2-64 涙の価値①

 

 昇降機から出ると、どこか寒々しい空間が広がっていた。壁は乳白色のリノリウムで、室内にあるのは寝台が二つと簡素なデスク、それに応急処置用の医療機材などだった。奧にあるスライド式のドアは呪術錠によって固く閉ざされている。コルセスカは両手で気を失った男を抱えながら、病院のような部屋だという感想を抱いた。


 トリシューラは非常時の為に、第五階層内に幾つか隠し拠点を設けていたらしい。階層間の狭間という名の【地下】に存在するそこは、「とりあえずの避難用だから居住性は期待しないで」という前置きがあったにしては、三人が入っても狭さを感じない程度の快適さを保っていた。

 

「それで、彼は完全に【追放】できたのですか?」

 

 傷付き倒れた青年を寝台に横たえて一通りの呪術治療を終え、続いて重傷のコルセスカ、半壊したトリシューラも各々自らをどうにか正常な活動ができる程度のコンディションに戻した後。


 用意されたパイプ椅子に座って、コルセスカが問いかけた。その巨大な右目は深紅から青に戻り、左腕にも普段通りの包帯が巻き付けられている。先の戦闘でかなり消耗しているはずだが、それをおくびにも出さない。問いに対して、目の前に座るトリシューラは首を振って答えた。

 

「あいつ、最後に空間制御能力まで獲得してた。熟練度がどうとか言ってたし、階層の狭間で時間をかけて能力に習熟すればこっちに戻ってこられるんだと思う。巡槍艦の自動航行で妨害させているけど、一時的な時間稼ぎにしかならない。――楽観的に見積もっても、保って一晩ってとこかな」

 

 溜息をついて、先程予備パーツで修繕を終えたばかりの表情を沈み込ませる。顔色は以前と変化がないのだが、気のせいか、憔悴しているように見えた。

 

「実際の所、勝算はどのくらいですか。――この際です、私を戦力に数えて構いません」

 

 発言に対して、トリシューラは露骨に顔を顰めた――表情を自在に制御できる彼女が整った顔をここまで崩すのは、かなりはっきりと相手へネガティブなイメージを伝えたい場合に限られる。生まれた時からの付き合いであるコルセスカにしても、トリシューラのこのような表情を見たことはほとんど無い。

 

「まさか、また【腕】を使うとか言わないよね?」

 

「――いいえ。流石に、消耗が激しすぎます。仮に使えたとしても、今度は制御ができなくなるでしょう。暴走した氷血呪はこの階層全ての生物の血を生贄に、階層そのものを凍り付かせてしまう。それでは私達の勝利とは到底言えません」

 

 それに、貴方まで巻き込む。その言葉を口の中で飲み込んで、コルセスカは下唇を噛んだ。妹のような存在は、今となっては競争相手――潜在的には敵である。こうして緩い協力関係を結んではいても、何かの拍子に途切れてしまいかねない、儚い絆。

 

「キロンの勝利条件が【下】住人の皆殺しである以上、その手段は却下だよね。相手を殺しても、勝たせてしまっているんじゃ意味が無い。本末転倒っていうか、氷血呪での広域凍結は上下関係無いから相手より悪い結果を招いてるし。ま、救いは時空間凍結は観測自体ができないから、キロンではコピーできないことかな」

 

 観ていることを超えて進む事はできない――邪視の基礎理論を想起して、コルセスカは自らの特性を再確認する。それは己にとっての優位性であるが、この場合は劣位性にもなり得る。邪視者の常として、語り手や視点カメラにはなり得ても、主体的な【主人公】としての性質に乏しいという欠点。ゆえに英雄然と振る舞う聖騎士キロンと戦えば分が悪く、だからこそコルセスカには英雄として振る舞える仲間が必要なのだった。

 

「そうした条件から考えても――だいたい二割弱」

 

 トリシューラの導き出した答えが余りにも絶望的で、思わず溜息が出る。コルセスカは額に指をあてて、頭痛を堪えるような表情をした。状況は完全に手詰まりだった。

 

「言いたくはありませんが、この場所を放棄して、一度【塔】に戻って立て直しを図るべきでは?」

 

「これ以上、クレアノーズお姉様に迷惑はかけられないよ。それに、負けて逃げ帰ってきた私をラクルラールお姉様がみすみす見逃してくれると思う? ここぞとばかりに候補者として相応しくないって糾弾されるのが目に浮かぶよ。逃げるのなんて絶対にありえない。今度こそ廃棄されて、後釜にはアレッテ・イヴニルかミヒトネッセが据えられるに決まってる。――ああ、セスカにとってはその方がいいかもね。能力の相性が良いからどうにでもできるもの」

 

「トリシューラ」

 

 静かに、諫めるようにして名前だけを呼ぶ。口を噤んで目を伏せるトリシューラには、いつものように変わらぬ微笑みを浮かべるだけの余裕が無かった。

 

「どうにかして、キロンとの直接対決を避ける、という方針はとれませんか」

 

「それは駄目。私が第五階層で影響力を行使しようと思ったら、奴との交戦は避けられないの」

 

 そう言ってトリシューラは紙幣を取り出してみせた。「それは?」と訊ねるコルセスカは、しばしその図柄を観察して、はっと何かに気付いた。

 

「気付いた? その中で、価値が回路みたいに循環してる」

 

 それは一聴しただけでは同語反復的な発言のようでもあった。流通貨幣とは価値の交換媒体であり、その量の多寡は価値を示す指標に過ぎない。交換に際して流動的な価値の情報を形にするメディアでしかないそれを、しかしトリシューラは高度な精密機械のように扱っていた。

 

「これが、キロンがコピーした私の禁呪。この通貨の価値を、私の呪術が保証してしまっている」

 

 アンドロイドの魔女は、口元に笑みを浮かべた。自らを嘲笑うような表情は、自尊心の塊である彼女にとって自傷行為にも等しい。あまりに彼女らしく無い振る舞いと、それをさせてしまう状況の痛ましさに、コルセスカは何か言葉をかけようとして、躊躇いの中にそれを押し込める。どの口でそんなことを口にできるというのだろう。

 

「【星見の塔】が厳重に管理している禁忌呪術の秘密を漏洩させたなんてばれたら、【九姉評議会】で審問にかけるまでもなく問答無用で処分されちゃう。露見する前に、一刻も早く私自身の手で事態を収拾しなければならない」

 

 トリシューラは無造作に紙幣を両手で持つと、そのまま二つに引き裂こうとして――失敗した。一見すると何の変哲もないその紙切れは、機械仕掛けの腕であっても傷一つつけられないほどの強度を誇っているのだった。

 

「聖騎士キロンは私の禁呪を応用して、【一定の価値】を保ち続ける呪的通貨を生み出した。こっちが気付かないうちに、【公社】と手を組んでいたんだろうね。私が【公社】を倒さなければならない以上、キロンとの対決は不可避なんだ。私の敵は最初からあいつで――それからこの事態は私自身の不始末が招いた事。だから、私はこの戦いから逃げるわけにはいかないの」

 

 トリシューラの表情はこわばり、声音は冷たく沈んでいる。どれほど賢明で良識的な助言であっても差し挟むことを躊躇わせるような、揺るぎない頑なさ。


 コルセスカは、またしても言葉を飲み込んだ。トリシューラが自らの奥の手を盗まれる原因となった一戦は、【転生者殺し】を事前に排してリスクを減らす為に行われたものだった――誰の為に戦ったのか、それは今更言葉にするまでもない。


 そうでなくとも、トリシューラという少女はその戦いで甚大なダメージを負い、約半年もの間は身動きがとれない状況に陥っていたというのに。その事実をひた隠しにして、「救ってもらえなかった」という被害者意識を抱えた相手にあえて露悪的に振る舞うトリシューラを、限りなく愚かだとコルセスカは思う。


 「私は貴方のママじゃないんだよ?」と言って、寄り添うようにして突き放す。それは自尊心こそを絶対の価値と定めるトリシューラの世界観から生み出された姿勢だった。邪悪な魔女としての自己像を守るための虚勢であり、相手を頭上から憐れむのではなく同じ目線で立ちたいという彼女なりの誠意。


 それを、絶対に彼には伝えるまいと競争相手としてのコルセスカは思う。

 そして、どうにかして伝えたいと姉であるコルセスカが感じる。


 暗雲の立ちこめるような心中とは関係無しに、時間はただ進んでいく。コルセスカはこの無慈悲な体感速度が嫌いだった。それこそ、世界ごと否定したくなるほどに。もっとゆっくり休ませて欲しい。もっと考える時間が欲しい。


 ――けれど、コルセスカとは違い、トリシューラにとっては誰にも等しく流れる物理的な時間流が全てである。目の前の出来事に対処する為、あくまでも現実的に、滔々と現状を整理していく。


 【松明の騎士団】は各国からの莫大な寄進を管理するための発達した財務システムを構築している。それは単に金融業を営んでいる、というレベルを超えていた。【騎士団】の母体となる【大神院】が構築した国際銀行は、地上世界全域の経済基盤となっているほどだ。それゆえ、いかに強大な勢力を誇る巨大複合企業群とはいえ、【大神院】の意向を無視することはできない。地上において【槍神教】、【大神院】、そして【松明の騎士団】はそれほどまでに絶対的な存在と見なされている。


 第五階層は【上】と【下】の両勢力が不干渉・不介入の態度を貫くという前提があってかろうじて成立している空間である。この場所で動く莫大な利権を真っ先に確保、独占したのは【公社】だが、その陰に【騎士団】の姿が見えると言うことは。

 

「私が大神院で嘱託呪術研究員として働いていた頃から、両者が協力態勢を結ぶって言う噂は耳にしていたんだよね。――余りにも難航してるからまず無いと思ってたんだけど、甘かった」

 

「ですが、結局はロドウィの窮状につけ込んで第五階層での影響力を伸ばそうとした【騎士団】がキロンを派遣した、という状況なのでしょう? ――地上での覇権争いをこの場所にまで持ち込まないで欲しいものですが」

 

 今や第五階層における通貨の価値を保証しているのは【公社】では無くキロン――そしてその背後にいる【松明の騎士団】だ。であれば、この第五階層が実質的に【騎士団】の支配下に置かれるのは時間の問題となる。どちらのものでもない空間は、今までのルールのようにどちらか一方のものになってしまうのだ。そしてそれは、トリシューラの思惑と真っ向から衝突する。

 

「これ、紙幣というか護符って名目なのかなー。信仰の道を歩く者が俗世の欲にまみれた金銭を手に取るわけにはいかないし」

 

 そう言って、くしゃりと丸めた紙幣を部屋の隅に放り投げる。転がった丸い紙屑が見る間に広がっていったかと思うと、次の瞬間には元の皺ひとつ無い姿を取り戻す。その表面が淡く赤く光っている。まるで血の色だった。

 

「鮮血呪――価値を操作する呪術、ですか」

 

「厳密にはちょっと違うけど、まあざっくり言い表せばそうだね。少なくとも、見たものをそのまま丸コピーしたキロンはそういう定義をしていると思うよ」

 

 それこそが、トリシューラの切り札である禁呪の正体であった。悪鬼の融合体に取り込まれて実体を融解させられた者を無傷で救い出し、模型を実寸大に拡大して機能までも再現する。通貨の価値を保証し、二人の転生者を同時に相手取って圧倒する。四つある禁呪の中で最も万能で最も邪悪であると言われた奥義。


 鮮血――それは術者にとって最も大切なものの比喩だ――を捧げるおぞましき呪術はあらゆる事を可能にする。


 それを相手にするとはどういう事なのか、本来の使い手であるトリシューラはよく知っている筈だった。同時に、その万能の力に対抗する為に自ら禁戒を破らなくてはならないという危険さも。


 敵に回せば絶望しか無く、自ら使えば希望を失う。

 今のままでは、勝利と敗北のどちらに針が傾いてもトリシューラにはそこから先の未来が無い。真っ暗なビジョンが己のクリアな瞳の奧に映し出されたような気がして、コルセスカは右目に目蓋が無い事を一瞬だけ呪った。


 前触れもなく、トリシューラが立ち上がる。さしたる気負いも無く、ちょっとそこまで出かける、というような素振りだった。だが、コルセスカはその内心を鋭く見透かして断言する。

 

「死にますよ」

 

「逃げたって死ぬよ。なら戦わなきゃ」

 

 トリシューラの背丈はコルセスカよりも高い。幼い頃、小さなコルセスカの体格に合わせて作られていたボディは、今では別の人物に合わせたものになっている。立ち上がった機械仕掛けの魔女は、硬質な視線で低い位置から見上げる氷の瞳を見返した。

 

「私は無価値な存在じゃない。私の価値を――有用性を証明しないと、【私】が死んじゃうの。【最後の魔女】の候補者は四人だけど、【杖の座】を狙ってる予備候補者は沢山いる。ラクルラール派の人形達やペリグランティア製薬の魔女たちに弱みを見せるわけにはいかない。もし候補者の資格を剥奪されて、『お前は換えの効く存在でしかない』って言われたら、私は本当にこの世界から消えて、私の存在は死んで本当の無価値になる。私は、私の存在を認めて欲しいの。知って欲しい。理解して欲しい。居て良いんだって言って欲しい。そういう居場所を自分自身の力で勝ち取りたいの。誰かに要らないって言われるなんて、私には耐えられない」

 

 何かに取り憑かれたように、トリシューラはブレスの摸倣音すら忘れて長い音声を出力した。偏執的ですらあるオブセッション。強烈なエゴを主張する姿は、見る者によってその評価を違えるだろう。


 すなわち、醜悪な自己愛への軽蔑。あるいは、悲壮さへの憐憫。

 さもなくば。

 

「いいんじゃないか。けっこう好きだよ、そういうの」

 

 いつの間に目を覚ましていたのだろうか。寝台の枕から頭を少しだけ起こして、二人の会話に口を挟む者がいた。動かす両手すら失っていても、かろうじて口を動かす程度のことはできるようのだった。

 

「前にトリシューラの話を聞いた時にも思ったことだけどさ。俺は見てみたいんだよ。頭おかしいくらいに自意識肥大化させた奴が、外圧とかにへこまされないで自分を押し通していくのを見せて欲しい。そうやってトリシューラが好き勝手やっていけたら、それはきっと滅茶苦茶面白いだろう」

 

「――私はキャラクターコンテンツか何かなわけ?」

 

 冷たい目で応じるトリシューラに、彼は冷笑を浮かべながら言い返す。

 

「あらゆる人間は全てそうだろ。どうせ誰かに消費されて値札をつけられるんだ。ならせめて、自分でその価値をありったけ吊り上げてやればいい」

 

「その価値は幻想じゃないの?」

 

「不要な付加価値も本物に仕立て上げられるのがこの世界の呪術ってやつなんじゃないのか」

 

 問いかけに、トリシューラは無言で答えた。痛いところを突かれた、という類の無言の肯定だと解釈したのだろうか、男はそのまま畳みかける。

 

「正直に言えば、俺はまだ怖くて仕方無い。キロンに勝てる気なんて全然しないし、もう一度あいつに対面したら動けなくなってしまうかもしれない。それでも、このままじっとしているなんてできない。もし、まだ義肢を作ってくれるって話が有効ならさ。俺に、もう一度戦うための力をくれないか。俺に、お前に手を貸すための手を貸して欲しい」

 

 まだ、コルセスカの中にもその意思の残滓が残っていた。『トリシューラの力になりたい』と、彼がそう思った瞬間の気持ちは、取りこぼさないで済んだから。だから自分の中に保存して、そのまま抱え込んでおきたいという誘惑をはね除けて、首筋の奧へと流し込んだ。


 いろんなものを失っても、彼を彼たらしめていた部分はまだ残っているのだとコルセスカは思った。彼がトリシューラを選んだ事実は、氷の中に閉じ込められて溶けずに保存されている。どんなに大きな敗北を喫しても、それだけは決して揺るがない。


 相変わらず、希望など見えない。それでも、彼が根拠のない自信を口にすることで前を向けるような気がして、わずかな悔しさと共にコルセスカはトリシューラに返事を促そうとして、その動きを止める。


 我ながら冗談のようではあったが、全身が凍り付いたのかと、コルセスカは思った。

 トリシューラは、微笑みを形作っていた。緑色の瞳には、静かな光。何の意味も持たない、彼女にとって最もフラットな表情。


 くるりと振り返り、奧の扉へと向かう。男の真正面からの言葉に何らかの意思を返す気が無いとでも言うように。思わずきつく呼び止めると、振り向かずに返される。

 

「ウェブマガジンの配信準備しなきゃ。あとサイト更新しないといけないし、色々タスクが停滞してるの。忙しいから後にしてくれないかな」

 

 無視。無機質なレスポンスに、男の表情が凍り付く。それを自分がやったことのように感じて、コルセスカはその瞬間に邪視を発動させる勢いでトリシューラの背を睨み付けた。

 

「そんなことは後からでも――!」

 

「第五階層ではまた迷宮化が起きているんだよ。セスカだって気付いてるでしょう? 敵はキロンだけじゃない。まだ裏に誰かがいる。最悪、またトライデントの細胞と戦う事になるかも」

 

「それは」

 

 言い淀んでいる間に、トリシューラは乳白色の壁面に設置された呪術錠に手を翳してドアをスライドさせる。そしてそのまま別室に消えていった。沈黙が辺りを支配しそうになる気配を察知して、コルセスカは椅子から立ち上がる。

 

「何か、食べられるものを作りますね」

 

 トリシューラの理不尽な対応に呆然としている彼に、まずは余計な負担をかけないよう、必要な行為だけを行うことに決める。トリシューラの意図になんとなく察しが付くコルセスカだったが、それを慰めのようにして口に出すことは躊躇われた。推測を口にすれば、双方の自尊心を傷つけるだろうから。


 あの二人はお互いの事を考えている。その筈だ。だからまだ隙間を埋める機会は残されている。そう自分に言い聞かせて、コルセスカは単純な作業に没頭しようとした。

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