2-63 転生者殺し⑨

「あとどのくらい、この場所にいられるんだろう」

 

「――アキラ、貴方が落ち着くまでいていいんですよ」

 

「コルセスカ。まさかこの呪術、何の代償も無しに使っているわけじゃないんだろう? 流石にそれくらいはわかる。コルセスカだけじゃなく俺まで超高速で加速させるなんて、どうやってるのかわからないけど」

 

 すると彼女は首を横に振って、そうではないと俺の考え違いを訂正する。

 

「いえ、今は主観時間を加速させているのではなく、時間そのものを奪ってこの宇宙全体を停止させているのです。おそらく貴方のいた世界とはかなりの時差が発生していることでしょうね」

 

 ぞくりとする。この奇跡のような呪術の代償は、俺が想像しているよりも遙かに巨大なものになるのではないか? 不安感が心の奥底に堆積していくようだった。

 

「今の私達は隔離された時間軸の中にいます。どのタイミングであの宇宙に帰還するかはある程度選べますが、どうしましょう? 私としては、少し先の未来まで見ながら適切な時間を選ぶのがいいと思うのですが」

 

「何をどうするのかさっぱりイメージが湧かないから、コルセスカに任せる」

 

 コルセスカは頷くと、俺を抱えたままその周囲の透明な氷の球体を浮遊させる。ふわふわと移動していく氷の外側に色彩が戻っていき、現実の世界に正常な時間が流れ始める。


 薄膜の外側に見える第五階層は、俺が灰となった直後から再び動き出す。コルセスカの姿は無い。あの世界から彼女が消失したことがどのように影響しているのかは不明だが、周囲を見回すキロンはしばらくして諦めたように首を振った。

 

「逃げられたか――まあいい。そもそも、冬の魔女と事を構える意味など無い」

 

 キロンの目的はトリシューラと俺だ。【キュトスの魔女】を忌み嫌っているようだったから、コルセスカに対しても良い感情はもっていないのだと予想できるが、だからといって積極的に仕留めにいくような対象ではないということらしい。

 

「アキラ、貴方、彼の言葉が」

 

「え?」

 

「――そう。本当に、貴方はこの世界の人間になってしまったのですね」

 

 コルセスカの言葉には、驚愕と憐憫、そしてかすかな安堵が込められていた。

 遅れてその決定的な変化に気付いて、愕然とする。

 この世界の言語を、理解できている?


 それは、先程コルセスカから記憶と情報が流れ込んできた事と無関係ではないだろう。だが主な理由はそうではなく。

 俺から前世の記憶の多くが失われたから。


 【転生者】としての特質、固有性が消えて、この世界で生まれた人間になってしまったから、この世界の言葉が理解できるようになったということだった。


 おそらく、今ならば文字も読めるようになっているのだろう。

 望んでいたことのはずなのに、いざそうなってみると、ぞっとするほどの喪失感と、不安感しかない。


 足場が定まったはずなのに、そこが何も無い荒野だったかのような。

 あるいは、足場が定まらないという今までの状態こそが、俺にとっての足場だったのかもしれない。


 この世界の人々と同じ条件に立たされてみれば、そこには当たり前の不安しかないのだという事実が俺を打ちのめしていた。


 巨大な蝶の翅をはためかせながら、キロンはふらふらと浮遊していく。戦いの巻き添えを恐れたためだろう、周囲、目視できる距離には生きているものの姿は無い。キロンは傷付いた片目を押さえながら、もう片方の目からはらはらと涙を流す。

 

「また勝ったよ、みんな。俺は君たちの犠牲を無駄にはしなかった」

 

 俺達と相対していた時の威圧感は、既に無い。そこには、大切な者を失った男の悲嘆が投げ出されているだけ。


 目を見張る。光がキロンの周囲に集いつつあった。

 か細く頼りない、しかし確かに意思を持ってキロンの傍へ近付こうとする光。

 

「お兄様」

 

 砕け、傷付き、ぼろぼろになった、それは武器だった。


 亀裂だらけの黒い槍が、半ばから折れた白い弓が、変色した傷だらけの盾が、錆び付いた蹄鉄が、文字が薄れた石版が、それぞれ淡い光を纏ってキロンの周囲で囁いている。


 その上に、ラグが走る。

 表示されたのは、無垢で純粋な、美貌の少年たち。


 彼らは人間ではない。そして生者ですら無い。武具に重ねられた立体映像だ。声は再生したものを切り貼りしただけ。知性や人格は無く、全てはキロンが操る人形だった。


 恐らく、呪具としての力とキロンの神働術によって戦闘時にだけ無理矢理実体を与えていたのだろう。それも俺に接触する一部分だけ、極めて精密な制御を行って。余りにも強大な力を有する呪具。その中に宿る力を利用し、それが意思のある武器であり、同時に自らの部下達であるという幻想を生み出したのだ。


 それだけ念を入れてまで、少年達が存在しているという嘘を突き通そうとしていた事実は、一体何を意味するのか。

 

「お兄様」「ああお兄様、泣かないで」「僕たちはここにいますから」「たとえ死んでも」「お兄様の傍に」

 

「許してくれ、ああお願いだ。君たちを殺した罪深い俺を、どうか」

 

 何か強迫的な意思に突き動かされるようにして、キロンは呟く。その瞳は少年達を見ているようで、実際はここではない何処かを、あるいは何時かを見ていた。


 『君たちを殺した』とキロンは言った。それは、先程の戦いで俺達から少年達を守れなかった事を言っているのだろうか。

 多分違う。勘だが、間違っている気はしない。


 虚ろな瞳と声でぶつぶつと呟き続けるキロンの、あの救いようの無さに、強烈な既視感を覚える。


 俺は、全く同じような存在を知っている。最初から少年達は生きてなどいなかった。彼は自らの武器に殺された仲間達の姿を重ね、かつて幸福だった時代を回顧ループし続ける。仲間達の死の原因となった魔将の力を使って勝利し、生きながらえる。


 判断材料なんてほとんど無い。妄想に近い推測だった。かつての俺ならこんな想像、思いついても信じようなどと思いもしなかったはずだ。

 けれど、わかる。


 あれは、アズーリアと出会えなかった俺だ。

 救われなかった、愚か者の末路なのだ。

 似たような感想を抱いたのか、コルセスカが同情のまなざしと共に口を開く。

 

「魔将級の異獣から魅了の呪術を受ければ、並の人間はまず抵抗できません。それが解呪のできないものであったとすれば、敵の手に落ちた仲間を手に掛けることは、やむを得ない判断として認められています」

 

 彼女が続けて行った説明によれば。

 そうした殺人は慈悲であり、仲間へのせめてもの手向けであるとされる。そのように社会的な意味付けをしなければ、ほとんどの者が仲間殺しの罪悪感に耐えきれないからだ。


 慈悲の殺人。

 これを行った者の少なくない割合が、その大小の差はあれど精神を病むという。

 男は狂っていた。

 罪の火でその身を焦がし、今もなお甘い激痛の中に身を委ねる。

 

「そうだ、俺は、彼らの死に報いねば。勝利を。人類の勝利、【松明の騎士団】の勝利。全ての異端の駆逐。まずはこの階層から異獣を残らず根絶やしにして、その後じっくりと【きぐるみの魔女】を始末するとしよう」

 

「その必要は無いよ。貴方はここで殺すから」

 

 静かな、そして極めて強烈な殺意。細い何かが右側から高速で飛来し、キロンの肩に突き刺さる。死角からの攻撃にわずかに呻いて、彼は素早く突き刺さった凶器を抜き取った。


 針。極めて小さく細い、殺傷能力などありそうもない、ただの針だ。

 しかし、どういうことなのか。針が刺さった箇所からは赤い血が滲み出し、即座に治癒されるということがなかった。確かに治すまでもない軽傷だが、もしかすると重傷しか癒せないという制限があるのか。それにしては右目への攻撃が通用したというのが奇妙だ。通用した攻撃は、小石と針。共通点は、サイズ?

 

「やっぱりね。そのレベルだと反転できないんだ」

 

「――恐ろしいな、呪術医の針とは。魔女謹製の毒薬でも塗ってあるのかな」

 

「毒なんて塗ってないよ。どうせ無意味、ううん、無価値だろうし」

 

「――貴様」

 

 現れたのは、深紅の髪を靡かせて、細い指先に無数の針を握りしめた、すらりとした細身をシンプルなブラウスとロングスカートで飾る美貌の少女。翠玉の瞳に激怒を宿して、トリシューラがキロンの前に立ちはだかる。


 その戦闘力の象徴である強化外骨格は見当たらない。機能を停止した後、あのまま放置してきたのだろうか。というか、あそこから抜け出せたのか。

 

「よくも、私のものを壊してくれたな。私のアキラくんを殺したな」

 

 俺は今、コルセスカに助けられて一応無事に生き伸びてはいるのだが、トリシューラはそんなことは知る由もない。

 

「コルセスカ、俺はいいからトリシューラを助けに行ってやってくれ」

 

「ですが、ここから出ようとすると時空間凍結を解かなければならないので、貴方もあの場所に放り出されてしまいます」

 

 もどかしそうな答えに、思わず呻く。あのキロンを相手に無力な俺を守りながら戦うのは、流石にコルセスカといえども不可能なのだろう。それは、俺が足枷となってトリシューラを助けに行くことを妨げていることを意味する。


 自らの力の無さがもどかしい。それを言うなら、これまでだって大した事はできていなかったのだが、戦いに参加すらできないと言うのが悔しさに拍車をかけていた。


 閉鎖された空間の外側を、遠い世界の出来事を記録映像で視聴するようにしか関われない。あの場所で、トリシューラが一人で戦っているというのに。

 

「今度こそ息の根を止めてやる――血で贖えっ、転生者殺し!」

 

 手に握ったメスで、左手首を勢いよく切り裂くと、そこから赤い水滴がこぼれ落ちる。


 アンドロイド――機械の身体であるはずのトリシューラから染み出すのは、不可解なことに色鮮やかな血液だった。鮮血は中空で形状を変え、細く尖った無数の針に変貌する。トリシューラは左右の指の間にそれらの針を挟み込むと、左右で時間差をつけて投擲する。

 

「ちっ」

 

 驚いたことに、キロンはそれを回避していた。

 そこから分かることが二つある。あの攻撃は、キロンにとって回避する必要があるほど危険だということ。そしていかなる理由なのか、俺やコルセスカと戦った時のような超スピードが出せなくなっているということ。


 血の針が、ぎりぎりの距離で彫刻の頬を掠めていく。いくらトリシューラの投擲技術が優れているとはいえ、あの距離から投げられれば以前の奴のスピードなら容易に回避できたはずだ。


 今度は左手首から直接血の針を引き抜いて、トリシューラは二度、三度と投擲を行う。その度、彼女が端整な顔をわずかにしかめているのが気になる。

 

「やっぱりだ。同じタイプの呪術だから通用する。迂闊だったよ。まさか殺した筈の相手に、私の能力をコピーされるなんて」

 

「ふん。死亡を確認しなかったのが貴様の最大の失敗だ、魔女め」

 

「脳と心臓に銃弾ぶち込んで建物ごと爆破したのに死なない方がおかしいんだよ!」

 

 キロンが翅をはばたかせると強風が発生し、トリシューラの動きが一瞬止まる。その隙を突いてキロンが片手を前に出し、手の平に燐光が収束していくが、何故かすぐに雲散霧消してしまう。

 

「無駄だよ。随分と高精度のコピーだけど、それの扱いは私の方が秀でている」

 

「オリジナルには通用しない、か」

 

「【一度見た能力を再現する能力】で私の鮮血呪を摸倣するなんてね。まさか過去に倒した転生者の力を使えるなんて思わなかった。どうやってそんな力を得たの?」

 

 両者の会話は、何か俺の知らない前提に立った上でなされているようで、いまひとつ意味が掴めない。だが、その次にキロンが口にした事実が、俺の記憶の奥底に深い衝撃を与えた。

 

「俺はただ抵抗しただけだよ。最初に転生者を倒せたのはただの偶然だった――奴は死んだ後、魂だけになって俺の肉体を奪おうとした。本来ならば憑依され、そのまま消滅するところだった俺は、消える間際に死んでいった仲間達の声を聞いた。そして気がついた時、俺は転生者の魂を逆に取り込んでいた」

 

 憑依事故。

 現在では肉体を再構成するタイプの転生が主流で、最初期の憑依タイプ転生はほとんど廃れてしまっている。その背景には転生先対象への上書き失敗、中途半端な同化、逆に消滅させられてしまうなどの危険性の大きさや、人道的見地からの問題を指摘する声が上がったことなどの要因があるという。


 そんな断片的な知識が頭に浮かび上がってくるが、それ以上のことが思い出せない。深く考えると思考が不安定になりそうで、言いようのない恐怖を感じた。

 

「だがわかっているか、【きぐるみの魔女】。そちらの能力が使えないのなら、俺は別の能力を使えば良いだけだということに」

 

「く――」

 

「丁度、先程の戦闘で新しいスキルを習得する為のポイントが貯まった所だ――良いものを見せてやろう」

 

 キロンはそう言って、宙に指先を躍らせた。目に見えない何かを操作するような動き。それは丁度、自分だけに見える拡張現実のコンソールを操作するようだった。

 

「させるかっ」

 

 即座に投げ放たれた赤い針が、狙い違わずキロンの頭部、首、胸へと吸い込まれていく。


 しかしキロンは回避を選ぶことなく、その両手を高速で振るう。

 不敵な微笑みと共に、指先で摘んだものをトリシューラに見せつけてみせる。

 

「な――」

 

 真正面から全ての針を掴み取って見せたキロンは、そのままぱらぱらと地面に落としていく。

 

「なるほど、やはり【弾道予報】はかなり有用なスキルだな。――ではこちらはどうかな」

 

 看過できないことを口にしたキロンは、深く腰を落とすと、右腕を前にした構えをとる。

 

「まさか」

 

 知らず、呟きが零れる。


 大地を砕くような、強烈な踏み込み。滑るように、風を切り裂くように疾走したキロンはトリシューラの眼前まで一瞬で到達し、まず右の掌底を腹部に浴びせ、続けて同じく右の肘を叩き込む。たたらを踏んで後退る標的に、間を置かぬ追撃。腰の捻転から逆側の半身へとエネルギーを伝達させ、弧の軌道を描いて左の貫手が正確にトリシューラの左の眼球を狙う。引き戻した指先に、抉り出された眼球。一息に握りつぶし、更に右からの連撃。


 立て続けに繰り出される強烈な打撃は、全て正確にトリシューラの弱所を狙っている。それは人という形状をとっている存在が不可避的に抱える脆弱性を突いた戦い方である。すなわち関節、感覚器、人工筋肉が収縮するタイミングの予想と外部からの制御。機械化人体と戦う際の最適な戦術パターン。


 トリシューラの硬質な腕を外側から掴んで、肘を正確に打撃して逆側に折り曲げて破壊する。鮮血と共に機械部品と人工筋肉の繊維が溢れ出していく。キロンはもぎ取った腕をそのまま振るって凶器に変えた。飛び出した金属骨格が美しい顔の表面を削り、メタリックな内部構造が露わになる。微細な表情変化を可能とする流体金属が飛散し、細い眉が半ばで断たれ、高い鼻梁が抉れて無残な形を晒す。


 キロンは、アンドロイドを壊す方法に習熟していた。この世界では、トリシューラはとびきりのオーバーテクノロジーであるらしいにもかかわらず、だ。つまり、あれは。

 

「それは、アキラくんの」

 

「【発勁用意】――」

 

 【サイバーカラテ】だと――!


 キロンの奇声と共に、砲弾の如き掌底が打ち込まれ、トリシューラの細い身体が吹き飛ばされた。冗談のような距離を転がっていき、受け身もとれないまま、綺麗な衣服をぼろ布のようにして倒れ伏す。


 キロンは戦った相手の能力をコピーできるのだという。理屈はわからないが、奴が俺を殺した以上、俺が使っていたサイバーカラテやその他の各種アプリを使えるのは当然の事態と言えた。


 状況は極めて最悪だった。

 サイバーカラテは機械化人体、義肢の運用を前提とした戦闘術。そして、当然ながら同じ条件の相手と戦う事も想定されている。的確に相手の機械化部位を破壊し、アンドロイドを無力化するためのノウハウが凝縮されているといっていい。今のキロンが保有する【トリシューラを壊す手段】は十や二十ではきかないはずだ。サイバーカラテの使い手は、トリシューラにとっての最悪の天敵である。


 身体を震わせながら、かろうじて、といった様子で立ち上がるトリシューラ。破損した身体から機械仕掛けの内部構造が覗いているのがひどく痛々しい。

 

「厄介だね、それ。アキラくんの力まで」

 

「俺にとっては無価値なものばかりのようだがな。感情制御? 馬鹿馬鹿しい。たとえ負の感情であっても、俺の感情は俺だけのものだ。感情を自ら損なおうとするなど、正しい人間の振る舞いではない。間違った、そして弱い人間のやることだ」

 

 傲然と、そして劣った存在を憐れむかのように言い放つ。唇を噛む。以前の俺ならば、何らかの反論を即座に思いついていただろうか。今はただ、惨めさと劣等感しかない。

 

「その意見には、個人的にはそこそこ同意できなくもないけど、私はそれを他の人にまで強要するつもりは無いよ。――それ以上、アキラくんを侮辱するな」

 

 静かな怒りを込めて、目蓋を失った目がキロンを睨み付ける。

 虚ろな眼窩から、手首から、千切れた腕から、赤い鮮血が流れ落ちていき、大地に幾何学的な模様を描き出す。


 微かな振動が次第に増幅され、やがて大地を揺るがすほどになり、警戒したキロンがトリシューラに向けて疾走しようとしたその瞬間。


 キロンの真下から、巨大な鋼鉄が出現し、その身体を突き上げていった。

 緩い傾斜をつけて伸張していく鈍色の、それは巨大な船首である。


 巡槍艦ノアズアーク。トリシューラの拠点にして呪術医院、階層の狭間を潜行する超巨大な船。


 第五階層の大地を透過して出現した巨大構造体は、先端部だけを選択的にキロンと接触させ、階層の上空へと押し出していく。

 

「殺せないなら、せめて、階層の狭間に追放してやるっ」

 

「おのれ、情報量サイズが大きすぎる、処理し切れん!」

 

 逃れようと蝶の翅をはばたかせて一瞬船首から離れたキロンの胸を、鋭利な角が貫通する。トリシューラの全身から流れ出した、明らかにその体積を超えた量の鮮血が船体を伝い、船首に血の衝角が形成されていたのだ。


 浮上した巨大な質量が、呪的な推進力によって第五階層を飛翔する。串刺しにしたキロンごと、天蓋に向かって突き進むと、そのまま天井に激突。その先の第四階層との狭間に潜行すべく、空間を歪曲させ始める。

 

「ちっ、【スキルリセット】! ポイントを空間制御に振り直し――ええい、熟練度が足りん!」

 

 キロンの指先が輝き、周囲の空間を歪ませて階層内部に戻ろうと抵抗するが、巡槍艦の圧倒的な質量と速度、そしてトリシューラの注ぎ込む膨大な呪力には抗えず、そのまま押し流されていく。


 ついにその全身が天井の向こう側へと消え、続いて巡槍艦が空へと沈んでいく。

 静寂。


 精も根も尽き果てたトリシューラが倒れるのと同時に、ようやく俺は戦いが終わりを迎えたのだと理解した。

 球状の氷に包まれた世界が砕け、内部の時間と外部の時間が一致する。そうして俺とコルセスカは、第五階層に帰還した。

 

「立てますか、トリシューラ」

 

「セスカ? ――あ」

 

 振り向いたトリシューラの目が、こちらを見た。コルセスカに抱えられ、両腕を失った、無力な俺を。

 息が詰まる。どんな表情をして良いのか、わからなかった。

 

「なんとか、命だけは助けられました。ただ、貴方が期待する転生者ゼノグラシアとしては、もう」

 

 痛ましそうに告げるコルセスカを見ることもせずに、トリシューラはただじっとこちらを見ていた。感情の無い瞳で、初めて見る生き物を観察するように。そうして、不思議そうに首を傾げて、彼女は言った。

 

「貴方は――誰?」

 

 

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