3-18 言の葉遣いは躊躇わない⑬



 目の前に、危ういほどか細い道が続いていた。左手には地上が途方もなく遠い崖、右手には切り立った断崖。当然柵など有りはしない。足を滑らせたら真っ逆さまで、落盤でもあったら逃げられない。おまけに横に広がるだけの余地が無いので、縦一列に並んで進まなければならない。怪物に挟撃でもされれば絶体絶命である。


「あたしが先頭を務めるから、アズは殿をお願い。ミルーニャちゃん――さんがあたしの後ろで、その次がハルさんでよろしく」


 こういう時の判断は索敵と前衛を兼任するメイファーラに一任している。実際に妥当な隊列だったので誰からも異論は上がらない。私達は言われた通り一列になって進んでいく。


「――恐らく、ほぼ確実に敵と遭遇するから全員準備しておくように」


 出し抜けに、ハルベルトが不吉な事を言い出した。メイファーラが何の気配も感じていないというのに、一体何を根拠にそんなことを言っているのだろうか。


「落としたパンは必ずバターやジャムが塗ってある方が下になるし高価な絨毯は汚れてしまうの」


 さも含蓄深そうに言うハルベルト。

 振り返りもせずにミルーニャが鼻で笑った。


「はあー? ちゃんと統計とったんですかぁ? 認知バイアスですよねそれ? 頭のネジがちゃんとあるかどうか確かめた方がいいですよ?」


「どこかのポンコツみたいな事を――これだから杖使いは。無駄に文明人ぶって、それも呪術的思考の一つだと気付かない」


「はーい出ましたー、呪文使い特有の相対主義の濫用。逃げる時にはそれ使えばいいから楽ですよね。ていうか呪文使いって何か生産的な活動したことあるんですかー?」


 私も一応呪文使いなんだけどな。若干傷付いていると、前方のメイファーラがやや緊張を滲ませて声を張り上げる。


「二人とも、煽り合いとか喧嘩とかやってる場合じゃない! 前方五百メフィーテから高速で何かが近付いて来てる! もう四百、三百――!」


 速度からして、地上ではなく空を往くものである可能性が高い。恐らく甲殻虫の類だと当たりをつけて、私は【爆撃】の呪文を詠唱し始める。

 やがて姿を現したのは、予想通りの飛行体――だったのだが、半分だけ想定外のものが混じっていた。


 巨大で凶暴な肉食虫が群れを成して飛来してきているのは正しかったのだが、それらが一人の少女を追いかけていたのだ。

 箒に跨り、片手で三角帽子を押さえ、必死に背後を気にしながら空を飛んで逃亡する少女。


 たなびく明るい黄色の長髪が今にも虫の大顎で食い千切られそうだった。

 はっきりとした目鼻立ちには焦りが滲み、鳶色の瞳には死の恐怖が浮かぶ。

 既視感を覚えながらも、私は詠唱を終え、少女の背後を狙って呪文を解放した。


 炸裂する爆圧は指向性を与えられて甲殻虫だけを選択的に焼き尽くした。

 こうした状況に応じた精密な制御は、他の系統には無い呪文だけの強みだった。

 助かったことに気付いて、箒に乗った少女が急制動をかける。いや、止まろうとして失敗したのか、そのまま空中に留まり同じ所をぐるぐると回り出す。


「うきゃあああああ止めて止めて誰か助けてええええ」


 甲高い声を上げるが、そんなことを言われても空に浮いている相手をどうやって止めればいいのか私にはわからない。

 箒の呪具で飛行しているのだろうけれど、専門の呪具職人でも連れてこないとどうしようもないのでは。


 そう思っていると、隣のハルベルトが小さく呪文を唱える。すると箒の動きが安定し、少女はそのまま空中で制止することに成功したようだった。ぜえぜえと荒く息を吐きながら、彼女はこちらを向いて礼を述べる。


「いやー誰だか知らないけど助かったー。超感謝! 危うく山の藻屑となるところだったー!」


 先程まで命の危険に晒されていたというのに、切り替えの早い人物だった。というか山の藻屑って何だろう。と、その時ミルーニャが何かに気付いて口を開く。


「誰かと思ったらリーナじゃないですか。こんな所で何やってるんです?」


「げえっ、ミルーニャ先輩?!」


「げえって何ですか、げえって」


 知り合いだったのか。ミルーニャを見て凄まじく嫌そうな表情をする少女。まあ何となく気持ちはわからないでもない。そしてミルーニャの言葉で思い出したが、このリーナという少女、朝に列車の中で見かけた大学生だ。朝とは違い、こっちは甲冑姿なので相手は気付いていないようだが、印象的な声と顔立ちなので覚えていたのだ。


 ――妙だな。

 今日になってから、自分の感覚はおかしいことだらけだ。関わる相手の顔の輪郭、その全体像が、はっきりとイメージできることが多すぎる。以前に見かけたことがあるのだろうか。それとも相手が美しく、保有する容姿呪詛ルッキズムの摸倣子量が多い為に私にも知覚しやすいというだけの話なのか。


 フィリスとの同調率が上昇した為に、イメージの記憶領域が拡大したということも考えられた。後でラーゼフに相談した方がいいかもしれない。

 私が考えにふけるかたわらで、知己らしい二人が言葉を交わしている。


「もうその箒は使わないでって言ったじゃないですか! どうして言うこと聞かないんですか、頭が悪い、軽い、丸いの三重苦ってもうどうしようもないですね!」


「丸くないわよ! ちょっと頬のラインがふわっとしてるだけ!」


「馬鹿なのは否定しないんですか! っていうか、学生の癖に講義はいいんですか、講義は。単位落として留年とかしても知りませんよ。そのままずるずる生活リズムが乱れ、講義には出なくなり、ゼミに出席しないから卒論は進まず書き上げても受理されず――クズ大学生の末路は除籍か中途退学と相場が決まってるんです」


「先輩が言うと説得力あるなあ」


「あ?」


 私は、それがミルーニャの口から発せられた音声だとはとても信じられず、まじまじとハルベルト越しに彼女を見つめた。視線に気付いてびくりと背筋を伸ばしたミルーニャは、すぐに普段通りの甘い響きを持った高音域で喋り始める。


「こほん。で、リーナは一体全体どうトチ狂ってこんな危険な古代世界に?」


「いやあそれが。今日は講義午前中で終わりだったから、ちょっと一稼ぎしようと思って坑道潜ってみたんだけど」


「一人でですか? 正気?」


「ミルーニャ先輩が、この機種の最大速ならどんな飛行種でも振り切れるって言ってたから」


「ずっと最大速を維持するのとか無理ですからね? あと坑道内は飛行に向かないから箒では入らないってこれ常識ですよね? しかもそれ耐用年数切れのボロ箒だからいつ止まるかわかったものじゃないし――自殺行為ですよ?」


「そしたら箒が暴走するじゃない? で、よりにもよって採掘場の壁に設置してあった警報機に引っかかっちゃって。ゾンビとか守護機械とかに追われるやら、単眼巨人に見つかるやらで散々だったよもー。それでここまで必死に逃げてきたってわけ。いやー参るわー」


 リーナという少女の言葉のありとあらゆる箇所に指摘したい要素が山盛りだったが、それよりも看過しがたい事を彼女は口にしていた。


「ゾンビ? 守護機械? 単眼巨人? あの、リーナ? それらはちゃんと撒いてきたんでしょうね?」


「えーと、だいぶ距離は離したけど、守護機械にラベル貼り付けられちゃって。ぶっちゃけまだ追われてる途中。かなり大集団で、なんかもう、列車トレインって感じかな」


「――ほんとだ。前方五百メフィーテに凄い数の呪力反応があるよ。速度はさっきよりゆっくりだけど」


 メイファーラがリーナの言葉を裏付ける。私達の中で、浮遊する少女への評価が定まった瞬間だった。


「はい、リーナが狂人であることが証明されました。解散。あとは一人でなんとかしてください」


「ミルーニャ先輩、お願いします本当にやばいのでどうか助けて」


「こんっの、トラブルメイカー! 馬鹿大学生! 底辺探索者!! 水素ガス級に軽い風船頭!!! 金持ちだからって調子に乗るなよなんちゃってお嬢様! 引き連れた敵集団なすり付けるとかプライドないんですか!」


 激怒をぶつけながらも、ミルーニャは素早くスリングショットに呪石を番えていた。どのみち、この狭い場所では逃げることもままならない。敵集団は一列に連なってやってくるのだし、戦う決意を固めるのが現実的判断というものだった。


 やがて、ゆるやかに曲がった細い道の向こうから大挙して押し寄せてくるものがあった。縦一列になってやってくるそいつらは、見かけ上はごく普通の霊長類に見える。槍や警棒で武装している、坑道の警備兵といった所だろう。


 しかし、アストラルの視界で彼らを眺めればその異常性は一目瞭然だ。

 霊体が朽ち果て、今にも霧散しそうなほどに危うい。

 そのくせ生存のための欲求――飢餓感だけは残っていて、生きている者を生前の理に従って襲い、喰らおうとしてくる。


 彼らは魂無き抜け殻だ。「いたぞ、侵入者だ!」「捕縛して拷問しろ!」「火にかけて塩を振れ!」「調理したら食事休憩だ!」正気の目で語る彼らの振る舞いは、彼らの内部では社会性の表れだと見なされている。


 哲学的ゾンビ。

 魂無き抜け殻である彼らは物質的にはなんら人間と変わりないが、外界とは異なる環境下――つまりは迷宮に適応した結果として異常な振る舞いを見せるようになる。それは、霊体や魂を取り払ってしまえば人はいつでもあのようになり得るのだというおぞましさの具現であった。


 更には無数の節足を動かしながら壁を伝ってくる、途方もなく大きな蜘蛛を思わせる鋼鉄の塊が姿を現した。刃のような前足が二本、そして機敏に動く多脚は重力を感じていないかのように壁面に張り付いている。かのフロントクロンやハイダル・マリクといった古の呪術文明が生み出した超技術の遺産――坑道を警備する守護機械が一体、岩壁に無数の足跡を刻みながら迫り来る。


 この事態を引き起こしたリーナは責任を感じているのか、真っ先に行動した。肩に引っかけていた鞄から螺旋綴じのノートを取り出してその中から一枚を千切りとって放り投げる。


「ぶっ飛べっ」


 ノートに書かれていた文字が螺旋を描きながら呪力に変換され、強烈な【空圧】が哲学的ゾンビの集団に直撃する。凄まじい衝撃に先頭の足が止まり、そのまま吹き飛ばされて後列を次々と倒していく。最後尾にいた数体のゾンビが押しのけられて崖下に転落していった。


 とても初歩の呪術とは思えないほどの威力だった。彼女本人の呪力が凄まじいのか、それともあのノートに秘密があるのか。

 敵集団が壊乱している隙を突いて、しゃがみ込んだメイファーラの頭上からミルーニャのスリングショットが呪石弾を射出した。

 初撃は破壊の呪術ではなく、ゾンビの直前で発動しながらも無害な魔法円を虚空に映し出すのみ。

 しかし続く第二射がその魔法円を通過すると、発動した【爆撃】が数倍にも増幅されて炸裂し、哲学的ゾンビの群れを一網打尽にする。


 異なる呪文が封じられた呪石弾を次々と投射することで複合的な呪術の行使すら可能にするという、極めて実践的なビーンズ式詠唱術の本領が発揮されていた。


「ちょっと気が咎めるけど、さようならっ」


 そういえば、杖使いの中には彼ら哲学的ゾンビを人であると見なす人達もいると聞く。ミルーニャもそうなのかもしれない。その間にも、私もまた【爆撃】の詠唱を完了させていた。だが守護機械が両手に構えている刃は攻撃呪術に反撃する機能を有している。このまま守護機械に攻撃しても呪術ごと私の霊体が切り裂かれるだけだろう。


 私は鎧の隙間から魔導書を顕現させ、平行して呪術を紡ぎながらその細部を調整していく。

 視野を広げ、アストラル界と重なり合うグラマー界を覗きながら、展開される文字列を読み取って命令文プランを書き換えた。


 【空圧】は敵が反撃呪術を構えている場合、優先して対象呪術のコストに含まれる部位を狙う。

 解き放たれた圧縮空気が精密に守護機械の腕の付け根に直撃し、一瞬だけ生まれた隙を狙い澄まして私自身が紡ぎ出した【爆撃】の呪文が岩壁を抉った。


 飛散する岩と砕け散った機械部品が転がりながら崖下へ墜ちていく。遙か下方に広がる森で、遠い爆音が聞こえてきた。火災にならなければいいのだが。

 ひとまず目の前の敵を倒した私達だったが、まだ油断はできない。


 しかしその時、リーナがゆっくりと水平移動しながら私の傍に寄ってきて、何やら熱心に話しかけてくる。

 その目はまっすぐに私が操る魔導書に吸い寄せられていた。

 

「ねえ、良かったらその魔導書、ちょっと私に見せてくれない?」


 こんな時に、彼女は一体何を言っているのだろう。呆れながらも「後でね」と答えるとリーナはぐっと手を握りしめた。不思議な反応だった。

 そうしている間に、重量物が大地を揺るがす音が次第に近付いて来ていた。リーナが口にしていた中で、最も厄介な古代の怪物が現れようとしていたのだ。


 のそりと現れたのは単眼巨人キュクロプス。といっても本物の巨人ネフィリムのように人類を踏みつぶせるほどの大きさというわけではなく、せいぜい大柄な成人男性より二回りほど大きな体格というだけだ。


 それでも十分な脅威ではある。胸に巨大な眼球を持っていて、頭部が存在しない大男の姿をしている。

 意思のようなものはほとんど無く、ただ目についた相手の動きを束縛の邪視で停止させ、その間に巨大な棍棒で殴り殺そうとしてくる。


 古代の錬金術師が生み出した人工生命体であるとか、奉仕種族であるとか言われている。

 石化の邪視を使う蛇の王ほどではないが、それに次ぐ危険度の怪物だった。


 その巨大な単眼がかっと見開かれ、壮絶な呪力が放射される。相手の動きを見ただけで封じ込める束縛の邪視だ。厄介なことに貫通性能があり、縦一列に並んだ私達とリーナは漏れなく邪視の餌食となった。


 受信専門とは言えメイファーラは邪視適性があり、束縛の呪術を難なく無効化していた。【天眼の民】には邪視を受け流す技術があり、更には彼女の長い髪を右側で括っている瑪瑙は邪視耐性を高める呪石パワーストーンだ。前衛として短槍と盾を構えて単眼巨人を迎え撃つ構えだった。


 ミルーニャは事前に邪視耐性を高める呪具である眼鏡を装着済みであり、高位言語魔術師であるハルベルトは当然のように無効化。リーナもまた邪視耐性が高かったのか平然と浮遊したままだ。問題は私だった。


 邪視には抵抗できたが、呪力を乱されて精神集中に失敗してしまったのだ。これでは呪文を紡げない。

 構成中だった【爆撃】が弱体化して【炸撃】になってしまうが、仕方無くそのまま放つ。


 火線が弧を描いて単眼巨人に吸い込まれていくが、直前であっけなく消滅してしまった。相手の呪的抵抗が高すぎるのだ。

 完全な無駄撃ちだった。


 失態を演じた私だったが、ミルーニャとリーナの呪術攻撃が命中し、とどめとばかりに突き入れられたメイファーラの短槍が胸の単眼を貫いたことで戦いは終わりを告げたようだった。私はほっと胸をなで下ろす。

 

「ばか、まだ終わってないっ」


 ハルベルトの鋭い声。見ると、前のめりに倒れようとしていた単眼巨人の背中に何かが取りついていた。それを見て、私は思わず息を飲んだ。短い呼吸音が私以外にもハルベルトと、そしてリーナからも漏れた。


「何あれ。白い、花?」


「何かの呪具にも見えますけど――」


 メイファーラとミルーニャが怪訝そうに呟くが、私はあれに見覚えがあった。あれはハルベルトと初めて会った夜のこと。アストラル界で私を襲撃した、骨の花だ。何者かの使い魔だとハルベルトは言っていた。それが、どうしてここに?


「嘘――何であれが、こんな所に」


 私の横で、リーナが呆然と呟く。

 彼女は何か知っているようだったが、それを訊ねる前にきっと頭上を見上げ、何事かを小さく呟いた後で箒の柄を鋭角に持ち上げた。


「近くにいる――逃がさないっ」


 言うが早いか、リーナはほぼ垂直に飛び上がって山頂の方向に向かって行ってしまった。訊ねたいことがある上に状況は何も解決していないのにである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る