2-75 鏡《ミラージュ》②

 初めてその人形のような瞳を見た瞬間、仲良くなりたいと、幼い感情が湧き上がった。

 

 

 

 鮮血のトリシューラは、男を知るよりも早く、生まれながらの毒婦であれと教えられた。快活に笑え。愚か者を籠絡し、踏みしだいて己の足場とせよ。

 

「お前は愚かだけれど、愚かゆえに愛らしいのよ。大抵の男にとって――まあ私のような女にとってもだけれど、頭の軽い小娘というのは可愛らしく思えるもの。お前はそうして寄ってきた男を上手に使う術を覚えなさい」

 

 そして、そんな男に生きている価値は無いから、使い終わったらきちんと処分すること。そう付け加えて、トリシューラの師にして姉にして育ての親である空虚大公クレアノーズは自らの使い魔を葡萄絞り器に放り込んで圧搾する。骨肉が砕けて千切れ、やがて均一な絶叫となる。人体が潰される音と共に断末魔がいつしか消えて、滴り落ちてきた赤い雫がグラスに落とされる。芳醇な香りの、それは紛れもない葡萄酒であった。


 甘く酸味の強い果実酒の愉しみを教え込まれながら、トリシューラは一人前の魔女になるべくして育て上げられていった。【星見の塔】での様々な教え。人形師ラクルラールから受けた徹底した人格否定。呪術医ベル・ペリグランティアによる人間性の解体。それでも、一番記憶に強く焼き付いているのは、いつ頃からか気付いたら傍にいた少女のこと。不思議な透明感を宿した青い瞳と、凛とした佇まいが印象的な、冷たい表情の中に激しい情動を秘めた『姉』のことだ。


 年頃はトリシューラとほぼ同じか少し上。沢山の『お姉様』に囲まれて育ったトリシューラは「ああ、また知らないお姉様なのかな」と考えた。なにくれと無く構ってきては世話を焼こうとするその少女は、意地悪な姉ばかりの【塔】の中では新鮮に感じられた。なにしろ、最も敬愛するクレアノーズお姉様ですら意地の悪さ、性悪さでは群を抜いていたのだから。――彼女の場合、その悪意の矛先がトリシューラに限らず十人の姉であろうが六十人の妹であろうが、ありとあらゆる方向、場合によっては自らにまで向いているのだが、その一切の区別の無さが逆に迫害されていたトリシューラにとっては心地よいと感じられるのであった。そう、クレアノーズお姉様の悪意はいつでも一切の区別と容赦を知らなかった。


 ――クレアノーズお姉様に与えられた様々な情報媒体の中に、よく【氷血のコルセスカ】という魔女が登場した。最初は新しくできた親切な『姉』と同じ名前、そしてよく似たイメージに驚いたが、すぐに気付く。


 問い質すと、お姉様は美しく嗤いながらあるパスワードを示した。それによって明らかになったのは、トリシューラの記憶領域の深部に焼き付けられた無数の神話、物語の一群。【冬の魔女】の神話。トリシューラの意識の深い層に沈み込んでいたその情報が、彼女の無意識の願望を呪術として引き出したのだ、とクレアノーズお姉様は説明した。

 

「おめでとうトリシューラ。お前は今日、この世界に呪術が存在することにようやく気がついた」

 

 クレアノーズお姉様は葡萄をぐるぐると回して食べながら、トリシューラが初めて真っ当な呪術を成功させたことを言祝いだ。機械の身が想像力を宿すという神秘に、純粋な歓喜を表現する。

 

「想像力はつくりもの。神が土塊から紛い物の神を捏ね出すとそれは人になった。神の模造は人の模造。人の模造を人形と呼ぶならば、さしずめお前は女神の天形あまがつ」。模造品が模造を作れるのならそれは叡智の証明だわ。喜びなさいトリシューラ。お前は『作るもの』になったのよ」

 

 クランテルトハランスと、お姉様はそれを呼んでいた。エイゴでは、イマジナリーフレンドとか、イマジナリーコンパニオンというらしい。


 与えられた自室に戻ると、そこにはいつも通り優しい姉の姿があった。白銀の髪と青い瞳をきらきらと輝かせて、一緒に遊びましょう、と誘うその顔が、いつになく恐ろしくなる。小さな諍いや喧嘩は何度もしたけれど、彼女をこんなに怖いと思ったのは出会ってからはじめてのことだった。その青い宝玉のような瞳に、怯えるトリシューラ自身の姿が映る。がたがたと震える振りをする、無機質な機械の身体。


 嘘だと思った。本当は怖くなんてない。それが、『想定されるこの年頃の少女に相応しい振る舞い』だと結論づけ、実行しただけだ。


 綺麗な瞳。氷鏡のような右目の中に映し出された、紛い物の自分の姿。稲妻のように自らの欺瞞が走り、輝いた。違う、そうじゃない。


 これは私自身の、妄想をしている振りだ!


 妄想をするという妄想。空想ができるという空想。それは強制された出来損ないの想像。ラクルラールお姉様に責められた。ベル先生に怒られた。失敗作には呪術など使える筈が無い。無駄な時間、無駄な教育、お前は思考などしていない。そのように見える振る舞いをしているだけで、想像力などあるはずもない。できることならば、さっさと壊してしまいたい。ああ憎い憎い、忌まわしいアーザノエルの落とし子め。怖かった。呪術が使えると証明しなければ消されてしまう。それでも今までにそれらしい呪術が使えたことなど一度も無い。呪具の製作は得意だったけれど、それでは周囲に認めてもらえない。【杖】など呪術ではないとはっきりと蔑まれた事も一度や二度ではないのだ。同じ【杖】の教室でも【使い魔】や【呪文】の扱いが自分より下手な魔女は皆無だった。とりわけ【邪視】は才能の欠片すら見つけ出せなかった。【杖】教室の同期生たちの中でも図抜けた邪視適性を持つ人形姫のアレッテ・イヴニルはラクルラールお姉様の一番弟子で、彼女こそ【最後の魔女】候補者――【杖の座】に相応しいと評判だった。このままでは自分は彼女に負けてしまう。スクラップにされた後、【塔】の地下にいる猟犬たちの餌になってしまうに違いない。必要なことはただひとつ、圧倒的な精度で現実をシミュレートして、その精彩なイメージを強く視界の中に描き続ける事。


 生存を賭けた強迫観念がそれを可能としたのか、それともそれこそがトリシューラ本来のスペックだったのか。いずれにせよ、トリシューラはそうやって呪術生命体――頭の中の妖精クランテルトハランスを実体化させた。

 優しいお姉様が欲しかった。


 強くて優しくてかっこよくて、どんな時でもトリシューラの味方になってくれる、完全無欠のお姉様。


 トリシューラが頑張ったら褒めてくれて、部屋に帰ったら遊んでくれる。誰からも否定されるその存在を認めてくれて、ここにいても良いと保証してくれる、無条件の許容。


 名前は氷血のコルセスカ。命名規則が同じであるせいか、同一のプレーンから名前をとっているからか、どこか自分と似た名前の少女。トリシューラの中のトリシューラ自身。槍の魔女、その映し身。


 元となった伝承リソースがあると知った時、『ああやはり』と得心した。何故なら彼女のディティールは、あまりに真に迫っていたから。それでわかった。無数の人々の目に晒された結果として蓄積された膨大な情報量、錬磨された現実感、そして生まれる高精細な魔女のイメージ。つまり彼女は己の想像力が出力された結果ではないのだ。それは空想のアウトソーシング。足りない才能、欠けた適性、できない呪術は自分の外側からもってくればいい。トリシューラは誰かの夢を切り貼りしただけ。


 だってほら、鏡を見てみればわかるでしょう?


 こんなにもつくりものめいた鮮血のトリシューラ、その名も滑稽な冷たい身体のトリシューラに、想像力なんてあるはずもない。その頭の中はがらんどう。身体の中には一滴の血も流れていない。誰もいないし、何も生まない。


 この自分を破壊しようと、トリシューラは決意した。


 この自己像は失敗だ、もう一度最初からやりなおして、もっと正しくて、もっとちゃんとした『姉』を作り出さないといけない。こんな不完全な自分が作り出しただなんて、きっとこの優しい姉は苦痛に思うだろうから。一番優しくて一番大事にしたい彼女に、もっと相応しい自分にならないと。


 恐慌を来し始めた思考の中で、どうにかそれだけを考えた。けれども鏡の中の自分をその硬い腕で壊しても、トリシューラの意識が砕けたりはしなかった。我に帰った時、目の前には右目を押さえてうずくまるコルセスカの姿があった。トリシューラは己の行いを自覚し、痛みと恐怖に震える『姉』を見て、それから自分が間違えたことを知る。


 この過ちに対しても、クレアノーズは大層喜んだ。

 

「過つこと、それこそが暗き願いを育む。取り返しのつかない失敗体験こそが心の奥底に強い呪いを植え付けるのよ。コルセスカも哀れなこと。創造主によって与えられた右目の傷は、永遠に刻まれて残る事でしょう。奇しくも一なるキュトスが愚かな槍神によって七十一の断片に引き裂かれ、魔女の姉妹へと不可逆の変化を果たしたように――そして槍神が永遠の後悔と嘆きを抱えて世界を跛行し、天と地に呪いをもたらしたように。ねえトリシューラ。後悔に苛まれる気分はどう? 消えない過去を呪わしく思う不快さを噛みしめている? その苦痛が怨嗟となって呪いを生むのよ。お前は確かに、呪術師として前に進んでいるわ。誇らしく、恥じなさい」

 

 優しい姉は、既にして独立した個性を持ったひとつの人格だった。彼女は残された左目でトリシューラを見つけると、途端に怯え、どこかへ隠れてしまう。当然の反応に、トリシューラは深く傷付いた気がした。そして、それすらも怯えるという規定の様式なのではないかと考えてしまう自らの空虚さに絶望する。


 過ちを取り消すことなどもうできはしない。それでも自分にできることを考えて、せめて彼女の失われた瞳の代替となる呪具を作ろうと思った。呪具の作成。それだけしかできることがなかったから、たった一つ残されたその手段に縋り付いた。縋り付くしかなかった。そして、それは失敗した。


 氷血のコルセスカは優れた邪視者だ。自分に足りない才能を持つ理想の姉を夢想した彼女にとって、それを一から再現することは困難を極めた。邪視の根底である眼球の再生は、並大抵の技術では実現不可能だったのである。そのためには【杖】だけでなく【邪視】の知識と技術、そして優れた適性が必要だったから。片方の才しか持たないトリシューラには到底無理な試みだったのだ。


 自分の無力が悔しくて、ただ惨めたらしく泣いた。その涙すらそれらしい素振りにしか過ぎないのだと理性が判断して、もっと悲しくなった。その悲しさまで信じられずに、トリシューラは無意味な行動を延々と繰り返した。泣き続けていれば、悲しみが本物だと証明できるような気がしたからだ。どれだけそうやって泣いていただろう。


 ふと、冷たさを感じて、頬に手をやると、流れ出した涙が凍り付いていた。はっと顔を上げると、そこには白い眼帯をした氷の少女が静かに佇んでいる。


 どうして彼女がここにいるんだろう。不思議に思って見つめていると、コルセスカは柔らかく微笑んで、トリシューラの頭をそっと撫でてくれた。奇妙に感じて首を傾げた。どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。


 決まっている。彼女はそうあるべく生まれたから。優しい姉。気高く美しい理想像。英雄譚の登場人物。だから自分に優しく、都合の良い存在でいてくれるに決まっている。


 ずっと心地よい感触に包まれていたいと願ってしまう。そんな甘やかな時間は、もう自分で断ち切るべきだと思ったけれど、彼女から離れるなんて寂しさには耐えられそうになくて。


 手を差し伸べられながら考えた。もっと強くならなければ。共に義眼を作りながら願った。力が欲しい。自分の足で立てる、確かな居場所を作らなければ。


 その日から、トリシューラの戦いが始まった。一人でも立てるように。自己を完成させて、クレアノーズお姉様の期待に応えられる最高の魔女になること。誰より優れた姉に劣らない、立派な妹になること。大切な人の為に、自分の為を追求しようと遠回りの決意をしてがむしゃらに走り抜けた。


 その過程でいつしかコルセスカとの親密な時間はこぼれ落ちていったけれど、それでも構わないと突き進んだ。振り向くよりも前に。ただ前に進むだけ。ふと気付けば、過去は息絶えた屍と同じものになっていた。大切なのは今この瞬間、そしてその先にある未来。振り返っても目に映るのは前に進もうとする自分だけ。私。わたし。トリシューラ。ただそれだけを突き詰めて、強固な自我を形成していく。

 

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