2-66 涙の価値③
そう――トリシューラは、本当に目の前にいる男が何者なのかを判じかねているのだった。そしてそれは、二人のやり取りを傍観しているもう一人にとっても同じこと。
「前までのアキラくんなら、そんな風に強い意思で決断なんてしなかった。そんな風に、恐怖を押し隠して誰かの為に戦う、なんて【善いこと】は言わなかったよ。――今の貴方は、全然窮屈そうじゃない。まるでいろんな枷が外れたみたいだ」
失われたものを、トリシューラは枷と表現した。それはある意味で正しく、ある意味で間違っている。コルセスカが形容するとしたら、こんな表現になるだろう。フィルタ、と。入出力される情報を適切に濾過して、有害なものを取り除く機構。
彼の内心が今までどうであったのか、そして今どうであるのかということは問題にならない。重要なのは、彼がどんな言葉と行動を選ぶのかということ。無分別に垂れ流される思考そのままの言葉とは、かくも容易く人を幻滅させるのだ。
――と、そのようなことをコルセスカは状況から推測した。それがトリシューラの真実かどうかはともかくとして。
しかし、だとしてもこの対応はあまりにも無慈悲に過ぎるのではないか。どんなふうに二人をフォローするべきだろうか、そんなことを考えるコルセスカを余所に、トリシューラの弾劾は苛烈さを増していく。
内心を窺わせない微笑みの無表情で、トリシューラは軽やかに青年を責め立てる。
「ねえ、戦う前に、アキラくんは私に言ったんだよ。キロンとの戦いは、私を守れるかどうかのテストなんだって。その合否で私の使い魔になるかどうかが決まるんだって」
わからない?
「――零点。貴方はもういらないの」
完全な沈黙。呼吸音すら遠い過去に消えたきりで、もしかすると人が一人消えてしまうくらいのことはあり得るのではないかとすら思われる瞬間。あるいは、事実として誰かが消えていなくなっていたのかも知れない。
「感情の制御ができなくなった貴方はもう【アキラくん】じゃない。前世の記憶が無いんだからそれ以前の人格――前世を生きていた【誰か】とも同一とは言えない。つまり転生者としての特質を二つとも失った、この世界で生まれたばかりの貴方には既に希少価値が存在しない。何者でもない、何の価値も持たない路傍の石」
ぱん、と乾いた音が響いた。
「トリシューラ――貴方は、最低です」
平手を振り抜いた態勢で、コルセスカは強く言い放った。どうあっても先程の発言だけは看過できないと、眉を危険な角度に吊り上げての威嚇。対するトリシューラは、冷ややかな視線を返すのみ。
「もう貴方と協力しようとは思いません。貴方は先程、私に向かって何と口にしました? 存在を否定されたくないと、必要とされないことは死ぬ事に等しいとまで言いましたよね。その口で、彼に向かって『いらない』? 彼から、最後に残った居場所を奪おうと言うのですか!」
「セスカだって、私と同じ判断をしているはずだよ。もうとっくに価値を感じていないくせに、いつまでそんな無価値な抜け殻に拘っているの? 思い出を再生するための媒体? 念写でもして捨てた方がいいと思うよ。セスカ、本当に物を片付けられないよね」
今度こそ。
致命的な何かが千切れ飛ぶ音が聞こえた。
「――トリシューラ。訂正するか、ここで氷漬けになるか。どちらかを選びなさい」
「そんなに必死になって怒ったふりをするのは、本心で私の言葉を認めているからでしょう? ねえ、私が今、的外れな事を言っていないことくらい、セスカにだって分かるはずだよ。だってさ」
緑色の瞳が、彼に向けて冷たい一瞥を投げかける。その先に、今はもういない誰かを重ねるようにして、諦めの言葉を紡ぐ。
「本当のアキラくんだったら、私のこういう思考に同意してくれるもの」
その断定を、コルセスカは否定することができなかった。
沈黙したままの【誰か】にとっても、それは同じこと。
トリシューラは、ここにいる誰よりもシナモリ・アキラという存在を理解していた。その彼女の断定に、返す言葉を持ちうるのは、当のアキラくらいだろう。
そして、シナモリ・アキラはもういない。
死んで、消えて、失われた。
「以前までのアキラを、甦らせることができれば――」
「パーソナルヒストリーを遡るとか? 時間遡行系の呪術なら可能性はあるけど――【塔】のお姉様達を直接頼るのはルール違反だし、私の鮮血呪は過去をリソースにして未来に進む事しかできないよ。セスカの氷血呪だって現在を引き延ばすことしかできないでしょう。敵であるトライデントは論外。そうすると残る当ては一つしか無いよね。あの何を考えてるかわからない変人を頼るの? セスカと相性最悪じゃなかった?」
コルセスカの脳裏に、一人の人物の姿が浮かび上がった。【最後の魔女】の四人いる候補者、その最後の一人。彼女の力ならば可能性はあるが、それも協力を取り付けることができればの話だ。彼女の勝利条件は必ずしも他の三人と競合するものではないが、そのぶんだけ動きが読みづらい。個人的にも、トリシューラほど気心が知れているわけではないので頼みづらいという事もある。
「そもそも、本来なら私たち四魔女はみんな敵同士なんだから。今だってこんな風にして馴れ合っている方がおかしいんだよ――ね、分かったらその人を連れて出て行ってくれる? もうお互い用はないでしょう」
「彼を放り出すんですか、これだけ巻き込んでおいて! 貴方は、自分勝手過ぎます!」
激昂するコルセスカに対して、トリシューラの態度は変わらず冷ややかだった。動と静、二人のイメージが入れ替わったかのような光景。むしろ、これが両者の本質であるのか。
「セスカだって自分勝手さでは人の事を言えないよね。たかが転生者一人の命の為に【雪華掌】まで解放して、馬鹿じゃないの? わかってる? あの行為で、火竜の復活が――世界の終わりが早まったんだよ」
その言葉で、ただでさえ重苦しい室内の空気がより一層密度を増したようだった。痛いところを突かれて、コルセスカは言葉に窮して視線を下げる。代わりに反応したのは青年の方だった。
「ちょっと待て、それどういう意味だ。俺を助けたせいで、火竜の復活が早まったって? 世界の終わりってどういうことだよ」
「神話では、世界の全てを【炎上】させるほどの怪物、火竜メルトバーズは初代【松明の騎士】大フォグラントと初代【冬の魔女】氷血のコルセスカによって永久に溶けない氷で地獄の最深層に封じられたと言われている。その氷の封印こそが氷血呪。今代の冬の魔女であるセスカが不用意にその禁戒を破れば、火竜を抑え込んでいるエネルギーが使った分だけ目減りする」
トリシューラは、ごく当たり前の常識を教え諭すように淡々と答えを返す。氷血呪の制御には極めて膨大な呪力が必要になる。短時間、小規模の解放ならばともかく、宇宙全体の停止などという高い負荷のかかる処理を行ってしまえば、その分だけ火竜の封印は綻んでしまう。しかし、今度はコルセスカも負けじと言い返す。
「あの封印は、長い年月を経て劣化しています。地獄の最深層に赴いて再封印するか、問題を根本から断たないことには何の解決にもなりません。そもそも封印を解除する方法が発見されており、トライデントと【下】勢力はそれを狙っているのです。何もしなければ遠からず火竜は復活してしまう」
「その通りではあるけど。だからといって復活を早めた言い訳にはならないんじゃない?」
「だからこそ、私が火竜を倒すといっているのです!」
コルセスカには無数の、有形無形の責任が重くのし掛かっている。自分の与り知らぬ所で発生した生まれついての宿命と、自らの意思で引き受けた運命の双方が、冬の魔女を突き動かすのだ。だが力強い宣言は、鋼鉄の表情を動かすほどには響かなかった。
「それで? 失敗したらどうするの? そもそも、倒せたとして、その後はどうするつもり? そのまま世界が終わるに任せるわけ?」
「それ変じゃないか? 世界を滅ぼす火竜を倒したのに世界が終わる?」
奇妙な言い回しを聞きとがめて、再びの質問。知識の無さが、かえって混迷した状況を整理する助けになっていることが皮肉と言えば皮肉だった。トリシューラは解説を続ける。その光景だけ見れば、少し前までの二人の関係性そのままに見えた。
「火竜メルトバーズは全ての生き物の母にして原初の生命体パンゲオンの九つある首の一つ。この世界の神話的表出形態。摂理の擬竜化。あらゆる生命が誕生して生きていくことを祝福するグレートマザー。あれはね、この世界の生と死、そのものなんだよ」
「それが、なんだって言うんだ」
「生まれるということは死ぬということ。あらゆる存在は生まれた瞬間に死が決定付けられる。死は生との差異から見出されるからね。――実を言えばね。この宇宙は、本来ならずっと大昔に滅びているはずだったの。私たち
それが意味する所は一つ。この世界は、寿命で死ぬ定めにある。
「貴方にはこう言った方がわかりやすいかな。つまり、火竜メルトバーズっていうのはこの宇宙の心臓で、老衰寸前の心臓にコールドスリープで必死に延命処置を施してるってわけ。【星見の塔】と【キュトスの姉妹】はいろんな分野の医師や技術者集団で、セスカがコールドスリープ装置の制御盤って感じ」
「ちょっと待て、それじゃあ火竜を殺すっていうのは」
「既存の世界を終わらせるってことだよ。もちろん」
事も無げに言うが、そこに深刻さは無い。ただ単純な四則演算の回答を提示するような口調だった。話がまだ終わっていないことを察したのか、男は続きを促す。
「別に世界を滅ぼすとかそう言う事じゃないよ? 今あるこの世界の、当たり前に生き物が生まれて死んでいくという法則をアップデートして、別の法則に書き換えるってこと。いまの秩序を打破した後のビジョンがセスカにあるのなら、その通りの世界が生まれるんじゃないかな。それがどんなものかは知らないけど」
そう言って、コルセスカを緑色の視線が鋭く貫いた。答えを持ち合わせていないのなら、お前にはその資格がないと糾弾するように。
世界を更新するとは、更新者の確固たる意思と魂の奥底から湧き上がる渇望によって宇宙のあらゆるルールを決定付けるということだ。生命が生まれて死ぬ。その当たり前のルールを書き換えるからには、相応のビジョンが無くてはならない。しかし、コルセスカはその答えを未だに持ち合わせていなかった。
「貴方が助かったせいで、この宇宙の終わりが近付いたかもね? 外世界人さんにとっては他人事なのかもしれないけれど」
自分が助かったことで世界の終わりが近付いたという事。助からずとも時間経過で世界は終わり、更にはそれを意図的に引き起こそうとしている者達がいる事。次々と提示された事実を前にして、男はただ困惑し、糾弾の言葉にもただ狼狽えることしかできない。その理不尽さに、思わずコルセスカは激昂する。
「いい加減にしなさい、トリシューラ! 彼が責められるだけの事をしたというのですか! それならば先に私を責めるのが筋でしょう!」
「そうだね。じゃあそうするけど」
冷然とした視線の矛先が、今度はコルセスカへと向かう。あらゆる冷たさを意に介さない冬の魔女をしてたじろがせるほどの透明な怒りが放射される。
「いい加減にするのはそっちじゃないの? 今までにも三回、貴方は似たような真似をしでかしている。これで四回目だよ、セスカ。本当にそういうところ変わらないね。私を助けた一番最初の時から、何も学習していない」
「それは、あの時はそれ以外に手段が――それに、貴方がそのことを言うのですか」
「何? 恩にでも着せたいの? っていうか、他ならぬ私が言うから意味があるんでしょう」
そう――このやりとりも、実に都合四度目。コルセスカがこの件ではトリシューラに対して強く出られないのも、毎回「もうしない」という約束をしたにも関わらず必ず破っている事が原因だった。
「絶対にもうしません。本当に、今度こそ」
「一回目の時。私はセスカに殺されても良かった。あの時――【試しの儀】の時、セスカは私を見捨てたって良かったんだ」
トリシューラはコルセスカの誓願を無視して続けた。幼い頃に存在していたような強く賢く優しい姉への信頼は、彼女の瞳には既に宿っていない。皆無である。その代わり、この上なく駄目な生き物を見るような軽蔑の視線が向けられている。
「他人を自分より――世界より優先するその気持ち、理解不能だよ。まあ、なによりも自分が大事な私が言えたことでもないか。けどね、大事にする相手にそれだけの価値があるかどうか、ちゃんと考えた方がいいと思うよ」
「助ける相手に価値を付けて順序を定めるなんて傲慢な真似を、私はしたくありません」
毅然と言い返したコルセスカの表情を見て、男が息を呑んだ。似たような言葉を、かつて誰かが口にしたような気がして。だが、トリシューラの反応はなおも平坦だった。
「それは欺瞞。誰かを助ける選択をした時点で貴方は人に価値を見出しているんだよ、セスカ。助けるだけの価値、貴方にとっての価値を。そして助けなかった全てに対して、それ未満だという価値を付けているんだ。それこそ傲慢な振る舞いじゃないのかな?」
今度こそ、コルセスカは反論の言葉を失った。少なくとも、自らの内側にある規範を【善】に拠ったものだと認識していた彼女にとって、その指摘は己の足場を揺るがされる事に等しい。トリシューラの物言いは【その後】を示していないという点において、まるで空虚な非難でしかなかったのにも関わらず、コルセスカは自らの欺瞞を認めるほか無かった。すぐ傍にいる二人を【無価値】と断ずる事だけは、彼女にはできなかったからである。
「――そうですね。認めましょう。私にとって、この手を差し出すという行為にはそれ相応の価値がある」
ですから、とコルセスカは男の方を向いて続けた。それが、トリシューラに対してのささやかな反抗になればいいと願いつつ。
「少なくとも、私だけは貴方に価値を見出しています。これは無条件の博愛などではありません。私自身の行為の責任として、貴方を最後まで守り通す」
手を伸ばして、その身体を強引に引き寄せる。自らを超える体格の男性を軽々と両腕で抱え上げて、コルセスカは力強く宣言した。
「もう貴方と並んで戦う事はできない――この次に出会う時は、私達は敵同士です」
それが、魔女たちの決別だった。
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