2-76 鏡《ミラージュ》③


 

 男というものを見たのは、それがはじめてだった。


 キュトスの姉妹は女神の眷族。よって女性しかいない【星見の塔】で、男に関する知識はどうしても限定的なものになりがちだった。クレアノーズお姉様はその点においても抜かりが無い。時期を見計らって最適な資料をトリシューラに渡すと、こう囁いた。

 

「この中から、お前の運命を選ぶといいわ」

 

 リストに並んでいるのは、とあるプレーンで転生事故と呼ばれる時空情報流に巻き込まれた者たちの名とその詳細なプロフィールだった。


 悪辣にして聡明なるクレアノーズお姉様によれば。この呪われたプレーンと同一レイヤーに並存するとあるプレーンは末法の世であり、今世を捨てて来世に望みを託す者が後を絶たないという。


 日本、韓国、中国、台湾、モンゴル、インドネシア、カンボジア、シンガポール、タイ、フィリピン、ブルネイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、ラオス、東ティモールなどの国々から千人もの候補者を選出し、その詳細なプロフィールをトリシューラに送信した。どれをとってもつまらない、傑出した人物など皆無のリストである。そしてそれこそがトリシューラにとって必要な人材であった。

 

「お姉様、インドからの候補者はいないのですか?」

 

 その問いを投げかけたのは、自らの名前がその国の神話において屈指の知名度を誇る破壊神の持つ槍から来ていることを――厳密にはその槍の神話的位相がこの世界のものと照応関係にあることを知っていたからだ。それこそつまらぬ問いだとでも言うように、銀髪銀翅の妖しき魔女は、清らかな良く通る声で答えを口にした。

 

「愚問よ、可愛いトリシューラ。あの仮想都市は遂に身体性と脳の全感覚を分離してひとつの完成された世界を構築してしまった。バーチャルリアリティに己の実体を投げ出した彼らは、私達【杖】よりも【邪視】や【呪文】の在り方に近い。サイバネティクスによる肉体侵襲機器を発達させ、現実を拡張させるアプローチを選択している東アジア諸国の転生者達こそ貴方の使い魔として相応しい」

 

 他世界への転生や転移に成功するしないに関わらず、その事故に巻き込まれれば情報体が流出し、別の世界に流れ着くことになる。そうして外の世界から漂着した情報構造体は古来より【墓標船】と呼ばれ、有益か無益かを問わず様々な情報をこの世界にもたらしてきた。【星見の塔】の技術をもってすれば、【墓標船】内部に蓄積されたデータから同一の存在を再構成することも不可能ではない。


 沼男あるいは沼女。スワンプマンとして再構成された外世界人を使い魔にする計画。


 【最後の魔女】候補者たちはそれぞれゼノグラシア、あるいはグロソラリアと呼ばれる固有の因子を保有した存在を使い魔として互いに競い合うことが想定されていた。外世界の因子を持つ転生者ゼノグラシア。転生者と同じ特異な因子を持つがこの世界で誕生した突然変異、異言者グロソラリア。どちらを使い魔に選ぶかはその候補者次第だ。


 トリシューラはそのリストを眺めて、自らの道を定める時が来たのだと悟っていた。結局、自分には人としての『それらしさ』が生得的にそなわっておらず、経験的に獲得することすらおぼつかない出来損ないのままだった。ならば、より広範囲から『人』のモデルケースを持ってきて観察し、自らに足りないものを手に入れればいい。足りないものは、いつだって自分の外側にある。


 それは多分偶然だった。真っ先に目に留まったその男は、他の使い魔候補と比べてもとりたてて目立った特徴が無かった。右腕が機械仕掛けであることすら、そう珍しい特徴ではない。その世界ではほとんど全身を義体化している者すら少なくはなかったのだ。それでも『彼』に強烈に惹きつけられたのは、そのぞっとするほどの無価値さゆえだ。


 空虚で無意味で、他のどの候補と交換しても構わないような余りにも低い存在価値。あらゆる呪力は意味とイコールだ。リストの候補者たちの呪力は多かれ少なかれ、様々な色合いを見せている。どんな転生者たちであっても、前世はそれなりの積み重ねがあるのだから当然のことだった。誰にでも呪力は宿る。


 しかし『彼』にはそれが希薄だった。というよりは、自らが持つ意味を、他者が持つ価値を、進んで希薄にしようとする性質を有していたのである。資料を読みながら、その凶暴で悪意に満ちた世界観がどのようなものなのかと半ば恐れ半ば期待している自分に気付いた。その性質は極めて邪悪。本質的に凡庸で、それゆえに怠惰さと俗悪さが良い具合に混淆した低劣な人格が形成されている。まさしく悪魔そのものであり、魔女の使い魔としては申し分ない。


 それからずっと、『彼』との出会いが楽しみになった。なにしろ初めて飼う事になる使い魔だ。座学においては【邪視】よりはましだったが、【使い魔】の才能も豊かとは言い難い。初めての実技、初めての飼育。それも高い知性を有した転生者である。これは外宇宙の生物をペットにするのにも等しい行為だ。


 どんな風に名前を呼んであげるのがいいだろう。呼び捨て? それとも愛称? 『彼』の母語は敬称が豊富だ。どんな風に呼ぶかで距離感やこちらへの印象も変わってくるはず。色々な候補を考えて、ああでもないこうでもないと口の中で吟味する。自分が新しい名前をつけるのもいいかもしれない。

 食事はおいしいものを作ってあげよう。服も綺麗なものにしてあげて、住むための部屋も快適に整える。もちろん病気や怪我はしっかり治してあげないといけないし、トイレのお世話もしっかり責任をとるつもりだ。何かあった時の為にずっと目が届くようにしておいて、叱るべき時にはしっかりと叱って躾けも完璧に。そうやって一生懸命に面倒を見てあげれば、きっとすぐに懐いてくれるに違いない。目を閉じれば、主人を慕って忠実に役目を果たす、強くて可愛い使い魔の姿が浮かび上がる。


 あまりにも『彼』の事を考えていたせいか、気がついたら資料を参考にして精巧な模型を幾つも作り上げていた。実益を兼ねた趣味だったけれど、どうしてかその作業だけは一切の実用性を考えずに没頭できた。平凡な男性型の素体にこれが似合うんじゃないかと空想を膨らませて、いつしか一から型紙を引いて裁断、縫製と作業を重ねてしまっていた。気がつけば幾つもの着せ替え人形が出来上がり、丁度良いとばかりにそれらを相手に主従関係の予行練習を行う始末。


 それが幼少期に通り過ぎたはずのおままごとの延長だと気付いて、遠い記憶、『姉』と共に空想の中で戯れたことを思い出す。


 もしかしたら、『彼』と出会うことで、いつか遠い思い出の中に置いてきてしまった安らぎを取り戻せるかも知れない。あの冷たく優しい氷の掌が頭を撫でてくれたように。自分も、己の庇護すべき対象を慈しんであげたいと思った。ずっと『妹』になろうとしていた自分に初めてできる、『下』の存在。


 どんな風に衝撃的な出会いを演出してやろうか。二度と忘れられない、とびきり鮮烈な体験を与えてあげたい。それでいて、自分の為にもなる合理的な意味内容を含んでいると良い。トリシューラという私らしさを最初に提示して、自己紹介に変えてしまおうと思いつく。その演出を考えながら、知らず知らずの内にトリシューラの表情に笑顔が生まれていた。ずっと鉄面皮と揶揄されてきた自分に笑顔の作り方を教えてくれたのは優しい『姉』だ。ふと考える。今の自分は、一体誰によって形成されているのだろう。そして新しい価値観を知るための『彼』と出会った後の自分は、一体どうなってしまうのだろう。


 ――それは果たして、自分なのだろうか。

 そして【最後の魔女】選定が開始され、トリシューラは『彼』に出会った。


 最初にマーキングをしたら、後はじっくりと観察しながらその性質を確かめる。脆弱な転生者がすぐに死んでしまわないように、それでいて安易に頼られないように密かに暗躍し、地上と地獄の双方を敵に回しての大立ち回り。準備は万全。計画は綿密。あとは転生者が戦いの中で強く成長し、彼女が目指す【完全者】への道を一歩踏み出してくれれば本格的な接触と共闘、そして使役の段階に入ることができるはずだった。聖騎士や魔将たちとの激しい戦いや計画の準備で身動きがとれない間にも絶えず『彼』の動きを観察し、その戦いの履歴を眺めていく、のだが。「おや?」とトリシューラは首を捻ることになった。半年間の『彼』の履歴は戻らなくなったばね仕掛けのように役立たずで、期待した成果の一割にも届かない。何故だろう。こんなはずでは。


 そうしている間に、当面の敵と見据えていた【公社】が動き出し、更には懐かしい『姉』までもが現れて『彼』に接近を始めてしまう。


 何もかもが上手く行かないまま、大幅な計画の変更を迫られて必死に状況に食らいつく。それでもどうにか『彼』と当初予定していた関係性を築けそうな所まで漕ぎ着けた。だがその後、またしても想定以上に厄介な横槍が入り、トリシューラがはじき出されたその場所に、いつの間にか『姉』が居座っていた。なんだそれは、聞いてない、抜け目なく隙間に入り込んでおいしいところだけを掻っ攫うなんて根性が悪すぎる。もしかして私自身の性悪さまで投影してしまったのだろうか。そんな風に混乱して、どうすればいいのかわからなくなって、ああそうかと天啓が舞い降りた。


 だって彼女は理想の私だ。私にできないことができる、私よりも優れた私。

 二人を並べて吟味したなら、選ばれるのはあっちに決まっている。私だってそうするだろう。


 だって私は、彼女みたいに立派な存在になりたいのだから。

 そう気付いた途端、自分が自分であると、信じられなくなった。


 度重なる【鮮血呪】の濫用で、ただでさえあやふやになっていた自己の輪郭が崩れていく。壊れていく。終わっていく。私なんていらない。トリシューラはがらくたのぽんこつで、頭の中はからっぽのがらんどう。心の中には明滅する信号が飛び交うだけ。どんな人にも成れはしない、役立たずのスクラップ。


 薄れていく意識の中で、ふと思い出す。

 いらなくなったお人形は捨てられて、子供の頃に見えていた妖精さんは大人になったら見えなくなってしまう。小さな私を『シューラ』と呼んで可愛がる、青い瞳の貴方はなんて名前だったっけ――?


 裏返しになるイマジナリーフレンド。鏡写しになった姉妹のうち、本物は果たしてどちらだったのか。鏡の中で砕け散ったトリシューラの姿にノイズが走って別の姿と入れ替わる。白銀の髪と青い瞳。赤い髪と緑の瞳。ネガポジの風景の中で、誰かの想像上の妹をモデルに製造されたアンドロイドの設計図が浮かび上がる。


 暗く深い闇の中。

 足場の無い不確かさに震えながら、果てしない底へと落ちていく。

 

 

 

 初めてその人形のような瞳を見た瞬間、仲良くなりたいと、幼い感情が湧き上がった。

 今となっては誰が誰に抱いた気持ちなのかも分からないけれど、ただその想いだけは手放したくない。そんな思考が泡となって浮かんで、何処かに漂い消えていった。

 

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