2-65 涙の価値②
トリシューラの完璧な治療呪術によって傷を塞がれた右腕の断端を、壊れ物を扱うような手付きで触れる。手袋の指先に展開された殺菌呪術の光が微細な汚れを落としていく。
「――はい、上半身は拭き終わりました。脚も綺麗にしますから、下履きをまくり上げて下さい」
簡易の呪術治療では細かな汚れまでは除去できない。両腕を失った男の筋肉質な身体を清めながら、コルセスカは彼の血を吸った瞬間を思い出す。裸の首筋に、透明な氷で埋められた二つの孔。牙を立てた、その証。口から全身へと浸透していく熱さを思い出し、疼き出す牙と鳴ろうとする喉を意思力で停止させる。知らず、表情が緊張していた。黄色みを帯びた象牙色に近い肌を眺めていると、その内側に流れる赤い熱の流れを意識せずにはいられなくなってしまう。一度「して」しまえばそうなるのは分かっていたのに、あの瞬間はそれしかないと必死だったから後のことまでは深く考えられなかったのだ。後悔は無いが、気まずい思いはある。
コルセスカの内心を察したのかどうか。からかうような声音で、わざとらしいほど下卑た発言が投げかけられた。
「――終わったら、その上も拭いてくれんの?」
「そんなわけないでしょう。そういうのは呪術医であるトリシューラの領分です。ていうか見損ないました、いやらしい。――正直、最悪な気分です」
「そこまでか」
「そこまでですね。反省して下さい」
冷たくあしらいながら作業を続行。平行して、軽薄な態度をとる男の表情を観察する。
「悪かった。申し訳無い。もうしません」
「誠意が感じられませんね。口先だけで謝ってないですか?」
一見して異常は見当たらない。あまりにも以前と変化がなさ過ぎて、いっそ不気味になるほどだった。男は変質してしまった。それは間違いのない事実だ。しかし変わらない部分もある。
「どうしろと言うんだ――ああ、そういえばその服。黒いセーターに白いレースのスカートって合わせ方、珍しいな。いつもは上も白いのに」
「露骨に話を逸らしてきましたね――これはトリシューラのを借りました。さっきまで着ていた服や格納していた予備の衣類が全て駄目になってしまったので、不本意ながら、仕方無く」
「よく似合ってるけどな。違うタイプの色でも着こなせるんだなって感心してた所だ。――まあ、着たい服を着るのが一番だけど」
「それはまあ、同感ですが。なんですか、そんなわかりやすいご機嫌取りでは誤魔化されませんよ」
どこからどこまでが【彼】なのか、その境界線を画定することが、絶対的な他者であるコルセスカにはどうしてもできない。どれだけ記憶情報を吸い取り、共有したといっても、二人は異なる視野を持った別々の人格である。並べば身長差は明白であり、詰まるところ目線の位置がずれてしまうのだ。同じものを見ていても、その捉え方は同じようにはならない。一つになろうと足掻いても、違いが浮き彫りになるだけでしかない。
だからコルセスカにとって、相手の情報を身の内に取り込みたくなってしまう吸血衝動は苦痛を伴う生理だった。頭蓋と心臓が破れそうになるほどの痛み。精神を弱らせる不治の病。恥ずべき弱所。以前、トリシューラに彼の前でその周期が来ていた事を暴露された時には顔から火が出る思いだった。
いつもは敵から呪術の氷で間接的に【生命吸収】を行って衝動を紛らわせているのだが、それでも直接口から吸うよりも遙かに体調の戻りは悪い。かといって価値観を僅かでも共有したくない相手の血は口にできないので、コルセスカは周期的に訪れる苦しみを耐えぬかなければならないのだった。
身体を拭き終わり、簡素な病人着を着せた後もその奧の肉体へと想像力が傾いていく。吸いたい。齧り付きたい。あの首筋に、もう一度口を付けたい。その衝動は熱量を体内に取り込む為の食欲であり、そしてまた自らの情報と熱量を相手に注ぎ込む為の排泄欲であり、起きながらにして記憶を再構成する為の睡眠欲にも近く、そして相手を求めるという意味では――。
頭部をぐっと後ろに反らして、そのまま思い切り額を寝台の四隅の脚に叩きつける。鈍い音と共に目の醒める痛み。突然の奇行に狼狽する彼を無視して、そうだ食事だと自分に言い聞かせる。何か食べて、食欲を満たせば余計な思考もどこかに行くだろう。
「そろそろ出来上がる時間ですので、食事をとってきます」
「ええと、そういや放置してて良かったの? 吹きこぼれたりしない?」
「備蓄のインスタント食品を順次解凍・加熱していただけですから」
細い通路の先にあるキッチンからオートミールの入った器と匙を二人分運ぶ。一つを机の上に置き、もう一つを手に持って寝台から上半身を起こした病人の前に持っていく。食器から中身を掬って口元まで届けると、男は戸惑ったような反応を示した。
「いや、流石にそれは」
「この世界の常識を教えて差し上げますが、犬のように顔をつけて料理を啜るのは、あまり行儀の良い行為ではないんですよ」
「多分、前世でもそれは同じだったよう気がするけど、いや、でもそういうことじゃなくて」
「いいですから。ほら、あーん」
「うわ、マジで言ったよこの人!」
無理矢理口の中に匙をねじ込むと、しぶしぶといった具合に受け入れたかに見えたのだが、次の瞬間、眼を見開いて思い切りむせる。
「な、なんだこれ、辛っ!」
「ええ。気力が衰え気味のようでしたので、適度な刺激で食欲増進をと思いまして」
「適度ってレベルの辛さじゃないぞこれ。なんだこの激辛粥――驚いたことに美味いし」
「最近のインスタント食品は高品質なんですよ。私も毎日食べている程ですから」
「毎日? え、なにそれ冗談だろ」
何をそんなに驚いているのだろう、とコルセスカは相手の反応の不可解さに首を傾げた。この食品ブランドの激辛シリーズは灼熱の怪鳥【
「いや、そういうことじゃなくて――まあいいか」
「私が食べられないので、早く食べちゃって下さい。ほら、はい、はい、はい」
「ちょ、だから辛いんだって、せめて水――!」
「嫌ですよ、お手洗い近くなったら私では対応しきれませんし。トリシューラが来るまで我慢して下さい」
下らない言い合いを挟みつつも、食事の介助は滞りなく行われていく。静かな空間の中、どこか重くなりがちだった空気が払拭されていくのを感じて、コルセスカはようやくわずかに安堵する。
その時、これで自分も食事を終えれば一息つけるかなと考えていた彼女の視界に、思わぬものが映った。
涙。
不意打ち過ぎて――というかそれが余りにもイメージとかけ離れすぎていて、一瞬どこから流れ出したものなのかが分からなくなる。誰が流したのかなんて、一目見れば明白だというのに。
コルセスカは、その男が涙を流すところを、初めて見た。彼にそういう生理現象が起きるのだという事実は俄には受け入れがたいことだった。何かの天変地異が起きたかのように感じてしまっている自分に気付いて、ひどく狼狽える。今の彼は、感情を抑制できない平凡な人だというのに。取り繕う姿があまりにもいつも通りで、その事を一瞬ではあるが失念していたのだ。
「あの――辛すぎましたか? お水を持ってきましょうか」
直裁的な気遣いから言葉の選択をずらしたのは、核心に触れることを恐れたためだった。それが致命的な起爆のきっかけになる。そんな予感がしてならない。ところが、相手の反応はこちらのごまかしにそのまま応じるものだった。
「ああ、辛かった。とんでもなく。痛いくらいに」
「それは――その、配慮が足りず、すみませんでした」
「そうじゃなくて」
強く、こちらの言葉を遮ろうとする彼の瞳から止めどなく流れ落ちる液体は、まるで堰き止めていた感情が一気に決壊するかのようで、コルセスカに言いようのない不安感を与えている。引き金を自分が引いた予感に、知らず息を呑む。
「辛くて、熱くて、痛くて。それでようやく実感できたんだ。ああ、俺の身体は、感覚は、感情は、もう俺のものじゃないんだな、って」
生理学的には、辛みとはその他の甘味、酸味、塩味、苦味、旨味などとは異なり、味覚ではなく痛覚に分類される。異世界の技術によって鎮痛効果を得、感覚を自在に制御できていた彼にとって、それがもうできないという体験と実感は余りに耐え難いものだったのだろう――今までの彼は、耐え難いという思いすら制御可能だったのだから。
流れ続ける悲しみを堰き止める為に、自分に何ができるのだろう。コルセスカにできることは、あまりにも限られている。
男の頬を流れる涙が、前触れもなく凍結した。唐突に生じた冷たさと痛みに呻き声が上がる。
「痛っ! 何をいきなり――!」
「いえ、辛かったり熱かったり痛かったりするのなら、冷やすのがいいかな、と思いまして。それ以上涙を流すと、眼の中まで凍結して失明しますよ」
「危険過ぎる! もうちょっとマシな慰め方とかないのか!」
「慰める? 私はただ泣かれると面倒だなーと思っただけですけど」
嘘だ。ストレートな慰めが、彼の自尊心を傷つける事を恐れただけ。出会った時からずっと、彼は他者を心の内側に踏み込ませないように気を配っている様子があった。そういう気質はかつての自分にもあったものだから共感ができる気がしていた。
ただ当たり前に、自分の心を無遠慮に荒らされたくないだけなのだと、それがわかるから、その心を傷つける事をなによりも恐れた。それでも干渉せずにはいられなかったのは、彼があまりに傷付いて、疲れ果てているように見えたから。
そして、もう一つの共通点があったから。
だが、今の彼にその特性は備わっていない。断片が残されているとはいえ、その大半は失われてしまったからだ。だとすれば、今の自分が彼に手を差し伸べる理由は、一体何だというのだろうか。
強引に涙を止められた青年は、どんな顔をするべきか判断しかねたように眉根を寄せて、そのまま表情筋を動かして頬に張り付いた氷の薄膜をどうにか剥がそうと試みていた。間の抜けた様子を見ても、答えなどあるはずもない。
コルセスカは延々と渦巻く思考を抱えたまま、その答えを自分の外側に求める事に決めた。
血を吸おう。その決心は、不思議なほどにあっさりとついた。血を啜り、自らの唾液を流し込み、体液を交換して互いの意思を共有したい。その想いが、自然とコルセスカの身体を突き動かした。寝台に手を突いて顔を寄せていく。覆い被さろうとするように、二人の距離が近付いていくと、無言の動きと不穏な空気に相手が戸惑うのを感じた。構うものか、有無など言わせない。トリシューラはここにはいない。先に口を付けたのだから、これはこちらのモノだ――。
一時の衝動に身を任せようとしたコルセスカに、横合いから冷や水が浴びせかけられる。
「随分と仲良いよね。食事までお世話しちゃって、今度は何のお世話をするわけ?」
猛烈な勢いで身体を引き離す。慌てて声のした方に視線を向けると、そこには案の定、赤髪の少女が立っている。思わず刺々しい声が飛び出してしまう。
「ちょっと、いつから見てたんですか!?」
「私の服が似合うって微妙な褒められ方して凄く嬉しそうにしてる所から」
「別にそんなに嬉しそうになんてしてません!」
服が似合おうが似合うまいが不本意なものは不本意なのである。黒は自分の色では無い。それはそれとして褒め言葉は受け取るとしても、その事で何かを言われたりするのは不快だった。
トリシューラの発言で、彼が妙な勘違いをしていては困る。恐る恐る視線を向けると、男は硬く表情を強ばらせて、戻ってきたトリシューラの方をじっと見つめていた。こちらへ妙な関心が向けられていないことに少し安心しつつも、どこか落ち着かない感じがする。自分の中の感情を持てあましつつ、コルセスカは向き合った両者の様子を窺う。
そして、まず男の方が口を開いた。
「レオがどこにいるか、わかるか?」
「――ううん。悪いけど、第五階層は今、探せるような状況になくて」
「そっか。いや、わかってたからいいんだ――考えてもみれば似たようなシチュエーションだよな、これ」
彼が言っているのは、僅か三日前の出来事。彼がロウ・カーイン相手に敗北し、コルセスカと共に第六階層へと向かった、あの激闘の直前。あの時と異なるのは、かかっているのが彼自身とトリシューラの命運であること。そして今度の敵は前回の比では無いほどに強大であること。そしてなにより、彼からなによりも大切なものが失われてしまっていることだ。
「さっきも似たような事を言ったけど、もう一度言う。このまま諦めたくない。たとえ希望が僅かしか無くても、その僅かに賭けてみる価値はあると思うんだ。俺はレオを、周りの人達を見捨てたくない。トリシューラは俺の命を何度も救ってくれたよな。このまま与えられるばっかりじゃなくてさ、俺も何か、返したいって思うんだ。だからお願いだ、俺を、トリシューラと一緒に戦わせて欲しい」
コルセスカは、およそ寒気や冷気といった感覚と無縁な生を送ってきた。
しかし彼女はその時、確かに本当の寒気というものを感じていた。背筋を走り抜けていく、おぞましい悪寒。背骨をバラバラにしてデタラメに組み立てられたような異様な感覚。目の前の誰かが、ぞっとするほど気持ち悪い。
言葉の内容そのものは、コルセスカの価値観から言えばそう悪くないと思えるものなのに。これまでの状況の推移、トリシューラとの関係性から導き出される言葉としては、そう不自然ではないはずなのに。そういう事を彼が考えていたとしても、おかしいとまでは言えないのに。その言葉が、肉声で、目の前にいる男から発せられたということが信じ難いのだった。
喉を鳴らすような失笑が、室内に響き渡った。
「確かにそうだねー、かっこいいー、超ヒロイックー、すっごい正論――でもさあ。そんなこと、誰にでも言えるんだよねえ」
人は心底から他者を侮蔑した時、悪意や劣等化という段階を通り越して、殺意を抱く。トリシューラがその視線で、その声で、その表情で強烈に放射する憎悪に気圧されて、青年は息を詰まらせた。
絶息してそのまま死ねと、緑色の瞳が告げている。
「もう一度、同じ事を言うけど――貴方、誰?」
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