2-72 そんなことよりゲームをしよう⑤
「しばらく安静にしておくのが一番でしょうね」
昏倒したトリシューラを氷の寝台に横たえると、コルセスカはこちらに向き直って簡単に状況だけ伝えてきた。平然としているが、呼びに行った時は血相を変えて俺を置き去りにして家に向かっていた。そう楽観的な容態ではない可能性がある。
「あのロボ娘、何がどうしていきなりバグったんだ?」
「ロボ、ですか。おそらく他意は無いのでしょうが、できればその言葉を彼女の前で使わないほうがいいでしょう。特に、今のような状況では」
「うん? アンドロイドならいいのか?」
「ええ。そちらのほうが不穏でないので」
どういうことだろうか。今のトリシューラに対しては、二つの言葉を区別して使う必要がある? 労働を語源とする言葉より、人を模したものという意味の言葉のほうが穏当であるということの意味が良く分からなかった。もしや、働きたくないあまりに引きこもってしまったとか? 共感性の高いバグり方をする奴だな。
――脳内のボケに対する突っ込みが皆無であるのは当たり前だが、それも今はやや物足りなく感じられた。
「この症状は過度の消耗と疲労、それに精神的なショックが加わったために起きたものです。おそらくは、キロンとの戦闘で【鮮血呪】を使いすぎたことが主な原因でしょう。時間経過で元に戻ります。とはいえ今回は少々長引いている上に、タイミングも悪かったようですが」
「それは、どういう」
「トリシューラの【禁戒】である【鮮血呪】について、説明を受けたことはありますか」
「いや、そもそも【禁戒】ってのが何なのかも知らない」
「そうですね、まずはそこからでしょうか」
【禁戒】もしくは【禁呪】。
それは【最後の魔女】の候補者たる四人の魔女がひとりにつき一つだけ持つ、固有の呪術のことだという。【氷血のコルセスカ】が持つ【氷血呪】は時すら凍り付かせ、彼女の敵である【融血のトライデント】が持つ【融血呪】はあらゆる存在を融け合わせることができる。
「そして【鮮血のトリシューラ】が持つ【鮮血呪】の力は、価値の操作を可能とします」
「いきなり抽象的な効果になったな。意味がわからないんだが」
「私も話に聞いただけで正確に理解しているわけではないのですが――厳密な定義は【交換不可能なものと交換可能なものを交換する呪術】だそうです」
「更にわけがわからん。具体例を挙げてくれ」
「融血呪に捕らわれた貴方とレオを助け出したり、模型を本物にしたりといった事ができるらしいですが、私も詳しくは知りません。ふつう、呪術師は同じ教室の出身であっても手の内を見せたりすることはあまりありませんから。ですから、これは私なりの解釈、という但し書きがつきます――」
正確なところは本人に尋ねるのが一番でしょうと前置きして、コルセスカは説明を始めた。
【鮮血呪】を一番わかりやすいイメージで捉えると、その名の通り鮮血を捧げる呪術というビジュアルを目に浮かべるのがいいらしい。前世で言うところの黒魔術が一番近いだろう。
人間や家畜などの生き血を捧げ、神や悪魔、自然などの高次の霊的存在に超常現象を希う。雨乞いや治水などがポピュラーな所だろうか。人知の及ばぬ自然の猛威、未来を予見する占いや託宣。特定のプロトコルに基づいた儀式と、定められた血の対価。
生贄が流す鮮血とは、人間社会において交換価値を認められているもののメタファーだという。古い時代、家畜は重要な財産だった。ルールに従って交換可能な何かを代償に捧げ、交換不可能な神秘を現出させる。コストを支払えば、かくも容易く神秘的現象が引き起こされるのである。
「なんだ、最初からそういう風に説明してくれればわかりやすいのに。むしろ、コルセスカの時間を凍らせるとかよりも直感的に理解しやすいくらいじゃないか」
「それが、これはまだ【鮮血呪】の効果の半分でしかないのです」
【鮮血呪】の効果を流通価値によって神秘を購入していると見た時、逆説的だが、交換不可能な神秘を、交換可能という低次のレベルにまで貶めていると見ることが可能になる。
逆転の理屈が生まれる。詭弁によって効率化を図ろうとした、浅ましい人類の悪知恵。口減らしの為、そのコミュニティ内部で最も価値の無い存在を生贄に捧げようと誰かが思いついたのだ。子殺しや姥捨ての責任を神に転嫁しようという、神々への祝りを屠りの汚穢へと堕落させる忌まわしい行為。
しかし、生贄となる個人もまた個別の関係性で見れば価値を見出される存在であり、なによりも自分自身が己に価値を見出していることだろう。ゆえに、ここで価値判断が混乱を来す。高みにある神秘は汚濁に穢され零落し、流血という価値の切り売りで商取引が可能な商品に堕落する。
果てしない転倒を繰り返す神秘の価値を、【鮮血呪】は弄ぶ。交換不可能な形のない何かを失う事で、交換可能な実体のあるものを創造する効果が副産物として生まれてしまう。本来の効果の逆利用とも解釈可能なそれは、理解可能な形で物理的現象として現出する。「荒ぶる天神の怒り」は貶められ、相応の対価を支払うことで「放電現象」が発生する。説明不可能なものを、説明可能にして利用するという、工学者としての顔を持つ【杖】の呪術師たちの最も原始的で最も根本的な呪術観がそこにある。
神秘の零落。【杖】が他の呪術師たちから嫌悪され、侮蔑される傾向があるのは、この性質のためである。その【杖】の奥義である【鮮血呪】は、あらゆる神秘、あらゆる呪術を低俗なものへと堕落させてしまう、四つの禁呪で最も卑俗な呪術なのだ。
「彼女が【鮮血呪】を使う時、あらゆる神秘が零落し、交換可能となり果てます。そしてそれは、実はあらゆるものが交換不可能なものであることと表裏一体。交換可能性――価値そのものを解体し、再構築するのがその本当の力なのだと私は理解しています」
「――なんか、余計訳が分からなくなってきた気がする。つまり、トリシューラにどんな事態が起きてて今は何がどうヤバイんだ? もう説明はいいからそこだけ教えてくれ」
つまりは鮮血――代償を支払わなくちゃならないってのがこの呪術の要点なのはよく分かった。何ができるかは抽象的過ぎてよくわからないままだが、トリシューラが俺を助けるために何か大きな代償を支払ったことは確かだ。
「鮮血呪の代償は、使用者にとって最も価値があり、同時に交換不可能なものです」
先程の話からすればその言葉は矛盾に満ちているようだが、価値と無価値は表裏一体だ。世界のあらゆるものを交換可能だと捉えた時に最も価値あるものは、同時に何物にも換えがたいであろうから。
彼女が最も大切にしているものとは何か。考えるまでもない。トリシューラの最優先事項はただひとつ。己の存在を世界に証明すること。
「トリシューラが支払わなければならない鮮血呪の代償は、自己同一性の喪失。それに伴って、情緒が不安定になり錯乱症状が引き起こされます。これは時間経過で安定するようになりますが、それまで積み上げてきた情緒や自己認識のパターンは傷付き、自分への自信を失い、塞ぎ込むようになってしまうのです。自尊心が傷つけられるということは、トリシューラにとっては目的から遠ざかることを意味しているからです。トリシューラは、自己を確立し、完全な知性であることを証明し続けなければ他の
チューリングテスト。中国語の部屋。コンピューターが質問の意味を『理解』できているのかどうか。トリシューラというパターンを、知能だと見なせるか否か。
「俺には、あいつが完成した人格と高い知性を兼ね備えているように見えるがな」
「それを直接本人に言ってあげて下さい。きっと喜びますよ。――というより、彼女にはそういう承認が必要なのでしょうね」
トリシューラの目的とはアンドロイド――人工知能の完成を、自らの存在によって世界に証明すること。それこそ、トリシューラにとって自己の存在意義に関わる最優先目的なのだ。
トリシューラに知性があるかどうかについての判断はこの世界の技術水準にもよるが――さて、コルセスカが保全してくれたお陰で、俺は幸運にもそれに関する結論を持ち合わせていた。しかし、わざわざ現代日本の常識を持ち込んでまで、この問題に関して口を挟んで良いものだろうか?
トリシューラにとって、それが本当に必要なものなのかどうか。俺が持っているのはあまりにも身も蓋もない答えで、彼女が求めているものなのかどうか、かなり微妙なのである。そうでなくとも、彼女ならばその結論は自分で辿り着きたいのではないかという気がした。
その後、コルセスカと相談したところ、このような結論が出た。
トリシューラがこれほど長く錯乱しているのは、【鮮血呪】による代償のせいもあるが、それ以上に自己同一性を保つという重要な課題よりも、俺という他者の為に戦うことを優先したことが原因だという。
自分の目的を最優先に行動するという規範が、彼女の一貫性を担保している。
ゆえに、それが揺らいだ為に自己同一性の崩壊に拍車をかけている可能性があるという。
【鮮血呪】はトリシューラの存在、いわば【魂】を損なう。ゆえに、【禁戒】は自らの為だけに破らなければならない。そうしなければ、【自己】を強固に保とうとするトリシューラは行動と意思とのギャップに耐えきれず、精神を病んでしまう。
【鮮血呪】を他人の為に使ってしまった場合、その行為が最終的に自分の為にならなければならない。トリシューラは自分で自分を蔑ろにしたという矛盾に耐えきれず、精神に深いダメージを負ってしまうのだ。つまり、俺の為に戦う事は、俺が彼女に協力するという合意が形成されている限りにおいて正当化される。
ゆえにトリシューラはあんなに性急に俺と再び手を組もうと焦っていたのだろう。そうしなければ、自分の行動が無駄な利他行為でしかないということになってしまうから。
純粋な利他行為。アズーリア、レオ、コルセスカといった俺が好ましいと感じた人々が当たり前の様に行うそれは、トリシューラにとっては猛毒と同じものなのだ。純粋な利己的行為の追求だけが彼女の生存を保証する。
そして、俺はただ生存の為に必死だった彼女に対して何をしてしまっただろうか。
よりにもよって、競争相手――最大の比較対象であるコルセスカの方を選択するという現実を突きつけて、あしざまに罵倒してしまった。挙げ句『馬鹿じゃねえの死ね』だ。馬鹿は俺だろうが、と強く前歯を噛み合わせる。本当にトリシューラが死んでしまったら、きっと殺したのは俺の言葉だ。
寝台の上で、意識も無いのに虚ろな目を見開いて、荒い呼吸を繰り返す少女の姿があった。過剰なまでに、生命があるかのような素振りを繰り返す。目蓋を擦ったり、寝返りをうったり、身体のあちこちを掻いてみたり、苦しげな唸り声を上げてみたりと落ち着きがない。その全てが、アンドロイドの機械の身体には必要が無いと思われる動作であるのがどこか空恐ろしかった。
長引く錯乱は、いつもの明るく朗らかなトリシューラを変貌させていた。見る影もない。見るに堪えない。
そしてその原因は俺にある。
「【鮮血呪】使用後の自己同一性の乖離、情緒の不安定化、心身の喪失や恐慌などは、彼女の【活動的生活】のレベルが低下することによって引き起こされます。【鮮血呪】をどれだけの規模で発動させるかによりますが、およそ三回の発動で一つ下の段階に落ちると思って良いでしょう。貴方を助けに第六階層まで降りてきた時、彼女は【活動】のレベル、つまり好調な望ましい状態でした。現在の彼女は【仕事】のレベル、それもかなり低調のようです。鮮血呪の代償以外にも、精神的疲労やショックなどが関係しているのかもしれません」
「その状態は、どのくらいやばいんだ?」
「これ以上無理に【鮮血呪】を使ったりすれば、彼女の状態は最低レベルの【労働】にまで落ち込みます。この危険域に陥ることは絶対に避けるべきです。もし万が一このレベルから更に低下するようなことがあれば」
「どうなるんだ?」
薄々とその続きを予感しながらも、俺は訊ねずにいられなかった。案の定と言うべきか、コルセスカは即座に冷徹な事実を告げてくれる。
「その時、トリシューラは意思無きロボットとなり、完全な『死』を迎えるでしょう。私たちは未だ完全な『不死』を体現できていない。ゆえに、【最後の魔女】になるという勝利なくしては死の運命からは逃れられません」
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