学が働いたものか、その発想は形を得てしまった。【最後の魔女】を創造し、選定し、決定する計画。
無数の候補者を姉妹ごと、あるいは派閥ごとに用意する。更にその中から四人の候補者を選出し、邪視、呪文、使い魔、杖の四つの座を対応させる。その四人によって行われる、キュトスの姉妹になるための競争。
その第二候補――呪文の座にいるのがハルベルトなのだという。
「ハルは、厳密に言えばまだキュトスの姉妹じゃないの。それどころか、不死ですらないただの人間。他の候補者はみんな人外だから、対抗する為にはハルもそれなりの無茶をしなければならなかった。その結果が、あなたが見たもの」
左右非対称の耳。胴体を蠢く、黒い血の紋様。
それらは全て、人ならざる存在になるために必要なことなのだと彼女は語った。
「ハルのお母様は【塔】の第三位、カタルマリーナお姉様の一番弟子で、一時期はキュトスの姉妹にと望まれた程に傑出した呪術師だった。けれどある時、太陰の王に見初められて月に渡ってしまったの。それはそれは長い時間をかけた、壮大な求婚劇だったと幾度となく聞かされた。お母様が身ごもった時、カタルマリーナお姉様は子供を弟子にとりたいと望まれた。お母様は己の意思でキュトスの姉妹の後継ではなくお父様を選んだけれど――子供がキュトスの姉妹になれる可能性があると聞かされて、きっと心が動いたと思う。お母様は二つ返事で引き受けたと聞いている」
「ええと、今さらっと重要な事を言った気がするけれど、もしかするとハルベルトは
「もしかしなくてもそう。周りから王女として敬われたことなんてなかったけど。胎児の時から呪術で調整を受けてきた影響で、こんな半端な見た目になったせいで――いつか絶対、最後の魔女として凱旋して全員平伏させてやる」
底知れない怨念を感じる宣言だった。彼女の気位の高さや剣呑な目つきは、このあたりに由来しているのかもしれない。
「競争は基本的にこの
勝利条件はそれぞれで違うらしいけれど、とにかくその『競い合い』の為に彼女はこの地に足を踏み入れたのだという。【智神の盾】や【松明の騎士団】に身分を置いたのは、単にそれが世界槍で行動するのに一番不便が無いということと、
「あなたがいたから」
「私?」
「そう。魔将エスフェイルを倒した【夜の民】の英雄。第一魔将フィリスの適合者。そして、この世界に生まれながらも特異な因子を有する【グロソラリア】」
「
心外な事を言われて、不快に思うよりも先に驚いてしまう。ハルベルトは「そうじゃない」と言って言葉を繋げた。
「アズはこの世界においてとても珍しい呪力を保有している。それが外部からもたらされた場合をゼノグラシアと呼び、この世界で発生したものをグロソラリア――異言者と呼ぶの。簡単に言えば、あなたには英雄の素質がある」
またか、と思わなかったと言えば嘘になる。
英雄として扱われることにはいい加減慣れてきたつもりだったけれど、やっぱり身の丈に合わない評価が重いと感じられるし、どこか他人事のようにも思えてしまうのだ。それに、魔将を倒した事や異質さが評価の対象になるというのなら、共に戦ったシナモリ・アキラにだってその資格はありそうなものだ。
「【未知なる末妹】の候補者は、それぞれゼノグラシアもしくはグロソラリアの使い魔と共に【選定】に挑むの。ハルはその相手にアズを選ぼうと思った」
「そんな、どうして私なんか」
「それは――」
そこでハルベルトは、何かをぐっと堪えるように言葉を詰まらせる。
訳もなく、胸が騒いだ。
言葉が続けられる。
「理由はさっき言った。それにあなたは呪文と相性が良いタイプだから、【呪文の座】の候補者であるハルと相性がいいと考えた。【夜の民】と【耳長の民】は同じように月から呪力を引き出すから、その点でも息が合わせやすいと思うし――それに歳も同じくらいで、あとは、事前調査で趣味が、その」
「趣味が? 何か、共通の趣味でもあるの?」
私はそんなに多趣味な方では無いけれど――せいぜい詩を思うがままに書き連ねたりお話を書いたり、あとは音楽とかだろうか。どちらかといえば外向的な趣味ではないから、あまり他人と共有したいと思ったことは無かった。彼女が望むなら、一緒にやってもいいかもしれない。
ところが、ハルベルトはその話は続けずに急に別な話題を振ってきた。
「あの、ガーデニア」
「はい?」
「だから、クチナシ――
「それが、何か?」
単語だけ投げ出されても何が言いたいのかわからない。あの白い花が一体何だというのだろう。
何故かハルベルトは私の反応がお気に召さなかったらしい。耳は悄然として、しかし表情は硬くこわばって不機嫌さを隠そうともしない。
何なんだろう。気難しいことは分かっていたつもりだけど、どうしてそうなっているのかがわからないとこっちとしても困惑することしかできない。
「えっと、飴、舐める?」
「舐める」
お菓子をあげると機嫌が良くなることは良く覚えておこう。恐らくこれはずっと使える知識だ。失礼な思考がどこかから漏れたのか、ハルベルトがきっとこちらを睨み付けてきた。
「兎に角、アズはハルのもの。これは決定事項」
「そんな、強引に」
「嫌なら別にいい。ハルに所有されたいって人は幾らでもいる。ハルの使い魔になる栄誉を断る愚か者なんてアズ以外には間違い無く存在しないけど。後になってやっぱり気が変わったなんて言ってもハルは知らない」
不遜に、そして自信に満ちあふれた声で言い放つ。私は反応せず、じっとハルベルトを見つめた。沈黙が続く中、彼女はちらっとこっちを見て、
「今の内になら、撤回する機会を与えてあげてもいい。これはとても貴重なこと。本心を打ち明けられずに躊躇っているのなら、恥ずかしがらずに口にするといい」
フードの中に表情を隠して、それでも沈黙を貫いていると、ハルベルトの兎耳がへにゃっと下がった。
「勿論、ハルは重要な決定を即座に下すような迂闊な人が嫌いだから、慎重な態度をとるアズに対しては一定の評価を下すことが出来なくもない、ゆえにより相応しい使い魔を選ぶという観点から見ると偉大なる最後の魔女の従者に適しているのは」
「お師様の言いつけには従います。私は、弟子ですから」
ぴくん、と垂れた耳が反応した。そっと窺うような上目遣い。黒玉が信用できない、というふうに揺れていた。
「それに、守るって約束したから。もう誰にも傷つけさせない。他の候補者と競争するんでしょう? その過程で争いが起こるなら、私が貴方を守らなきゃ。私にも目的があるから、ちゃんと手伝えるかどうかわからないけど」
「それは大丈夫。その為に大神院に手を回してアズのところまで来たの」
ハルベルトの耳がぴんと水平に持ち上がって、いつになく興奮を露わにしていた。身を乗り出して、顔の距離はいつかのようにこちらが戸惑うほど近い。ひょっとしたら、誰かと近くで接することに慣れていないのかもしれない。先程の生い立ちを聞く限り、月から地上に来てからはずっと言語魔術師としての修行に明け暮れていたみたいだし。それなら私が彼女にとって一番最初の友人と言うことになるのだろうか。
そんなことを少しだけ考えて、その綺麗な顔立ちと深い色の瞳、長く細い睫毛に少しだけ見入った。
どうかしている。魅入られたみたいに、目が離せない。ハルベルトは呪文の使い手であって、
「アズーリア――ハルのものになってくれる」
この上なく真剣な眼差しと切実な問いかけ。私はそれに明確な答えを返す前に、一つだけ確認しようとした。
「最後に訊いておきたいのは、ハルはその競争で何をしたら勝ちだと見なされるの? 勝利条件がわからないと、私も協力しようがないから」
「それは――」
ハルベルトが、それを口にしようとした時だった。
その後ろ――切り立った岩壁に長方形の亀裂が入り、そのまま音を立てて窪み、横にずれていく。ハルベルトがびっくりして反対側に飛び退ろうとしたので、私は慌ててその手をとって引き寄せた。そのままだと岩棚から落ちかねなかったからだ。私達は寄り添いつつ岩壁の隠し扉から離れていった。
不自然な岩棚だとは思っていた。けれど、まさかこんなところに出入り口があるなんて。開けた空洞の奧には闇が広がっていた。
そこから現れたのは、私の見知らぬ少女だった。
「あんた達、何者?」
目にも鮮やかな緑色の長髪が月下に踊る。
頭部に咲き誇る大輪の花は紫に近い朱で、見慣れない衣服は色鮮やかであたかも花びらのよう。可憐な顔立ちの中で、そこだけ強烈な意思を放つすみれ色の瞳。吊り目を攻撃的な角度にして、きっとこちらを睨み付けていた。
「返答によっては――ぶっとばすよ。勿論ここからね」
鋭くしなって大気を引き裂く一撃。硬い岩を削り取ったのは、緑色の茨の鞭だ。それも、手に持っているのではなく、袖口から伸びて不規則にうねり、少女の意思に従って自在に動いているように見える。
私は息を飲んだ。
特殊な呪力と特徴的な外見。
それは、私が知るとある眷族種のイメージと合致していた。
樹木の
かつて眷族種と異獣の境界線にいた種族であり――現在は【異獣】と見なされて地上から排斥され、大神院に絶滅を望まれている種族。
その故郷であるミューブランを焼き払い不毛の砂漠に変えたのは【松明の騎士団】だ。生き残ったティリビナの民は地獄に逃げ、それを選ばなかった者達は定住することすら出来ずに各地を彷徨う漂泊の民となった。
槍神教の追撃の手から逃れるために、世界槍の内部、古代世界に隠れ住んでいるという噂は聞いたことがあった。しかし、まさかこんな所で出会うなんて。
「貴方は――」
「ああそうね。名乗るならこっちからよね」
樹妖精の少女は腰に手を当てて、強い光を瞳に宿してこちらを真っ直ぐに見据えた。それから、明瞭で快活な声で己の名を告げた。
「私はプリエステラ。大いなる森の母、レルプレア神と交信できる――もう最後になってしまった、【ティリビナの巫女】よ」
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