2-84 ごっこ遊び⑤
「神経を繋ぐから、多分遮断できないくらい痛いと思う」
「こればかりは自分の感覚として実感しないと意味が無いので、私はその痛みを受け持てません。痛みで腕を捉えて下さい」
「といっても多分耐え難いだろうから、作業の間は催眠状態にして意識を夢の奧に切り離すよ」
「夢の中で堪えて下さい――いきますよ」
コルセスカの牙が首筋に侵入してくると共に、溶けそうなほど甘い、形の無い何かが体内に浸透していくのを感じる。だんだんと意識が薄れていき、俺は襲いかかる眠気に抵抗せず飲み込まれていった。
気がつくと、そこは迷宮だった。
ああ、いつもの夢だと自覚する。無限に逃れられない明晰夢。青い庭園で、俺は終わりのない待ち時間を潰し続けるのだ。この場所で、来るはずのないアズーリアを待ちわびながら。
だが今はどこかいつもと雰囲気が違う。肩に甘やかな痛みと熱、そしてすっかり肌に馴染んだ冷気を感じる。首を回しても誰もいないが、現実で噛み付いているコルセスカの存在を確かに感じる。
その実感を証明するように、どこからともなく彼女の声が響いてきた。
「ここが貴方の夢ですか。――ああ、なんて鮮明な記録。これでは同じ悪夢を見続けていたのも当然ですね」
言われている意味が理解できず、どういうことかと問い返すと、反響する不思議な声が淡々と説明していく。
「この場所は貴方の脳に存在する記憶のみで形作られているのではありません。貴方はずっと、第五階層そのものに刻まれたログを参照し続けていたんです。ただし悪意によって歪められた、悪夢の泡としての記憶を」
悪夢の泡。その言葉の響きに呼応したのかどうかは知らないが、ぶくりと音を立てて泡が立ち上っていく。そこが水底であることを、世界そのものが今この瞬間に思い出したかのように。
「どうしてそうなっているのかは不明です。どうやらこの階層には何か私達の知らない秘密が隠されているようですね。おそらく関係しているのは第五階層の裏側。古き時代に世界槍そのものに刻まれた過去の記憶たち。冷たい石の迷宮と終わり無き草原、そして死人の森」
瞬く間に、世界が暗く狭い迷宮、広大な草原、そしてエスフェイルとの死闘を重ねた夜闇の森に変化していき、やがて青い庭園に巻き戻される。これは、かつて俺が通り過ぎていった第五階層の風景たちなのだろうか。あれらが、古い時代のこの場所の記憶?
ふと考える。現在の第五階層の混沌とした有様も、多くの記憶のひとつとして刻まれているのだろうか。
「ここには、貴方という存在の確かな痕跡が刻まれています。言うならば、呪術的な力による外部記憶装置。この悪夢の泡を利用して、貴方が『アキラである』という事実を再構築します」
意味が分からず、再度の問いを思い浮かべる。答えはすぐに返ってきた。
「キロンによって貴方の『アキラ』としての情報は大きく損なわれました。私が守れたのはここ数日のものを中心としたかなり不完全な虫喰いの記憶だけ。そこから私が感情を奪って冷静な精神状態を保つ事で、かろうじて『アキラらしさ』を維持している状態です。今の貴方はとても儚く、風が吹けば飛んでいきそうな程に脆い存在なのです。ですから、私は貴方の空っぽの部分に、この悪夢の世界に蓄積された『アキラらしさ』を注ぎ込んで、『アキラという個人』の性質を強化、補填する」
首筋に何かが注ぎ込まれる感覚。周囲の景色が歪み、次々と俺が通り過ぎていった過去が表示される中、それらが凝縮されて流体になったかと思うと、こちらの首筋へ吸い込まれていく。
「そしてもう一つ。僅かに残されている、貴方が転生する前の記憶を吸い取ります。系統立てられた一回性の『
転生者殺しに勝つためには、転生者として戦ってはならない。それが俺とコルセスカ、二人の出した結論だった。その為のこの行為ということだろう。
「だまし討ちのような形になってしまってすみません」
仕方が無いことだ。少しだけ悲しい気もするけれど、その代わり俺は二人の力になれる。
失った右の義肢のことを思い出す。もうほとんど記憶は残っていないけれど、それは裕福な家庭で育てられたからこそ手に入れることができたものだ。おぼろげな両親の記憶。大事に育てられたにも関わらず、俺はその愛情を裏切ってしまった。それでも俺は確かに、二人のことを大切に思っていたのだと思う。
繰り返される、コルセスカの謝罪の声。首を振って大丈夫だと答える。それは謝るようなことではないのだと。
それに、吸い取られるってことはさ。
俺の記憶は、コルセスカが覚えていてくれるんだろう?
首筋に押し当てられた見えない感触が、一際強くなった気がした。しばしの沈黙があり、やがて震える声が当たりに響く。
「貴方は、私に好感を抱いてくれているようですけれど。私の狡さが、貴方の大切なものを奪っていくだけだと、本当にわかっているのですか」
何のことだろう。似たような事を、トリシューラにも言われた。だが、俺はコルセスカがどのような事を考えていたとしても力になりたいと思う。それだけは確かだ。
「貴方から前世の全てを奪ってしまえば、貴方の大切なものは私とトリシューラだけになる。今、私がそんなことを考えているとしても?」
いいさ。そんなの、今更だろ。
望むところだ。今の俺はそれでいい。
だからその代わり、失った分を、二人の記憶で埋めて欲しい。
答えの代わりに、存在しない両腕に凄まじい衝撃が走って、同時に世界がひび割れていく。意識が夢の中からさえも遠ざかり、左腕に燃えるような熱を、右腕に凍えるような冷気を感覚し、頭蓋の奧へと電流が走っていく。指が、手が、腕が、皮膚が、血管が、筋骨が、ありとあらゆる細胞が。神経そのものが針となって俺の意識を刺し貫く、悪夢すら崩壊させる拷問。永遠とも思える一瞬の中で、ふと左右に誰かがいることに気付いた。
両腕が無くては、彼女たちに触れることすらできない。そのもどかしさを、つい先程も痛感させられたばかりだ。触れ合いたいという欲望を、邪悪であると自覚しながらも、求めることを止められない。向こうから差し伸べられた手を、一つずつ確かめるようにそっと握る。
引っ張り上げられる。逆らわずに上へと進む。既視感があった。思えば俺はいつも、誰かに手を差し伸べてもらっている。その手を強く握りしめて、ゆっくりと目を見開いた。
待ち続けるだけの、終わりのない迷宮の夢。どうしてか、もうその悪夢を見ることは無いのだと思えた。
確信があった。
過去が終わりを告げ、ここから俺の未来が始まる。
トースターでパンを焼いている間に玉葱を細かく刻み、人参と芋の皮をさっと剥いて食べやすいサイズに切っていく。大蒜を微塵切り、キャベツはざく切りにして洗った豆と一緒に置いておく。電磁調理器の上に乗せた鍋にバターを一切れ落として加熱。玉葱が飴色になるまで炒めて、その他の食材も順番に投入して炒めていく。最後にトマト缶の中身を入れて水を追加。蓋をして中火で煮込む。味を見つつ塩を追加して、後は待つだけだ。その間にパンに程よく焼き跡が付いているので取り出す。
「うーん、あともう一品くらいあった方がいいのか?」
「何やってるの、アキラくん」
若干引き気味の声が後ろからしたので振り返ると、厨房の入り口にトリシューラが立っていた。見れば分かることを何故いちいち訊ねるのだろうか。また何かの儀式か?
「食事作ってたんだよ。軽いやつな」
「それは見ればわかるよ」
「なら何故訊いた。あ、そういやスパイスとかってどこかに無い? ローリエとかあるとそれっぽいんだけど」
「下の棚の右奧。いやそうじゃなくて、何でそんなコトしてるの? 料理ができるアピールしたかったの?」
「何故そんなことをする必要がある? 普通に、起きたら腹減ってたからだよ。トリシューラは寝てたし、起こすわけにもいかなかったからな」
彼女の場合、睡眠というのは定期的なエラーチェックと最適化の際に休止状態になることを意味する。普通の人間のように目を瞑って横になるのは、例によって『それっぽい』からだとか。
「あともうコルセスカが一歩も動けそうにないし、部屋に持っていってやろうと思って」
コルセスカの家での一幕が終わった後。力尽きて倒れたコルセスカを二人でトリシューラの拠点まで連れて行き、そのまま戦闘の準備と俺の試運転を済ませた後、体力を回復させるためにそのまま全員で泥のように眠ったのだった。俺だけ先に目覚めて、こうして朝食を作っているというわけだ。
「セスカ、濃い目の味付けが好きだから気を遣ってあげて。できれば辛いのとか、刺激物がいいと思う」
忠告を聞き入れて、彼女用に味を調整していく。スパイスが豊富なのはひょっとしてコルセスカの為なのだろうか。もの凄い辛そうなやつが幾つも並んでいて少し怖い。
「なんかこうして、一緒に生活してる的な雰囲気ってさ」
「うん?」
「結婚したみたいだよね」
――落ち着け。こいつは俺に特別な感情は一切抱いていない。それはちゃんと認識している。直球で露骨過ぎる事を言われたとしても、それは俺が勝手に先走った結果であって、彼女に他意は無いのだ。昨日それで痛い目を見たばかりではないか。
「あのな。変に試そうとしなくても、俺は裏切ったりしない」
トリシューラがこちらから好意の言葉を引き出そうとしているのは、おそらくは不安ゆえだろうと、俺は推測していた。俺が彼女を大切に思っているということを確認したい。そうすることで、己の存在を確かめているのではないだろうか。
「ごめん。でも、本当はアキラくんは、いつだって私の所から出て行っていいんだよ。こんな風に束縛してしまうのがいけないことだって、私――」
「トリシューラ」
振り返って、不安そうに立ち尽くす彼女に手を伸ばす。
俺の左手が、その頬を撫でる。
「俺はもうお前のものだ」
言葉はその一言だけ。それでも、トリシューラは泣き出しそうなくらいに目を潤ませて、俺の左手に手を添えた。いとおしげに手の甲を撫でていく動きを、新しい表皮――装甲で確かに感じ取る。
思いついて、俺はもう一言付け加える。
「何があってもトリシューラの傍にいる。死が二人を別つまで」
「――ううん。貴方に拒絶されるまで、だよ」
そう呟くトリシューラの表情が、あまりにも透明だったから。それがどういう意味かを訊ねることもできず、呆けたように彼女を見つめ続けてしまう。しばらくして、背後で電磁調理器が自動停止する音が鳴ってしまい、俺は慌てて彼女との会話を中断することになる。
その意味をきちんと問えなかった事が、どれだけの痛みを彼女にもたらすのか。それを知る機会を、遠くに失ったまま。
「コアでいいか」
「はい?」
朝食を部屋に運ぶと、コルセスカはぽかんとした表情で聞き返してきた。ゆっくりと上半身を起こそうとする彼女に手を貸してやる。かなり消耗しているようで、今もまだ気怠げというか貧血気味のようだった。
「愛称。トリシューラもなんか縮めて呼んでるだろ。というわけで俺もコアと呼ぶことにしたのでよろしく」
「はあ、いえ、あの」
「嫌そうだな」
当然だろう、いきなり距離を縮めようとし過ぎだった。普通は引く。
記憶の奥底に、その着想は静かに眠っていた。それが、ふと重石がとれたかのように浮上してきたのである。
どんな情報からの閃きかはわからないが、なんとなく失ったアプリを弄くっていた時に思いついた略称である気がした。何故だかはわからない。しかし、その名前がコルセスカとトリシューラとを結ぶ複雑な因縁を解きほぐしてくれるような、根拠のない予感がある。
「いえ、そんなことは無いのですが、その」
言い淀むコルセスカの表情に浮かぶのは、嫌悪や忌避ではなく、驚きと戸惑いであるようだった。不思議に思っていると、彼女は意外な事実を告げる。
「それ、私の仲間たちも呼んでくれている愛称なんです。どうして知っているんだろう、トリシューラが教えたのかな、と思いましたけど、あの子はこの愛称を知らないですし、違いますよね」
こちらこそ驚いていた。既にある愛称だったのか。まあコルセスカという有限の音素を分解していけば愛称のパターンなんて限られるからそこまで不思議なことではない。
「――偶然、貴方が思いついた。そう、そうですか」
どこか嬉しそうに口元を緩めて、コルセスカはその短い呼びかけを噛みしめるように左目を瞑った。しばらくしてこちらを見ると、少し緊張したような表情で口を開く。
「でも、そういう風に私と親しげにするのは良くないと思います。貴方は基本的にはトリシューラの使い魔なのですし、こういうことはある程度しっかり線引きをしないと」
妙な気の遣い方をする奴だな。
食器を卓上に置いて、俺は右手を伸ばして彼女の右手をとった。手袋に包まれたその内側、呪帯で封印された氷細工。その冷たい硬さを感じながら、安心させるように告げる。
「俺はコルセスカの使い魔でもある。トリシューラが俺を勝ち取ったのは事実だけど、俺がコルセスカを選んだのも事実なんだ。だからその事を疑う必要は無い」
彼女は両手で強く俺の右手を握りしめて、何かに耐えるようにそっと下唇を噛む。あるかなきかという小さな声。ごめんなさい、と誰かに向けて呟いて、コルセスカは俺の右手を胸にかき抱いた。そして、揺らめく左目とかすかに赤く染まった右目をこちらに向けて、一つの要求をした。
「あの――先程の言葉と矛盾するようで申し訳無いんですけど、二人の時――血を吸わせて貰う時だけでいいです。その時だけ、コアって呼んでくれませんか?」
「コア」
身を乗り出して、首筋を近づける。彼女の瞳が、吐息が、色づいた頬が、言葉にせずともそれを欲しているのだと雄弁に語っていたから。わずかに躊躇う気配に、強い衝動が勝ったのか。堤防が決壊するように、激しい抱擁と鋭い穿孔が繰り返され、血と唾液が混ざり合う。濡れた声と吐息が首筋に当たって、冷たさが俺の中から感情という感情を根こそぎ奪っていく。右腕を彼女の背に回して、強くこちらからも抱きしめ返す。
行為が終わった後、コルセスカは口元を押さえながら、自己嫌悪と罪悪感の入り交じった溜息を吐いた。
「この事、トリシューラには言わないで下さいね」
――二人だけの、秘密です。
そう言って、彼女は俺の右手に、そっと口を押し当てた。
そして、夜が明ける。
訪れた朝と共に、第五階層に降り立ったのは、背に蝶の翅を広げた転生者殺しの聖騎士。
その眼前に立ち塞がり、左右の感覚をもう一度確かめる。
右手を握りしめ、左手を持ち上げる。
両腕があるこちらのことを、相手は一瞬だけ誰であるのか判別し損なったらしい。怪訝そうに目を眇めてこちらを見る。そして瞠目した。
彼の驚きは恐らく二つ。
こちらの腕が、左右揃った状態にあること。
そしてもう一つは、俺の目に、勝利の確信が宿っていること。
それが中身のない妄想ではないのだと教えてやろう。
「来い、キロン。お前に、本当のサイバーカラテを教えてやる」
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