3-20 言の葉遣いは躊躇わない⑮





 気を失っていた時間はそう長くは無かったと思う。

 目が醒めた時、私達は広く迫り出した岩棚の上に倒れていた。

 運良くこの場所に落ちたお陰で、墜落死しなくて済んだらしい。


 立ち上がろうとして、右足に激痛が走る。

 見ると、甲冑の膝関節部分が横に拉げている。

 あり得ない方向に曲がったその足はまともに動かすことすらできない。


 その他にもあちこちに打撲と擦過傷、そして全身の痛みから数カ所の骨に亀裂が入っている可能性があった。

 呻きながら、少し離れたところに倒れているハルベルトに近付こうと這っていく。彼女の傷は腹部の貫通創だ。幸い治癒符の手持ちがある。すぐに処置しないといけない。


 異臭がすることに、私は遅れて気付いた。 

 槌矛と魔導書が落ちているあたりが、黒々とした液体で侵されている。何だろうと不思議に思ってハルベルトをもう一度見た。そして気付く。


 それは敗者からの最後の呪いだったのかもしれない。

 白く不吉な骨の欠片。

 鋭利な尖端が刃となって、ハルベルトの胸に突き刺さっていた。

 流れ出している異様なほど黒い液体は、彼女の血液だ。


「お師様――?」


 致命傷だった。手持ちの治癒符などでは追いつかないほどの圧倒的な死。

 ありえないと思った。あの圧倒的な実力。溢れる自信と不遜な態度。


 けれど、直前の単眼巨人に怯える姿もまた彼女の一面だった。

 裏返りそうな視界。崩れ落ちそうになる身体。目の前が一瞬暗くなりかけて、ある事実に気がつく。


「そうだ。キュトスの姉妹は、不死の魔女だって」


 神話において邪神キュトスは永遠と不朽に絡め取られ、楽園の中で七十一の断片に引き裂かれた。

 その因子を受け継いだ半神たちにもその不死性は受け継がれている。

 彼女たちが半神となって存在していること自体、キュトスの不滅を体現する事象なのである。


 であれば、【星見の塔】の末妹であるというハルベルトもまたこの程度では死なないはず。

 どのような方法によってかは知らないが、血が独りでに身体に吸い込まれて傷が塞がったり、何らかの方法で輸血して肉体を再構成したりできるに違いない。


 もしかすると、どこか別の場所から新しいハルベルトが出てきて脅かしてくるかもしれない。

 そんな夢想を、半ば期待混じりにしつつ。

 ただただ流れていく血液を見る私の思考に、ゆっくりと絶望が広がっていった。


 違う。

 ハルベルトは、不死などではない。

 彼女は、ただの人間だ。


 その露わになった頭部、その美しい造型の中で唯一特異な部位を注視する。

 ハルベルトは、両耳が左右不揃いなのだった。

 右側は半妖精アヴロノ特有の少しだけ尖った耳。左側は兎――【イルディアンサの耳長の民】を象徴する夜のように黒い垂れ耳。


 確かに、両方の種族の混血だと言っていた覚えがある。しかし、たとえ混血であっても通常はどちらか片方の形質が強く発現するものであって、半分ずつというのは聞いたことがなかった。


 ごめんなさいと呟いて、服を引き裂いて傷口に治癒符を当てる。露わになった肢体を見て私は息を飲む。想像通りの完璧な均整を保った身体だったから――というだけではない。


 その白い、あまりにも白すぎて透き通った肌ごしに血管が見えてしまう肌が、異様な模様を浮き上がらせていたからだ。

 複雑に入り組んだ毛細血管を流れる血液は、純粋な漆黒。


 夜闇の如き命の水が、黒々とその全身を循環して高密度の呪力を運んでいく。

 さながら全身に呪紋を描かれ呪いをかけられているかのようだ。

 血管は複雑に蠢き、絶えずその形を変えていく。


 それは呪術的な意味を持つ有機的な図形となり、また古い時代の力ある文字となってハルベルトの美の具現が如き肢体に呪いを刻み込んでいた。

 執念――あるいは怨念じみた偏執的な人体改造がこれを可能としたのは間違いないように思われた。


 天与の身体をこうまでも呪わしい異形に変貌させてまで、得なければならない神秘の秘奥、呪術の真髄が存在する。それはこの世界を成り立たせる呪術文明の負の側面を具象化したような光景だった。


 彼女の身体が宿している余りにも強大な呪力は治癒符の効力を阻害しているようだった。低級の治癒呪術ではその身体を癒すことなどできない。せいぜい気休めにその命をわずかに長らえさせるのみ。


 人でありながら、人というちっぽけな器から逸脱しようとする異形の存在。

 それでもその両耳を見れば、ハルベルトが眷族種の血を引くただの人類であることがわかる。生きて死ぬ、定められた命。


 血の気を失って真っ青になった表情が微かに動いた。弱々しく目蓋を開くと、細く長い睫毛の間から覗く黒玉が私の姿を捉える。ハルベルトの名を呼ぶと、彼女は微かに表情を動かした。あまりに弱々しくて、それがどんな意味を持つのかはわからなかった。


「良かった」


 そう言って、彼女は穏やかに目を閉じた。静謐が場に満ちる。動かなくなった身体に触れようとして、引き戻す。

 いつの間にか落ちてた太陽が、岩棚を焼けるような色に染め上げていた。

 光の中でもハルベルトの血は底無しの闇のように深い黒だ。


 手に持っていた治癒符を取り落とす。

 黒い血に染め上げられて呪符が台無しになっていくが、もはやそんなことは気にならなくなっていた。


 迷宮という戦場においては、もう処置の施しようがない致命傷を負った仲間を後回しにして、すぐに戦える軽傷の兵力を治癒する判断も必要になる。骨折程度なら治癒符を使えばどうにか戦闘できる状態にまで戻せるだろう。


 治癒符ではもう間に合わない。ここにラーゼフがいてくれたら。

 いや、呪術医とは言わずとも医療の心得がある修道士さえいてくれたなら。

 そうだ、ペイルが呼び出した仲間の一人――ああ、名前はなんといったっけ――が医療修道士らしい事を言っていた。


 どうにかして彼を呼び出せば。端末を取り出して、高密度の呪波汚染によって通信が出来なくなっていることに気がつく。呪動装甲の通信機能も同様だった。本部に救難信号を送ることすらできない。


 こんなのは嘘だと思った。

 たとえ現実でも、それは嘘であるべきだと信じようとした。 

 ハルベルトは私を追って崖下に身を投げ出した。あんなに怯えていたのに、弟子の身に危険が迫った途端に全力でその意思を奮い立たせたのだ。


 そして、意識を失う最後の瞬間、自らの意識を死が侵していく恐怖に苛まれながらも、私が生きていることに安堵して喜ぶことさえした。

 彼女がどんな人なのか、未だにわからない。


 けれど、このまま私なんかの為に死なせて良い筈は無い。それだけは確かだと思えた。わからないまま永遠に別れてしまう。そんな事を、私は認めない。

 夕日の輝きを吸い込むかのような、周囲の空間と隔絶した無彩色の左手を広げる。二回目の金鎖解放。ラーゼフの戒めはもう気にならなかった。

 

「言理の妖精語りて曰く」


 神秘の声が世界に響く。

 思い起こすのは、第五階層から地上に帰還した直後のこと。

 守護九槍の第七位、あの最悪の男の指示によって私は地下牢に繋がれ、全身の霊体と肉体を少しずつバラバラに引き裂かれる拷問と脳髄洗いの順正化処置によって第五階層における顛末を強制的に吐かされようとしていた。


 絶え間ない激痛と終わりのない精神の分裂感。

 自分が自分でなくなりそうになった時、その男は現れた。

 長い髪の、美しいという漠然とした印象だけが記憶に残っている。


 守護九槍の第九位。

 廉施者キロンとその名も高き英雄は、私の心身の負傷を一瞬で治すと、第七位の下から私を連れ出してラーゼフの保護下に置いた。

 その後、私は絆されるようにして第五階層であったことをラーゼフとキロンに話したのだが――。


 今このとき重要なのは、かの廉施者が用いた神働術だ。

 取り返しがつかないほどの負傷を一瞬にして治癒してしまう、神の御業としか思えぬ絶技。伝え聞くどのような医療神働術にもあのようなことはできないだろう。

 その比類無き医術を、今この時だけ借り受ける。


 フィリスが行使する対抗呪文【静謐】は対象とする呪術の構造を詳らかに解析することで、その効果そのものを解体可能にするというものだ。

 言葉を用いて発動させる呪文を打ち消す反対呪文。

 ゆえにそれは言葉無き多弁――【静謐】と呼ばれる。


 しかし呪術の構造を解析するということは、裏を返せばその本質を掌握するということでもある。

 ならば、そこから全く同じ呪術を再現することだって可能な筈だ。


 あくまでも、理論上は。

 私自身の技量がそれに追いつかなければ、呪術の完璧な摸倣などできはしない。

 それでもやるしかない。


 摸倣対象は恐らく地上最高峰の医術使い。第九位という高みはこの三十位からは見上げることしかできない。それでも、私は必死に手を伸ばすことしかできないのだ。間に合わなくなることなんて、もう嫌だから。


 この声が、まだ届くのなら。

 神様、どうか私の願いを聞き届けて下さい。

 祈るように、精神を集中させる。厳しくとも決して私を見捨てることはしなかった、最高の師に教わったとおりに。心を深く沈ませる。


 その静けさは、夜のように。

 太陽が沈み、世界が闇に染め上げられた。

 その瞬間。天啓のようにその言葉は降りてきた。


万色彩星ミレノプリズム――パラドキシカルトリアージ」


 それは呪文。未だ名付けられていない、存在しない筈のまことの名。

 万象を貫く【紀】より禁呪の本質を先んじて引き出す。私はその呪術を引き寄せて、必要な結果だけをこの場に再生する。


 瞬時に損なわれかけた命と魂――流れ出した血液と散逸していた霊体が巻き戻るようにハルベルトの身体に吸い込まれていった。

 重く長く、そっと息を吐き出した。


 成功した。ハルベルトは、一命を取り留めたのだ。

 直前まで死に瀕していたのが嘘のような姿。安らかな寝顔と穏やかな寝息を確認して、私はそのまま意識を闇に沈み込ませた。

 闇の中で、彼女と再会出来ることを期待しながら。

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