2-62 転生者殺し⑧

 死が迫った次の瞬間に俺が思ったことはこうだ。


 何の意味も無い奇跡が起きた。


 右腕が独りでに動き、投げ放たれた呪術を防御したのだ。おそらく奇跡などではなく、【残心プリセット】による遅延動作が予定よりさらに遅れて行われたのだろう。まだ動力が残っていたのは意外だが、誤差の範囲だ。こんなことは良くあることに過ぎない。


 そして結果から言えば、その防御は一瞬だけ死の瞬間を遅らせることしかできなかった。何故なら、強大な呪術の威力に右腕は耐えきれなかったからだ。


 俺の右腕は融解し、破砕され、防御は貫通されて燃える骨槍はそのまま俺の頭部に迫り。


 【その勢いのまま、頭蓋を砕き、脳漿を撒き散らし、さらには広がった炎がその全身を焼き尽くしていった。断絶。意識が消滅していく瞬間を、引き延ばされた死の瞬間の中でなによりも濃密に感じる。ああ、俺はこの瞬間を、前にも体験したことが】


 意識が固定されたまま真横にスライドしていくような、強烈な違和感。

 【現在】をそのまま保存して、認識だけが過去に遡る。観念的な意味での後ろに引き戻される衝撃と同時に、俺は過去に引き戻され、同時に【現在】が弾き飛ばされる。


 キロンの動き、色彩、無数の音。世界の全てが停止し、感覚が隔離されていく。時間の流れが細やかに分かたれて、その支流の一つに吸い込まれる。

 

「凍れッ! 凍れ、凍れ凍れ凍れ凍れ凍れ凍れっ! お願いだから間に合ってっ!」

 

 誰かの叫びが聞こえる。

 巨大な瞳が特徴的な、白銀の少女だ。レンズの右目を血のような深紅に輝かせて、硬い右腕で俺を抱え、左腕は長手袋を外し、これまで一度も露わにしようとしなかったその内側を人目に曝している。


 異様な腕だった。紫紺の文字が記された包帯がひとりでに解けていき、明らかになったその肘から先は、驚くほど精緻な氷細工。

 淡く煌めく、氷細工の義手。


 それが、少女が頑なに守り隠していた最後の神秘。時間軸すら改変する、邪視の向こう側。

 手の平から溢れ出すクリアな輝きが、俺の肉体を焼き尽くすために時空を超えて追いかけてきた炎を迎撃する。


 だが炎は双頭の蛇に変ずると、熱量が転じた赤い頭部が光とぶつかり合い、呪力が転じた緑の頭部が俺の精神を蹂躙すべくその体内に潜り込んでいく。


 形のない蛇は義肢が砕け散った後の、右腕の断端から体内に侵入し、俺の脳へと到達すると主たるキロンの命令を忠実に実行した。

 すなわち、俺を転生者たらしめるものを破壊する。


 【サイバネ義肢の制御OS】を。

 【サイバーカラテ道場】を。

 【弾道予報Ver2.0】を。

 【ノーペイン】を。

 【Doppler】を。

 【夢枕Guard】を。

 【残心プリセット】を。

 【盤外の夜】を。

 【七色表情筋トレーニング】を。

 そして【Emotional-Emulator】を。


 その他数多くのアプリケーションが消えていき、脳侵襲コンピュータまでもが機能を停止して、夥しい数の情報から遮断される。

 この世界に来てから半年間で記録した情報が喰われていく。


 アズーリアたちと出会ってから必死で覚えた単語。音声と画像記録に関連付けて管理した単語表。短い時間ながらもカインに教わり、必死に記録した基礎的な言葉。カインの最後の言葉。その直後にかけてくれた、アズーリアの救いの言葉。一番大切な記憶が虫喰いになっていく。


 そして、俺を転生者たらしめているのは前世の記憶だ。


 だから燃える。出生管理センターが炎上し、幼児期の保育担当官の顔が黒い染みになり、養育試験に合格して心底からの笑顔を向けてくる俺の遺伝子提供者――父と母が消えて無くなる。学生時代が消滅した。成長に合わせて換えていった歴代の義手が砕かれていく。非常時に備えて擬似的なマニュアル制御を学んだ経験も忘れていく。時間を忘れて読みふけった本が全て焚書された。ゲームや映画といった趣味、打ち込んでいたサイバーカラテの胴着もまとめて喰い尽くされる。電脳フォールアウト、猥雑な街並み、隔離された子供達、積層都市新宿、拡張空間の亡霊が集う中央線、原始仏教系が一番肌にあった思想ドラッグ、常備していた昆虫粉末の携行食、信仰メーカーの営業だったという【あの人】、全て、なにもかも、消えて無くなる。


 零れていく。砕けていく。失っていく。

 情報。記憶。そして意思。

 関連づけされた知識を結んでいた紐が断ち切られ、バラバラになり、再配列もできないほどミックスされてもう元には戻せなくなっていく。

 

「駄目、こんなのは駄目です!」

 

 思い詰めたような左目が、獰猛な色をした右目と対照的で、なんだか少し可笑しくなる。


 青と赤。普通の目と巨大な目。アシンメトリーなその表情は、どこかアンバランスに美しく、同時に醜くもあった。矛盾したその在り方が、とてもそれらしい気がして、記憶も無いのに安心してしまう。

 

「私の目の届く場所で、私の手が届く場所で、何もかもが失われていくなんて事は絶対に嫌。どうか消えないで、そのままの姿で留まって。それが叶わないのならせめて残る全てを――」

 

 深紅の瞳が、爛々と輝いている。荒く吐き出した吐息。開いた口から覗く、長く伸びた鋭い犬歯。

 左腕の氷細工が、赤い光を帯び始める。

 

「――私のものにして奪ってしまえばいい」

 

 そして気付く。

 階層を超えて敵地へと乗り込む探索者達の最大の目的は、探索によって価値あるものを得ること。探索者である彼女の本質は【停止】では無く【略奪】なのだ。


 長さを増していくのはその為の牙。

 一息に、首筋にかぶりつかれる。体内に硬く冷たいものを突き入れられる感覚。深く穿孔していく牙の先端から自分の中の熱がぞっとするほどの勢いで吸い上げられていく。


 吸われているのは俺自身だった。

 先程から蛇が喰らおうとしていた記憶情報、その断片を片端から横取りして、更には蛇そのものすらもまとめて取り込もうとする、貪欲な食欲。


 魂ごと奪い尽くす、強烈な【生命吸収】。

 蛇が奪い、破壊するはずだった記憶、記録、ありとあらゆる情報の断片が氷の欠片に閉じ込められて残らず冷たい血の中に溶けていく。


 それは魔女の宿業だった。

 血も凍るようなおぞましき怪物。

 氷血の魔女。


 命と熱と情報を。ありとあらゆる流れから欲しいものだけを啜る吸血鬼。

 首筋は奪い尽くされた熱のお陰で凍傷を負っており、肩から胸にかけての上半身はびっしりと霜に覆われてしまっている。熱を奪うことで停止と同じ凍結の効果を発生させる彼女は、やはり以前と同じ氷の魔女なのだと気付かされる。


 ――ん、あれ?

 

「あ――ふぁ」

 

 どこか艶っぽい声に耳をくすぐられて、混濁していた意識がはっきりとする。

 記憶が、ある?


 正確に言えば、あちこち虫喰いになって大部分が消えているようなのだが、この世界に来てからの半年間、とりわけ大事な半年前の記憶と、コルセスカと出会ってから共に過ごした数日間の記憶は鮮明なままだったのだ。


 というよりこれは、俺の記憶ではなく。

 

「これは、コルセスカの記憶なのか?」

 

 吸われていくのと同時に、流し込まれていた。


 彼女の氷の左腕の内側で、赤い血液がぶくぶくと泡を立てている。吸い出された俺の血は呪術儀式の供物として高熱で沸騰し、彼女の腕の中で別の宇宙に消えていっているのだ。俺の中に流れ込む魔女の知識が、それを教えてくれた。


 ゆっくりと牙が引き抜かれていく。血は流れ出す事無く凍結し、傷口を塞ぐ。


 全身を芯から冷やす寒気はコルセスカが記憶と体液を流し込んでくれたお陰で多少ましになったが、それでもまだ身体は冷えたままだ。しかし両腕を失った今の俺には自らの身を抱くことすらできない。


 かたかたと震えていると、コルセスカが気を利かせて身体を少し離してくれる。彼女の身体から放たれていた冷気が遠ざかり、少しだけ寒さが和らぐ。普通の人間とは異なり、肌を寄せ合えばより寒く感じてしまう、コルセスカという少女の寂しい宿命。


 ふと思う。人でないトリシューラは、そんな彼女の傍にいる相手として実はとてもふさわしいのではないか、ということを。

 そんな考えが伝わったわけではないだろうが、コルセスカはどこか複雑そうに妹の名を口にした。

 

「トリシューラの酔狂に救われました。貴方の取り込んだカッサリオの血肉が、零に近かった貴方の呪術抵抗をかなり上昇させていたようです。――いえ、というかこれは意図しての貴方の強化なのでしょうね。食事療法の呪術とは、呪術医らしいことです」

 

「呪術抵抗?」

 

「ええ。特に、ここ数日の私やトリシューラとの記憶はほぼ無事です。ただ残念ながら、貴方の前世の記憶はほとんどが読み取り可能な状態で保存できませんでした。後で修復できないかどうか試してみるつもりですが」

 

「いや、いいよ、ありがとう」

 

「一応、知識や手続き記憶などはある程度そのまま引き出せると思います。価値観なども、現在と継続したイメージがあるので、そうそう連続性を失ったり離人症になったりはしない、はずです」

 

「そっか」

 

「それで、その。私の能力特性のお陰か、血中の微細な機械群はどうにか保護できました。ですが、右腕とその内側の筋骨――つまり右上半身ほぼすべてと脳に埋め込まれた小型機械などですが、大半が物理的に破損しており、私ではどうにも――トリシューラなら、あるいは」

 

「ごめん。余計な期待、したくない」

 

「あ――貴方から、何か訊きたいことは無いんですか」

 

 そう言われても。

 そういえば、さっきから暢気に話しているけれどここは安全なのだろうか。


 周囲は透明な氷に覆われた空間で、外界は色のない第五階層。俺とコルセスカ以外の全てが完全に動きを止めている。今度の時間停止はキロンが対応してくるということも無いらしい。

 

「今って、どういう状況なんだ?」

 

「貴方が【殺された瞬間】を凍結させました」

 

「それって、助かった、のか?」

 

「死を先送りにしただけです。このままだと貴方は溶け出した死の瞬間に追いつかれてしまいます。生き延びる方法はただ一つ、死因であるキロンを倒して因果を改竄すること」

 

「それはわかりやすい」

 

 理屈は滅茶苦茶な気がするが、コルセスカの言うことはいつもそんな感じなのでそろそろ気にならなくなってきた。助かる方法も、不可能だという点に目を瞑れば単純明快だった。

 

「もう少しでも氷血呪の完全解放が遅れていたら、あとわずかでも【災厄の槍】が届くのが早かったら、きっと間に合いませんでした。本当に紙一重のタイミングだったんです」

 

 あの死の瞬間をわずかに引き延ばすだけの奇跡にも、意味はあったということだろうか。ならばあれは、長いこと共に過ごしてきたあの右腕が最後に残してくれた俺への餞別だったのかもしれない。


 ――などと、感傷じみたことを考えてしまうこと事態が、既に俺の異常を端的に示していた。

 いや、この世界では、これが【普通】なのか。

 

「コルセスカのおかげで助かったよ、ありがとう」

 

「あなたはっ、何で」

 

 震える声で、コルセスカが憤りを露わにする。細い眉が寄って、その下の左目が悲しみを湛えて揺らぐ。

 

「一番大事な物を失って、それなのにどうして強がったりできるんですか。私のことなんかより、貴方の事ですよ、だって貴方は」

 

「大事な物って、腕のこと? 確かに両方無いと不便だな。これからどうやって生活しよう」

 

「そんなの私が何とかします! そうじゃなくて、貴方にとって一番致命的なのは」

 

 言い淀む、それを告げれば、俺が本当に壊れて、損なわれてしまうのではないかと恐れているように。無意味な怖れだ。だって俺は、もう手遅れだから。


 【E-E】は、俺を俺の状態のまま保持し続ける為の【意思】であり【鎧】でもあった。脆い精神を保護し、外圧を受け止め、どんな困難な状況でも心が折れるという最悪の事態だけは回避し続けた、俺にとっては右の義肢よりも更に頼りにしていた、いわば精神の装具。


 それが失われた今、たとえ俺に義肢が戻っても――トリシューラに義肢を作ってもらったとしても、もう戦う事はできないだろう。

 それどころか、俺にとっては既に第五階層で生活していくことすら恐怖でしか無かった。


 あんな危険に満ちた無法地帯、今までどうして平然と生きてこれたのかが不思議なくらいだ――勿論それは全て【E-E】のおかげだった。感情制御ができないことが、ただそれだけで怖い。


 生きていくことそれ自体が恐ろしくて仕方無い。

 だからといって何かをすることもできない俺は、ただ震えるばかりだった。


 コルセスカは左手を俺に伸ばそうとして、それが剥き出しの氷細工であることに気付いて慌てて引き戻す。


 優しさすらもどかしくて、せめてとばかりに精一杯身体を引き離そうとする。右腕で身体を支えている相手にそんなことをしてもほとんど意味は無いのに、そんな事を続けている彼女が少しおかしかった。


 そんなふうに気持ちが浮き上がる時間も、すぐに通り過ぎて過去になる。

 今の俺は慣性に従って辛うじて進んでいるだけだ。摩擦抵抗の少ない氷の上だから、その時間が少々長引いているというだけで、本来なら既に停止しているはずのもの。その生命活動はとっくに終わっているのだ。


 今まで制御し、押さえ込み続けてきた、無数の感情。孔の空いた堤防のように、一気に決壊するのは時間の問題だろう。

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