2-89 サイバネティクスとオカルティズムの幸福なマリアージュ⑤
場の空気が、目に見えて変化していく。左手を構成する掌握者権限によって創造された物質は、ぎりぎりの所で崩壊せずに形状を保っている。レオの本心からの訴え――当然トリシューラによる入れ知恵だが、それによってこの空間にはひとつの構図が出来上がっていた。
第五階層を守る者と、その平和を脅かす者、という。
周囲から俺に向けられる視線、そして自分に対して向けられる敵意に気付いて、キロンがはっと息を飲む。人が多い場所に誘い込まれたという事実に気付いた時にはもう遅い。
確かに聖騎士に対してそこまでの悪感情を持たない者も、【上】住人の中にはそれなりにいる。しかし、ここに多く集まっているのはレオをはじめとしてここにしか行き場がない者達ばかり。探索者ではない非戦闘員や、探索者であることを負傷によって断念し、故郷にも帰れなくなった敗残者。純粋にここにしか居場所が無いと認識している彼らにとって、現在の第五階層を破壊しようとする者は敵である。
第五階層全域の人口のうち、割合としては全体の三割程度。決して無視ができない非マイノリティ。
「アキラさんは僕たちと同じように、上にも下にも行き場が無い人です。あの人なら、本当にこの場所のために戦ってくれる!」
浸透していた俺個人の情報が、レオの言葉を裏付ける。狂犬の悪名も、裏を返せばここで暴力に頼った生き方をすることしかできない社会不適合者だという証明になりうる。
「ぬ、おおおっ」
いつしか。こちらの勢いにキロンが圧倒されている。
周囲からキロンに罵声が浴びせられる度、俺に声援とも野次ともつかぬ荒っぽい声が投げかけられる度、明白なまでの差が広がっていくようだった。
先程の無差別爆撃もまた、キロンのイメージの大幅な低下に役立っていた。死者がおらず、意識のある負傷者が多数という状況も、キロンに対して多くの憎しみを集めることに繋がっている。
そしてそれは、話の流れというものを味方に付けて勝利するキロンにとって最大の危機。非道な行為を行っているのは俺ではなくトリシューラなので、そこで俺に不利な判定がなされるという可能性も無い。なんといっても、レオの言っていることは全て事実なのだから。俺は今、実際にレオからキロンを遠ざける為に動いている。
心の底から思う。レオの存在は尊い。彼は守られるべきだ。
俺にはキロンのような圧倒的な美貌、強さ、信念といった、英雄らしさが欠けている。彼が敷く物語のルールで戦う以上、それ無くして勝利することはできない。だが、必ずしも俺がそうである必要は無い。善良さ、主人公らしさというものを、俺の外側から持ってくればいいだけのこと。
勝つための力が無いならそれは二人の魔女から借り受ける。勝つための資格が無いならそれは善なる少年から借り受ける。俺はそれらを効率よく伝達させるだけでいい。
キロンのスピードや回復力は確かに厄介だ。しかしそれらを上回るキロン最悪の力、それは運命を味方につける英雄性だ。それを逆に利用して、相手の純粋な実力を無視して気合いとか友情とか叙情的観念的な勢いとかで勝利するのが俺達の作戦だった。いわば相手の力に逆らわずに受け流し、それを攻撃に転用する応敵技術。相手の運命力を受け流し、主人公補正の重心を崩す。これもまたサイバーカラテ、名付けて呪的化勁。
キロンは状況の悪化によって明らかに弱体化していた。今までの強さが嘘のような遅々としたスピードで、俺の攻撃を捌ききれずに押されていく。俺自身の実力ではなく、キロンが持つ圧倒的な運命力そのものを逆用されて、自らダメージを蓄積させているのだ。
この流れなら勝てる。
「
(No.10【ルスクォミーズ】エミュレート)
瞬間的に浮かんだイメージは、波打つ黒髪と凄烈な美貌を持った魔女の姿。その周囲に跪くのは見覚えのある悪鬼の群れ。特定の集団を悪鬼に変貌させる忌まわしい呪術を生み出した魔女にして、喰らった相手の力を己のものにするという恐るべき自己強化呪術の使い手。九人の姉を除けばその実力は随一。最強の妹ルスクォミーズ。
七十一のうち、【星見の塔】によって使用が制限されている上位一桁の形態を除けば最上位となる十番の義肢。鮮やかな深紅を基調とした義肢には、一見して特殊な兵装は存在しない。だがそのシンプルな形状に逆に脅威を覚えたのか、キロンは大きく距離をとって口笛を吹く。
合図の直後、真横から叩きつけられる衝撃。大地を割り砕きながら突撃を敢行した黒い馬が、右手によって停止させられていた。
「停止の力か――厄介な腕だ!」
吐き捨てて、腕に巻き付けていた黒槍を元通りに伸ばし、盾を構えてこちらへ突撃を仕掛けるキロン。背後の石版から無数の文字列が展開され、こちらへ同時に攻撃をしかける。俺は馬を完全に凍結させると、多面鏡を展開させながら幻肢で文字列を防御。正確無比な突きをぎりぎりで回避しながら前へと進み出る。その攻撃速度は、以前と比較して明らかに精彩を欠いている。
深紅の左手が、相対するキロンに真正面から襲いかかった。見え見えの動きを予想して、身体の前に構えられた盾。不可視の障壁に加え、盾そのものの硬度も極めて高い。まさに鉄壁の布陣。盾の中央に俺の掌が接触し、その運動エネルギーはそこで停止する――かに思われた。
「な――」
驚愕の声を上げる間も無かった。キロンの腕が、そしてその奧の全身が火ぶくれによって赤く染まっていく。それだけにとどまらず、体内の水分が煮沸し、皮膚が、肉が熱によって融解していく。
こちらの掌を防いでいる盾、そして呪力の障壁には傷一つ無い。にも関わらず、キロンの肉体は高熱によって破壊されていく。再生が追いつかないほどのスピードで細胞が完全に死滅していく。
左の義肢の各所に刻まれた微細なスリットから、かすかな光が漏れる。もたらしている破壊に対して、ひどく静謐な駆動をする兵装だった。しかしその内側に搭載されているのは、あらゆる敵対者を細胞ごと破壊して融解させる死の熱学兵器。掌を砲口にして、瞬間的には最高一千度にも達する熱振動がキロンの体内を伝っていく。
(熱伝導制御能力によって一方向に効率よく進む熱フォノン。サーモクリスタルの兵器転用によって実現したフォノニックブラスター)
自然界には存在しない負の屈折率を持つ左手系メタマテリアルの使い道は遮蔽装置だけではない。トリシューラは原子の振動を熱フォノンとして記述することにより、それを自在に収束させ増幅させる。義肢内蔵という個人レベルの兵装でありながら、ウィッチオーダー下位ナンバー内で最大の瞬間火力を誇る、熱と炎の左腕。
それほどの高エネルギーを発生させるための核が、腕の中で強烈な呪力を放射し続けている。強力な異獣は肉体に宿した呪力によって、体内に呪石と呼ばれる呪力の結晶体を遺すことがある。数日前、第六階層でカッサリオを倒した際、トリシューラはしっかりとその遺体から高熱を放つ呪石を回収していた。
(第六階層で回収した王獣カッサリオの角を材料にしたこの腕は、あの振動砲と同じ原理の破壊を発生させる。流石にあのレベルの広範囲攻撃は反動でアキラくんがバラバラになっちゃうからやらないけど、局所的に熱振動を発生させることでより高い威力を実現させている)
氷の右腕と対を為すように、赤い左腕が死の高熱を放射する。あのコルセスカが防戦一方になった程の超破壊力が、キロンの肉体を蹂躙していく。過剰殺傷とも思えるほどの無慈悲なる融解現象。肉が溶けていくという壮絶な拷問に、声にならない声が喉から血と共に吐き出された。
「溶けろ――熱学発勁」
低く呟いて、左手の出力を引き上げる。腕の中を伝わる呪力を、掌から接触している盾に、展開されている不可視の障壁、そしてキロンの胴体に伝導させていくイメージを構築する。左腕から赤い光が放射され、掌へと収束していき、一瞬だけ消失する。
静謐。そして爆発。
一気に放出された呪力と熱によって、今度こそ盾が融解。軋むような音がして、呪力の障壁が無数の欠片となって砕けていくのを義肢の感覚で捉える。解き放たれたエネルギーは深紅の閃光となって視覚化され、高密度の呪力がスパークしてキロンの肉体を焼き尽くしていく。
千切れた蝶の翅が、ゆっくりと地に落ちた。
胴体に大穴を空けて、残った部位から蒸気を吹き上げるキロンは、今度こそぴくりとも動かない。沸騰した血液が溢れて、泡を立てては弾けて行く。
勝ったのか。
実感が遅れて追いついて、深く息を吐き出していく。
(向こうの手を借りるまでも無かったね。ま、無闇に借りを作るよりはいいか)
ちびシューラが、安堵したように言った。決して苦戦しなかったというわけではないが、思っていたよりもあっさりと勝ててしまったのも事実だ。それだけキロンの運命力が強かったということなのか、それとも――俺は視線をキロンから逸らして、倒れ伏したカーインを治療しているレオに向ける。
あの少年の力が、予想を遙かに超えて状況を変化させたのだろうか。思えば、奇妙な少年、そして奇妙な構図である。一度はレオを誘拐した男が、その危機に身を挺して倒れる。これは果たして偶然なのだろうか。最後にカーインと会話した時には深く訊ねることはしなかったが、もしかすると最初から――。
俺の思考を中断したのは、不意に降って湧いた奇妙な声だった。
「力が、欲しいですか」
幾重にも反響し、その精細な声質も、どこから響いている声なのかもはっきりとしない、不可思議な声だったが、それはどこか女性的な響きを宿しているようだった。
問いかけに、倒れ伏したキロンの身体が僅かに反応する。直感的にまずいと判断し、踏み込んで倒れ伏したキロンの頭部を踏み砕こうとする。しかしキロンの姿が奇妙に歪み、次の瞬間には遠く離れた位置に移動していた。
まだ縮地――空間制御能力ができるだけの余力があったのか。自らの迂闊さを呪いながら、追撃に移行する。
だがそんな俺の目の前に、拳大の何かが飛び出して行く手を阻む。見覚えのある眼球型使い魔だ。
(最悪! この使い魔、こっちの感知をすり抜けるなんて!)
またカッサリオのような怪物を呼び出されでもしたら手に負えない。素早く潰していくが、その間に事態は進行してしまっていた。
「ああ、あの時にも聞こえた――魔女の銃弾に斃れた時にも聞こえた声だ――」
掠れて消えそうなキロンのうわごと。ちびシューラが何かに気付く。
(待って、もしかして――シューラはあの時キロンを殺せていたの? そしてその後蘇生した――?)
「たとえ己自身の意思を打ち棄ててでもその意志を押し通したいのであれば。それほどまでに力を欲するのであれば。強く心に願いなさい。その乾き、その餓え、余さずわたくしが充たしましょう」
響き渡る謎の声は、明らかにキロンに利するもの。次から次へと湧き出てくる眼球の使い魔。直感する。階層を迷宮と化したのは、この声の持ち主だ。
こちらに考える余裕を与えまいと、俺に飛びかかってくる無数の影があった。皺だらけの矮躯。憎悪を瞳に漲らせて、悪鬼の群れが俺に襲いかかる。
「くそ、タイミングが悪いんだよっ」
いや、そもそもこいつらも『何者か』の指示で動いている可能性が高いのか。
だとすれば、本当に脅威となる相手は、キロンではなく、その背後にいる?
疑問を余所に、虫の息のキロンから膨大な呪力が溢れ、流れ落ちる大量の血が浮き上がったかと思うと元あった体内へ流れ込んでいく。更にその色彩が、鮮血の赤から暗く重い青へと異様な変化を遂げる。
死の直前にあった聖騎士が、今まさに復活しようとしていた。
(そうか、死後に復活する、蘇生型の転生! だとしたら、これが二回目の転生ということ。まずい、転生力で上回られる!)
飛び出した謎用語の数々に困惑を禁じ得ない。何だその転生力って。
だが、確かに彼女にはキロンを過去に殺した確信があるようだった。それが誤認ではなく事実であったとしたら? まさしく俺という個人が、死後の復活という一例なのだ。この世界の人間が復活しないというのがそもそもおかしな前提である。コルセスカも、同じ世界の中で生まれ変わった転生者なのだと言っていた。
つまり、キロンもまた転生者だったということだ。
転生者殺しの転生者。
キロンが定める戦いのルールにおいて、転生者や英雄性といった固有の要素が有利不利を定めるのだとすれば、ただの転生者ではキロンに勝つことはできない。
その推測に戦慄しつつ、俺はようやく最後の障害を排除し終える。悪鬼の頭部を焼き切って、キロンの下へ走る。余りにも遅すぎる。十四番に切り替えて縮地で距離を短縮する時間すら惜しい。
「欲しい。力が欲しい。誰にも負けない――を守れるだけの力がっ」
「その決意、しかと承りました――賽は投げられた」
左腕を振り下ろし、熱量を掌に集中させた時には、全てが手遅れだった。絶望的な声が第五階層に響き渡る。
『イェツィラー』
(トライデントの融血呪っ! アキラくん逃げてっ、取り込まれちゃう!)
衝撃と閃光がキロンを包み、咄嗟に左手に制動をかける。こちらの肉体にまで害を為そうとするエネルギーを右手で押さえ込み、咄嗟に飛び退った。
深い蒼色の流体が、キロンを、そして五つの神滅具を飲み込んで、一つのものとして融け合っていく。
渦を巻く流体が呪力を放射し、近付こうとするこちらまでも飲み込もうとする。恐らく、触れればいつか悪鬼の融合体に取り込まれたようなことになるのだろう。寒気を感じて、大きく距離をとった。
そして、姿を変えたキロンが流体の中から現れる。
左手の盾と弓、そして石版が一つに融け合い、大型のクロスボウと化している。右手には歪な棘を無数に生やした黒い槍。ほとんど腕と一体化したそれは、その背骨にまで触手を伸ばしている。黒い触手に冒されているのは背から生える蝶の羽もだった。濃い黒と青に浸食され、毒々しい色となったその姿はおぞましくも絢爛である。
そして、最大の変化は下半身に起きていた。
キロンの腰から下が、黒い馬と一体化しているのだ。馬の首から上は失われ、元々一つの生物であったかのような変質を遂げている。
それは真なる人馬一体。
「そう言えば、こちらはまだ名を宣言していなかったな」
背筋に氷を突き入れられたような悪寒。宣名によって己を強化するという作法は、今までにも幾度か目の当たりにしてきた。エスフェイル、カーイン、コルセスカ、トリシューラ、そしてキロン。キロンの名が生み出す呪力は、その他とは比較にならないほどに大きいのだと記憶が警鐘を鳴らす。
敵はその本領を発揮していなかった。切り札の温存という端的な事実が、定まった勝敗を覆す。
「我が真の名は【廉施者】――この身は、あらゆる死を拒絶する」
放出される、かつてないほど強大な呪力。
蒼い血液によって融合した聖騎士と異獣、そして五つの神滅具が、復活の咆哮を響かせた。
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