3-21 言語魔術師の弟子(前編)①


「アレアレこれはどうしたことでしょう。ワタクシがおねむの間に随分と慌ただしい出来事があったようですわね?」


「タマ――?」


 暗く沈んだ闇の中。意識がゆるやかに浮上する。

 目を開くとすぐ傍に見覚えのある兎がいた。白黒と帽子、片眼鏡。饒舌で無意味な語り口。毎朝目にしている、私の使い魔だ。


 日が落ちてからどれくらい経過したのだろう。あたりはすっかり薄暗く、明かりと言えば頭上で皓々と光る四つの月たちだけ。今宵は第四衛星イルディアンサ――太月とも太陰とも呼ばれる太陽の対星――が細い。弓のような弧を描くその光は淡く、もう少しで上弦になろうかというところだった。


 身体に呪力が満ちているのが明瞭に感じられる。満月の時ほどではないが、夜を迎え、月光を浴びたことで心が満たされているのだ。【夜の民】ゆえの生態。きっとハルベルトを助けられたのは折良く夜が訪れたからだろう。時間がもう少し早かったら間に合わなかったに違いない。

 

「起こしてくれたのはありがたいけど、できれば手当くらいして欲しかったな」

 

 それでも甲冑は脱がされて、闇に紛れる黒衣を着せられていた。こう暗い上に他に誰もいないのであまり姿を隠す意味も無いのだが、一応たしなみとして格好は徹底しなくてはならない。


「主様それはご無体というものですわ。ワタクシおまじないというおまじないが全くもって使えませんのよ。治癒符に触れた途端ぱんしてぽんですわ」

 

「そう言えばそうだったね――私も、起きたら折れた足が飴とかクッキーに変えられてたなんてぞっとしないし」


 言いながら、自分で曲がってしまった脚の処置を行う。幸い皮膚が破れている様子は無い。開放骨折を放置したまま気を失うのは余りにも危険だったから、その点は運が良かったと言える。しかし、血管や筋肉、神経が傷付いている可能性がある。腫れはかなり酷く、炎症を起こしているようだった。


 今まで気にしないようにしていたが、正直泣きそうなほど痛い。沈痛呪術の【安らぎ】で痛みを緩和しつつ、まず脚を慎重に正常な向きに戻していく。下手な動かしかたをして余計怪我をしないように、ゆっくりと。

 

「う――」


 喉が震えるような呻き。多分だけど、今使っている高位治癒符でも相当時間がかかる怪我だと思われる。呪符に記された呪文が発動して、砕けた骨の欠片や軟部組織、内出血した血液などを取り除き、急速に新しい外仮骨が形成されていく。【修復】は様々な怪我に効く汎用性の高い呪術だけど、これ以上の無茶はできそうになかった。


「この分だと、勝負は私の負けかな」


 黒衣の中に収納した呪動装甲も破損が著しい。また呪術杖も落下の衝撃で変形機構が壊れかけているようだ。無事なのは魔導書くらいだろうか。

 無駄とは知りつつも、端末をとりだして通信を試みる。


「駄目だ、端末のグロートニオン結晶が繋がらない――」


 パレルノ山の深部に眠る大量の呪鉱石。呪術文明の恩恵に与る人々にとって無くてはならない埋蔵資源が私に牙を剥いていた。

 どうしたものだろうか、とあたりを見回しながら嘆息した。崖から迫り出した岩棚はどこかに繋がるということもなく孤立している。ここで救助を待つか、駄目で元々、ハルベルトを背負って登攀を試みるか。


 ミルーニャとメイファーラは無事だろうか。特にミルーニャは、放置すれば死にかねない重傷を負っていた筈だ。彼女は当然治癒符かそれに類する呪具を持っているだろうから、メイファーラが適切に処置してくれれば大丈夫だと思うけれど。

 安否が気遣わしい。どうにかして連絡がとれないものか。


「クイズです。足が動かない、手も動かない、そんな主様をフワフワとトリップさせるには一体どんな手品が必要ですかしら?」


 二足歩行の兎が、片方の手の上に綿菓子、もう片方に透明な水飴を浮遊させながら、いつもの調子で宣った。

 何のつもりだろうと訝しむが、他にやることも無いし付き合うことにする。綿菓子を受け取って口の中に入れた。ふわりとした甘さが舌に蕩けた。失われた呪力と体力が急速に取り戻されていくのがわかった。ハルベルトには申し訳無いけれど、昼に食べた重箱の中身よりずっと高効率な呪力補給源だった。


「端末も鎧も通信ができない、金鎖経由でも駄目。となると、使い魔を飛ばしての連絡? タマを【空圧】で放り投げれば上まで届くかな――」


「落ち着きなさいませ落ち着きなさいませ。それで得られるのは潰れた兎の一番絞り、もぎたて果実の真っ赤なジュースだけですわ」


「衛星端末とか?」


「ああそれは古の秘儀! されどフロントクロンは一夜にして滅びを迎えその叡智は暗黒の彼方へと沈んでしまったのです。他ならぬ語らずのマロゾロンドの手によって」


「知ってる。小さい頃にたくさん聞かされた――じゃあ何、打つ手無しってこと?」


 うんざりする結論だった。しかし奇妙な使い魔はぴんと長耳を立てて、ふわりと浮き上がった。そのまま重力を無視するかのようにくるくると回り出す。


「いやですわ主様。答えは既にあなた様の中にありますのに。ヒントはワタクシ。過去と現在の絶えざる参照が未来を切り開くのです」


「タマが? 過去と現在?」


 その言い回しで、何かが頭にひっかかる。このおかしな使い魔を手元に置くようになったのはつい最近だ。フィリスとの同調が深くなり、使い魔の適性が上がったから。過去の私はまだ未熟で、そんなことはできなかった――未熟だったからできなかった?


「それだ」


 そうだ、どうして気がつかなかったのだろう。

 物質的な肉体がどこにも行けないというのなら、非物質的な霊体や精神を移動させればいいのだ。

 アストラル投射なら可能性はある。


 勿論この呪波汚染の中ではかなりの危険が伴うし、呪力の消耗だって激しいだろうが、どうにかして二人を探し出せれば道が開けるかもしれない。それにメイファーラの知覚能力なら私のアストラル体を見分けるのは造作も無いだろう。


「ありがとうタマ、たまには役に立つじゃない」


「タマタマですわ主様」


 ううん、何だろう。今のやり取りには妙な含みがあったような気がする。さっきの会話を別の言語に翻訳したら何かの冗句になるとか、そういうしょうもない誘導をされた予感。この道化めいた使い魔はそういうことを平気でやるのだ。自分の役目が終わったと見るや、兎はぴょんと飛び跳ねて黒衣の中に隠れてしまった。


 まだ微かに残る痛みに耐えながら、どうにか精神を集中させた。この程度、フィリスに高位呪術を発動させた時に比べれば大した事は無い。

 精神の遊離。実体のみを残して、浮き立つ心をそのまま解き放つ。意識は遠くに、意思は高みへ。私自身の居場所を置き去りにして、私は透明な姿となって高く飛翔した。


 その姿は小さく丸い黒衣の二頭身。アストラルアバターとなった私は感応の触手を周囲に伸ばしながら他者の存在を探っていく。

 一番近い場所にいるハルベルトと私の本体は別にして、生きている存在を探していく。

 仲間達との再会は想定していたよりもずっと早かった。


「アズ! 良かった、無事だった!」


「アズーリア様ぁぁぁ♪」


 【天眼の民】であるメイファーラと、眼鏡によって霊的視界を獲得したミルーニャが私に気付いて手を振る。二人とも先程の細道を通り抜けて、開けた場所に出てきていた。私はミルーニャの傷が治っていることに気付いた。


「二人とも、無事で良かった。ミルーニャ、怪我はもういいの?」


 訊ねると、何故かメイファーラが何かを言いかけて口ごもる。ミルーニャの柔らかい表情が一瞬だけ強張った気がしたが、すぐに蕩けるような笑顔に変わる。


「はいっ。これでも錬金術師のはしくれですので、治癒符から広域復元の巻物、さらには持続回復型の生命の水までよりどりみどりに揃えているのです! ね? メイファーラさん?」


「う、うん。ミルーニャさん、結構酷い怪我だったけど、すぐに治ってたから心配無い、よ?」


 なんだか妙な様子だ。気になったが、それよりも優先すべき事がある。私は下の岩棚にハルベルトと一緒にいることを伝えた。ハルベルトの負傷は大した事が無く、私共々治癒符による治療で充分だったという嘘を交えて。フィリスの事をどう説明していいのかわからなかったのだ。


 それに、伝説上にしか記述が無い大呪術、【万色彩星ミレノプリズム】を使っただなんて、言ったところで冗談だと思われるだけだ。自分で使っておいてなんだけど、あんなもの神話や昔語りでしか聞いたことがない。

 状況を把握したはいいが、三人で頭を抱えることになった。


「困ったね。どうやって助けに行こう。上からロープでも垂らす? ミルーニャさん飛行用の呪具とか持ってない?」


「残念ながら。あの馬鹿大学生をとっつかまえて箒を強奪するという手もありますが、何処にいるのかわからないですし――頑丈な縄の用意くらいありますが、体調の思わしくない二人を登らせるのも危険でしょう。第六階層あたりで素材とレシピを手に入れられれば、減速符を作るのも不可能ではないですが」


「あれ高価だよねー。便利そうだから欲しいんだけど、流通してるのは殆ど最前線で、地上にはあんまり出回らないんだよね。迷宮産の呪具は前線で作って前線で消費するのが基本だからかな」


「減速で思い出した。お師様が気を失う前に重力操作の術を使っていたんだけど、目が醒めるのを待って下に降りるのがいい気がする」


「ならあたし達も下で合流すればいいのかな?」


「どうでしょうね。あの口先女の技術には信頼が置けません。いざという時に失敗して墜落死なんて笑えませんよ」


 ミルーニャの口調は辛辣だった。先程の戦闘で、ハルベルトは単眼巨人を目の前にして動けなくなってしまった。あれは明確に前衛として後衛を守れなかった私の過失であって、責められるべきはハルベルトではない。しかし後衛でありながらも格闘能力を持つミルーニャにしてみれば、その能力に信頼が置けなくなってしまうのも仕方無いのかも知れない。それでも、私は確信を持って答えた。


「お師様なら大丈夫」


 私の中には揺るぎない信頼が生まれていた。変な話だけど、あんなふうに命を投げ出して瀕死に陥った彼女だからこそ――命のかかった場面で間違うことはないだろうと思えたのだ。彼女は私を見捨てないし、裏切らない。師としての責任感か、それとも別の理由かはわからないけど、きっとそうだ。


 私の迷い無い言葉に鼻白んだのか、ミルーニャは下唇を軽く噛んで、眉根を強く寄せた。それからはあ、と大きく溜息を吐いて、仕方無いですね、と腰に手を当てる。


「わかりました、あの口先女ではなく、二度もミルーニャを助けてくれたアズーリア様の言葉を信じます。ただし、保険としてミルーニャ達が真下で待機してからです。念のために枯れ木と腐葉土と布で即席の衝撃緩和材を作っておきますので、その上に落ちてきて下さい。照明灯で位置を知らせますから」


 骨が折れたら治療呪具ですぐに治します、と言い放ってミルーニャは顔を背けた。そこが妥協点だと、私の身をこれ以上無いほどに案じてくれているのだ。

 胸の中が暖かくなる。口は悪いけれど、彼女はとても優しいひとだ。


「ありがとう、ミルーニャ」


「――べつに、慎重を期するだけです」


 完全にそっぽを向いてしまったミルーニャは肩にかけた鞄の位置を気にしながら、すぐにでも出発しようとメイファーラを急かし始めた。


「さあ、さっさと行きますよ。あなたの索敵と案内が無いとこっちは動くに動けないんですから。最短ルートでさっきの場所の真下へ連れてって下さい」


「ちょちょ、引っ張らないでよー。言っておくけど、戦闘は全部回避するからそんなに速度は出せないよ?」


「駄目です! 最速最短で超急ぎつつ完璧な索敵と戦闘回避を両立して下さい!」


「そんなのどんな斥候でも無理だよ~」


 何故か後衛が前衛を引っ張っていくということになっている二人を見送りながら、私はふと思いついてミルーニャに声をかけた。


「あのね。私がお師様を信じる理由も、ミルーニャと同じ。お師様は、何度も私の事を助けてくれた。だから私も、お師様を信じる」


 ミルーニャはそれを聞いて、一瞬だけ驚いたように目を見開いて、それからすぐに軽く息を吐いた。


「そんなに簡単に人を信じて、裏切られても知らないですからね!」


 突き放すような言葉だったけれど、それはミルーニャなりの気遣いだったのだと思う。私はアストラル体を元の場所に戻しながら、改めて自分の心を確かめる。


 あの人を助けたい。力になりたいし、期待に応えたい。

 そして――あの人を知りたい。そう思い始めている自分に、ようやく気付いた。





「服、破れてるんだけど」


 目を見開いた途端、不機嫌そうな声がして、私はハルベルトが目を覚ましたことを知った。上半身だけ起こして、服の破れ目を押さえている。恨めしげな目でこちらを見ながらぽつりと呟く。


「変態」


「違います! 怪我の様子を見るために――」


「分かってる。でも見たのは事実」


「それは、そうですけど」


 責めるような口調が、かすかに震えている事に気がつく。長い耳がへなりと下を向いて、心持ち普段よりも感情がわかりやすい感じがする。落ち込んでいる――あるいは、何かを恐れている。


「あの、誰にも言いません」


 彼女の左右非対称な耳と、その胴に浮かび上がる黒い血管の紋様。隠していたからには何か事情があるのだろう。私にも、簡単には人には言えない事情があるから、深く訊ねるのは止めようと思ったのだが。


「そんなの当たり前。何、恩に着せたいの」


「そんなことありません」


「どうせ気になってる癖に、ハルを気遣って訊きませんみたいな態度が気にくわない。弟子の癖に生意気。上から目線が最悪。年上ぶって」


「なっ」


 なんでこんなに喧嘩腰なんだろう。それは、確かにそういうふうに取れる事を言ってしまったかもしれないけど。だからってここまで言われるような事はしてないはずだ。


「大体、こうなったのも全部あなたのせい。後衛がいる位置まで敵の接近を許すなんて、最低のミス。後衛も駄目、前衛としても駄目。一体何のためにハルに弟子入りしたの」


 確かにその通りだ。私だってそれは充分思い知らされて、今も後悔している。けれど、改めてそれを指摘された私はついかっとなって、思わず強く言い返してしまった。


「別に、師匠になってくれなんて頼んだ覚えありません! 押しかけのくせに、好き勝手に言って――それにあの状況でも対処できる後衛だっています。防御結界を張ってた癖に怯えて動けなくなるなんて、そっちこそ後衛として失格じゃないですか」


 言いながら気付いた。私はあさましくも期待していたんだ。

 本当はこう思ってた。

 折角――私が助けてあげたのに。

 お礼の一つも無いなんて。


 彼女の命を救ったということを盾にしたかった。厳しくて険しい目でこちらを睨んでくる彼女の、時折見せる優しさを欲しがってしまった。

 言葉の応酬は、生まれた棘の鋭さだけエスカレートしていった。言う必要の無いことを弾みで口に出して即座に後悔する。本質を過剰に攻撃的に尖らせただけの醜い悪意。こんなもの、欲しい言葉じゃないはずなのに。


「前衛がちゃんと機能してれば、言語魔術師は近接戦闘での対応なんて考える必要が無い。そんな時間があるなら呪文の改良でもした方がいい。あのうるさい錬金術師は時間を無駄に使ってるだけの半端者」


「何でそこでミルーニャの事を悪く言うんですか、信じられない! 彼女はお師様を助けたんですよ、自分の身を投げ出してまで!」


「ただの事実。呪石弾だってそう。自力で呪文を唱えられないから道具に頼ってる。その上、器用さが足りなくて弓じゃなくて投石器スリングショットが武器だなんて笑わせる。無能だって自分で喧伝しているようなもの」


「――最低だ。お師様が、貴方がそんな事を言う人だなんて思わなかった。見損ないました。探索中も思ってましたけど、どうして人のことを悪く言うんですか。そんなふうにしてても、いい事なんて無いのに」


「何で」


 きっと睨み付けてくる。耳がぴんと持ち上がって、怒りを露わにする。黒玉の瞳が揺れて、痛みに耐えるような顔になる。理不尽な暴力に晒されているような――あの単眼巨人を目の前にした時のような、恐れの表情。

 ハルベルトは傷付いていた――私の言葉で、傷つけられていたのだ。


「ミルーニャだってそうなのに。何でハルだけ責められないといけないの。あの錬金術師があなたをちやほやするから気分が良いというわけ」


「違います! それは――だって」


 だって――何だというのだろう。

 私が、ミルーニャには何も言わず、ハルベルトだけ責める理由が見当たらない。二人の仲が悪いのは知っているし、道中ひたすらお互いの悪口を言い合っていたのも慣れていた。今だって似たような事は散々聞かされていた。それでも、私はハルベルトの言葉に怒りを覚えた。


 ただ彼女を責めたかっただけ? 勢いに任せて攻撃の材料を無理矢理探してしまったのだろうか。何か違う気がする。私はただ、ハルベルトにそれを言って欲しくなかった。彼女には、もっと。


「貴方は――もっと素敵な人だって思っていたから。ごめんなさい、私が勝手に理想を押しつけただけです。お師様は単に、元々そういう人だったってだけですよね」


 長い耳がぴくりと動いて、黒い兎の垂れ耳がゆっくりと下がっていった。目を伏せて、唇を横に真っ直ぐに結ぶ。しばらく、その場所に沈黙が横たわった。


「ハルは――最初から不本意だった。資格があるからとお姉様に言われたから確かめにきただけ。とんだ期待外れ。あなたの師匠なんてやりたくてやってたわけじゃない。あなたみたいな求めるばっかりのほしがりや、ハルの一番嫌いな人種」


「私だって、貴方みたいな失礼な人は嫌いだ! もうお師様なんて呼んでやるものか、貴方に向ける敬意の分をミルーニャやメイファーラに割り振る方がずっといいと今気付いた。これからは、単にハルベルトと呼ばせて貰う」


「『これから』なんて想定してない癖に。そもそも、どうせ形だけでハルに敬意なんて払ってなかった。けどあなたにあの二人はお似合い。レベルの低い連中同士で馴れ合ってればいい」


 どうして、こんな事になってしまったんだろう。

 沈黙と悪口。不毛さを繰り返しながら、私の頭の中にはその言葉が渦巻いていた。


 今頃、メイファーラとミルーニャは私たちと合流するためにこの場所の真下に移動している筈だ。その事も説明しなくちゃならないというのに、どうすればいいんだろう。


 ハルベルトの態度は頑なで、あちらからの譲歩や歩み寄りなんて期待できそうに無かった。今まで口にしてきた事なんてみんな嘘で――本心でもあったけど――本当はさっきまでのように師弟関係に戻りたいと言えればどんなにいいか。


 沈黙を破って口を開こうとするけれど、その度に言葉は刃のように鋭さを増して相手を傷つけようとしてしまう。こんなのは、私が欲しい言葉じゃない。

 言葉なんて、邪魔なだけだ。

 かつては焦がれるほど欲していたというのに――我ながら身勝手極まりない。


 必要な言葉がわからない。どうすればいい? そんな呪文をハルベルトは教えてくれなかった。知らない呪文を摸倣することはフィリスにだって出来ない。私は自分の考えでは何も出来ないんだ。惨めになって、膝を抱えてうずくまった。


 その時。

 きゅるる、と奇妙な音がした。

 奇妙なというか。私はハルベルトの方を見る。

 右耳が真っ赤になって、左耳が柔らかく持ち上がっている。月に照らされる白いかんばせに朱が差していた。


「違うの。今のはアズーリアが」

 

 この期に及んで他人の所為にするとは。中々できることではない。

 ふと、私は思い出した。

 第五階層の迷宮で、風変わりな外世界人は一触即発の状況をどうやって切り抜けたんだっけ――?


 自分自身の言葉なんて私は持っていない――けれど、他の人の真似くらいはできるのだ。たとえそれが言葉じゃなくても。

 私は黒衣の中で丸くなっている使い魔をちょんとつついた。察しよく己の仕事を果たした白黒ウサギから幾つかのお菓子を受け取って、私はハルベルトの目の前に差し出した。


「良かったら」


 見つめると、黒玉の視線が私と掌の上の物を交互に行き来する。迷いはそれほど長くなかった、と思う。昼食の時に見た、幸せそうな表情を思い出した。


「頂く」



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