2-77 鏡《ミラージュ》④


 あらゆる光から遠ざかった、そこはまるで深海のような空間だった。

 といっても、深海の環境と言って一般的に想起されるような海底都市の光に溢れた光景や仮想投影された青空とはまるで印象が異なる。そこは外圧と内圧が鬩ぎ合い、自意識をすり減らすような極限の環境。心の中の荒野。そこには何も無く、あらゆる光を飲み込む闇だけがある。ただ自分があるということだけを頼りに先へ進んでいく。と、そこまで考えたところで騒々しい抗議が耳に突き刺さる。それ以外にも頼れるものはまだあるんだった。

 

(まったくもう、シューラを数に含めないなんて、失礼しちゃうよね!)

 

 相変わらず態度の大きい二頭身のデフォルメキャラクター。ちびシューラがそこにいた。ただし、俺の瞳の中ではなくて、右肩の上にちょこんと座っているのがいつもとは違う点だ。


 俺達は無限にも思える闇の中を潜航していく。首筋の噛み痕から二筋の血の管が上方向に伸びていて、それが今の俺の命綱。そして俺の周囲を衛星のように周回している氷の球体。これが不可視の結界を形成し、外圧から俺の精神を保護しているのだった。


 この暗い深海はトリシューラという魔女の内的宇宙である。俺がそんな場所を訪れることができている理由は一つ。コルセスカのお膳立てによるものだ。催眠術の多くは邪視系統に属し、高位の邪視者であるコルセスカもまたこの呪術を使うことができる。呪術への抵抗がほとんど皆無の俺はあっさりと眠りにつき、気がついた時にはこの闇の中に存在していた。


 俺達はトリシューラの精神に侵入し、沈んでしまったその心を再び引き上げようとしている。無論、俺一人ではこのような芸当はできるはずもない。コルセスカの呪術師としての技量と、もうひとり、トリシューラという人物を知り尽くした存在がいたからこそ可能となったのである。そのもうひとりとは、他でもない。

 

(はーい、シューラだよー!)

 

 緊張感に欠ける返事をしているちびシューラは、トリシューラであってトリシューラではないのだという。

 

(いま、ちびシューラはトリシューラから切り離されてるの。強制的に同期を切断されるとびっくりして自動停止しちゃうんだよね。今は同期していないから、ちびシューラは独立してアキラくんの中にいるんだよ。こういう時の為にね)

 

 コルセスカに彼女の存在を話した所、素早い処理で即座にちびシューラは復旧した。またしても無許可で噛まれたことは置いておくとして、それによってトリシューラへのアプローチが可能となったわけである。

 

(総体としてのシューラの自己認識が致命的なダメージを負った時、『別の自己』として切り離して全体の保全を図るためのバックアップ。それが私、ちびシューラ。身体性のデフォルメ、名前の変更。限りなく同じでありながら別の存在でもある、『最初の妖精』なんだよ)

 

 えっへん、と胸を張る自称妖精だが、威厳などは皆無だった。

 闇の中を進んでいくと、どこからともなくトリシューラの声が響いてくる。反響する音は複雑に絡み合い、詳細がはっきりとは聞き取れない。それでもどうにかその内容を繋いでいくと。

 

「これは、あいつの過去の記憶か?」

 

(アキラくんサイテー! 人の心の中を覗くなんて恥知らずも良いところだよ! シューラの気持ちを考えてみたことある? やらしい、覗き魔、変質者、けだもの、浮気者ー!)

 

「すげーなお前本当に尊敬する」

 

 この厚顔無恥さ、あやかりたい。

 暗黒の中を流れていく声を背後にしながら、奧へ奧へと泳いでいく。足だけで進むのは中々しんどいが、幸い周囲の助けもあってある程度は自動的に潜航してくれるのが救いだった。


 下から無数の泡が浮かび上がってきたかと思うと、あっという間に俺の周囲を取り囲む。全方位が泡だらけになり、その浮力で押し返されそうになってしまう。応戦するように、氷とちびシューラが氷柱と光線を発して泡を潰していく。弾けた泡から、トリシューラの声が解き放たれていく。

 

『本当はすぐにでも迎えに行きたかった。でもそれは計画外だったから我慢した。言い訳みたいで口には出せなかったけれど、ずっと気にしていたんだよ。それに、鮮血呪の反動は想定していたよりずっと大きくて、私は半年間ずっと不安定なままだった』

 

 暗闇の中に、知らない光景が浮かび上がる。

 重火器を構えたトリシューラがキロンに銃撃を加えている光景。


 青い花の庭園で、何処かで見た人狼が異獣らしき金色の猿と対峙している光景。


 狼のような強化外骨格が縦横無尽に暗い迷宮を駆け巡り、目深にフードを被って大鎌を振るう死神のシルエットと激突し、更には豪奢な少女趣味の服を纏った、おぞましく途方もなく巨大な何かの攻撃を受けてバラバラになる。


 傷だらけの身体を引きずっていくトリシューラの各部から、断線した人工筋肉繊維やメタリックな内部構造が覗く。

 

『本当の私は自分に自信が持てなくて――なんて、冗談みたいな本当の話。自分がどういう像を持っているのかわからない。どんな声で、どんな口調で、どんな顔をして会いに行けばいいんだろう。私はどんな性格で、どんなことを考える人格なの? とてもじゃないけど正解がわからない』

 

 次に暗闇に浮かび上がったのは、学校の教室めいた空間だった。大小様々な人形で埋め尽くされた異様な空間。


 教卓で鞭を執るのは白衣を纏った恐ろしくシャープな印象の女性だ。彼女が口を開く度、最前列に座るトリシューラは小さく縮こまっていくようだった。周囲にいる人形達がそれを見てカタカタと笑い出す。

 

『準備に時間がかかったっていうのは本当。でも、それは自分を半ば失いながらの作業だった。むしろ、その作業を続けることそれ自体が自己を回復させるための儀式だった。目的に向かって行動する私は前と同じように私のままである。そんな風に自分に言い聞かせるための』

 

 今度の光景は、いつか巡槍艦の内部で見せられた、ミニチュアの第五階層だった。未完成のそれを、虚ろな瞳で淡々と作り上げていくトリシューラの姿に、退路のない切迫感を見出す。

 

『私が私としての自信を失っている状態を、アキラくんに見られたくなかったの。だって、あまりにも余裕が無くて、みっともないでしょう?』

 

 鏡を割る。トリシューラが、繰り返し繰り返し、大量に用意した鏡を割り砕く。日々のルーチンワークとして毎日それを継続するその様子は、狂気めいた行動というよりは宗教的な儀式を思わせた。

 

『立派で強くて格好いい、アキラくんが心の底から魅力的だって思えるような、そんなご主人様になりたいって、そう思ったのに』

 

 鏡の前で、次々とトリシューラの姿が変化する。途方もない衣装持ち。購入したもの、自分で作ったもの。ああでもないこうでもないと悩みに悩んで、終わりはいつも自分の否定。鏡が割れる。

 

『嫌だ嫌だ、私はがらくたでもぽんこつでもない! 誰からも認められる、アンドロイドの魔女なのに。どうして誰も私を認めてくれないの。分かってくれないの』

 

 俺の顔が映し出されて驚いたが、その後ろの地面を見て気付いた。これは第六階層で、トリシューラに押し倒された時の彼女の視点だ。暴言を撤回しろ、自らの存在を認めさせてやると宣言した、意志の強い瞳。

 ああそうだ。あの時から気になり始めたんだ。彼女が見ている景色が、一体どんなものなのか。

 

『みっともないところ、格好悪いところばかり見られてしまうのは何故? このままじゃ嫌われちゃう。蔑まれていらないって言われて認められずに居場所を無くしてしまう。そうして、私はいなくなるんだ』

 

 映し出されたトリシューラの全身にノイズが走り、消えて無くなる。替わって登場したのは、レオやカーイン、何故か例の店員さんに【公社】の破壊狂アニス、キロンまでもが現れて、最後にコルセスカが映り、やがて彼女以外の全てが消える。

 

『セスカにとられるのは嫌! 上手に立ち回って取り返すんだ。だって私はセスカみたいになるんだもの!』

 

 そして向かい合う俺とコルセスカ。ゆっくりとコルセスカが近付いていき、やがて二人の距離が零になる。

 絶叫が響く。

 

『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! どうして私じゃないの、どうしてセスカなの? 私は頑張ったのに。一生懸命、セスカに褒めてもらえるように、セスカみたいになろうとしたのに』

 

 破綻していく言動と共に、暗闇の全てがひび割れる。視界に映る全てが亀裂の入った鏡となり、断片化されたトリシューラがそれぞれに絶叫を重ね、苦悶の合唱となった。

 

『行かないで、私を置いていかないでよ、お姉ちゃん――!』

 

 いい加減俺は――というか俺達は我慢ができなくなりつつあった。首の繋がりから怒りの感情がこちらにまで流れてきているのだ。今や俺達は感情を共有している。


 ああもう限界だ。それでも今の俺には両腕がないから手を伸ばして引き寄せることだってできやしない。

 だから俺は、可能な限り息を吸い込んで、力の限り声を張り上げる。

 

「いい加減寝てないで起きやがれ、このぽんこつアンドロイド!」

 

「誰がぽんこつだって――!」

 

 ぽんこつと呼びかけると、拳骨が返ってきた。

 いや冗談ではなく、一面の鏡が一斉に砕けたかと思うと、その向こう側から飛び出してきたトリシューラが勢いよく俺に飛びかかってきたのである。防御も回避もできず、顔面に硬く重い拳打が直撃する。凄まじい衝撃に身体が泳ぐ。うん、多分この言葉には反応するだろうな、と予想はしていたが、ここまで効果覿面とは。


 自尊心と劣等感をまぜこぜにして敵意と怒りで彩ったらこんな表情になるだろうか。いつもの整った微笑とはまるで正反対の、凄まじい形相でトリシューラがこちらを睨み付けていた。

 

「――何だそれ、そっちの方が断然良い面構えじゃねえかよ」

 

「わざわざこんな所まで、喧嘩売りに来たの?」

 

「ご明察。流石に話が早い」

 

「え? 本当に?」

 

 目を白黒させるトリシューラに、俺は首を振りながら体勢を整えて向き直る。少しばかり早とちりをしているらしい彼女に、細部の訂正を告げるために。

 

「ただし喧嘩の相手は俺じゃない。トリシューラが戦うのは、こっちの方だ」


 言うが早いか、首筋の繋がりを経由して高密度の呪力が深海まで到達する。青い輝きは俺の周囲で渦を巻くと、そのまま一点に収束していく。その一点とは、俺の目の前で静止していた氷の球体。コルセスカが愛用している宝珠型の呪具だ。そのシルエットが一瞬で人型を取り、次に瞬きをしたときには白銀の髪の魔女が出現していた。


「セスカ、どうして」

 

「私のように高密度の呪力体が侵入すれば、貴方の自動迎撃システムが少し煩いですからね。全て力ずくでねじ伏せることも可能でしたが、それで貴方が傷付いては本末転倒です。そこで、貴方自身であるそこの小さなクランテルトハランスと、その手引きで呪力がほぼ皆無なアキラを先に侵入させて裏口を作ったわけです」

 

 今回の俺の役割は、さしずめ英雄を内側に隠した木馬といった所だろうか。となれば、後は彼女に任せればいいわけだが、その前に言っておくことがある。コルセスカの前に出て、はっきりと宣言する。

 

「どうも、お前は俺がコルセスカを選んだと思い込んでいるようだが――」

 

「選んだでしょう。何を言っているのですか貴方は」

 

 後ろから耳を引っ張られて言葉を中断される。すみません、言葉のあやです。複数の方向から白い目で見られているのを感じつつ、急いで訂正する。

 

「――選んだが、その決定はこのたび白紙に返すことに決めた」

 

「死んで下さい」

 

「は? 死ねば?」

 

(シューラ不思議なんだけど、どうしてアキラくんは生きてるの?)

 

 全方位から生存を否定された。コルセスカは事前に説明した時には頷いてくれたのになんだこの仕打ち。

 

「理解はしましたが納得はしていません。一生許さないので覚悟するように」

 

「はい、肝に銘じます――それで、だ。よく考えたら、二人はもっと相応しいやり方と結果があるんじゃないかと愚考したわけだ。結論がよりはっきりとする、明確で覆しようのない方法が」

 

 俺の物言いが不明瞭だったせいだろう。トリシューラがいぶかしげに眉をひそめる。疑問に答えるべく、俺は続けて声を張り上げた。

 

「答えは一つだ。トリシューラ、俺は選ばないことに決めた」

 

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