2-79 鏡《ミラージュ》⑥


 

 問題を設定すれば、あとはその解消が状況を変化させる最初の一歩となる。

 敵意や憎しみ、対抗心や怒り、嫉妬や劣等感。

 尊敬や親愛、慈しみや庇護欲、渇望や希求。


 これらは矛盾せず、一人の人物が抱きうる感情である。

 好意と嫌悪すら同時に存在できる人間の精神は、単純なデータの形式をしていない。無数のタグにまみれて混沌としたデータベースは、正確な管理を心がけないとすぐにその元の形がわからなくなってしまう。


 これは冷たいようで情の深い少女の、仲の悪い妹に対してのメッセージだ。この場面でより重要なのは俺などではない。俺が何かをするまでもなく、トリシューラは既に誰かにとっての特別だ。


 トリシューラにとってコルセスカは、交換不可能な経験を共有してきた姉妹であり、その存在を脅かす競争相手でもある。その二つの事実は相互に排除しあう関係のようだが、矛盾せず並立している。


 トリシューラは認められたいと願った。それは、具体的に誰にだろうか。世間、世界、社会、そういう漠然としたものではない気がした。おそらくそれは金銭という形で数値化できるが、今すぐに反映される指標ではありえない。そのことを本人もわかっているはずだ。


 それならば、俺に選ばれることが彼女の存在を揺るがす重要な出来事なのだろうか? ありえない。あってたまるかそんなこと。その結論が否定されるべきものだとすれば、肯定されるべき結論とは何か。最適な答えを、俺は一つしか知らない。他にもあるかもしれないが、知らないのだから知っている範囲でどうにかするしかないのである。そう息巻いて説得すると、彼女は大きく溜息を吐いて最後には頷いてくれた。結果がどうなっても、一生許さないという恐ろしい宣言をして。


 トリシューラを唯一の存在として受け止めるとすれば、その第一の候補は競争相手であるコルセスカをおいて他にはいない。そして、コルセスカにとってもトリシューラは姉妹にして無二の宿敵なのだ。


 この関係性は、この上ないほどにトリシューラという存在を強固に規定している。競争という枠組みと双方向のまなざしが関係性を形成する。二人が個別にあるのではなく、対峙し、時に並び立つ関係であるからこそ、お互いにとっての特別さが際立つ。特別さとは、相対的な関係性の中にこそ立ち現れる。


 お互いが、お互いにとっての鏡になるように。

 二人でいることがなによりの存在証明であり、お互いを認め合うことこそが本当に必要とされていた承認だったのだと、俺はそう確信している。

 

「すっかり強くなりましたね。もう、私なんかが心配する必要がないくらいに。――約束通り、アキラは貴方のものです。足蹴にするなり奴隷にするなり、好きにしていいですよ」

 

 胸の傷をあっさりと塞いだコルセスカは、しかしはっきりと負けを認めてトリシューラに俺を譲り渡した。もののように扱われる感覚に、背筋をぞくぞくと震わせている。いや、俺じゃなくてコルセスカが。


 しかしトリシューラは抱きしめた俺をじっと見つめると、急に無表情になって、

 

「うーん、よく考えたらあんまいらないやこれ。やっぱセスカに返す」

 

「遠慮なんてやめてください。貴方は勝負に勝ったのです。ならばトロフィーを受け取る権利があります」

 

「いや、やっぱりセスカが貰ってよ。権利を行使するかどうかは私が決めて良いんでしょう? なら、私は本当に必要としているセスカにあげたい」

 

「戦力的にそこまで欲しいというわけでもないんですよね。単にクリアできる攻略対象は攻略しておこう、という心理が働いただけで。正直、一回落としてしまったのでもういいかなって。すぐ飽きそうですし」

 

「あーそれわかる。なんて言うか中身が無いんだよね中身が。おまけに決断力無いしさー」

 

「ですよね。実際、かなり苛つかされましたから。あと顔は澄ましてますけど内心がいやらしいことばかり」

 

「本っ当にね。あれはやめてほしいよね。サイテー過ぎてドン引きだよ」

 

「あ、でもあれはあれで言い訳に使えるというかおいしい思いができるというか――あ、いえなんでもないですよ? ええっと、ほら、でも何かしら優越感とかあるんじゃないですか。異性の使い魔ですよ。つまりは、ほら何と言っても念願の――」

 

 念願の、何? と言葉の途中で首を傾げるコルセスカ。それはやっぱり『かれ-』とか『こい-』とかで始まる漢字二文字の単語じゃないかなと口を挟もうとした途端、トリシューラの「ペット?」という回答が提出され、「ああそれです」とコルセスカが正解判定を下す。もうペットでいいです。

 

「でも、実際に手に入れてみたらそんなに――ていうか、セスカに勝てたって思ったらなんか満足しちゃった。私にとって大切だったのって、本当はセスカとの勝負だったんだと思う。『これ』はなんか、何だろうね、点棒とかゲームコインのやりとり?」

 

「あ、トリシューラ。それ、もっと言ってください――二重の意味でぞくぞくする。癖になりそう」

 

「はぁ?」

 

 生まれ変わったら何か色々なものを運ぶための媒体になっていた俺の事をどうか忘れないであげてください。木馬の次は点数計算用のツールでトロフィー。一体次は何を運べばいいのだろう。気分はすっかり運送屋(非物理)である。空気同然となった俺は、二人の間の親密な雰囲気を壊すまいとただ沈黙していた。

 

(媒体かー。いいねそれ。シューラの使い魔らしくて、ちびシューラは好きだよ)

 

 ふわふわと、いつのまにか居なくなっていた二頭身のデフォルメ体型がこちらへ漂ってくる。いつもは俺の頭の中にしか響かない声も、この空間では他の二人にも届くようになっているらしい。

 

「媒体ですか。確かに、それ単体では意味を為さず価値を持たないですけれど」

 

「他の意味を持つもの、価値あるものと一緒に使えば役には立つよね」

 

 お互いに俺を譲り合う、というか押しつけ合うような形で挟み込んだ二人の魔女が、おかしそうに囁き合い、やがて同時に頷いた。無言のアイコンタクト。その言語を介さないコミュニケーションでどのような合意が形成されたのかは一切不明だが、二人は交互にその結論を俺に告げた。

 

「それでは今この時より、アキラは私達共通の使い魔です」

 

「すり切れるまで使い倒してあげるから、頑張ってついてきてね、アキラくん」

 

 その時の俺がどんな表情をしていたかは定かではないが。二人の少女が、この上なく愉快なものを目にしたかのように華やかに笑い出したことが、全てを物語っているのだと、そう思えた。


 並んで咲き誇る、可憐で絢爛な二輪の華。

 この光景より美しいものを、俺は知らない。

 

 

 

 

 

 

 闇の中を、一人きりで深く潜航していく姿がある。


 白銀の髪と特徴的な氷の義眼。冬の魔女は誰にも知らせず、静かに深海の中を進んでいく。先に現実へと送り返した二人は、今頃仲良くやっているだろう。先に独り占めした分だけ、帳尻を合わせてあげなくては。多少妬けるけれど、そこはやっぱり自分の方が姉なのだから、我慢して譲ってあげようと思うのだ。


 いとおしい感触を牙と心臓の深い部分に感じながら、氷の魔女は淡く微笑む。その目指す先に、やがて煌めく何かが見えてきた。暗闇に輝く、あれは世界の裏側に広がる星々なのだろうか?


 そうではない。よくよく氷の義眼を凝らせば、それが同じ氷の破片だとわかる。散り散りになった鏡の破片が山となって積もっているのだった。

 その破片の一欠片をそっと手に取って、彼女はふと、幼い頃のことを思い出す。


 独り遊びに飽きた彼女が求めた、同年代の女の子。それは末の妹になるべく育てられてきた反動だったのかもしれない。おぼろげな記憶では、一緒に遊んでいたのは妹のような存在だったはず。妄想の妹――クランテルトハランスを自力で生み出してしまうほどに、彼女は一人だった。それが苦痛だったわけではない。沢山の娯楽や刺激に囲まれていたから、退屈というわけでもなかった。それでも色々な物語に登場する『他の人』には興味があった。いつしか彼女は空想との戯れをほどほどに続けながら外界にも目を向けるようになった。それでも幼い頃から続けていた遊びをやめたりはしなかったのが、誰かとの最大の違いだったのかもしれない。


 ばらばらになった鏡に映る、そのアシンメトリーな顔を見る。その姿が、一瞬だけぶれて別のものに変化した。


 白は黒に。青は赤に。色彩が反転して、性質が逆転する。二人の手を合わせれば、あつらえたパズルのピースのように、それはきっとぴたりと嵌る。

 記憶の中を探っていくと、古い愛称に行き当たる。トリシューラがセスカという愛称を今でも使っているように、かつてはコルセスカもトリシューラを愛称で呼んでいたのだ。小さくて可愛らしいその姿にぴったりな、短縮形のシンプルな愛称。彼女はそれが自分の名前だと理解して、幼い子供のように自分の事を名前で呼ぶようになった。その習慣は、彼女が自意識を確立しようとして、『私』という一人称を使うようになって以来廃れてしまったけれど。そのことを、あの奇妙な転生者に憑いていたクランテルトハランスを見て今更思い出した。多分あれは、『そういうこと』なのだろう。自分にだけ理解できる納得を胸の奥にしまい込んで、コルセスカは独りごちた。

 

 最初のシューラ。瞳の中のお友達。元気で小さな、妖精さん。

 最初のセスカ。ご本の中のお友達。強くて綺麗な、お姉さん。

 

 相互再帰のイマジナリーフレンド。双方向の参照関係。入れネスト構造の魔女姉妹。


 始まりがどちらだったのか。それともそんなものはどこにも無いのか。今となっては、その真実を追究することすらどうでも良いことのように思えた。


 確かなのは、彼女がいること。ただそれだけ。胸の中に広がるのは、暖かな気持ちだった。お互いを繋ぐ見えない何かを、媒介してくれた人がいる。


 今だって姉妹の間にはどうしようもない二者択一の運命が立ちはだかっている。二人だけだったなら、きっとどちらかが、あるいは二人とも消えて終わっていたような気がする。けれど彼といると、どうしてか自分たちは違う未来、想像もしなかった結末へと行けるのではないかと思えてくる。


 きっと、彼一人では意味が無いのだ。彼を介して、その両端で自分たちが繋がっているから安定した意味を構成できる。異なる性質の呪術を扱う魔女達が摸倣子ミームを共有し交換し合い、その間で仲立ちとなる使い魔が三者を強く結合させる。


 あらゆる情報、あらゆる心、あらゆる呪力は、それを表現する媒介物なくしてはただの脳内のシグナルにすぎない。それらはコピーアンドペーストを繰り返して、他者の心に届くことで初めてその効力を発揮する。


 まるで呪術を知らず、呪力を持たない彼だけれど、本当は彼こそが最も呪術の才に恵まれていると言えるのかもしれない。


 この三人でならどんな困難も乗り越えられそうな、根拠のない自信が湧いてくる。そういえば、地上に置いてきた仲間達と居る時もこんな気持ちにさせられたものだった。探索者集団の最小構成単位は三人だ。人はその数字に安定を見出す。


 ふと、自分と妹の名前、その由来を思い出した。

 くすりと笑って、彼女は勢いよく浮上していった。全ては思い出の中に。バラバラになったパズルのピースは曖昧な闇の中でそっとしておこうと決めたのだ。


 帰るべき水上の居場所へと振り向かずに進んでいく、今はもう大人になった少女を見送りながら、水底に佇む小さな妖精は、いつまでも、いつまでも手を振っていた。

 

 

 

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